第57回  市場主義の終焉、佐和隆光 著、岩波新書(2000)  戻る

 01年7月3日(火) 18:00〜 (谷先生、岩本、山口、笹野、朝廣)

序章 市場主義の来し方行く末

第一章 相対化の時代が始まった

第二章 進化するリベラリズム


レジメ Asahiro

第2章    進化するリベラリズム

1.マテリアリズムからポスト・マテリアリズムへ

■新しいリベラリズム
・「新しいリベラリズムー高揚する市民団体の影響力」(1999年)ジェフリー・ベリー
    → 1980年代にアメリカン・リベラリズムは消滅した。(通説を覆す実証研究の成果)
・    ジョン・F・ケネディ大統領 ―      人種差別の撤廃、累進所得税制と福祉により所得を再分配
失業対策と貧困の撲滅=リベラリズムの政策綱領における最重要課題。
・    以来40年、これらの優先度は著しく低下。ポスト・マテリアリズム(脱物質主義)の台頭環境の保全、様々な権利の擁護、消費者の保護、政府の浄化、教育の改革、医療の改革などの「経済を超える」争点

   これは、非物質的ないし非経済的な価値を、物質的ないし経済的価値に優先させる傾向である。
・     リベラリズムの圧力団体=リベラル・ロビー、その対極に位置するのがビジネス・ロビー(産業界の意向を代弁)
・    彼の研究によると、ビジネスの勝率は、8割(63年)→6割6部(91年)に低下
理由@:ビジネスは、産業界に不利な法案の提出を、議員に圧力をかけて事前に葬り去る。
理由A:リベラルの発言は、マスコミに取り上げられやすい。
理由B:連邦議会での審議事項に占めるポスト・マテリアリズムの議題の比率が高まった。
・    これらのことは、アメリカの経済社会は90年代に入ってまもなく、ポスト工業化社会へと移行した。産業構造の変化を表現するポスト工業化と、価値優先順位の移行を表現するポスト・マテリアリズムは、同じメダルの両面の関係、お互い表裏一体の関係にあると見て良い。

■ポスト・マテリアリズムは政治を動かす
・    筆者は90年代から21世紀にかけた国内政治における主な争点は、在来型の保守とリベラルの争点であるマテリアリズムな諸問題(景気対策、所得再分配、福祉、雇用、通称、産業政策など)から、ポスト・マテリアリズムな諸問題(教育、医療、環境、消費者保護、性差別の撤廃、外国人受け入れなど)へと、確実に移行すると考える。
・     従来の争点では、市場を万能と見なすか否かで明確な「線引き」がなされてきた。しかし、後者の争点に関する保守とリベラルの見解の相違は、市場の見方に加え、伝統と秩序の維持を尊重するか否かによって差異化される。しかし、両者のしきり線は自明でない。結局、21世紀の保守とリベラルをしきるのは、ポスト・マテリアリズムな諸問題への解答如何による「線引き」である。

■社会主義はマテリアリズムの優等生だった
・    史的唯物論(historical materialism)カール・マルクスの社会認識の方法←生粋のマテリアリズム
・     マルクスの予言がはらむ誤り:1、資本家の貧欲さを、あまりにも過大に評価した。
2、資本化の「搾取」の無くなった共産主義社会において「人間性が開花する」という予想が裏切られた。=権力の台頭

■ポスト・マテリアリズムが滅ぼした社会主義
・    60年代、人々の価値観は生産的産業に重きをおき、サービス業はそれに寄生する仕事と思われていた。
・     当時、ソビエト連邦は世界一の生産力を誇っていた。宇宙飛行の一番乗りなど
・     ポスト・マテリアリズムの価値優先順位の移行は、高度情報化社会の到来と共に、東を崩壊に導いた。


2.地球環境問題の浮上

■マテリアリズムとの決別を駆動した地球環境問題
・    1970年代の産業公害問題の顕在化は、環境問題への対応という、価値優先順位の移行を余儀なくした。
・    1997年の国連気候変動枠組み条約第3回締約国会議(COP3)、当時、産業界の首脳は嫌悪感をあらわにし、生産を最優先すべきとする主張は、欧州諸国の傾向を見過ごした、時代錯誤的言説であった。

■20世紀型産業文明の見直し
・     地球温暖化問題を前に、大量生産、大量消費、大量廃棄の20世紀型産業文明を21世紀に持ち越してはいけない。
・    筆者は「20世紀はどんな世紀だったのか?」という問いに対し、「経済発展・成長の世紀」と答える。石油に支えられた技術革新が、実質GDPや人口の拡大を可能としてきた。二酸化炭素の削減は、日本の価値優先順位の移行に寄与したのである。

3.日本のポスト・マテリアリズム

■衣食足りて礼節を知る
・     価値優先順位の移行は、先進工業諸国に共通して見られる現象、「豊かな社会」における普遍的現象である。

■大学紛争と全共闘世代
・    60年代安保闘争=社会主義革命を明確に志向する闘争
・    70年前後の大学紛争=大学教育、学術研究、知識社会のあり方など、行政、経済、政治の産業優先主義に反抗
・     後者の思想はポスト・マテリアリズムと表現でき、この頃を境に、若者の価値優先順位が「お金を一番と考えない」傾向が顕在化してきた。しかし、80年代のバブル期に「ぜいたくは格好良い」と、日本人のライフスタイルの美意識も含め成り代わった。=マテリアリズムへ逆転
・     バブル崩壊、京都会議から、逆転の逆転。しかし、90年代における若者の金への執着は特異な現象である。
・     これを、バブル経済がはぐくんだネオ・マテリアリズムといえよう。この国で尊敬の的とされた、勤勉、努力、誠実、協同、責任感などの勤労倫理は、古臭いものとされ、ギャンブラー的資質が尊ばれるようになった。この80年代の倫理的空白現象が、大学生の知的劣化と90年代の日本経済の低迷をもたらしている。

■欧米と日本の「豊かさ」モデルの差異
・     戦後、絶対的不足の中で、人々が何よりもモノを優先する(マテリアリズムを志向する)のは当然のことであった。しかし、後につけられた「経済大国」の異名は、誉め言葉ではなく、「経済は一流だが、他は「大国」に値しない」と認識すべきである。
・    1995年、フランス社会学者ジャン・ボードリヤール。「日本という国が豊かなのは、日本人が貧しいからだ。」
・     彼の指摘のように、バブル期に日本人がネオ・マテリアリズムに走ったのは、「本当の豊かさ」を日本人が享受しておらず、いたずらに高価な商品を消費するという「まやかしの豊かさ」を人々は追い求めたのかもしれない。マネーゲームという虚しい戯れに、うつつを抜かしたのかもしれない。
・     彼が指摘するように、欧米の理想主義を逆転させた「国が豊かになってはじめて、一人一人の個人が豊かになる」という、日本人の「豊かさ」モデルは偽であり、欧米モデルの「国が豊かであるためには、一人一人の個人が豊かでなければならない」が真であるならば、日本人は、マテリアリズムの呪縛から開放されることはできないという結論に至る。日本人が「本当の豊かさ」を手に入れるためには、欧米モデルへ転換することが必要なのである。

読書会メモ

 


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