世界のエイズ史 

九州大学健康科学センター 山本和彦
 
 
   
はじめに

後天性免疫不全症候群(エイズ)が報告されて10年目に当たる1昨年(1991年)、世界中でエイズの抱えるさま ざまな問題点が注目されました。10年間でエイズの病因や感染様式が明らかにされ、治療薬やワクチンを開発する試みが本格化しました。しかし、HIV(HIV-1HIV-2。特記しない場合はHIV-1)感染は拡大の一途をたどり、1980年代後半にはアジア、アフリカを中心に 異性間性交による感染が急増し始めました。地球的規模でHIVの蔓延すること が懸念され、エイズは人類にとって重大な脅威となってきたのです。

エイズはHIV感染症というウイルス 性疾患の一つであるにもかかわらず、人々のエイズの受け止め方やその対応、感染の拡大する様相は、世界各地の風俗、習慣、文化の多様性を反映してさまざま な特色を示しています。ここでは特徴ある現象を示した地域のエイズの変遷と現況、そして今後の動向についてついて考えてみます。
 

アメリカのエイズ
 
発端

1979年9月、アメリカ・カリフォルニア州で、若い白人男性がカリニ肺炎(Pneumocystis carinii による肺炎)に罹病していることが観察されました(MMWR 1981; 30: 305-308)。当時、治験薬であったカリニ肺炎の治療薬(ペンタミジン)はCDCCenters for Disease Control=米防疫センター)に管理されていました。過去20数年間にわずか2例にすぎなかったペンタミジン の需要が、1979年を境に急増したのです。

1981年6月、ゴットリーブらはロサンゼルス地域に発生したカリニ肺炎の5例を報告しました(MMWR 1981; 30: 250-252)。5人は29ー36歳の若く性的に活発な男性ホモセクシュアルで、免疫機能の低下していることが疑わ れたのです。そして同年7月、ニュ−ヨ−クとカリフォルニア州の男性ホモセクシュアル(26ー51歳)に認められた26例のカポジ肉腫(脈管内皮細胞の増 殖した腫瘍)が報告されました(MMWR 1981; 30: 305-308)。25人は白人で、1人が黒人でした。

同様の症状が、男性ホモ(バイ)セクシュアルだけでなく薬物中毒者や血友病患者、ハイチ系移民、輸血を受けた人、 患者のセックス・パートナーにも現れるようになりました(Ann Int Med 1983; 99: 208-220)。この疾患は免疫不全が病態の中心であると考えられたため、後天性免疫不全症候群(エイズ)と命名され、1982 年CDCはエイズの診断指針を策定しています(MMWR 1982; 31: 507-514)。これらのハイリスク・グループ(後にハイチ系移民はハイリスク・グループから除かれた)が、 1983年5月までにCDCに報告された患者1450人中、94%を占めたの です(Ann Int Med 1983; 99: 208-220)。 ハイリスク・グループの疫学的調査から、エイズは、輸血や性交(ここでは膣性 交、肛門性交、口性交などを一括して性交という)を介して水平感染し、母から子へ垂直感染するB型 肝炎ウイルスに似た広がりを示す感染症であることが疑われました(Ann Int Med 1983; 99: 208-220)。
 

確執

1983年2月、NCI(National Cancer Institute=米国立癌研究所)のギャロは、エイズが未知のレトロウイルスによる感染症であることを示唆しました(Nature 1987; 326: 435-436)。同年5月、パリ・パスツール研究所のモンタニエらはリンパ節腫脹症候群の患者(コードネームBRU)から非腫瘍性レトロウイルス(後に、Lymphadenopathy Associated VirusLAV-1と命名された) を分離、同定し報告しました(Science 1983; 220: 868-871)。1984年5月、ギャロらは患者やハイリスク・グル−プの人々から、レトロウイルス(Human T-lymphotropic Virus-IIIHTLV-III) を分離し、Western blot法で患者やキャリアの抗ウイルス抗体を見出す特異的検査法を確立し報告しました(Scence 1984; 224: 500-503, Science 1984; 224: 506-508)。1985年、HTLV-IIILAV-1の 構造が相次いで明らかにされ、LAV-1HTLV-IIIBHTLV-IIIの 株の一つ)が同一のウイルスであることが判明します(Nature 1987; 326: 435-436)。両者の名称は後にHIV-1に 統一されました。

1983年初め、モンタニエはBRUの コ−ドネ−ムをもつウイルス検体を、ギャロらに送りました。HTLV-IIIBLAV-1と同一のウイルスであることが判明したため、ギャロらの報告したHTLV-IIIBは、自分達の発見したLAV-1であるとして、モンタニエらは発見の優先権を主張したのです(HIVは構造変化が速いため、株が異なると構造の一部が異なる)。

HTLV-IIIB(LAV-1)は抗体検査法に利用されました。この特許権から得られる莫大な利益と、HIV発見の栄誉を巡って米仏の間で激しい確執が生じ、法廷論争へと発展します(Science 1991; 252: 771)。しかし1987年、両国政府は双方が栄誉と利益を分け合うことで妥協に達しました(Science 1991; 252: 771)。

1989年11月、シカゴ・トリビュ−ン紙は、ギャロらが抗体検査法に用いたウイルスは、モンタニエの送ったサン プル(BRU)に由来すると考えられると報じました。1990年春、同紙は、 1985年秋NIHNational Institute of Health=米国立衛生研究所)等がこの問題を調査して同様の結論に達していたにもかかわらず、これを公表し なかった述べ、問題が再燃し始めました(Newsweek, April 2, 1990: 47)。

1991年2月ギャロらは、5つのBRUサ ンプルのうち残っていた3つのサンプルを再調査し、BRUサンプルの構造がHTLV-IIIBLAV-1) と異なることを報告し(Nature 1991; 349: 745-746)、ミステリ−が深まったのです。同年5月、モンタニエらは構造の判明したLAV-1BRUで はなく、LAIのコ−ドネ−ムを持つサンプルに由来することを報告しました(Science 1991; 252: 961-965)。

1983年7月20日から同年8月3日の間にLAIの ウイルスがBRUに感染し、LAIの繁殖したBRU名 のサンプルから分離されたウイルスが、構造の解明されたLAV-1であったこ とになります(最初にギャロに送られたBRULAIは感染していない。1983年最初に発見されたLAV-1BRUに 由来する)。

1983年9月、モンタニエはLAIが 感染したBRU名の骨髄サンプルを、汚染に気づかないままギャロらに送りまし た。このサンプルからLAIのウイルスがギャロらの検体に感染し、これがHTLV-IIIとして報告されたということになり、この問題はほぼ決着しました(Science 1991; 252: 771)。
 

男性ホモ(バイ)セクシュアル

(1) ゲイ・コミュニティ

アメリカでは、男性(特にホワイト)のホモ(バイ)セクシュアル(gay=ゲイ)が多いと推測されています(Newsweek, July 13, 1987: 40-42)。1940ー50年代に行われたキンゼイの報告で、男性の18%が16ー55歳の間に少なくと も3年間、同姓、異性双方に同程度の性的興味をもち、13%がよりホモセクシュアル傾向を示すことが明らかになりました。女性の数字は男性の約半数です(Newsweek, July 13, 1987: 40-42)。大都市に住む成人4340人を対象にした1983年の調査では、約2%の男性がホモセクシュ アルで、2%がバイセクシュアルでした(Science 1988; 240: 867)。しかし、性的ライフスタイルに関する大規模な断面調査が行われたことはなく(Nature 1990; 384: 276-278)、400万ー2500万人ともいわれるアメリカのホモ(バイ)セクシュアルの実態は不明です。

社会のなかで多数を占める異性愛者(straight= ストレート)の多くは、ゲイをモラルに反する行為にふける、性的楽しみだけを追求する享楽的で無責任な人々と考えていました。ゲイは、教会からは罪を犯し た人、医師からは病人、家族からは生まれつき欠陥のある人と批判され、企業からは解雇され、社会的差別に苦しんでいたのです(Newsweek, August 8, 1983: 26-31)。

サンフランスシスコやニュ−ヨ−ク、シカゴなどの大都市にゲイが集まり、差別に苦しむゲイが助け合って生きるため のコミュニティが形成されました。商工会議所や銀行、金融機関、自治組織をもつサンフランスシスコのような大きなコミュニティも生まれました(Newsweek, August 8, 1983: 26-31)。1969年ニュ−ヨ−クのゲイバーで起きた暴動をきっかけに、社会の裏面で生きてきたゲイ が人々の前で公然と集会やデモを行い、権利を主張し、社会的認知を要求するようになりました。

1970年代、女性解放運動や人権擁護運動などの高まりと共に、大都市を中心とするゲイ・コミュニティの間でゲ イ・リブ運動が盛り上がりました(Newsweek, March 12, 1990: 44-49)。ゲイの政治的、社会的発言力が次第に増し、ストレート社会のゲイに対する偏見は徐々に和ら ぎ始めます。しかし、ゲイの享楽的傾向に反発も強く、モラル・マジョリティ(道徳的多数派。キリスト教原理主義者の政治団体)や教会のゲイ批判は続きまし た。

事実、ゲイのなかには乱交傾向のライフスタイルを持つ人も多く、コミュニティには、セックス・パートナーを見つけ るためのゲイバーやバスハウス(サウナを中心とする共同浴場)が多数設けられていました。バスハウスのオージ・ルーム(orgy room)で、見知らぬ人同士の間で性行為が盛んに行われました(Newsweek, August 12, 1985: 47-48)。あるソングライターは、10年間におよそ3000人のパートナーと性関係をもったといわ れています(Newsweek, December 9, 1991: 36-40)。従来から、梅毒や淋病、単純ヘルペスやB型肝炎、アメ−バ症、鞭毛虫症(人や動物の腸 管に寄生する原虫)などに罹病するゲイが多く(Ann Int Med 1980; 92: 805-808)、このようなライフスタイルが衛生上問題の多いことが指摘されていました。

(2) 混乱、再生

1970年代(後半らしい)にこのような環境に進入したHIVは、バスハウスやゲイバーでの乱脈ともいえる性交を介し、比較的短期間に全米のゲ イ・コミュニティに広がりました。1981年、突然姿を現したエイズはゲイ・コミュニティをパニック状態に陥れたのです(Newsweek, August 8, 1983: 26-31)。病気の恐怖におののく人、絶望した人、宿命と諦めた人、自殺を図る人などでゲイ・コミュニ ティは混乱しました。

患者が増加するとともに、エイズの拡大がゲイのライフスタイルと密接に関係していることがわかってきました。友人 や知人が次々とエイズに倒れるという深刻な事態に直面したゲイのライフスタイルが、1983年頃を境に急激に変化し始めます(Am J Public Health 1988; 78: 394-410)。従来のライフスタイルへの反省が現れ、ゲイバーやバスハウスが次 々と閉鎖されました。肛門性行でエイズが広がり、コンドームがこれを防ぐことがわかってきたため、セーフ・セックス(safe sex)のかけ声が高まります。セックス・パートナーの選択に注意を払うこと、パートナーの数を減らすこと、肛門性交や口性交の際、精液の 交換を避けるためコンドームを用いることが推奨されました(Am J Public Health 1988; 78: 394-410)。

サンフランシスコやニューヨークなどの大都市では、孤立し、困窮した患者や家族を助けるゲイの草の根組織が結成さ れました。数千人のボランティアが無報酬で患者の世話に当り、エイズ電話ホットラインが開設され、ゲイへの啓蒙活動が開始されました(Sci Am 1988; 259: 106-112)。1987年、エイズに倒れた人々を追悼し、エイズ問題に対する人々の理解と共感を得るた め、メモリアル・キルト運動が始まりました。

このような活発な啓蒙活動や扶助活動、ゲイのライフスタイルの変化などにより、1984ー85年をピ−クにゲイのHIV感染が減少に転じたことが推定されました(Science 1991; 253: 37-42)。1980年代後半、ゲイの患者の発生数が頭打ち傾向を示し始めます(Sci Am 1992; 266: 20-26)。白人知識人を多く抱えるゲイ(1992年6月現在、ヒスパニックを除くホワイトがゲイのエイズ 患者の76%を占める)は活発な社会活動を通じてHIVの拡大を封じ込めるこ とに一定の成功を収めつつあります(Sci Am 1988; 259:, 106-112)。しかし、感染しやすいライフスタイルを持つゲイの多くがすでに感染したり発病したりして いるものとみられ、新たに感染するゲイの減少は、HIV対策の効果の現れであ ると同時に、感染しやすい人の減少を反映しているとも考えられます。

(3)セーフ・セックス

エイズが不治の致死的病気であるため、いったんキャリア(無症候性感染者)になると生涯にわたって感染防止の努力 することが求められます。啓蒙の当初、セーフ・セックスの考え方は比較的容易に受け入れられます。セーフ・セックスを実行するに当たってライフ・スタイル を大幅に変更しなければならない場合、人がこれを長期間維持することは必ずしも容易ではありません。禁煙や禁酒、体重コントロ−ルの場合は、努力のもたら す健康上の利益が当人に明らかであるのに対し、HIVの場合感染を防ぐ努力に 見合う利益が患者やキャリアに必ずしも明確ではありません(Am J Public Health 1988; 78: 394-410)。セーフ・セックスのライフ・スタイルを維持する動機が乏しい場 合、長期にわたってセーフ・セックスを維持することは困難となります(AIDS 1992; 6: 875-877)。

ゲイの多くはセーフ・セックスをやむを得ない犠牲と考え、コンドームを必要悪と受け止め、セーフ・セックスは無防 備な性交より満足度が劣ると感じています(AIDS 1992; 6: 875-877)。性的に刺激されたり、パートナーが無防備な性交を望んだり、パートナーは安全であると推論したりする と容易に無防備な肛門性交に戻ります。セーフ・セックスを一貫して行うことができないという認識(1回の失敗が生涯の失敗となる可能性があるため、1回の 手技ミスは後のセーフ・セックスの意欲を削ぐ)があると、危険なライフスタイルに戻りやすくなります(AIDS 1992; 6: 861-868)。セーフ・セックスが、これを実行する人に利益をもたらすことが明かであるような啓蒙(たとえば、セー フ・セックスが無防備な性交よりエロチックであるというようなメッセ−ジを積極的に出すこと)が重要であると言われるようになりました(AIDS 1992; 6: 857-887)。

(4) ホワイトハウス

1984年11月、ゲイのエイズ患者が、CDCに 報告された6720人の患者の73%にも上ったため(Ann Int Med 1985; 102: 800-813)、エイズはゲイ・プレーグ(gay palgue= ゲイの疫病)ともいわれ(Newsweek, April 18, 1983: 32-37)、特別のライフスタイルをもつ人々に出現する特殊な疾患としてストレート社会から疎んじられ ました。エイズはホモセクシュアル行為という罪に対する神と自然の罰である、と考える人々もいました(Newsweek, August 8, 1983: 26-31)。人々のこのような感情はホワイトハウスにも影響し、当初、レ−ガン大統領はエイズ対策に積 極的姿勢を示しませんでした。「エイズは神の摂理に従わない社会に対する神の審判である」と主張するモラル・マジョリティに共鳴するレ−ガン大統領は、 1987年5月まで演説でエイズ問題を取り上げることはなかったといわれます(Newsweek, August 10, 1987: 10-18)。

1983年HIVが同定され、 1984ー85年、特異的な抗体検査法が確立されると、感染の有無を調べることができるようになりました。いくつかの調査の結果、キャリアが全米で177 万人に上り、そのうちホモ(バイ)セクシュアルが135万人を占めると推定(N Engl J Med 1985; 313: 1352)されるに至り、HIVの 広がりが想像以上に深刻であることがわかりました。1985年、俳優のロック・ハドソンがエイズに罹患している(ホモセクシュアル行為で感染したらしい) ことが報道され、ハリウッド社会に大きな衝撃を与えました。有名俳優の病は、彼に親しみを持つ多くの市民がエイズを身近なものに感じるきっかけとなったの です。

HIV感染の拡大という事実、ロッ ク・ハドソンがエイズに倒れたという報道などがハリウッド出身のレーガン大統領を動かし、エイズ予算が増額されることになりました。1984年に6000 万ドルであったエイズ対策予算が1986年には1億2600万ドルに増額され、1988年には9億ドルを超えました(Sci Am 1988; 259: 106-112)。1987年、レーガン政権は移民希望者のHIV検査を義務づけ、陽性者の入国を許可しない方針を打ち出しました。1988年、HIV感染に関する大統領諮問委員会は、エイズの教育や研究に巨額の連邦予算を投入する こと、HIV感染者の差別を禁ずる法的措置を講じること、薬物中毒者の感染を 防止するプログラムを策定することなどを求める報告書を提出しました(Science 1988; 240: 1395-1396)。同年、エイズ理解のための教育用小冊子が、1億700万世帯に配布されました(Newsweek, June 13, 1988: 32-33)。
 

薬物中毒

(1) ヘロイン

アメリカの薬物乱用は、1960年代マリワナ(大麻)、1970年代ヘロイン(アヘンに含まれるアルカロイド=モ ルヒネから合成した薬物)、1980年代コカイン(コカの葉に含まれるアルカロイド)と一般にいわれます(Science 1986; 234: 970-974)。

1960年代半ば、ヘロイン中毒となる人が増え始め、1970年頃ピークに達しました。その後1970年代半ばと 1980年代初頭にやや低いピークが見られました(Science 1986; 234: 970-974)。現在全米で40万ー60万人のヘロイン中毒者(junkie)がいるものと推定されています(Science 1986; 234: 970-974)。中毒者の多くは1960ー70年代に乱用を始めた人々で、中毒者の新たな急増はなく、年々平均年 齢が上昇しています(Science 1986; 234: 970-974)。

 ヘロイン中毒者の多くは、密売地域(copping area)にあるシューティング・ギャラリー(shooting gallery)で、不潔な注射器を用いてヘロイン(smack, junk)を打ちます。シューティング・ギャラリーの多くは、ヘロインを打つ”場所”だけでなく、注射器も提供します。ここで注射器を借り た中毒者(Intravenous Drug User=IVDU)はヘロインを静注後、これをギャラリーに返します。ギャラリーの管理人は、十分な消毒をしないまま、この注 射器を次のIVDUに貸します。1本の不潔な注射器が何週間にもわたって用い られることになります(AIDS 1992; 6: 1053-1068)。シューティング・ギャラリーのない街では、売人(junker, pusher)が未消毒の注射器を客に次々と貸します。このため、IVDUが 不潔な注射器を用いることになりました。

血液を注射器に吸い取ってヘロインと混合しながらゆっくり静注する(boot)方法が、IVDUの 間で流行しました。この方法だと感染者の血液が注射器を介して他のIVDUの 体内に入るため、HIVがヘロイン中毒者の間に蔓延することになります。 1979年、ニューヨーク・マンハッタンのIVDUの血液サンプルの26%がHIVに感染していました(JAMA 1989; 261: 1008-1012)。HIVは 1970年代半ばにニューヨークのIVDUの間に侵入し、1979年から 1983年にかけて急速に広がったものとみられています(JAMA 1989; 261: 1008-1012)。

HIVに感染したIVDUはニューヨーク都市圏に集中し、IVDUのエイズ患者の81%がニューヨーク州、ニュージャージ州、コネチカット州の住 民でした(Ann Int Med 1985; 103: 755-759)。1984ー87年、ニューヨークのIVDUの55ー60%がHIVに 感染していました(JAMA 1989; 261: 1008-1012)。1992年6月現在、13歳以上のエイズ患者22万6281人のうち、IVDUの患者が5万1477人(23%)を占めています(AIDS 1992; 6: 1229-1233)。

IVDUは、ヘロインを入手すると一 刻も早く使いたいという衝動にかられ、清潔、不潔にかまわず手元にある注射器を使います。不潔な注射器は危険という認識はあるため、身近に清潔な注射器が あればこれを選びます(Ann Int Med 1985; 103: 755-759)。人が性交を完全に断念すること(no sex)は不可能に近いため、HIVの感染防止の手段はセー フ・セックス以外にありません。同様に、薬物中毒者が薬物を止めることができなければ、安全な方法で薬物注射をする(safe injection)か、経口麻薬(メタドン)を使用すること以外、中毒者の感染を防止することは困難です。

1984年、ヘロインから離脱できない中毒者に清潔な注射器を提供してその共用を止めさせ、HIVの広がりを防止しようとする(harm reduction)運動がアムステルダムで始まりました(AIDS 1991; 5: 125-136)。注射器交換プログラムがIVDUHIV感染を防止する効果を示したため、他のヨーロッパ諸国やアメリカにも波及しまし た。しかし、プログラムから脱落するIVDUも多く(AIDS 1991; 5: 125-136)、注射器を与えることが麻薬使用を奨励し、新たな中毒者を作ることになると反対する声もありました。

慢性ヘロイン中毒は再発性で治らない(終生離脱することは不可能)との前提に立ち、IVDUにメタドン(経口用合成麻薬。ヘロイン中毒者が服用しても陶酔効果はほとんど出 ない)を積極的に与え、その麻薬を管理する治療法が1960年代にアメリカで試みられました(Arch Int Med 1967; 120: 19-24)。IVDUの ヘロイン静注を止めさせ、ヘロインをめぐる中毒者の犯罪を未然に防ぐことを目的に、この治療は始められました。消化管から吸収されやすく効力が長いメタド ンは、IVDUのヘロインの使用を防止することにきわめて有効でした(Arch Int Med 1967; 120: 19-24)。多数のIVDUが 社会復帰を果たし、メタドン療法は思いがけない目ざましい効果を発揮して注目を集めたのです。

1970年代初めからメタドン維持療法(no injection)は急速に広まり、1987年までに世界中で10万を超えるIVDUが メタドン療法を受けました。多数の中毒者がヘロインから離脱し、通常の生産的社会生活を営むことができるようになりました(N Engl J Med 1987; 317: 447-450)。しかし、メタドン維持療法から脱落する中毒者も多く、メタドンを中止する と中毒者がヘロインに戻るなどの問題点があります(Ann N Y Acad Sci 1978; 311: 181-189)。メタドンを投与することに対して、麻薬を広めるものとして強い懸念の 声が上がり、条例などでメタドン療法を非合法化したり、投与期間を限定したりする州や市もありました(N Engl J Med 1987; 317: 447-450)。

1980年代、不潔な注射器でヘロイン中毒者の間にHIVが 広がっていることが判明すると、感染を防止する方法としてメタドン維持療法は再び脚光を浴びました(JAMA 1989; 262:1664-1668)。注射器交換プログラムやメタドン維持療法など感染防止努力の結果、1985ー6年をピークにIVDUHIV感 染が減少傾向に転じたことが推測されました(Science 1991; 253: 37-42)。IVDUのエイズ患者の 発生数も、1980年代末から頭打ち傾向を示しています(Sci Am 1992; 266: 20-26)。

(2) コカイン

ペルーやボリビアで栽培されるコカ(Erythroxylon coca)の葉から抽出した塩酸コカインの粉末を、空気と同時に鼻から吸い込むと興奮状態に陥ります。とめどなく話し続けたり、はしゃぎ 回ったりします。多幸感が強く、自身にあふれ、すべてを制圧したという感覚に満ち、性欲が高まり、周囲の環境が増幅され強烈に感じられます(high)。数時間すると薬効が切れて激しい抑鬱状態(crash)になります(Science 1991; 251: 1580-1586)。中枢刺激作用が強く(薬理効果としては覚醒剤に非常に近い。覚醒剤より効果が短い)、多用(binge)するとコカインに対する心理的依存性が現れ、中毒となります。19世紀後 半、アメリカでコカインをワインに混ぜて飲むことが流行しました(Sci Am 1991; 265: 20-27)。1914年、自由な売買が禁止されコカインの消費は減少しました。

1973年、SCDA(the Strategy Council on Drug Abuse)はコカイン乱用による重大な障害はなく、コカイン乱用による死亡者は確認 されていない、乱用で生じた問題で治療を要した人はほとんどいないと述べています(Science 1986; 234: 970-974)。1980年、コカインは安全で中毒性の少ない多幸剤であるという考えが依然としてありました。コ カイン中毒に関する過去の記述は、マリワナの場合と同じく誇張されたものであると言われました(Science 1991; 251: 1580-1586)。安全で手軽な興奮剤という認識が広がり、1970年代後半から塩酸コカインの使用が激増しま す。1985年にはコカイン経験者が2200万人に達しました(Science 1986; 234: 970-974)。同年、過去30日間にコカインを使用したことのある高校生が6.7%に上りました。コカインを、 安価で純度の高いメキシコ産のヘロイン(black tar)と同時に静注する方法(speedballing)が 流行し、IVDUの間でもコカインの消費が伸びたのです。

1985年頃から、塩酸塩を持たない(freebase)、 クラック(crack)と呼ばれる安価なコカインの結晶が市場に大量に出回る ようになりました(JAMA 1986; 256: 711)。これを加熱して出る煙状のコカインを水キセルを通じて吸い込むと、静注した時のような強い効果が得られる ため、爆発的人気を博したのです。1回に使用するコカインが少量ですみ、貧しい人や若者に手の届く価格となりました。クラックの出現で薬物の静注が減り、 ウイルス感染の減ることが期待されたのです。しかし、クラックの薬効が強いうえに安価であったため、クラック中毒が増加しました。現在では治療を要するコ カイン中毒者が100万ー300万人に上ると推定されています(Science 1991; 251: 1580-1586)。売人との性交によってクラックを入手する中毒者(特に10歳代の黒人女性)が増加し、彼らの 間で梅毒や淋病などのSTDsexually transmitted diseases=性感染症)が多発し、HIVが 広がっています(JAMA 1990; 263: 851-855, AIDS 1991; 5: 1121-1126)。クラック窟(crack den)などで無防備な性交をして感染する中毒者も多数にのぼります(Lancet 1988; i: 1052-1053, Lancet 1988; ii: 965)。
 

インナー・シティ

1992年6月、5万1477人に達したIVDUの エイズ患者の79%が、黒人とヒスパニック(スペイン語を話す中南米系移民)です。黒人やヒスパニックの住む大都市中心部(inner city=インナー・シティ)でHIVに感染したIVDUやクラック中毒者が多く、異性間性交を介してインナー・シティの女性にHIVが広がっています(JAMA 1989; 261: 561-565)。若い女性キャリアの増加とともに、母子感染(感染率約30%)による小児感染者も増加していま す。小児(13歳未満)のエイズ患者3898人のうち、3315人(85%)が母子感染によるものです。その84%(2775人)が黒人とヒスパニックの 子供です(AIDS 1992; 6: 1229-1233)。 

クラックとヘロイン、HIVがイン ナー・シティの黒人やヒスパニックの社会に深刻な脅威を与えているのに対し、ゲイを多数抱えるホワイト社会ではHIV感染の勢いが衰えをみせ、社会的階層によるHIV感染の不均衡が目立ってきました。エイズの重心が、社会的、政治的影響力をもつホ モ(バイ)セクシュアル・コミュニティから、インナー・シティのIVDUやク ラック中毒者、そのセックス・パートナーや子供など、影響力をもたない弱者へと移動するにつれ、エイズ患者やキャリアに対する保健衛生行政のリベラルな態 度が変化していることが指摘されています(AIDS 1992; 6: 527-532)。薬物問題や教育問題同様、エイズは解決不可能なインナー・シティのマイノリティの問題になったという 認識が広がり、エイズ問題に対するアメリカ社会の熱意が減弱しつつあるともいわれます。
 

異性間性交

1991年11月、バスケットボ−ルのマジック・ジョンソン(Earvin Johnson)選手が、HIVに感染した(異性間性交による とみられている)ため引退すると突如発表しました。このニュースは全米に大きな衝撃を与えました。異性間性交を介するHIV感染に対し、人々の関心が高まりました。ゲイやIVDUの感染が減少するなかで、異性間性交を介する感染は現在でも拡大していると推定 されています(Science 1991; 253: 37-42)。

1992年6月、異性間性交による累積患者数が1万4045人となりました。その53%はIVDUとの性交による感染です(AIDS; 1992; 6: 1229-1233)。IVDUからセック ス・パートナーに感染するのを防ぐことが防疫上重要です。IVDUがセーフ・ セックスを実行することが望まれます。しかし、コンドームを使ったことのないIVDUが 3分の2以上に上り、複数のパートナーを持つ人や、肛門性交をする人、売春をする人などが多く、セーフ・セックスは実際には容易ではありません(AIDS 1991; 5: 77-83)。IVDUはセーフ・セックス より注射器の滅菌や共用防止のほうを受け入れやすいといわれています(AIDS 1991; 5: 77-83)。

1992年6月までに報告された患者で、女性(8524人)が男性(5521人)を上回るのは、異性間性交を介す る感染だけです(AIDS 1992; 6: 1229-1233)。これは、男性→女性感染の頻度が女性→男性感染より高く(JAMA 1991; 266: 1664-1667)、女性の感染者が今後さらに増加することを示唆しています。母子感染を通じて小児の患者も増加 するため、女性の感染を防止することが重要な課題となりました(JAMA 1987; 257: 2039-2042)。セックス・パートナーを選択し、その数を減らし、危険な性交(肛門性交など)を避け、コン ドームを使用すること(Am J Pub Heaith 1990; 80: 460-462)が異性間性交感染防止の原則であるのはゲイの場合と同じです。

初めの3原則は女性がイニシャチブをとることが可能です。コンドームの使用は男性がイニシャチブをもっているた め、女性はコンドームの使用を男性に依頼しなければなりません。しかし、女性がコンドームの使用をパートナーに依頼することは、必ずしも容易ではありませ ん。男性がこれをいやがったり、拒否したりすることもまれではありません。そのため、女性がイニシャチブをとれる方法の開発が望まれていました。その一つ の試みとして、女性の用いるコンドームが最近登場しました(JAMA 1992; 268: 520-521)。パートナーの協力が必要であるとはいえ、理論的には女性がこれをコントロールすることができま す。今後、女性の用いる感染防止法の開発を一層推進することが求められています(Am J Public Health 1990; 80: 460-462)。
 

凝固因子製剤

1982年、カリニ肺炎に罹患した血友病Aの患者のエイズ症例が報告されました(MMWR 1982; 31: 365-367)。当時、数千人分の血液から精製され、凍結乾燥された凝固因子製剤が血友病Aの治療に用いられていま した。この製剤は保存が簡単で、溶液に溶かすだけで使用することができるため、1970年代にクリオプレシピテート(冷却沈澱した凝固因子製剤)に取って 代わりました。凝固因子製剤にウイルスの混入していることが疑われ、1983年から不活化処理凝固因子製剤(加熱しウイルスを不活化する)が使用されるよ うになりましたが、約2万5000人の血友病患者の半数近くがすでにHIVに 感染していました。

1992年6月までに凝固因子製剤で感染し、発病した患者は2054人となりました(AIDS 1992; 6: 1229-1233)。
 

アフリカのエイズ
 
過去、現在

1984ー85年、抗HIV抗体を調 べることによって、HIV感染の有無を知ることができるようになりました。世 界各地でHIVの疫学的調査が行われた結果、中央アフリカ諸国(ビクトリア湖 周辺)にHIVが広く浸透していることが明らかとなったのです。この地域に保 存されていた血清を過去にさかのぼって調べたところ、1959年キンシャサ(ザイールの首都)で採血された血清からHIV抗体が検出されました(Science 1986; 234: 955-963)。1963年にブルキナファソ(西アフリカ)で採血された144人の小児の血清の1.4%が、弱い ながら陽性を示しました(Science 1986; 234: 955-963)。1972年ー73年に、ウガンダで採血された75人の小児の血清の50人分が陽性を示しました。

1970年代後半から80年代始め、下痢が続いて著明に痩せる原因不明の疾患がキンシャサやウガンダ、タンザニア で多発し、スリム(slim=”痩せた”の意)病と呼ばれました(Science 1986; 234: 955-963)。1983年、ルワンダの病院で食道カンジダ症が急増しました。キンシャサでは1970年ー84年 にカポジ肉腫が3倍に増え、1981年には悪性の経過をとるカポジ肉腫が8倍に激増しました(Science 1986; 234: 955-963)このような事実は、1960ー70年代、この地域にHIVがすでに存在していたこと、1980年代にエイズ患者が急増したことを示唆してい ます。

1991年までに、サハラ砂漠以南のアフリカで600万人以上の人がHIVに感染し、70万人以上の人がエイズに倒れたと推定されています(Science 1991; 252: 372-373)。タンザニアのカゲラ(Kagera) 地区だけで、5万人がエイズ孤児となりました(Lancet 1992; 339: 238)。今日では、病院の入院患者の80%以上がエイズという病院もあります(Lancet 1992; 339: 238)。
 

異性間性交

アフリカのエイズは、女性が多いという特徴があります。中央アフリカの患者の男女比が1:1.4(Nature 1991; 352: 581-589)であるのに対し、アメリカの全患者の男女比は11:1(1992年)で、両者は大きく異なります。 しかし、異性間性交で感染したアメリカの患者の男女比1:1.5(1992年)と比較すると、両者はほぼ同じです。欧米に比べ、アフリカは薬物中毒者やゲ イが非常に少なく、異性間性交が主たる感染経路と考えられています(Sci Am 1988; 259: 60-69)。

1990年までに世界の女性感染者が300万人を超え、その80%がサハラ砂漠以南のアフリカの女性であると推定 されます(Lancet 1990; 336: 211-224)。大部分は妊娠可能年齢の女性です。1984ー85年、キンシャサの15ー19歳の女性の9. 8%、20ー29歳の10.3%がHIVに感染していました(Science 1986; 234: 955-963)。1987年、ウガンダの首都カンパラでは、調査対象住民の17%が感染していました。ウガンダの 農村住民の12.6%が感染し、この地域の商業の中心地では20ー34歳の女性の57%がHIV陽 性でした(Ann Int Med 1991; 116: 339-341)。

欧米では、血液製剤や輸血で感染した人から異性間性交を介してセックス・パートナーに感染する率は7ー23%で す。アフリカでは異性間性交で感染する率が欧米より高いといわれます(Science 1988; 239: 573-5798)。年齢差の大きい若い女性を男性がセックス・パートナーに選ぶ傾向の強いこと、セックス・パート ナーを代える頻度が他の地域より高いこと、未治療のSTDが多いこと、欧米や アジアより古い時代にHIVが浸透したと考えられることなどがその理由として 挙げられます(Nature 1991; 352: 581-589)。

アフリカにはpolygamy(複 婚)の伝統が根強く残っている地域があります。ケニアのルオ(Luo)族は、 死んだ(エイズによる死も含む)夫の妻を親族が娶る風習をもっています(Newsweek, September 16, 1991: 42-43)。ザンビアの一部の地域では、妻か夫が死ぬと、死者の霊を解き放つため、残された人 が最も近い親類と性交をする”祓(はらえ)”が行われます(Time, July 23, 1990: 42-44)。このような風習もHIV感 染を広げる一因といわれます。売春行為も盛んで、地域によっては売春婦の感染率が25ー88%にも達します(Science 1988; 239: 573-579)。

アフリカ人男性のマチズモ(machismo= 多数の女性と性交渉をもつことを男らしいと考えるライフスタイル)がHIV感 染の拡大を助長しています。教育を受けた比較的裕福なエリ−ト層は、性的に活発なライフスタイルを維持しうる可処分所得を持っているため、これらの人々の 間でHIVが広がっています。アフリカの貴重な人材が失われ、経済活動や文化 活動に重大な支障の出ることが危倶されています(Ann Int Med 1991; 116: 339-341)。また、女性労働に依存する割合の大きいアフリカの農業が、女性の減少で打撃を受 けています(Ann Int Med 1991; 116: 339-341)。
 

母子感染

妊娠可能年齢の女性感染者が増加したため、母子感染による小児のエイズも増加しています。アフリカの母子感染率は 40%(Nature 1991; 352: 581-589)で、欧米の30%を上回ります。母子感染の時期として、子宮内感染、産道感染、出産後の母乳感染が あります。産道感染と子宮内感染が多く、母乳感染は少数です(Science 1988; 239: 573-579)。

母子感染の小児は発病までの期間(1ー2年)が成人(平均約10年)より短く、一般に小児エイズ患者の生存期間 (1年以内)は成人の生存期間(3ー5年)より短いといわれています(Nature 1991; 352: 581-589)。1980年代末までに、250万人のキャリアの母親から200万人の子供が生まれましたが、その 50万人がHIVに感染していました。1992年末までに、キャリアの母親か ら400万人の子供が生まれ、母子感染による感染児が100万人に上り、小児エイズ患者が累計で60万人に達すると推定されています(Lancet 1990; 336: 221-224
 

風習、医療

アフリカではマラリアで貧血をきたした小児や鎌状赤血球貧血(ヘモグロビンの構造異常で赤血球が鎌状を呈する)の 患者に対し、輸血療法がよく行われます。ある地域では、住民が医療行為として注射や輸血を期待(要・不要にかかわらず)する傾向があります。病院で用いら れる注射器の滅菌が不十分であったり、輸血用血液のスクリ−ニングが行なわれなかったりして、医療行為を介するウイルス感染がしばしば起こります(Science 1986; 234: 955-963)。また、入れ墨や乱切(まじない等のため体に小ケロイドを作る行為)、割礼、思春期にクリトリスを 切り取る風習、血を飲んだりする宗教行為などもHIVの広がる一因といわれれ ます(Science 1986; 234: 955-963)。
 

結核

1980年代半ばから、アフリカの結核症が急増しました(Science 1991; 252: 372-373)。結核患者の20ー67%がHIVに 感染し(JAMA 1992; 268: 1581-1587)、エイズ患者の半数は活動性の結核に罹患しています(Science 1991; 252: 372-373)。ザンビアではエイズ患者の40%が結核に罹病し、アビジャン(コートジボアールの首都)では 265例のHIV感染者を剖検し、36%が播種性結核症で死亡したことがわか りました(JAMA 1992; 268: 1581-1587)。結核に罹病しているHIV感 染者が300ー450万人に上ると推定され、結核症がアフリカの最も重要な日和見感染症となっています。肺外性播種性結核症が多く、ツベルクリン反応が陰 性で、非定型的胸部X線像を示し、治療による副作用が出やすく、死亡率の高いことがアフリカのHIV感 染者の結核症の特色として挙げられます(JAMA 1992; 268: 1581-1587)。
 

HIV2

1985年、マカークとミドリザルからレトロウイルスが見出され、サル免疫不全ウイルス(Simian Immunodeficiency VirusSIV)と命 名されました(Sci Am 1988; 259; 44-51)(この時ミドエイザルから発見されたウイルスは、実はマカ−クのウイルス(SIVmac)がミドリザルに感染したものであることが後に判明した(Lancet 1992; 339: 867)。同年、西アフリカ・セネガルの売春婦が、SIVに 似たウイルスをもっていることが見出されました(Sci Am 1988; 259: 44-51)。1986年、モンタニエらは、SIVmacに よく似た構造をもつウイルスを西アフリカのエイズ患者から分離し、LAV-2と して報告しました(後に、HIV-2と命名された)(Science 1986; 233: 343-346)。

HIV-1が中央アフリカに広く浸透 しているのに対し、HIV-2は西アフリカに広がっていることがわかりました (Science 1988; 239: 573-579)。西アフリカの住民のHIV-2感 染率は0.3ー17%です。西アフリカ住民のHIV-1感染率はHIV-2より少ないか、同程度でです(Science 1988; 239: 573-579)。HIV-1が世界中 に広がると共に、西アフリカでもHIV-1の感染が増加しています(Sci Am 1988; 259: 44-51)。また、コ−トジボア−ルなどではHIV-1HIV-2が同時に感染している例が増えています(Lancet 1992; 340: 337-339)。

HIV-2感染の主経路は、HIV-1と同じく異性間性交です。HIV-2感染のリスク・ファクタ−は売春婦との性交、コンドームを使用しない性交、割 礼を受けていないこと、性器潰瘍(STDによる)の既往歴で、HIV-1の場合とほぼ同じです(AIDS 1992; 6: 581-585)。HIV-2感染では、 キャリアの発病率はHIV-1に比べて低く、発病してもHIV-1よりマイルドな経過をとるといわれています(Sci Am 1988; 259: 44-51)。 
 

アジアのエイズ
 
タイ

(1) 感染爆発

1980年代前半、アジア諸国のエイズ患者はきわめて少数でした。住民の感染率はほぼ0%で、ゲイや薬物中毒者、 売春婦の感染もまれでした。欧米から輸入した血液製剤による感染や、欧米のゲイとコンタクトして感染するケースが大部分を占めていたのです。

タイでは1984年に1例目の患者(ホモセクシュアル性行為で感染した)が確認されました(日本医事新報 1991; 3507: 95-97)。その後、患者とキャリアは1985年11人、1986年18人と横ばい状態でしたが、1987年に は191人に増加しています(日本医事新報 1991; 3507: 95-97)。

1988年頃、6万人といわれるバンコクのIVDU(ヘ ロイン中毒者)の間にHIVが広がり始めました(Sci Am 1988; 259: 60-69)。1986年0%、1987年1%であったIVDUの感染率が、1988年前半16%に急増(Sci Am 1988; 259: 60-69)。1988年の半ば、治療プログラムに参加するIVDUの感染率が毎月4%ずつ増加し、同年末には43%に達しました(AIDS 1991; 5: 1509-1513)。これは不潔な注射器の共用によるものと考えられました。まもなく、IVDUから売春婦の間にHIVが 広がり始めます。1989年、チェンマイ(人口130万人のタイ第二の都市。観光客が毎年150万人訪れる)の売春婦の44%がHIVに感染していることがわかり、人々を驚かせました(AIDS 1991; 5: 579-582)。最も増加の著しい時は、月に10%の割合で感染者が増加するという驚異的な伸びを示したのです。無防 備な異性間性交によるものと考えられました。

同年、IVDUや売春婦から一般住民 へとHIVが広がり始めました。タイ軍の軍人を無作為に抽出して調べたとこ ろ、242人が感染していることがわかり、軍全体を調べることになりました(Newsweek, September 18, 1989: 31)。この頃、HIV検 査で毎月700人のキャリアが発見されています。タイ政府はこの事態を重く受け止め、エイズ対策に乗り出しました(Newsweek, September 18, 1989: 31)。しかし、コンド−ム・キャンペ−ンや啓蒙活動などの努力にもかかわらず、HIVは拡大を続けます。1991年にはキャリアが20ー30万人を突破したといわれ(Science 1991; 252: 372-373)、2000年までに200ー400万人に達すると予測されるに至りました。

(2) ヘロイン、売春

タイ北部(タイ、ミャンマー、ラオス国境地帯)は”黄金の三角地帯”といわれ、ケシ栽培の盛んな地域です。阿片積 み出し港のバンコクには多数の阿片中毒者がいました。1970年代後半から阿片の取締りが強化されます。阿片は嵩張るため、純度が高く密輸に適したヘロイ ンの生産が増加しました(AIDS 1992; 6, 1053-1068)。取引される商品が阿片からヘロインに代わり、ヘロイン中毒者が増加しました。タイ全土には15万 人のヘロイン中毒者がいるものと推定されています(Newsweek, September 18, 1989: 31)。

1988ー90年、IVDUの間でHIVが爆発的に広がりました。しかし、1991年には治療プログラムに参加するIVDUの感染率が37%となり、IVDUの感染者の増加が頭打ちになり、爆発的感染は終息し始めました(AIDS 1992; 6, 1053-1068)。ニューヨークのIVDUは マイノリティに属し、社会的差別を受けて前向きの姿勢が乏しいのに対し、バンコクのIVDUは 民族的にマジョリティに属し、失業者が少なく、社会によく受け入れられられています。このため、ニューヨークのIVDUより感染防止プログラムの受け入れがスムーズであったといわれています(AIDS 1992; 6: 1053-1068)。

タイでは売春婦以外の未婚、既婚の女性は男性と性的接触をすることが厳しく制限される一方、男性は比較的自由に売 春婦と性交することが社会的に認められています(Newsweek, June 29, 1992: 10-16)。コンドームを使用する男性は少数であったため、活発な売春行為を介してHIVが広がりました。異性間性交を介して女性感染者(母子感染を介して感染児も)が増 加し、2000年までに150万人のタイの女性がHIVに感染するものと予測 されています(Newsweek, June 29, 1992: 10-16)。
 

インド

1986年、マドラスで6人の売春婦がHIVに 感染していることが明らかになりました(Lancet 1992; 339: 1162-1163)。この後まもなく行われた調査では、10万人に上るボンベイの売春婦の感染率は1%以下でした (Newsweek, June 29, 1992: 10-16)。

”黄金の三角地帯”に近いマニプール州(ミャンマ−との国境地帯)はヘロイン密輸ル−トに当たります。この地域に はヘロイン中毒者が多く、人口180万人のマニプール州に約1万5000人のIVDUが います。1986年7月ー1989年9月、IVDUを中心とする同州のハイリ スク・グループ、2322人を調べましたが、HIV陽性者は皆無でした。とこ ろが1989年10月ー1990年6月に行われた調査で、1412人のうち765人(54%)のIVDUHIVに 感染していることが判明し、人々を驚愕させました(AIDS 1991; 5: 117-118)。感染者の97%は男性で、74%が20ー29歳の若者です。マニプール州のIVDUの感染爆発は、1988年にタイで発生したIVDUのそれに似た様相を示しました(AIDS 1991; 5: 117-118)。他のヘロイン密輸ルートでも、IVDUの 感染爆発の起こる危険があります。また、インド北東部にはSTDに罹患する長 距離トラック運転手や季節労働者が多いため、異性間性交を介しHIVが広がっ ています。

ボンベイでは、軟性下疳や尖圭コンジローマ、鼠径リンパ肉芽腫に罹患した人の間でHIV感染が増加しました。ボンベイ、マドラス、プーン(ボンベイ近郊の都市)の売春婦 の3分の1がHIVに感染しています(Lancet 1992; 339: 1162-1163)。輸血用血液のスクリーニングが十分ではないため、輸血によって感染することがあります。使用 済みの針を何度も採血に使うことがあるため、針を介して感染する可能性もあります(Newsweek, June 29, 1992: 10-16)。1992年にはインドの感染者が100万人を超えたと推定されるに至りました(Lancet 1992; 339: 1162-1163)。インドには900万人に上る排菌性結核患者がいますが、HIVの広がりとともに結核症の増加することが懸念されています(Lancet 1992; 339: 1162-1163)。
 

中南米のエイズ
 
ブラジル

ブラジルは、アフリカを除くとWHOに 報告された患者数がアメリカについで多い国です。1990年6月までに1万1897人の患者が発生しました(AIDS 1991; 5: 107-108)。その60%がサンパウロ、15%がリオデジャネイロに住む患者で、ブラジルのエイズは大都市圏に集中 しています。ホモ(バイ)セクシュアル患者が38%、IVDU患者が18%、 血液製剤による患者が8%で欧米の感染のパタ−ンと似ていますが(AIDS 1991; 5: 107-108)、輸血による患者が15%に上ることがブラジルの特徴です。1987年、公的医療施設で血液のスクリー ニングが本格的に開始されました(Newsweek, July 20, 1987: 29)。しかし、私営クリニックはこのプログラムに含まれず、売血の行われることがあるため、ウイルスに感 染した血液が用いられる危険性は皆無ではありません。

ブラジルなどラテンアメリカ諸国では、バイセクシュアルのライフスタイルを持つマチョ(macho=男らしいことを誇りにする男性)が比較的多いといわれます。バイセクシュア ルのマチョは、結婚生活を営む一方、男性売春夫とも性交をします。同性愛の性交で男性の性的役割を果たすマチョは、自分をホモセクシュアルと考えず、周囲 の人々もそのようにみません(Time, June 3, 1991: 42-44)。マチョはセーフセックスを男らしくないと考えるため、コンドームを嫌います(Newsweek, December 9, 1991: 36-40)。マチョのホモセクシュアル性行為という、ラテンアメリカの風俗文化がHIV感染拡大の一因と考えられています。

1980年代後半から異性間性交を介する感染が増加し始めました。1989ー90年には異性間性交で感染したエイ ズ患者が14.3%となりました(AIDS 1991; 5: 236-237)。マチョは異性間性交でも性的に活発です。1988ー89年、リオデジャネイロで行われた調査では、 11.6%の売春婦がHIVに感染していました。32.6%の売春婦が肛門性 交を行い、31%が梅毒の既往歴を持ち、コンドームの使用は低率でした(AIDS 1991; 5: 236-237)。ブラジルでは、1991年までにキャリアが50万人に上り、1995年までに患者が9万人に達すると 考えられています(Time, June 3, 1991: 42-44)。
 

キューバ

1986年、キューバのエイズ患者が初めて確認されました。この患者がニューヨークのゲイとつながりがあったた め、外国人とコンタクトしたことのある人がハイリスク・グループと考えられました。同年、海外渡航の経験のある38万人のHIVスクリーニング・プログラムが開始されます(N Engl J Med 1989; 320: 1022-1024)。後にこのプログラムは入院患者や妊婦、STDの患者、キャリアのセックス・パートナーなどに拡大されました。1989年までに 人口の4分の1にあたる300万人が検査を受け、259人のキューバ人と140人の外国人学生が感染していることが判明したのです(N Engl J Med 1989; 320: 1022-1024)。

キューバ政府はハバナ近郊にサナトリウム(Villa los Cocos) を建設し、ここに感染者を受け入れて治療をする政策を打ち出しました。キャリアや患者は、家族、友人と離れてサナトリウムで生活します。医師や看護婦など の付き添いのもと、週末に家族や友人を訪れることが認められています。仕事をしていた時のサラリーも保証されています。サナトリウムに入ることを拒否した り、ここから逃走した場合、どの様な措置がとられるかは明らかではありません(N Engl J Med 1989; 320: 1022-1024)。この政策に対し、患者やキャリアの人権を侵害するものであるとして強 い批判が出される一方(Lancet 1992; 340: 374, Newsweek, July 10, 1989: 32)、HIV感染防止に役立つかもしれないとの見方もあります(Newsweek, July 10, 1989: 32)。
 

東欧、ロシアのエイズ
 
チェコとスロバキア

1984年、チェコとスロバキアの1例目の患者が報告されました。1980年代前半、エイズはIVDUとホモセクシュアルの病気であり、西側諸国のモラルの低下によるものであって、 チェコとスロバキアの脅威ではないという見方が支配的でした(AIDS Education & Prevention 1992; Fall (Supp): 89-91)。エイズが”鉄のカーテン”を通ることはないと政府は考えていたのです。1986年輸血用血液のスクリーニングが開始され、 1990年には匿名のHIV検査とカウンセリングが受けられるようになりまし た。1992年までに患者が26人発生し、キャリアは1500人になったと推定されています(Lancet 1992; 339: 1162)。

チェコとスロバキアでは、キャリアが他人を感染させると処罰されます。感染していることを知らなかった25歳の男 性が数人を感染させ、傷害罪で禁固5年の判決を受けました。1990年1月、ハベル大統領はこの男性に恩赦を与えました。キャリアは住所、職業、配偶者の 有無を当局に報告し、感染源を含め性交のパートナーを全て報告するよう求められます。また、特定の病院で治療を受けなければならず、サウナやプール、公衆 浴場を利用することはできません(AIDS Education & Prevention 1992; Fall(Supp): 89-91)。ホモセクシュアルや薬物、売春について著述したり、演説したりすることは許されていません。 

チェコとスロバキア科学アカデミーが行った調査(対象4000人)によれば、50%の人がエイズはルーズな性のモ ラルによって起こった病気であると考え、26%の人が感染者に何らかの制限が加えられるべきであると考えています。50%の人が結婚前に数人のセックス・ パートナーをもつべきであると考え、23%の人が婚外性交は許されると考えています。5ー10%の人がコンドームを常に用い、35%の人が時々用います。 コンドームだけで避妊する人は5%です(AIDS Education & Prevention 1992; Fall(Supp): 89-91)。
 

ルーマニア

1989年末までにWHOに報告され たルーマニアのエイズ患者は、わずか13人でした。1990年、ルーマニアの病院や孤児院の小児にエイズが多発します(Lancet 1991; 338: 645-649)。1990年末までに、1168人の患者がルーマニア保健省に報告されました。1086人が4歳未 満の乳幼児で、683人が親に捨てられた子供でした。母子感染が疑われ、約半数の母親でHIVを 検査しましたが、陽性はわずか37人でした。特定の病院、孤児院に患者が偏在していたため、院内感染が考えられるようになったのです。

当時、4歳未満の1万4000人の乳幼児が孤児院に収容され、栄養状態の悪い2500人がジストロフィック・セン ター(栄養不良児センタ−)でケアを受けていました。1980年代半ばからこのような乳幼児が急増しています。この施設で栄養不良の子供に、治療として輸 血が頻回に行われました。経口薬が不足していたため、病院では抗生物質やビタミン剤の注射が行われました。シリンジや注射針、滅菌器が不足し、不潔な器具 が繰り返し用いられています。輸血用血液のHIV抗体スクリーニングは行われ ていませんでした。このような悪条件が重なり、輸血や注射という医療行為によってHIVが 広がる結果となりました(Lancet 1991; 338: 645-649)。
 

ロシア

1988年11月、カルムイク自治共和国(人口34万人)の首都エリスタの病院で、新生児の一人がHIVに感染していることがわかり、モスクワの中央疫学研究所に報告されました(Nature 1989; 337: 493)。同研究所は新生児の感染を確認し、その両親を調べましたが、HIVは陰性でした。

同じ頃、エリスタの血液スクリーニング(1988年初め開始された)で、若い女性キャリアが見つかりました。女性 のセックス ・パートナーは陰性で、その子供がHIV陽性の新生児と同じ病 院に入院し、死亡していたこともわかったのです。病院の院内感染が疑われ、同じ頃入院していた全ての子どもが検査されました。その結果、27人の小児と5 人の母親がHIVに感染していることが判明し、人々を震撼させたのです。十分 に滅菌しないまま医療器具を繰り返し用いたことが、院内感染の原因と考えられました。病院で治療を受けた小児の多くが口内炎や歯肉出血を伴っていたため、 授乳の際乳頭の亀裂から母親に感染したといわれています(Nature 1989; 337: 493)。

HIVスクリーニング検査の偽陽性が 非常に多いことが、ロシアで問題になっています。1991年に検査された2940万検体のうち、偽陽性が約3万検体で、感染が確認されたのは66例でし た。ロシアでは感染確認に数週間から数カ月かかるため、感染を確認しないまま感染ルートの疫学的調査の行われることが少なくありません。未確認の個人情報 が漏れ、偽陽性の人やキャリアが差別されるということがしばしば起こります(Lancet 1992; 339: 1548)。

1992年までに確認されたロシアのキャリアは566人です。この数字に疑問をもつロシアの研究者は、キャリア数 を2万ー2万3000人と推定しています(Lancet 1992; 340: 1089-1090)。ロシアでは1988年にコンドームという言葉が新聞などに初めて登場しました(Nature 1989; 337: 493)。1992年に生産または輸入されたコンドームは成人男子1人当たり年5ー6個で、コンドームの絶対数が不 足しています(Lancet 1992; 340: 1089-1090)。

アフガニスタン戦争の帰還兵の間に薬物中毒者が増加しました。麻薬(narcotic)乱用が処罰の対象から外されたにもかかわらず、注射器が非常に不足 し、注射器の共用が懸念されています。資金不足のため、検査体制が不十分で、医療従事者のトレーニングも十分ではありません。自分の行った感染予防措置が 有効であること示すため、感染者数を過小報告する医師もいます(Lancet 1992; 340: 1089-1090)。ホモセクシュアルの問題を取り上げることは法的に禁止されています。このように難問が山積 し、有効なエイズ対策を打ち出すことが困難です。このため今世紀末までにロシアのキャリアが100万人を超えるという予測も出されています(Lancet 1992; 340: 1089-1090)。
 

おわりに

アジアやアフリカ、中南米でHIVが 急激に広がる一方、対策が後手に回っているため、エイズはアジア、アフリカ、中南米の病気とさえいわれるようになりました。世界中で毎日5000人以上の 人がHIVに感染していると推定され、その多くはこの地域に住む人々です。

小児や若い成人男女に好発し、死に至るエイズは、個人の健康の問題であるだけでなく、重大な社会問題です。アフリ カでは社会の存立が脅かされています。21世紀初頭には全世界のキャリアが数千万ー1億人に達し、大量のエイズ患者が発生して医療システムが対応しきれな くなる可能性があるといわれ、深刻な事態が起ころうとしています。世界的視野からエイズ対策に乗り出すことが求められています。

『エイズ:教職員のためのガイドブック』(1993)より、許可を得て転載(一部改変)
 

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