第39回  環境保護の原点を考えるDavid Pepper 著柴田和子訳、青弓社(1984)  戻る

 00年6月20日(火) 18:00〜 (谷先生、岩本、山口、中村、音西、笹野、朝廣)

著者まえがき
日本の読者へのまえがき

序章 環境保護になぜ歴史と哲学なのか

1 事実とは:現状分析
2 思想的背景:問題の原点
3 文化的フィルターと科学の役割
4 方法論と理論的根拠

第1章 現代の環境保護主義とは

1−1 その定義
1−2 環境保護主義の歴史的経緯
1−3 環境保護主義の中心テーマ
1−4 環境保護の三大名著「限界」「青写真」「小は美なり」
1−5 問題の分析


レジメ Asahiro

The Roots of Modern Environmentalism, 1984 by David Pepper

著者まえがき

本書は、広義に環境および環境に関係する事柄に関心のある学生を対象とし、環境保護に関する歴史と、哲学および思想を考察した。
本書執筆の動機は、環境保護に参加し、現代の環境問題を研究したり、議論したりしている人々が、この問題に対する適切な知識を持ち合わせていないように思われた。

日本の読者へのまえがき(著者)

本書のねらい

本書出版のねらいは二つ、第一は前述の理由、第二のねらいは、今日の環境保護主義はマルクス主義と社会主義の思想ときわめて密接に結びついていることを示すことである。
本書で論じられる「共産主義」は、多くの環境保護主義者と同様に、エコロジーに優しく、社会的に正当で、真に民主的な、物質が適切に供給されているようなグローバルな社会である。
筆者も一部の環境保護主義者と同様に、資本主義が世界の支配的な経済システムである限り、理想とする社会が可能になるとは考えていない。私達が求める社会は、社会主義者やアナーキストたちが過去200年以上にわたって追い求めてきたものに他ならない。

社会主義思想の意味

西洋のグリーン運動にとって重要な知的伝統は、マルクス、ウィリアム・モリス、クロポトキンおよびネオマルキスト達に由来する社会主義である。意味する点は二つある。

第一は、彼らの資本主義経済の社会分析は、システム内部の矛盾を暴露しており、これはシステムが根本的に、全世界にとって社会的に正当で、民主的な、エコロジーに優しいものではありえない。

第二に、マルクス主義の視点では、いかなる社会的・経済的形態も「自然的」ではなく、歴史的必然でもないことから、資本主義が固定された最善のもであると考えるのではなく、私達は社会を世界多数の人々の要求に見合うように変化させ、作り変えることを望む自由意思を持っている。また、自然と人間の関係について、現実は弁証法的であり、両者は緊密すぎて社会と自然の関係を除外してそれぞれを定義することは不可能である。マルクス主義が強調するものは、私達の「肉体」の一部としての人間と自然との有機的連関である。

思想的欠如を持つ環境保護運動

これまでの環境保護運動では、特殊な資本主義形態ではなく、工業化全てが敵視された。

資本主義と多国籍企業の一掃が、利潤よりも倫理的に民衆の高揚に資すると主張された。これは、自然や「環境」は人間よりも、木々や鯨への関心によって理想化されてきた。

環境保護運動は政治的には一括性を欠き、概して無力であったが、本書はその理由の一端を明らかにする。一括した政治姿勢とは、エコロジー的関心を盛り込んで刷新されたマルクスの社会主義姿勢である。

今日の若い環境保護主義者たちが、こうした知見や歴史的展望を持たなければ、歯車の再生に時間とエネルギーを浪費することになりかねない。私達は自らを、あたかも人格的に邪悪で罪深いものであるかのように責めるべきではなく、世界を台無しにしてしまったシステムの欠陥を変えるよう為す責務があるのである。

序章 環境保護になぜ歴史と哲学なのか

1 事実とは:現状分析

破壊によって失われた農地および野生生物の数字 → 無数の現状とデータが報告されてきた。

報告は、人類の物質環境が戦後、多方面で目に見えて悪化していることを詳細に伝えている。

データを受けた環境保護主義者達の関心は、対策法や将来予測におかれるようになった。一方、これらの観点で問題を解決できないという意見がある。それは、人々が示された「事実」を無視するか留意するかは、限りなく自由な選択に任されているからである。

人は誰でも、欲することについては、不合理な根拠に基づき決断し、後付けで立場を支持する。また、この根拠となる「事実と数字」を探したがる。自他を問わず議論には先入観がつきものであり、私達は、事実の認知をゆがめてしまう前提条件や、既存の利害関係を持っている。

したがって、私達に影響を与え、私達の精神を変えようとする者は誰でも、これらの前提や既存の利害を理解し説明すべきであり、忘れ去られやすい「事実」で攻めたてるのは無益である。

しかし、これよりもはるかに賢い戦略は、私達の信念を支えている前提を崩すか、基盤を揺さぶり、他人との見解の相違を理解することである。言い換えれば、他人の持ち出す議論の「真実」を考えるのではなく、なぜ彼らがそう論じ、そう信じているのかを、すなわち彼らの物質的・思想的な既存の利害関係や、幅広い前提や哲学がその関心に影響しているかを考えなければならないということである。他人の考えに影響を及ぼしたいならば、私達は彼らがそうした考えを持つようになった歴史を学ばなければならない。過去の変化を知らなければ、それを変化させることはできない。

将来に向けて、事態を好転させる社会や環境の真の変化を望むならば、人々がどのようにして現在のような態度をとるに至ったかの歴史的展望をもち、どのような物質的変化が新たな態度を育てるのに必要とされているかを理解しなければならないということである。

環境保護主義者の熱っぽい感性を理解するには、自然界を認知し分類する方法が変化した15001800年の間に、人間の継承してきた偉大な自然に対する人間の関与について、疑問と不安がともに生み出された歴史を知らなければならない。

これまでの膨大な事実の研究は多くの情報を伝えてきたが、その結果として基本的な自然は実際ほとんど変わっていない。この種の報告書も大切であるが、本書の意図は、環境保護の歴史的かつ哲学的展望へ人々を導くことである。いま、環境保護主義者達は、その思考領域を拡大するときである。

2 思想的背景:問題の原点

環境保護主義者の考えるエコロジー的に利用可能で安定した社会の概念や価値とは、下記のものであり、これらは現在支配的である経済風潮や慣習知の概念や価値(中央集権化、分業、唯物主義、競争)と拮抗している

経済及び人口の非成長、地方分権化と小規模共同体、都市と農村との格差の緩和、選択肢のある中間的で適切な環境と調和のとれたテクノロジー、廃材と原材料のリサイクル、協調的な生活スタイル、などである。特に、個人の向上と社会の進歩は物質的に測れるものではなく、社会的正義と個人の精神的・心理的充足を通じて達成されるものであるという概念。

これらの概念や価値の目指す、物質主義に代わるのは、「ライフ・クオリティー」の概念である。これは物質生活の急速な質の低下に対抗して、環境の質的向上を目指そうとするものである。

19世紀に発した経済成長を支えた価値を、シューマッハは下記の六つの主要概念にまとめている。

進化思想、競争・自然選択・適者生存の概念、歴史の物質基盤に関するマルクス主義、無意識の重要性を最優先に強調するフロイト主義、「あらゆる絶対性を否定し、規範や標準のすべてを解消した」相対主義、そして、「有効な知識は自然科学の方法によってのみ得られる」とする哲学である。

また、これらに根拠を与える思想は、カプラの指摘によれば「デカルト - ニュートンのパラダイム」である。

彼らは、西洋環境保護運動やその政策決定において、本来実践的な人々が思想と価値観に重要性を持っていると指摘し、環境の苦境を救う方法は、私達が何を真実かつ有効で護に値するものであると考えるかについて、価値観を変化させることにあると結論した。

しかし筆者は、この救済法は変化が達成されるための実践的指針を示しておらず、説得力に欠くと考える。

ヘンリック・スコリモフスキーも、価値観の議論を表面的であると特徴づけており、やはり、私達の思想の原点が何であるかについての適切な考察が必要である。彼の考える価値観の原点は「コスモロジー」、すなわち世界観ないしは宇宙観である。これは哲学の基盤であるが、現代のコスモロジーは経験主義と科学主義に大きく依存し、機械的で分析的すぎている。それは、自然に対する道徳性という「人道的な」概念の基礎付けをまったく欠いており、また、価値観をめぐる議論を避けて、「事実」についての知識の方を優先させているという。

筆者は、この議論についても次の二点から表面的すぎると考える。一つは、価値を単なるテクノロジーの関数と見なしているという点である。二つ目は、科学が新しい文化の一部として発達すると指摘しておきながら、エコロジー的に有害だとされる物質的側面を捉える思想や哲学について、踏み込んだ議論が為されていないからである。

自然に対する現代の思想や価値観を決定する要因として、経済システムの中での物質的な組織化及び形成が影響を与えていると指摘する者がいる。それが、人間および人間と自然の間に特殊で個人的な関係を生み出すとも主張されている。アラン・シュナイバーグは著書「環境―過剰から過不足へ」(1980)の中で、現代の物質主義者と消費者がいかに社会を方向付けているかを示唆している。社会の物質的手段と目的が、その成員と自然を認知するやり方に大きく影響するとしており、このような物質主義的見方は、観念論的見方からの重要な発展である。

3 文化的フィルターと科学の役割

「文化的フィルター」研究の重要性

文化的フィルターとは、異なる集団や個人が環境をいかに認知しており、この認知に色づけしている経済的・社会的・文化的な前提である。

この研究から学べる思想とか価値の発達についての歴史的理解は、各時代の視点に立って「過去の時代の精神世界を正しく再構成」することが重要なのである。これは、私達自身への同じ見方を可能とする。

こういった「自然で必然だと思われている思考法」を意識的に考察することには困難が予想されるが、環境や景観の変化については、その国に固有な文化的フィルターとその前提と無関係ではありえない。

現実の環境は、…私達の態度とか、観察の仕方から生じる限界、過去の経験などからなる文化的フィルターを通して知覚される。このフィルターを研究し、認知された環境を再構築することで、観察者は研究対象の集団が示す特殊な選択や行為を説明することができる。(Jeans,1947)

認知された環境と「現実の」環境のズレ

現実の環境と認知された環境の間に違いがあったとしても、環境に対する決定はどちらも同程度に影響を及ぼし得る。

動的で静的な現実の環境について情報を得る際、主要な媒介手段は科学である。科学は、環境に関する研究方法だけ出なく、環境への関わり方の哲学も提供する。

科学の方法は現実の環境についての客観的事実を与える手段であり、科学は哲学として、この客観的知識に大きな価値をおいていると考えられる。

しかし、科学は果たして客観的な真実であり、それは現実の環境の一部であると言えるだろうか? 。通常、科学的知識は「客観性」ゆえに高い価値を持つと思われており、白衣を着た科学者が公式を並べ立てて証明されれば有効で正当だと見える。一方、敵の議論を中傷したければ「非科学的」と言い、問題外とするならば「主観的」とか「感情的」など、価値自由ではないと宣告すればこと足りる。

フランシス・ベーコンの見方に由来する科学は、現実の環境と認知された環境との違いを客観的に教えることができるとしている。しかし、十分批判的に考察すれば、わずかな根拠から出たものにすぎない。筆者は、地球の運命に関心のある人々は、このことに疑いを持つべきであると考える。

科学者と技術者の科学は、人間の自然への関わりが支配と搾取にあり、環境を制御する手段が高度に完成されていくほど、その関係は継続的に強化される。一方、エコロジストと環境保護主義者の科学は、私達は本質的に自然の一部であり、自然と相互的関係にあることを示している。

私達が自然と対等ではなく暴君として振舞うのであれば、システムの損傷は私達を困難に直面させる。

私達は科学の正確さや非多義性、中立性を尊敬さえしているが、科学の二面性に真実はあり得ない。

古典科学批判では、科学は哲学としては価値をめぐる議論を回避するが、このことが科学の本来の価値を表しているという理由で、科学は価値自由ではないと指摘する。しかし現在では、科学者は利用価値について社会的責任を持たなければならない風潮にある。

科学の客観性については中立的に行われるとしても、どのような疑問が問われ、どのような問題が科学的研究に値するかという問題には、当然価値判断がともなうとされる。

問題は、尊敬され真理であるとされる科学を、不公正で非科学的かつ観念的な根拠を持つ政策の隠蔽、正当化、合法化のために、積極的にしかも環境に破壊的なやり方で用いてきたことである。

4 方法論と理論的根拠

環境保護主義者達は知的道具を通して、自然の景観と人間が及ぼす影響を描き出すために多くの時を費やしてきた。しかし、今や彼らも私達も自然の景観ではなく、景観を描く手段として道具の吟味に努力しなければならない。その道具は文化的フィルターにほかならず、経済的、社会的、そして文化的に条件付けられた仮定と前提からなる世界観である。この歴史を見れば、人生観の変革に向けた方策が理解されるはずで、本書は実践的にも社会的にも有益な自己教育の訓練である。

現代の教育原理は、あるがままの世界を変えることは基本的にできないというものである。こうした考えを養う教育組織は文化的フィルターに様々な前提を提供するが、それらを吟味し疑問視するように促すことはない。

現代の社会を取り巻く最重要課題は、新たな思想を開発し使えるようにするため、「警戒を怠らない、健康的な本性」をどのようにすれば発展させることができるかを考えることである。

本書は、環境保護主義の歴史と哲学にある過去と現在を結びつけることにより、新たな意識の開発を目指すものである。「哲学と歴史と人間の省察の全ては、大部分、混乱の歴史である」(lovejoy, 1974)。これは本書にも当てはまり、ねらいが統一と解釈にあるために、想像上の歴史的一般化に陥ることは免れていない。筆者はただ単に、この魅惑的な領域の研究に読者を誘い込もうとしただけである。

読書会メモ

 


asahiro@kyushu-id.ac.jp