はしがき 序章 ゆたかな社会とは
第一章 社会的共通資本の考え方
第二章 農業と農村
レジメ Asahiro
はしがき
新しい21世紀の展望を開く考え方、「制度主義」
制度主義の目的は、資本主義と社会主義を超えて、すべての人々の人間的尊厳が守られ、魂の自立が保たれ、市民的権利が最大限に享受できるような経済体制を実現する。(ソースティンヴェブレン、十九世紀末に提唱)
社会的共通資本は、この制度主義の考え方を具体的なかたちで表現したものである。一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、優れた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する。そして、次の三つに分けて考えることができる。
「自然環境」 大気,森林、河川、水、土壌
「社会的インフラストラクチャー」
道路、交通機関、上下水道、電力ガス
「制度資本」 教育、医療、司法,金融制度
社会的共通資本が具体的にどのような構成要素からなり、どのようにして管理、運営されているか、どのような基準で利用され、サービスが分配されているかにより、一つの国ないし特定の地域の社会的、経済的構造が特徴づけられる。
本書では、経済学の歴史の中での社会的共通資本の位置づけや、上記の構成要素の果たしてきた社会的、経済的な役割を考えると共に、それぞれの資本の目的と持続的な経済発展が可能となるには、どのような制度的前提条件が満たされなければならないかを考える。
序章 ゆたかな社会とは
豊かな社会とは何か?
:全ての人々が、その先天的、後天的資質と能力とを十分に生かし、それぞれの持っている夢とアスピレーション(aspiration:熱望、抱負)が最大限に実現できるような仕事に携わり、その私的、社会的貢献にふさわしい所得を得て、幸福で、安定的な家庭を営み、できるだけ多様な社会的接触を持ち、文化的水準の高い一生を送ることができるような社会である。これはまた、人間的尊厳と魂の自立が守られ、市民の基本的権利が最大限に確保できるという、本来的な意味でリベラリズムの理想が実現される社会である。このような社会は、下記の基礎的諸条件を満たしていなければならない。
1)美しい、豊かな自然環境が安定的、持続的に維持されている。
2)快適で、清潔な生活を営むことができるような住居と生活的、文化的環境が用意されている。
3)全ての子供達が、それぞれの持っている多様な資質と能力を伸ばし、調和のとれた社会的人間として成長し得る学校教育制度が用意されている。
4)疾病、障害にさいして、そのときどきにおける最高水準の医療サービスを受けることができる。
5)さまざまな希少資源が、以上の目的を達成するためにもっとも効率的、かつ衡平に配分されるような経済的、社会的制度が整備されている。
考え方
私的管理が認められる資本であっても、社会全体の共通財産として、自然的、歴史的、文化的、社会的、経済的、技術的諸要因に依存して、政治的なプロセスを経て決められる。
これは、分権的市場経済制度が円滑に機能し、実質的所得分配が安定的となるような制度的諸条件と言える。
ソースティンヴェブレンの思想的根拠は、アメリカの哲学者、ジョンデューイのリベラリズムの思想にある。
∴資本は決して国家の統治機構の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない。資本の各部門は、職業的専門家により、専門的知見に基づき、職業的規範に従って管理維持されなければならない。
日本の世紀末
日本の世紀末的混乱と混迷を象徴する学校教育の分野。陰惨ないじめ、犯罪、不登校
など
これらの表層的な病理学的症候の深層を眺めるとき、非人間的倫理的な受験地獄を生み出した現行の大学入学試験制度の矛盾がある。この根本には、教育という資本を大切なものと考えず、市場的基準を無批判に適応し、競争原理を導入するなど、官僚的基準に従って教育を管理しようとした一部の政治家が生み出したと言っても過言ではない。(一事例として。他、地球環境問題:温暖化、自然環境問題:水の汚染や農林地の荒廃)
第一章 社会的共通資本の考え方
第一節 社会的共通資本とは何か
20世紀の世紀末:社会主義諸国の崩壊と、アメリカ資本主義の内部的矛盾の深刻化
→ 崩壊
支配的であった新古典派経済学、あるいはアメリカンケインジアンの理論的根拠が、思想的にも、学問的にも全く空虚なものであることが明らかになった。そして、既存の既成概念を越えて、新しい、リベラルな経済体制の理論的枠組みを模索する作業が始まろうとしていた。
しかし、70年代から80年代終わりにかけての米国を中心とする資本主義の歩みは、相反するものであった。レーガン政権による、極端に保守主義的な政策や制度改革は、所得分配の不平等化を促進した。この背後には、反ケインズ主義ともいうべき政治思想や経済哲学があり、サプライサイドの経済学、マネタリズム、合理的期待形成の経済学などが現れ、政権交代と共に消えた。
この後、ジョーンロビンソンのいう「経済学の第二の危機」が続いた。
このとき、新しい経済学のパラダイムに対し、ローマ法王、ヨハネパウロ二世の「新しいレールムノバルム」が影響を与えた。その中心テーマは「社会主義の弊害と資本主義の幻想」として問題提起された。
中央集権的な計画経済には技術的欠陥があり、他方、分権的市場経済における富の分配の不平等化は、政策や制度でコントーロールできず、「生産倫理」を無効にしつつある。利潤的動機が常に規制を超克する。
これらの設問に対して、制度主義の考え方が最も適切にその基本的性格を表している。私たちが求める経済制度は、一つの普遍的な、統一された原理から論理的に演繹されたものではなく、それぞれの地域の持つ倫理的、社会的、文化的、そして自然的な諸条件がお互いに交錯して作り出されるものだからである。したがって、制度主義の経済制度は、経済発展の段階に応じて、また社会意識の変革に対応して常に変化する。
これは、生産と労働の関係が倫理的、社会的、文化的条件を規定するというマルクス主義的な思考の枠組みを越えると同時に、倫理的、社会的、文化的、自然的諸条件から独立したものとして最適な経済制度を求めようとする新古典派経済学の立場を否定する。かつて、アダムスミスは「国富論」の中で、民主主義的なプロセスを通じて、経済的、政治的条件が展開される中から最適な経済制度が生み出されると主張しており、私達の考察はこの意に寄る。
一般的に、制度主義のでは、生産、流通、消費の過程で制約的となるような希少資源は次の二つに分類される。
社会的共通資本:社会全体にとって共通の資産として、社会的に管理運営される。
私的資本:私的な観点から管理運営される。
前者のサービスを分配する社会的基準は、単に経済的、技術的条件に基づくものではなく、すぐれて社会的、文化的な性格を持つ。これは基本的権利の充足という点で、どのような役割、機能を果たしているかに依存して決められるものである。
社会的共通資本は全体としてみるとき、広い意味での環境を意味する。各資本のネットワークの中で、各経済主体が自由に行動し、生産を営み、市場経済制度のパフォーマンスも各資本の編成のもとで機能しているかということに影響を受ける。
この管理運営は、政府の規定や市場的基準に従うものではなく、専門的知見や職業的規律に従って行われなければならない。この基本的重要性の所以は、これがフィデュシアリー(fiduciary:受託信託)の原則に基づいているからである。
社会的共通資本は、生み出されるサービスが市民の基本的権利の充足にさいして重要な役割を果たすものであって、社会にとって極めて「大切」なものである。この管理を委ねられるとき、それは、単なる委託行為を越えて、フィデュシアリーな性格をもつ。管理を委ねられた機構は、あくまで独立で、自立的な立場に立って、専門的知見にもとづき、職業的規律に従って行動し、市民に対して直接的に管理責任を負うものでなければならない。
政府の経済的機能は、管理機構の活動監理と、財政的バランスの保持にある。組織運営への経済支出や、建設による政府の固定資本形成など、資本の建設、運営、維持は、広い意味での公共部門の果たしている機能を経済学的に捉えたものであるといってよい。
第二節 市民的権利と経済学の考え方
資本主義の制度的特徴は市場機構にあり、全ての財サービスの生産及び消費は私利的利益の追求を目的として行われ、市場を通じて交換される。この機能の抱える問題点は市場経済制度の働きと密接な関連を持つ。
純粋な意味でのこの制度の前提は、生産消費に関わる全てのものが、利益追求の対象となる私有物であり、市場機構の特徴は、市場均衡が各経済主体の合理的行動と、価格機構のメカニズムを通じて実現されることである。
所得の分配も、この機構により決定され、希少性が高く、市場価格が高いとき大きくなり、一方、市場価格がゼロの時、所得はなくなる。失業者の所得がゼロとなるのは、この制度では正常な状態であり、失業者への所得補償は資源配分の効率性を損なう事になって望ましくないとするのが、新古典派理論の主張である。
この制度では、所得分配に関する公正性を期待することはできず、特に私有財産の相続を前提とする資本主義制度のもとでは、将来の世代にわたり、不平等が拡大する傾向にある。この弊害には、古くから政治的に累進所得税や、相続税制度で措置が取られてきたが、解決し得ないことが明らかになってきた。
これらの新古典派理論は、1870年代にジェヴォンズ、メンガー、ワルラス等により形成され、資源配分の効率性のみ焦点を当てて作り出された。この基礎には、市民革命を経て徐々に形成されてきた市民的自由思想がある。
純粋な意味における市場経済制度という虚構を構築するために、次の三つの理論的前提を付与した。
第一:希少資源の私有制。
第二:全ての生産要素がマリアブル(malleable:可塑的)ないしは非摩擦的であるという仮定。
第三:暗黙裡に、資源配分の効率性のみを問題として、所得分配の公正性については問わない。
これらの想定された虚構は、十九世紀の終わりごろから二十世紀にかけて発生した経済的不況により深刻化した。
他方、市民の基本的権利という観点からも、居住職業選択の自由、思想信仰の自由という自由権の思想から更に進んで、生存権の考え方が支配的な政治思想になっていった。これは次の二つの考え方に分けられる。
@:社会的に妥当と考えられる対価を受けて働く権利。
A:最低限の生存のために必要な所得を受ける基本的権利。
この思想は、政府に完全雇用や所得の再分配などの政策を要請するようになった。
→ 1930年代の大恐慌
新しいパラダイム。ケインズ「雇用利子および貨幣の一般理論」、1936年に刊行
一般理論は、資本主義的な経済制度の中における非自発的失業の一般的な発生を理論的に証明。また、完全雇用、物価安定という政策目標の達成への、財政、金融政策を論じた。→基本は有効需要の操作
彼はマリアブルの考え方に対し、生産過程の固定性を想定し、生産組織は時間を通じて、一つのアイデンティティを保つものとした。
→
固定投資、固定的生産要素の蓄積。また、総投資額が完全雇用に対応する有効需要を生み出す水準に等しいという保証はないことを結論づける。さらに、金融資産市場の不安定性に関するマクロ
経済的インプリケーションを明らかにした。負債の実質的価値と、投機的金融資産の非同一性=バブル
ただし、このケインズ経済学は、希少資源の私有制と、所得分配の公正性に全く触れることなく、マクロ経済学的枠組みを作り上げた。
この後、世界の資本主義諸国は、安定的な経済成長を実現した。その間、生存権の考え方はいっそう拡大され、生活権の政治思想が支配的となった。これは、各市民は、健康にして文化的な最低限の生活を営むことを市民の基本的権利として持つというものである。
しかし、これに対する政策に対し、ケインズ経済学は崩壊しており、1970年代のジョーンロビンソンの「経済学の第二の危機」は、これに変わる新しいパラダイムが以前、形成されていないことを指摘する。
社会的共通資本の考え方は、この歴史の捻転をなんとか是正し、より人間的な、より住みやすい社会を作るためにどうしたらよいか、という問題を経済学の原点に返って考えようという意図のもとに作り出されたものである。
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