第66回 ディープ・エコロジーとは何か −エコロジー・共同体・ライフスタイルー
アルネ・ネス著、斉藤直輔・開龍美訳、
文化書房博文社(1997)  戻る

 

 02年5月8日(火) 18:00〜 (谷先生、山口、笹野、平松、朝廣)

第二章 エコロジーからエコソフィヘ

4 第一性質・第二性質・第三性質 −これらは自然のなかにあるのか
5 プロタゴラス的な「双方肯定」理論
6 ゲシュタルトとゲシュタルト思考
7 感情・価値・実在
8 感情から評価へ


レジュメ Asahiro


4 第一性質・第二性質・第三性質 −これらは自然のなかにあるのかー
・ 科学者の扱う性質と、人間が直接経験して感じる性質の違い。
・ 17世紀の間に科学者の間で認められてきた性質とは
(1) 第一性質は幾何学的・力学的性質である。
→ 主観から独立した客観的なもの
(2) 第二性質は色、温かさ、味などである。
→ 感覚器官に依存する非客観的なもの(意識の中にある)
(3) 第三性質は知覚的に複合した性質や、悲しい、美しいといった性質。
← この第三には、複合ゲシュタルトの性格がある。
・ 自然環境に対する意見は一般に、客観的な状況に関する記述(敵意)と、多少とも主観的な評価を含む記述(好意)であり、第三の性質は、自然や環境の性質とは認められない。

5 プロタゴラス的な双方肯定理論
(a) 関係の場
・ 温かいポケットと、寒い外気にさらした手を水につければ、体感温度は違う。
→ 第一性質では、水は、温かくも冷たくもない。
→ プロタゴラスは「双方を肯定する」、従って、水は温かく、かつ冷たい。
→ 10人が、同じ答えであれば、知覚には十分な根拠があり、社会的に正しい。
・ エコソフィ的な観点からすると、
(1) 第二性質は物体または自然自体の真正な性質だと理解できる。
(2) 人が温かいとか受け取る事実は、本来そのようなものである。
(3) 冷たいと温かいの二つの言明は矛盾しない。
(4) プロタゴラスの「社会的に正しい答えは」平均的応答で、哲学的意味は乏しい。
・ 筆者は、この枠組みを維持した上で、物体のかわりに関係の場について語りたい。
→ 物を規定するいくつかの関係が、同じ接合点に概念上収斂していくという意味
→ 「物AはBである」 → 「物AはCに関してBである」「関係的な物ACは性質Bを持つ」
従って、関係主義(relationalism)は、必ずしも感覚や知覚や精神や意識や主観をさすとは限らない。
再構築した双方肯定理論(both-and theory)は、真正な存在論的地位をもつ感覚的な実在性を承認する。
・ 関係主義は、生物や人間はそれらの風土や環境から切り離しができず、生物は風土を前提としていると説明する。
(b) 具体的内容の世界
・ 双方肯定理論の結論は「完全に分離しうる客体は無い。ゆえに分離可能な自我や環境や生物は無い」と定式化される。関係の場は、具体的内容と抽象的な構造との双方が実際にあるがままの実在性を作り上げている。
・ また、投影理論を排除し、感覚的性質を投影するような過程は存在しない。

ゲシュタルトとゲシュタルト思考
・ ゲシュタルトの複合的な世界(低次のゲシュタルト、高次のゲシュタルト)を階層で捉えている。
・ 全体と部分は内的に関係付けられている。
・ ゲシュタルトは、「私」と「私でないもの」を共に結びつけて、一つの全体にする。喜びは私の喜びになるのではなく、喜ばしいものになり、互いに依存しあった、離れられない断片なのである。
・ 定量的な自然科学は、実在の様相に対してモデルを必要とするため、日々の生活で作られてゆくような自然についてのゲシュタルト概念の妨げになる。
・ 地理的帰属感の強い文化では、全てのものが、無意識のうちに、私たちのものの一部、ある種の強力なゲシュタルトになる。この地理的なかかわりは、非常に大切なものである。
・ しかし、美しい、良いなどの評価的な述語で故郷の風土を語ると、長い住人には、その風土のゲシュタルト時代が評価を含むので、こうした言葉は、わざとらしく聞こえる。その美しさは「内在」しているのであって、外面的なものとして見出されたり、話されたりするものではない。
・ ある場所から移転するのは、その人自信の多くの部分の喪失を意味する。新しいゲシュタルトが新しい場所で作られなければならないが、成長期の終わった後で、最も基本的なゲシュタルトと象徴をもう一度作ることはできない。
・ こうした象徴関係・ゲシュタルト関係が大切なのは、都市化などに伴う社会的犠牲に関わるからである。
・ 象徴や関係に対する配慮は、物質的成長を続ける政策よりも、エコロジーから信頼できる政策の開始段階、地域の共同体による審議などがふさわしい出発点になる。
・ 「自分のために懸命に働いた」人々が抱く、意味の喪失感の深まりは、部分的にはこういった象徴に無関心であったためである。一般的に成功した人々は、全てを手段と見る傾向がある。こうした場合の治療法は風土療法や自然療法であるが、本当の風土には、意味深く、善き生活のための未知の根源があると私は信じている。
・ 自然は、目的のための手段ではなく、私たちに無条件の関心を求めている自立したものという含みがある。
・ 「自然を眺めるだけ」というのは非常に奇妙な行動である。ある環境の体験とは、そこで何かをし、そこで生き、考え、行動して始めて実現する。「自然」の本当の概念と「環境・風土」の本当の概念は、私たちが参与する自然の中の相互作用に言及しなければ、エコソフィの流儀に従って描いたことにならない。スピノザは認識を理解ないし愛の認識行為と考えている。

7 感情・価値・実在
・ エコロジー運動の行動主義はしばしば非合理なものとして、現代の西洋社会の合理性に対する「単なる」感情的な反動として解釈されている。経験された実在性が、感情的なものと理性的なものを結びつけた分かち難いゲシュタルトにしていることが無視されている。
・ 自然に接したときの宗教的な謙虚さと、科学的な冷静さの一致。
・ 価値の思考を論じるとき、明確な認識機能を持つ価値の言明や規範の表明、その関係をはっきり知ること。
(価値の言明は肯定か否定の感情をこめてなされるもので、中立をもとめるのはおかしなことであろう。)
・ 感情の吐露は、価値体系への適切な手引きにはならず、規範や、価値の優先順位が大切である。
・ 議論の場で討論を深めるには、感情をはっきり示し、「問題点」明確にすべきである。環境主義者は価値と規範を明瞭に発言する訓練を受けるべきであり、反対者が無視できない、価値と規範の力強い明快な表現を定式化せよ。

8 感情から評価へ
・ 著作の目的は、哲学的・評価的前提とエコロジー問題の具体的局面を関係付けること。
・ 感情の形容詞は、ものそのものにもあてはめられるというのは正しいか?あるいは、単に感じる主観の状態を表しているだけだろうか?
・ 倫理から存在論へすすみ、そして倫理に戻るのが、環境主義の哲学では大切だと考える。存在論上の違いを明らかにすることは、様々な政策とその倫理的基礎を明確にする上で大きく役立つだろう。
・ 生態系の概念もディープ・エコロジー運動も、ある程度、抽象的構造に関係している。この考察は、いくら評価してもしすぎることは無いが、その機能は地図と同じように、内容を増やすのではなく、より鮮明にすることである。自然とは、その地図とを合わせたものではない。
・ 感情から評価へと移行するのは、感じることを私たちの基本的な動機として受け入れることで生まれる。そこで、どんな感情を、行動の正当化のために受け入れることができるのか、私たちの信条を行動に移すために、この信条を明確に表現し、説明する整然とした体系を探求しなければならない。

 

asahiro@kyushu-id.ac.jp