第64回 ディープ・エコロジーとは何か −エコロジー・共同体・ライフスタイルー
アルネ・ネス著、斉藤直輔・開龍美訳、
文化書房博文社(1997)  戻る

 

 02年4月9日(火) 18:00〜 (谷先生、笹野、平松、朝廣)

エコソフィ T −直感から体系へー (英訳者による序論)

1 直感からの開始
2 ネスの哲学における解釈と厳密化
3 英訳における用語の説明
4 ディープ・エコロジーの位置づけ


レジメ Asahiro


エコソフィT −直感から体系へー(英訳者による序論)
この世界の危機感 → 私達の直感的で自発的な経験(直感・情報)が教えてくれる。
この危機に私達は応答できるの?、関係修復は絶望的か? ← 直感の一つの種類にすぎない。
一方で、喜びの直感:例)「緑をじっと見つめて送ることのできる生涯」アルネ・ネス

アルネ・ネス
1969年:意味論・科学哲学などの研究生活後、哲学教授職を退職

この時代ネスは、哲学が混沌とした状況から脱出する道を描き示すのに役に立つと信じていた。
彼の哲学とは、知恵を基礎にした行動に結びついた「知恵の愛求」であった。

情報が悲観論に結びつくこの時代の問題は、如何にして、人々がすぐにはじめられるかである。
彼は、喜びを見出す可能性を示すため、人間と自然と不可分なものとして位置付ける存在論の基礎を提示。
(← この存在論が十分に理解されれば、人が自然を傷つけることはできず、倫理と行動が一致する。)

1 直感からの開始
「それは第一に諸々の直感である」 = 自然の中での長期にわたる生活で培われた直感
幼児期:自己のアイデンティティが直接的世界に結びついていると感ずる、心安らかな時間
ネスの意識が拡大し、自然のそばで生活している人々との絆を含むようになったのは10代の頃

自然に対し謙虚であることが、なぜ、人間にとって中心的なのであろうか?
→ 直接的自己から広大な自然世界へと至る哲学を、ネスは提示している。
これは、読者が自然の絶対的価値に対して、自分の取り組み方に共鳴する基本的・一般的直感を養成し、明確に表現する方法を見出せるよう力づけることが意図されている。

エコフィロソフィ(ecophilosophy):この問題を認識し、哲学的方法による研究
→ 全体を捉える見方(a total view)を仕上げる課程を通じて、自然における人類の位置を解明するために、複合性(complexity)・多様性(diversity)・共生(symbiosis)という生態学の基本概念を利用するもの。
→ ディープ・エコロジーの哲学の展開。ディープ・エコロジー運動の支援。

本書の第1章では、運動支持者を繋げているものの分類 = ディープ・エコロジーの綱領
→ エコロジーに関わる諸問題は、「応急処置的」な技術的解決策では解決できない。
→ 自分以外のものの利益という視点から、特定の問題を見るようにひたすら努めること。
→ 私達の文明の核心である、実在についての誤った観念を追及し、文明を全面的に批判する。

ただし、問題の単純化を避け、社会を哲学的に再検討するには統一性(unity)と多様性(diversity)という二つの基本的な生態学的原理を導入する必要がある。また、ある種の合意は、人々が集団の変革に向けて行動しようとするならば不可欠であるが、しかし、合意に至る展望と手段における相違は、一致の中に見失われるべきではない。(多様な世界観から、環境主義の規範的価値観を導き出し、普遍性を得るべし)

ネスの研究では、推論の過程が哲学的な仕方ではっきり表現された場合に、エコソフィ(ecosophy)と呼ぶ。

本書の大部分は、綱領に至るネス自身の推論の体系、つまりエコソフィTの提示に割かれている。
「T」という名称は、彼の山小屋トヴァルガステインを表しているといわれるが、それは個人的性質で、私達それぞれが自分自身で展開できるエコソフィが他にもたくさん存在する可能性を示唆している。
大切なのは、読者自身の感じ方や考え方を生かして、その体系の結論に到達できるということ。

2 ネスの哲学における解釈と厳密性
エコソフィとは、個人的な体系、個人的な哲学である。
ネスは、数多くの異なった解釈が存在し、両立できるものであると認識してもらいたいと思っている。

語の障害:特定の語に対する人々の連想は、話し手の意図と大きく相違して受け取られることがあり、このことが、他人の思想が本当に人々に理解される可能性を脅かす真の障害である。
→ 曖昧で大まかな用語(ネスはT0レベルと呼ぶ)の使用で、コミュニケーションが可能になる。
例)(T0)「私は20世紀に生まれた」 → (T1)「私はキリストの死後20世紀に生まれた」 
厳密化により、情報を明確にし、起こり得る誤解を明らかにする。
ただし、連想により、その後の意味範囲を制限するべきではない。
本書で学ぶのは、この実現を、限られた自我(egos)に狭めるのではなく、最大限の「自己(self)」、自己の理解に努めなければならないことである。

コミュニケーションの第2のエコロジー的な概念「コミュニケーションは孤立しては行われない」
→ 私達が発信した考えは、他者によって把握された場合にのみ、集団的なものとして存在し重みを持つ。
= ネスの「関係的思考(relational thinking)」の本質。
→ すなわち、隔絶して存在するものは何もなく、人も、生物種も、環境問題も同様で、言葉は、その諸々の意味、そして矛盾することのない諸解釈を通じて、はじめて生命を得る。これが、エコソフィ的存在論を理解することによる実際的効果である。

ある概念の意味は、諸概念により理解される意味の幅によって、輪郭がはっきりする。
この過程の中で、理解される諸関係のネットワーク:ゲシュタルト(gestalt)
エコソフィTのゲシュタルトは、全体として読者が手っ取り早く理解できるものではない。
・ 人として私達は、全体を捉える見方に基づいてあえて行動し、決断せざるを得ない。しかし、この見方全体を言葉で明確に表現することは不可能である。
・ 体系は直接的なものからはじまる。しかし、どのような体系が用いられようとも、独自の経験の唯一性をとらえることもできなければ、とってかわることもできない社会的文脈を伴っている。

3 英訳における用語の解説

エコソフィTにおいて用いられている重要な用語の紹介。英語に訳された名詞の多く、実現(realization)、一体化(identification)、厳密化(precisation)は、ノルウェー語で、より能動的意味を含み、到達されるべき状態ではなく、過程なのである。また、環境(environment)、固有の価値(intrinsic value)に対応するノルウェー語は、もっと身近な語である。

(a) 風土(milieu) ― 環境(environment)
この二つの語はノルウェー語のmilj?という一つの語を相互に置き換えて訳されている。これは、環境(environment)よりも、もっと身近な意味を含むからである。環境の破壊は、物理的自然だけでなく、私達がその内部で生活している全てのもの、私達が内部で自らのアイデンティティを確認できるゲシュタルト全てである。

これらの概念の内部には、自然と生命という関連したゲシュタルトがり、自然という語には、意味が非常に豊かであり、これらの連想を一つたりとも割愛してはならない。手つかずの原生自然に関する科学的な解釈では、倫理的カテゴリーに入る、複合性、多様性、共生などが、推論の基礎となっている。
ただし、ネスは、「生命崇拝」の危険性を感じさせる「生命」の規範を支持してはいない。それよりも、人がエコソフィを通じて自ら下す決断は、より力動的で、指向的な諸規範の上に築かれる。

私達が倫理的原理から決断へと至るには、ゲシュタルト変換(gestalt switch)が行われている。
例)「あっ、なるほど」という、洞察の瞬間
本書の目的は、エコロジー的なゲシュタルト変換の瞬間を引き起こそうと努力を重ねることである。

(b) 自己実現 (Self-realisation)
上記の転換点における共通点は、動機の全てが個人の、自然との相互関係性の諸原理にある。
(1) 自己実現は自己中心的ではない。(大きな自己と、残される個々の多様性)
(2) 人が自己自身を拡大し、他の人や生物を包み込むならば、利他主義など必要なくなる。
(3) 自己実現は過程であり、自らの人生の生き方にほかならない。

(c) 導出 (derivation)
論理的導出に向けた厳密化。対立することなく流れるものを探し、有意味な全体を発見する。

(d) 一体化 (identification)
生態系と他の生物種の生存に不可欠な必要を、私達自身の必要と見なさなくてはならない。

(e) 固有の価値 (intrinsic value)
価値は、私達の評価から独立している。自然が尊重されるべきものであるのは、私達の近くに存在しているから。

(f) 深さ (depth)
問題や状況に深く入りこみ、その構造と関係を明白なものとする。
実際的な世界では、一連の短期的な制約された解決策に過ぎないのかもしれない。しかし、私達の目下の確信と遠方の目標とを結ぶものを見失ってはならない。

エコソフィを適用すると、日々の大量の悲観的情報にもかかわらず、楽観論を主張できると期待される。それは、哲学の根源にある驚きによる喜びが、失われることはないからである。それが、問題そのものに向けられ、本質から問題を洞察するはずである。

物事を考え抜く能力こそ、私達の「絶望的時代」において哲学者が貢献できるものである。

活動する人間が、盲目的に非常に多くのことを事実として思いこんだり、統合性に対する気まぐれを止めるように努力すれば、私達は浅い一致ではなく、むしろ同じ核心について数多くの解釈を委ねられるはずである。エコソフィTの体系に向かい合ったときは、変革のためにじっくり時間をかけるべきである。


 

asahiro@kyushu-id.ac.jp