以下、レジメ
(皆川美音子)
第2章 戦後史における社会主義思想
■戦後日本における社会主義思想〜反戦、平和民主主義の確立、経済的搾取の克服
<進歩思想としての社会主義>
敗戦後日本→古い日本の社会構造を批判し新しい社会を形成しようとする時代
「進歩への憧れ」=社会主義への憧れ
(資本主義をも超えた矛盾無き社会の像、人間の自由と平等の実現を可能とする
思想としての社会主義)
GHQによる民主化「社会主義者たちの解放」「古い日本の権力と制度を改革」
「反戦平和」「貧しさの克服」が民主化と結び付き日本の社会主義思想の一代傾向を形成
→「民主化の徹底=社会主義社会の建設」
「アメリカ的な民主主義」の日本での定着
→経済主義的な大衆社会の形成を通じた、日本的特質を持った戦後型民主主義の実現
「アメリカ的な民主主義」:資本主義的な経済を基礎にして、個人個人は自分が成功者
になることを夢見て競争していく社会としての民主主義
問題点の内包:社会主義者の目指す平等な社会観に裏付けられた民主主義
資本主義のもとでの民主主義
この二つの民主主義の間には大きな隔たりがあったにもかかわらず、社会主義者たちは
民主主義と反民主主義しか無いかのような思想をつくり出してしまった。
戦後の技術者運動(進歩思想と連関)→技術者が先頭に立ち労働の近代化を図る:
工場の近代化など
(1960年代の技術革新と高度経済成長によって別の形で達成される)
■1960年代の社会主義思想
<経済的搾取の克服から疎外論へ>
1960年代の社会の変化---技術革新と高度経済成長
社会主義思想の二つの流れ
資本主義社会を人間性を喪失させる社会としてとらえた、ラディカルな資本主義全面
否定の思想
(→「怒れる若者の反乱」の思想・全共闘世代の出現)
ロシア的な革命を中進的なもの位置付け、民主的な改革の積み上げによって社会主義社会を形成するべき、とする構造改革の理論
→社会主義思想の中心にはならない。日本の社会主義者たちの「心情」の前に敗北
(日本において社会主義は人間の自由の追及や人間の解放を目指す思想としてロマンを伴い定着してきた。だからこそヨーロッパ的な政治と経済の改革プログラムとしての社会主義思想は力を得ることができなかった。)
社会主義思想の中心的課題:「貧しさの克服」「民主化」→「資本主義における人間性の喪失」
〇人間と労働の疎外
戦後の技術革新の達成は、自分たちのつくった新しい生産システム(近代的労働)に、働くものたちが縛られるという現象をうみだし(労働の疎外)、共同体の解体や核家族の形成など、個人を軸にした社会システムからは、人間性そのものまでが取り込まれてしまうような感覚(人間の疎外)をうみだした。
1960年代後半の中岡哲朗の提起
技術の発達は生産のシステム全体を開発、設計する人々、「そのシステムの中にこめられたすべてを自己の力とし能動的に活躍する機会を独占する」人々と、「自己の能力以下の単純な補助的労働を強いられ、人間的欲望を余暇時間に発散させる以外にない」大多数の人々を生みだしてしまう。技術の発達による大量生産、大量消費のシステムを「豊かな社会」とするならば、その「豊かな社会」は働きがいを失った労働、疎外された労働、貧しき質の労働に支えられて成立することになる。
「技術の発達が悪いのではなく資本主義が悪い」とし、社会主義社会の形成を望んできた社会主義者たちのそれまでの技術に体する楽観的な捉え方に対して、中岡は大量生産型の技術そのものが、必ず労働の疎外を生みだしてしまうのであり、この関係は社会主義になっても変わらないとした。
(→マルクスの迷い)
全共闘運動の出現
現実的な学生の要求(授業料値上げ反対など)が発端
→現代社会のシステムすべてを、自分も含めて壊し、何もかも新しく作り変えようとするラディカルな革命運動へと転化
大きな犠牲(朝鮮戦争特需、ベトナム戦争特需など)を伴って得た戦後の安定、その中でうまく生きようとし、
平準化していく自分→自己否定、自己解体
これら二つのことが関係して、社会主義思想者たちは「資本主義社会だけでなく、近代市民社会にも問題があるのではないか」というの考え方への転換を開始していく。近代社会の発展を肯定するマルクス的な社会主義思想も、近代主義的思想の一分枝なのではないかという議論が行われはじめる。
第3章 現代における人間の問題
■労働と人間の問題
「共同体は人間の自由と自立を妨げる古いもの(没個性的な集団社会)」という考えが1960年代になって、新たな説得力を持つようになる。サラリーマンが悩む企業と個人との関係が、共同体と個人の新しい関係に見えはじめ、そこからあらゆるものから自立した人間を理想視する精神風土が形成される。
個人の自立だけを探す社会→近代的大衆の形成「根無し草のような大衆」「浮草のような個人」
■経済に主導された大衆社会の形成と社会主義思想の衰退
<日本で生まれた経済主導の大衆社会>
大衆一人一人が経済の発展を念頭においた生活、就職との関係で教育を考え、企業との関係で労働を考え、大量生産、大量消費こそ現代的な暮らし方だという価値基準を受け入れ、経済活動の阻害要因を取り除く努力を怠らないような生き方(合理的に経済活動が展開していく社会)
この日本独自の社会は以下のものをもたらした。
・高度経済成長
・消費社会の形成
・社会主義の衰退
・技術と貨幣愛の社会
・人間と労働との関係を重視しない時代の到来=イデオロギーの終焉
(イデオロギーよりも現実の生活を重視する生活態度)
これらは日本人のみならず世界の行動基準さえも変えようとしている(価値基準の同質化)。
<影響を与えた思想>
・ケインズ理論(国の経済政策を通してその国の有効需要を管理し、経済の安定を目指した理論)
資本主義経済=有効な経済体系でありながら貨幣の役割の野放図な拡大により堕落する社会
日本はケインズ理論の後者の側面を軽視→技術と「貨幣愛」の社会の形成
・ラスキ(多元主義的で個人主義的、社会主義的な理想主義)
現状の「自由」が本物であるか疑う勇気によって「自由」は支えられる。
資本主義の国:精神が経済に蝕まれた社会、経済社会から振り落とされることにおびえる不自由
社会主義の国:「圧制によって進歩を達成しようとする」社会の問題
これらの「自由の敵」を解決する全世界を貫く改革の必要性
→「自由の第一条件は経済的発展である」
(しかし「経済主導の大衆社会」の進展による消費社会の形成は、後に「自由」を既得権として大衆が消費することで堕落させてしまう。)
・テーラーとフォード(現代の労働と暮らしの関係の基礎を作り出した実業家)
労働の単純化(自分の腕に体する誇りの放棄)によって進められた生産性の向上、それによって得る高賃金、高賃金が作り出す新しい生活=「労働はつまらないが、消費生活は豊かになる」
第4章 新しい思想を求めて
戦後思想:マルクス主義(社会主義)思想と近代主義思想との競合を根底に展開
1960年代以降:上記の2つの古典的理論では説明しきれない新たな問題の出現
(環境問題や人間・労働の疎外、存在の空白感、「貨幣愛」の社会・・・)
<1960年代以降に芽生えた新しい思想の探究>
・人間と等身大の理論を大事にしていこうとする思想的な作法の模索
・現代文明それ自体への疑い→それまで前提とされていたあらゆる「歴史的進歩」に対する疑問
「技術の進歩」「共同体の解体」「平等の思想」「西洋的なもの」「経済合理主義」
<新しい思想のはじまり>
1980年代〜
■環境問題の議論にみる新しい思想
1960年代以降の反公害運動:現代の技術文明はその活用の仕方に問題がある。
今日の自然保護運動:現代文明自体が人間らしく生きていくことの阻害要因である。
1.近代以降の技術の異常さ
技術の発達→環境を破壊するいびつな技術
2.自然によって明示される、経済活動の飽和点
3.新しい意識の出現
→自然と調和する生活の確立のためなら経済活動の低下さえも容認する意識
4.平等主義に反する自然
平等の理念:「人間が自然の制約から自由になり、平等にこの経済を享受しうることの提起」
不平等な自然:ex)特定の地域の人々に訪れる水害
→不平等をなくすための治水工事の推進=環境破壊
→環境破壊の防止=水害の不平等を甘受する社会(平等の理念に反する)
■個人と共同体との関係性の見直し
「共同体を解体して、近代的な市民社会をつくることに歴史の進歩をみる」←疑問
個人の自立、共同体の解体によって生まれた「根無し草の個人」「寂しい個人」
社会システムの前に立たされ、直接的な関係性を失った「裸の個人」=「不安な個人」
農村の近代化がもたらした村の過疎化と自然の荒廃
(かつての共同体は村社会を維持するたくみな仕組を持っていた。)
→人間はある種の共同体に支えられてこそ”輝ける個人”でありえたのではないか?
「関係性の回復」=関係のなかの個人を創造しようとする発想
第一に自然と人間、第二に人間と人間の確かな関係を求めていく
■技能の復権
「労働は軽く、利益は多く」生産性の向上:技術改革、技能的な労働の機械と生産工
程への置き換え→労働の空洞化、忙しくて疲れるだけの労働
アメリカ:労働を貨幣獲得のための手段として割り切り、豊かな消費生活を享受
日本:納得できる仕事を探し、技能的な労働の復権へと向かう(東洋的発想)
■東洋的発想
技能と技術の関係にみる東洋的発想
「技術」秩序だった生産工程をつくりだす(秩序的なもの)→西欧的発想
”個人がなければ関係の世界もない”
「技能」腕としてその人の中に蓄積される(非秩序的なもの)→東洋的発想
技能的な労働の復権は、人と人との新しい関係を作り出そうとする動きと重なって模索
=”関係しあう世界がなければ個人もない”
明治以降の近代化のなかで、西欧的なものを「進歩」東洋的なものを「遅れ」として捉えた日本人は「技能の技術化」を進歩として受け入れたが、今日みられる技能的な労働の復権は東洋的な発想が復活しつつある状況を表現している(それに伴う思想の無言語化)。
■商品経済からの自由
「人間性と人間的文化の否定者としての商品経済」(渡植彦太郎)
近代的商品経済の社会:商品の世界が本物の人間の社会を壊していく社会
「商品の社会」=商品上の価値(交換価値)をつくりそれを消費する社会
「本物の人間の社会」=有用な労働によって使用価値をつくりそれを使って暮らす世界
本物の世界を回復させようとする 「本物」を商品化することによって、
様々な試み(商品経済からの一定の ========= 商品経済のなかに取り込もうとする企業
自由を獲得していこうとする動き) |
|(二つの動きのつっぱりあい)
↓
新しい「論争」の形態の創出(言葉ではなく行動を通じての論争)
<社会主義の終焉と未来>
社会主義の目標としていた二つの克服
1.お金が「神」の地位を獲得してしまった資本主義社会の解体
2.労働の商品化から、人間そのものも商品のように扱う資本主義社会の解体
この二つの資本主義の本質(経済、紙幣「世俗的な神」)の前に社会主義が敗北するかたちで社会主義の弱さを露呈した社会主義の資本主義との共通点
1.生産力の発展が人間を幸せにすると考える点
2.1の目標の実現のための手段に人間が使われる点
3.科学的、合理的な嗜好を正しい考え方とする点
資本主義社会の問題を克服しようとする新たな思想→社会主義思想への批判を必要とする
■思想の衰退
「創造者」から「消費者」へ
1970年代の高度化していく社会
歴史や思想を考え、未来を創造していく意志をもち続けることへの疲れ(社会主義思想の衰退)
→消費し続けることによて、自分自身を満足させ確認していく孤独な「消費者」の発生
「使い捨て社会」:物だけではなく、思想も権利をも消費する社会
判断の停止
「経済の発達は社会の矛盾を取り除く」→強者の論理
経済の発達=弱い経済を駆逐していく過程、そこから取り残される産業、地域の増大
今日の我々の存在がすでに不条理な構造、大きな犠牲のうえに成り立っていることを「理解」しながら「判断」しない、という姿勢をとる。判断は困難を招くため、判断しないことが身を守るための方法となる(天皇制を存続させているのと同じ理論構造)。→思想的衰退
新しい思想は近代史の異常さを批判し、人間と人間の、自然と人間との新しい関係を築くためには、今日の経済社会が足かせとなっているという共通の思想を確立しはじめている。この考え方と労働の誇りを取り戻そうとする近代社会批判の思想が結び付いたときに思想は新しい時代を創造していくだろう。
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