第54回   社会的共通資本宇沢 弘文 著岩波新書(2000)  戻る

 01年5月22日(火) 18:00〜 (谷先生、岩本、山口、笹野、朝廣)

第三章 都市を考える

第四章 学校教育を考える


レジメ Asahiro


第4章    学校教育を考える

教育とは
・人間が人間として生きているということを最も鮮明にあらわすものである。一人一人の人間にとっても、各人の置かれた先天的、歴史的、社会的条件の枠組みを超えて、知的、精神的、芸術的営みを始めとして、あらゆる人間的活動について、進歩と発展を可能にしてきたのが教育の役割である。
・ 学校教育は、上記の教育理念を実現する最も効果的な手段であり、社会的にも小中は子供の人格的発達を促し、一方、大学ではより深く高い技術を見に付けて、職業的・専門的人間として生きていくことを可能にする。どちらも、国、地域にとって重要な社会的共通資本である。

第1節 社会的共通資本としての教育
・ 教育は子供達の資質を生かし、能力を発展させるのを助けるものである。しかし、この時に、ある特定の国家的、宗教的、人権的、階級的、ないしは経済的イデオロギーに基づいて行われてはならない。
・ 成長を助けるに当り留意しなければならないことは、子供の先天的・後天的資質、能力は極めて多様で、個性的であり、抱負や夢も、また多様である。したがって、この能力を単元的な尺度で測ったり、順位付けを行ってはいけない。
・ 学校教育制度は、子供の能力を伸ばし、人格形成を促すために、できるだけ広く、多様な社会的、経済的、文化的背景をもった子供が一緒に学び、遊ぶことができるよう作られている。

インネイトな知識と能力
・ インネイト(innate):生得的、先天的、本有的 ← ノーム・チョムスキー(米)
・ 子供の言葉と数学の理解力は、千差万別に生まれながらに持っている。しかし、学校教育における、一つの教室で同時に教える体制は、留意されなければならない。
・ 数学は、数、空間、時間を論理的に考察するものである。平面幾何を教える際には、距離や運動の概念が含まれるが、難しいことに触れない配慮が必要である。
・ 感性、知性、そして身体に適度な刺激を与え、発達を促すのである。残念ながら、日本の学校教育制度はこの点に関してデリカシーがなく、子供の心を傷つけ、文化的・社会的に殺伐とした環境を提供している。

第2節 デューイとリベラル派の教育理論
・ 「民主主義と教育」ジョン・デューイ → 社会的統合、平等、人格的発達の機能
・ 社会的統合:「生まれついた社会的集団の枠から逃れて、もっと広い環境に積極的に触れる機会を与えるように配慮すること」
・ 平等:社会的・経済的体制が必然的に生み出す不平等を効果的に是正する機能
・ 人格的発達:個人の精神的・道徳的な発達を促す役割

学校教育と社会体制
・ 20世紀前半において、デューイは、資本主義社会における職業的ヒエラルキーと、学校教育を通じて得られた人格的発達とが調和的な関係を持つと考えた。また、リベラルな学校教育制度の考え方として、僻地の子も、恵まれない子も、社会が提供できる最善の学校教育を受けることができる平等主義の立場を取った。これが、人種、階級、男女の差別を相殺すべきという理念である。
・ しかし、ベトナム戦争を契機として起こった、アメリカ社会の倫理的崩壊、社会的混乱は、この平等主義制度により、現実の非人間的、収奪的状況の中で繰り広げられる社会的矛盾、経済的不平等、そして文化的俗悪さをそのまま反映し、拡大する社会的装置として働いてしまった。

ボウルズ=ギンタスの対応原理(→リベラル派の教育理論の挫折を証明)
・ 1960年代、専門技術主義=能力主義の考え方(Technocratic=Meritocratic School)
・ これは、学校教育を通じて発達した能力が、卒業してから資本主義社会のもとで、雇用、報酬、権力配分の制度に適切に組み込まれているかという考え方。
・ 資本主義制度が、所得、権力、地位の分配の不平等をもたらし、社会における貧困などの問題を解決するには、学校教育機会の平等化が必要であると考えたのである。
・ 「アメリカ資本主義と学校教育」サミュエル・ボウルズ、ハーバード・ギンダス→学校教育と経済的成功との相関関係は、認知的知能到達度とは直接関係無く、大きく寄与するのは、学校教育の果たす統合機能の役割である。そして、経済的地位は平均して、親から子供に受け継がれる傾向をもつ。
・ アメリカの場合、学校教育は平等化の機能を果たすことができなかった。
・ 彼の主張は、法人資本主義という経済的、社会的体制のもとでは、学校教育の機能が整合的なかたちで働くことができないことである。なぜなら、社会的生産関係はヒエラルキー的分業にしたがって、上からの権限と管理の体系によって規定されているからである。
・ 本来、民主主義の条件では、人々が連帯して、相互に意思疎通ができ、各人が内発的な関心と自発的な意向に基づいて行動できるという性向を持つことが必要とされているが、法人企業に就職する学校教育を受けた青少年は、抑圧的で、非民主主義的なヒエラルキー的分業環境の中で働くことになるのである。その中で、内発的動機にもとづき行動することは、職を失うことを意味する。
・ さらに、彼の主張するところは「(学校)教育制度は、経済の社会的関係との対応を通じて、経済的不平等を再生産し、人格的発達を歪めるという役割を果たしている。」アメリカ資本主義体制という抑圧的な政治、経済、社会制度の基本的矛盾を無視し、教育制度だけを改革しても、問題の解決にはならない。しかし、教育機会均等化の波は、真の意味で、人格的発達を助け、人間開放の可能性を大きく開くものであると言う事を、否定するものではない。

第3節 ヴェブレンの大学論
・ 「アメリカにおける高等教育」, 1916年, ソースティン・ヴェブレン
・ 文明社会はいずれも、「真理」としての知識を蓄積しているかで社会を特徴付けられる。この内容に付いてはそれぞれで異なる形態を持つが、知識の維持および蓄積が、科学者、神官、医者などの専門家の集団により恒久的に行われる点は共通している。「真理」それ自体に固有の価値を持ち、社会の中核として象徴され、専門家組織は聖なるものとされてきた。
・ 専門家は絶えず真理としての知識を追求し、その蓄積と維持に全生涯を捧げることを全般的な目的とする。近代文明社会、特に西欧諸国の大学はこの流れに位置付けられる。
・ この特質は、二つの側面を持ち、ヴェブレンは下記のようにあらわしている。
@ Idle Curiosity:「自由な知識欲」知識そのものを求める
A Instinct of Workmanship:「職人気質」ものをつくる専門家の品質を求める性向
・ 大学は、この二つの本能的性向にもとづき、文明社会の中枢的地位を占める。ここで、もっとも重要な役割を果たすのは「技術」である。=真理の知識の蓄積(大学)→産業技術の適用(社会)
・ 法人資本主義体制のもとでは、職人は矛盾と緊張関係の中に立たされ、大学も利益追求という至上目的と支配下におかれる危険性と常に隣り合わせている。
・ この高等教育は、下記の二つの行為から構成されている。
@ 学問の研究、科学の探求 ← 第一義的な意味
A 学生の教育 ← 副次的ではあるが、研究の質と成果に対して不可欠
・ 学問研究は,自由な精神にもとづいて、科学技術的に最新の知識を用いて行われるような環境のもとではじめて実現可能になる。本来、規律規則の類は存在する余地は無いはずである
・ アメリカの諸大学では、市場的基準が大学に導入され、利潤最大化の観点で外部評価される。彼は聖なる大学組織が、俗世界に管理されることを嘆いた。

大学の自由
・ 大学の自由(Academic Freedom):財政的に依存しながら、国の圧力に対して自由を確保
・ 科学研究の規模強大化が進み、外部の資金調達に頼らざるを得ない状況を憂慮。
・ イギリスの大学制度では、国と大学の間に、ユニバーシティ・グランド・コミッティーを設置し、大学の役割を主張すると共に予算を大学に配分し、国の意向を大学に伝えたり、予算使途に口を挟んだりすることはしなかった。カレッジの自由な活動が、名門ケンブリッジを支えていた。
・ しかし、1968年以降、国の監督や、予算の縮減が大学大衆化の中で進められ、自由闊達な雰囲気の失われる大学が少なくなかった。
・ 日本の大学でも進む大衆化は、悪しき平等主義・効率主義の支配の中で、最高の役割を果たしてきた大学の相対的衰退を引き起こした。大学の平準化は、一つ一つの大学の威信、個性を低くする。大学人は一致して、明確な目的意思を持って研究・教育に全力投球しなければならない。


読書会メモ

 


asahiro@kyushu-id.ac.jp