第T部 古典経済学以前−古典経済学−マルクス
−「価値なき」自然と「自然なき」価値−4章 アダム・スミス
7.均衡モデル批判:斜面の上に成立している最適状態
8.価値の蓄積過程と自然従属化の無限界性
9.自然的自由と自由ならざる自然
5章 ディヴィッド・リカードゥ
1.経済学理論におけるリカードゥの意義 −自然問題への彼の影響力 −彼の現実性
2.価値理論批判
3.価値と富
4.地代理論批判
5.リカードゥと経済学理論の方法
以下、レジメ
Nakamura
4章 アダム・スミス
7.均衡モデル批判:斜面の上に成立している最適状態
◯スミスの均衡モデル・・・価値学説と価格学説の統一
1.価値学説と価格学説を相互に関連させている。
2.経済的自由主義の核であるところの市場の自己規制に関する学説を安定した理論的基礎まで高めた。
a.自然価格(natural price)=その商品の価値(市場価格ではない)
ある商品の価格が、それを産出し、調整し、またそれを市場にもたらすために使用された土地の地代と、労働の賃銀と、資材の利潤とを、それらの自然率にしたがって支払うのに十分で過不足がないばあいには、このときその商品は、その自然価値とよばれるもので売られるのである。
b.市場価格(market price)
実際にそれが市場へもたれされる量と、その商品の自然価格をよろこんで支払う人々との需要との割合、いいかえれば、それをそこへもたらすために支払わなければならない地代・労働および利潤の全価値をよろこんで支払う人々との割合、によって規定される。
c.市場において需要が超過するならば市場価格は自然価格を上回り、逆に供給が超過するならば市場価格は自然価格を下回る。市場価格が自然価格を上回るか、それを下回るか、ということは、価値および価格の構成要素である賃金、利潤(利子)、および地代の市場価格が自然価格を上回るか、それを下回るか、ということに由来する。
→三つの構成要素(労働、資本、地代)のアロケーションが適応的に調整される。
→市場価格の高騰・低落を媒介として、生産に投入される生産手段とつくり出される生産物の量の調整がおこなわれる。
d.中心価格(central price)=自然価格
いっさいの商品の価格が不断にひきつけられている中心価格は自然価格である。市場の価格は恒常的にこの中心を指向し、つねに需要を正確に充足し、過不足ないだけの量を市場へもたらす。
→市場の普遍的な均衡条件
e.市場の自由な自己調整
市場価格が自然価格から離れ、したがって価値から離れるようなことがあれば、市場の諸力は価値調整のメカニズムを作動させ、その作動によって生産諸力のあらたなアロケーションが再びめざされる。
◯スミスの均衡モデルに対する批判
a.スミスの体系に対する「自然批判」<Naturkritik>
交換価値によって規定される合理性と自然価値との間の矛盾した関係
→均衡モデルは、価値に関して見れば、全経済の最適状態を示す。しかし、このようなモデルは物象的基準に照らしてみれば存在しえないのであり、物象的な効果に関しては、体系的な間違いを示している。生産的諸要素の交換価値で表現された価値構成要素は、物象的・自然的富の投入と分配について合理的な決定を許すとは限らない。
労働と労働価値
◯スミスの価値学説
a.労働の使用価値=交換価値
労働の大きさ=労働によってつくり出される価値量
b.費やされた労働時間だけが価値関心の対象である
→価値関係はもっぱら交換価値関係として把握される。
物象的な価値と富の存在および創造は見損なわれる。
労働する人と物質的自然界との間の本源的に生産的な相互作用は対象とならない。
c.物象的富を破壊するような労働も価値生産的であると見なされる。(自然を破壊するためにも労働時間が必要)
e.g.道路の建設は国民経済的な新価値形成であり、その価値の大きさは道路建設のために調達しなければならない労働時間の大きさに等しい。これに対して、道路建設の犠牲になる生産諸力の直接的、間接的破壊はいっさい評価されることはない。
資本、技術進歩および物象的退歩
均衡価格(自然価格)によって、可能な限り最善の資源投入が実現するような生産手段のアロケーションが誘導されるのか?
◯技術進歩の二つの形態
1.貨幣的・価値的観点に立った判断基準にもとづいて進歩とみなされる技術的進歩
2.より高い物象的自然的生産性を達成するという意味での技術的進歩
→スミスが生産手段の投下の全経済的最適状態について述べる場合は、価値にかかわる技術進歩のことを言っている。(自然にかかわる技術進歩を考えているのではない。スミスの視点は1.)
a.特別利潤
経営の技術的進歩によって生産性向上→等しい投入量でより大きな生産量を手に入れるに努力する→技術水準が平均以上の経営はその市場価格を自然価格以下に押し下げることができる→より大きな販売をすることができる→特別利潤の実現
◯交換価値によって規定される合理性と物象的・自然的合理性
a.貨幣的な観点に立った技術進歩を測る交換価値に関連づけられた尺度は、技術的・物質的資源の配分について理にかなった決定をなしえない。
b.技術生産力の商品形態をとらない部分、つまり自然的生産諸力は搾取される。技術的・自然的進歩の尺度を適用するならば、技術進歩の交換価値視点における最適な発展は生産力の破壊へとまっすぐにつき進む。
→個々の経営は、価値的観点からすれば生産性上昇としてその結果を示す進歩を、まさに自然力の容赦なき従属化によって実現しうる。
c.交換価値によって規定される合理性のもとでは技術的進歩および生産性上昇として見なされるものが、物象的・自然的合理性の観点に立てば、自然の比類のない巨大な破壊過程と見なされうるが、交換価値計算は破壊と進歩を区別できない。
→この概念は一国民の抽象的な富を増大させるが、その反面において一国民の自然的富を破壊するのである。
交換価値の構成要素としての地代
◯均衡経済の不条理
a.地代
本源的に社会全体のものである自然の富を部分的に私有化して、商品として交換することができるということにもとづく。スミスは、地代がその「自然的な高さ」まで達したとき、価値構成要素としての地代も最適の状態にあるとする。
b.自然的な、商品形態をとらない生産諸力の全般的な水準が経済的な処置によって低くなればなるだけ、なお残されている自然力に対する地代は高くなる。
→地代の価値関与分は、自然が無限に豊富なものであることを説明するとき、それはゼロであり、すべての自然が破壊されたとき、それは無限大である。
このモデルにおいては、経済的・社会的な最高の状態に関する理念は、希少性の進行と言うことを基礎としている。
c.均衡経済の不条理
「人間の手が加えられていない」自然が破壊されるとき、その自然は最大可能な経済的価値を有する。
→自然の「自然価値」は支払われない。
自然の破壊は、経済学的には、破壊された自然の修復に必要な費用の支払い不能力として表れる。
●経済総体の最適の均衡状態に関するスミスのモデル
a.交換価値の合理性と物象的・自然的生産諸条件および生活諸条件の合理性との間の対立を提示する。費用を要しない生産力の適正だと誤って考えられたアロケーション
b.交換価値に引き付けられて規定された最適状態への行動は、究極においては生産力の危機をはらんだ破壊過程へと転化しうる。
c.一見最適状態を指向するかに見える行動によって、貨幣的最高の状態が繰り返し
セットされなければならない基礎である生産力と生産諸条件の物象的・物質的水準が不断に低下させられる。
→「スミスの均衡モデルは斜面上で成り立っている最高状態を意味する。」
8.価値の蓄積過程と自然従属化の無限界性
◯スミスの資本概念
a.全資材のうち、収入をもたらしてくれるものと期待される資材だけが資本である。
しかし、スミスはこの収入の起源を一貫した論理から導きだし、解明していない。
b.資本の用途…生産的労働だけを維持するために予定されたもの。
c.資本主義的発展過程を経済理論および経済政策の面において完全に支持している。
→価値の蓄積、資本蓄積…一国の生産力は拡大される資本形成によってのみ決定的に促進されうる。
◯財の生産としての商品生産から抽象的価値生産への移行
価値の抽象的な生産にいおいては、物質的財の生産は依然として生産の前提条件ではあるが、もはや経済的行為の目標ではないのである。そうであるから経済活動の意義はもはや商品の生産の中にあるのではなく、使用された資本の最適の利用の中にある。
a.経済学における自然問題(自然と価値の間の矛盾、衝突)
抽象的価値の増大が生産の目的になる瞬間から自然と価値は根本的な矛盾に陥る。
生産過程は、一方では、自然から切り離され、自然から独立した抽象的価値増殖過程であると理解されるのであるが、他方では、この同じ生産過程が具体的労働過程および自然改造過程として再び物象的前提条件に結合される。
→使用された資本の利用過程として見れば、それは自然を克服しようとするのであるが、具体的生産過程としてみれば、それは自然の諸力に実存的に依存せざるをえない。
b.本質的な前提…価値増大の無限界性
投資家の経済的期待を十分にかなえるもの、つまり年利子率と新たに追加される蓄積の年率が平均的に同じ水準に保たれるならば、社会生産物は指数関数的に増大する。それゆえ、価値の蓄積と資本の使用は経済客体をある一つの経済学的な対応へと誘導する。
→価値の成長については指数関数的な経過過程が期待されなければならないのに、物象的・物質的な成長過程はつねに自然的な限界につきあたり、長期的には指数関数的な成長は不可能である。
→価値増大の無限界性は、物質的生産とは相容れない。
9.自然的自由と自由ならざる自然
a.自然的秩序と法則にしたがって自らを調整する市場の理念
→自然秩序と経済的繁栄の一致
経済的な自由
○スミスの誤り
a.彼の時代に続く1世紀の間に起こった工業的・技術的革命の大きさを見誤った。
b.工業的・技術的革命と相互関連して進行した資本及び生産手段の集中を見通すことができなかった。
→均等な市場という彼の理想型的な観念と分配の公正さに対する彼の期待を根底から裏切るもの
c.社会における自然的自由、すなわち、アダム・スミスの経済的自由主義の中心概念は、自然に対する人間の不自由をもたらさずにはおかない。社会的価値の設定は人間の自然的な生存諸条件と絶えざる、そして、ますます激しくなってゆく衝突を生み出す。
→経済的自由と物象的・自然的不自由は表裏一体のもの
Yamaguchi
5章 デヴィッド・リカードウ
■
デヴィッド・リカードウ(1772―1823)※主著『経済学および課税の原理』
□ 時代背景
アダム・スミスのモデルにおいては「社会の平和のための共同の保証人」として体現さるべきものとされていた伝統的な地主階級、ブルジョア階級、賃労働者階級が経済的に(富の形成の原因とその分配のルールをめぐって)対立している。
□ アダム・スミスに対する批判
リカードウはアダム・スミスにおいては矛盾を残した「地代(=土地所有者の収入)の原因は何か」と
いう問題に対する回答を与えた。
1. 経済学理論におけるリカードウの意義
□ 絶対価値と相対価値
リカードウは相対価値概念を基礎として価値理論を構成する。絶対価値についてのリカードウの見解は
あいまいなままで、交換価値だけが科学的な命題たりうるとして、絶対価値に関して検証しなかった。こ
れに対してイムラーは反論する。
絶対価値が存在しないのであれば、あるいは彼(リカードウ)が絶対価値を認めないのであれば、彼は、価値の源泉、価値形成の原因、価値の大きさに関する問題に答えることはできなかっただろう。
絶対価値を科学的命題として認めなかったからこそ、リカードウは、分配を規定する諸法則を確定する
ことが経済学の主要問題であるとし、この視点から相対価値尺度を規定しようとした。
このやり方のために、リカードウは価値を物象的、自然的側面から100%考察しなかった。
□ 交換価値と労働時間
ある商品の価値、すなわち商品と交換される他のなんらかの商品の分量は、その生産に必要な相対的労働量に依存するのであって、その労働量に対して支払われる対価の大小に依存するのではない。(『原理』第1章)
■ある商品の価値はその商品を生産するために必要とされた労働時間にのみ依存する。
※ブルジョアジーから賛同され、土地所有者から拒否された。
特徴
(1)労働力の再生産費、すなわち実質賃金が商品の交換価値を規定するというアダム・スミスとの見解との間に距離を置いている。
(2)価値の大きさの比率(相対価値)に考察を限定している。
(3)商品に予定される相対価値にとってその商品の生産に要した労働時間以外のものはなんら存在しないと考える。有用性を交換価値の尺度とすることを明瞭に拒否し、有用性と価値の関連をまったく議論しない。
□ 労働時間
リカードウは労働のさまざまの質、すなわちより高い能力を付与された労働とそうでない労働を平均的
であると想定される基準的な労働に還元し、労働の質的な差異を消し去った(=抽象的労働)。ここでは、靴屋、家具職人、料理人の労働は仕事の質をメルクマールとして評価されることはなく、これらの労働は量の視点からみる場合にのみ、交換される。ここでは労働の比率と労働時間が一致するものとなる。
□ 再生産されうる商品と再生産されえない商品
■
リカードウは再生産が可能か不可能かという尺度によって商品を区分する。
再生産が不可能な商品とは希少性のある商品であり、数量が限られているものである。リカードウはこ
れらの商品を、「市場で毎日交換される商品総量のなかの、ほんの小部分を占めているにすぎない」とし、きわだって大きな部分は、労働によって取得される再生産可能な商品であるとする。ここでリカードウは、自分の価値学説が労働の投入によって再生産される商品にだけ妥当するということを確言し、少量にすぎない再生産不可能な商品は考慮にいれなくてもよいとする。
この分類に対し、イムラーは反論する。この2つの商品群の間での入れ替わりは現実には不断に起こっている。例えば、以前はほとんど再生産できなかった商品がいまでは技術進歩によって思うがままに増大されうるし(これはリカードウも想定していた)、逆に、かつては無尽蔵だとみなされた商品がいまではほとんど再生産されえないということが生じる。リカードウがこの分類をした前提には「自然の無条件の不変性」があると想定される。すなわち、再生可能な商品群は、再生産に関与する自然的部分が永久に存在するものであると見なされる場合にのみ、存在し続けるのである。よってリカードウの価値理論は自然的、物象的価値の存在を前提としているといえる。
□ 土壌の不滅の力という前提
■
リカードウは、「土壌の根源的で不滅の力」という言葉を『原理』で使う。
ロックの場合は物象的自然を「神の贈り物」としたが、リカードウの場合は自然法的な正当化(地代を
得るためetc.)を必要とせず、価値生産にとって絶対的に設定された条件として物象的自然を必要する。
□ リカードウの交換価値概念の前提
1. 商品の大部分が思うがままに再生産可能であること。
2. 破壊されない、不変の自然が存在すること。
□ リカードウの価値学説に対するイムラーの批判
商品に実現される労働量がその交換価値を規定するのだとすれば、労働量の増加は必ずその労働が加えられた商品の価値を増大させるに違いないし、同様に、その減少は必ずその価値を低下させるにちがいない。
例1)ある時間単位内で、前よりも多くの商品がもたらされる場合:
労働生産性が上昇→商品1単位あたりには前より短い時間が投下される→商品1単位あたりの価値を低下させる。
例2)エネルギー生産において、時間的、質的に同等の労働が投入され、A生産方式においては1単位のエネルギーが、B生産方式においては2単位のエネルギーが生産されたとする。
Bの生産性が2倍である理由:根源的にAより優れた自然条件or技術的になされた自然改良
→リカードウの価値体系においては、これも労働生産性の上昇としてしか現れない。
■イムラーの主張:リカードウの価値学説において、「労働生産性」と「自然生産性」を区別しないとこ
ろに根本的な問題がある。
例3)自然の生産力が高まった場合(高い肥沃度、豊かな原料、改良された技術的自然生産方式等々)この場合、自然生産力の上昇によって、同じ労働時間でより大量の生産物が生産される。リカードウの価値体系においては、これは商品の価値が低下し、労働の生産力が上昇することを意味する。
例4)自然の生産力が低下した場合(資源の枯渇)
この場合、自然生産力の低下によって、同じ労働時間内の生産物が減少する。リカードウの価値体系においては、商品の価値は増大し、労働の生産性は低下することを意味する。
※
この場合、同量の生産物を得るためにはより多くの労働時間を費やさねばならない。よって、リカードウの価値体系では全くその低下が認識されない自然の生産性が低下すればするほど、商品の価値はますます増大するように見える。
自然の直接的、破壊的占有は労働の生産性の増大、交換価値の減少として確認され、それによって引き起こされた全般的な自然の生産性の水準の低下は、総じてそのようなものとしては知覚されないのである。このことから引き出される結果は、同量の生産物量を得るためにより多くの労働時間が使用されなければならず、したがって、まず生産諸力の量的水準が押し下げられ、それに比例して交換価値が増大するということである。…..すなわち、すべての生産者にとって自然の直接的、破壊的占有の経済的目的は労働の生産性増大を目的としていること、そして次の生産期間において自然の生産諸力が低下するならば、生産物の価値は増大する。
・
自然的生産諸力の搾取に対して個々の生産者たちは、(商品価値の増大という)報酬が与えられる。
・
自然破壊を価値的に表現する方法がないので、生産者にとって自然破壊が重要でない。
・
自然破壊が行われた以後のいっさいの生産において、交換価値は高められたものとして現れる。
□ ブルジョア思想における自然概念の分裂
※リカードウの時代においては、経験的に自然は恒常的なものだと
認識され、生産に否定的な自然問題はほとんど問題にならなかった。
・ 自然はPhysisの一種の根源的な状態
・ 人間の手が加えられた自然
自然のある部分が社会の中に入り込んでくるや否や、それは自然の属性を失い、社会的に取り込まれてしまう。(=社会に入ってきた自然は“労働”による生産物となる。)
■工業的・ブルジョア的社会は自然を歴史的に認識する能力および自然としての歴史を認識する能力を有していない。労働と自然の間の相互作用が見失われている。
例1)鹿やビーバーを仕留めたい思うとき…..
・
リカードウの価値学説では、仕留められた動物(鹿やビーバー)の価値は、狩猟のため(狩猟道具を作る時間も含む)に費やした労働時間から構成される。
・ さまざまな自然的要素が協同して生産を行う自然(Physis)は、「生産された」交換価値に対してなん
らの影響も与えない。
例2)リカードウの価値概念によれば、炭採掘において、地下500メートルの炭層で採掘された炭と、
地下50メートルの炭層で採掘された炭では、労働時間の長い前者の方が、1単位あたり、より多く価値
を生産することになる。
→リカードウの価値概念は、自然の恒常性の前提を取り去ると崩壊する。
■
社会の価値総量は、生産物量が同じでも、環境破壊が進めば進むほど増大する。
Asahiro
3.価値と富
経済学における「価値概念」は、社会の価値規定と共に変化してきた。
リカードゥの価値概念は、商品に含まれる労働時間による交換価値規定を基礎としている。
彼は、「原理」第20章において、「価値概念」と「富概念」を区別する問題に取り組んでおり、この論述は一般的に認められている。
しかし、この論述に「価値」と「自然」の経済学的な関係、あるいは経済学理論に自然の役割が反映されているかどうかについては別であり、この章では、交換価値経済が自然とその富を理解できないこと、この両者の相互規定を全く理解することができない事について論証を行う。
○ 交換価値としての価値と使用価値としての富
リカードゥの論理の中では、商品の交換価値と使用価値を厳密に区別し、価値概念と富概念の二つのパラドックスも互いに関連のないことを示している。
リカードゥとセーの「価値と富」の論争の中で、古典的な労働価値定理で述べるリカードゥに対し、セーは価値の生産における自然の労働との協同作用力に関し疑問を呈する。
リカードゥの価値の分離では、何者にも拘束されない交換価値基準による価値生産は、一方的な自然破壊を伴う価値生産を可能とし、富を破壊する。
(交換価値の合理性 → 交換価値の生産のもたらす富の破壊)
リカードゥは上述の見落としに加え、自然は「仕事」を無償で行う、という大きな誤った考え方を前提とした。
自然が果実を無償で提供するには下記の条件が必要である。
第一:自然と生産諸力は両者の相互関連において理解される
第二:自然の富の有限性が認識される
第三:労働と自然の相互関連で、自然の有限な富を破壊しない経済学の構築
リカードゥの交換価値経済学は下記の理由でこの条件を全て満たさない。
第一:労働および自然(地代)の概念に抽象的価値(質ではなく量)しかない
第二:絶対的な自然の恒常性を想定し、無限の自然の富を前提とする
第三:価値生産において、労働と自然の相互関係が認識されない
交換価値によって統制された経済学のもとで、自然は徐々に経済の姿勢を拒み、生産から撤収し、反生産的に価値を破壊し始める。人間は生活の質の劣悪化に対し、大きな労働を支払わざる負えなくなる。
○ 希少の経済学か豊富の経済学
価値と富の区別は、二つの原理的に異なる経済学の方法が構想される。
価値概念に象徴される希少性と欠乏の経済学(交換価値経済:自然の欠乏=商品の希少性)
自然概念を保持している豊富の経済学
4.地代理論批判
「地代問題」は、収入源泉が地代である土地所有者と、自由貿易の制限に抵抗していた工業ブルジョアジーとの階級問題が背景にあった。経済政策および経済理論における衝突の問題が次々提起され、リカードゥによって答えられた。
ここでは、彼の地代理論に組み込まれている自然理解について取上げ、地代理論批判を通し、自然と経済学の関係に関する普遍的な見解を知る。
○ リカードゥの地代理論における根本的な命題
(1)地代とは何か? P259
リカードゥの地代の定義 =
生産条件であるところの普遍的な前提としての自然の提供に対する補償
(地代は労働生産物でも自然生産物でもない。)(借地経営制度を念頭に置く。)
(2)どういう条件の場合に地代は成立するのか? P260
土地は(水・空気と違い)有限である、生産の前提としての普遍的自然である。
差額地代:優等な土地に生じる生産物量の差およびこれに基づく価値量の差
(第一等の土地は第二等の土地との対比で地代が実現され、支払われない土地もある)
(3)差額地代を規定する根拠 p262
「土地生産物の収穫逓減の法則」(リカードゥは「自然法則」を農業のみに適用)
土地の生産力は労働および資本の投入によって増大させることができるが、肥沃度は次第に劣悪化し、ある一定の時点において、資本の投下量を倍増しても、生産物の倍増しない。
(4)生産物の価値と地代の価値 p263
収穫逓減の法則 → 生産物の価値の増大 → 優等地との差拡大による劣等地地代の増大
「地代の騰貴は常に、その国の富の増大と、その増加した人口に対して食料を供給する困難との結果である。・・・・・地代は、利用しうる土地の生産力が減退するときに、もっとも急速に増加する・・。」
(5)地代は価格に影響を及ぼすのか? P264
原生産物の価格は、資本部分の生産性に規定され、地代は商品価格の構成要素でない。
(6)地代は社会の分配法則にどのような影響をもたらすか?
社会の進歩と富の増大 → 穀物生産の増大 → 交換価値の高騰 → 地代の増大
∴ 土地所有者の利益と、消費者、商工業者および労働者利益との対立
労賃と利潤の闘争:交換価値の高騰・不変の生産物量 → 労働者の再生産能力の維持 →
利潤の低下
リカードゥは、階級間の調和は原理的に存在せず、社会的生産物の分け前をめぐる闘争が生じることを明確に述べた。(社会の分配法則を敵対的な法則として叙述)
社会的調和から階級闘争への転換(後にマルクスの体系に含まれる)
○
普遍的な自然の恒常性と土地の特殊な性質 −地代理論におけるリカードゥの自然概念批判
リカードゥの価値理論:労働価値学説(抽象的・量的に価値表現された労働価値)
地代理論:地代は最劣等地とより優等な土地の間に存在する土地生産物の差額を交換価値で表現
地代理論批判への仮説:二つの理論の統一は、分裂させられた自然を前提としていたからである。
二つの理論における共通性は、自然が成した何かある「特別な仕事」(絶対地代)は存在しないとした。
二つの理論の違いは、土地の有限性と不均一な等級ないし質という指標により、「無限の自然」から「土地なる自然」を区別した。
リカードゥの地代理論に対する批判を下記の三つの問題に集中される。
(1) 地代の価値の形成は本当に解明されているのであろうか?
(2) 「自然の分裂」を想定することは正当なことであろうか?
(3)
リカードゥの自然概念は交換価値によって規定される合理性に対していかなる関係にあるのであろうか?
(1) 価値は地代としてどのように形成されるのであろうか p270
地代理論の論理展開において、彼は地代価値を経済学的・機能的に証明せず、論理構成にとどまった。「剰余生産物」について、フィジオクラート達は自然の諸力に帰属させるが、労働価値理論的見解は、自然を恵まれた事態と受け入れ労働の成果と考える。名目的な価値形成の説明として、貸付補償としての地代と、土地階級毎の名目的な地代として論証するが、前提としての分裂した自然が問われなければならない。
(2)分裂した自然という想定
農業:根源的で不滅なものとして自然が存在し、土地の質の違いは労働生産性として表される。平均的抽象的な労働は均一的な質のレベルに平均化され、もはや土地の質の等級は問題にされず、前提となる自然が問題となる。
工業:石炭や太陽光。一般的に異なった質の自然が労働と結合するところは何処でも地代が形成される。
リカードゥは、安易に前提とした二つの自然により、重要な経済学的結論が一般的に正当化されるかどうかに答えを行っておらず、本来、自然の想定自体論証されなければならない。
現実の物象的自然は分裂を認めはしない。質も空間的時間的に変化し、生産的労働如何によりプラスにもマイナスにも変わりうる。したがって、自然は労働との相互作用に関する理解の中に存在する。彼は、自然の想定と抽象的労働に関する考えのために、この関係が見えなかった。
(2) 自然と交換価値によって規定される合理性
自然の分裂は、土地という交換価値により規定され商品扱いされる部分と、商品形態を取りえない部分に分割されることに対応している。価値と地代の分離は、実在の自然の論理的分離に対応しているのではなく、土地所有という歴史的に作られ、発展せしめられた自然の分離に対応している。
○ 物惜しみする自然か、それとも汲めども尽きぬ自然か
二つの自然の属性:
無限に存在 → 価格を持たない → 使用において限界費用はゼロ
有限 → 使用に価格が成立 → 劣等の土地を基準とする質の差
土地と他の自然の分離、また価格の有る無しについてリカードゥの根拠ははっきりしていない。
実際、水も空気も無尽蔵ではなく、彼の論証は全く間違っている。唯一の相違は、社会的関係の中で、有限であると思われる自然には所有者があり、商品として取り扱われるか否かの尺度である。しかし、この尺度によって自然の単一性が崩され、不滅であると前提とされる自然の破壊を引き起こす。そして、有限な自然を拡大する。
次に、リカードゥの「自然の問題」について提起する。
(1) 地代―それは価値か、それとも富か?
土地地代は価値創造であり富ではない。しかし、土地の剰余は自然の性質に寄っており、交換価値のみを生み出すという論理構造は矛盾している。自然は直接富をも生産する。
(2) 自然はいつ物惜しみし、いつ物惜しみしないのか?
彼は自分の論理の前提に不滅の自然を置くが、実際は自由に占有できるという意味で無償の自然ではない。交換価値計算の元では、商品として把握されない自然は気前がよいが、人々が自然を理解しなかった場合、人々はたちまち自然の限界を思い知らされる。
また、彼の自然が豊富なとき地代を生まないという考えは、思考と意識の倒錯である。もし地代が物象的・自然的な概念として把握されれば、肥沃な土地が最も高い地代をもたらす。
(3)
自然がすることが少なければ少ないほど、価値は大きくなるのか?
−生態系の危機に関する仮説
彼は、無償の自然という条件を放棄し、土地と同じ性質に据えた論を行っている。
「空気、水、蒸気などが有限であるならば、自然的生産力の質が劣悪化するにつれ、商品の価値は大きくなる。」「人間が額に汗してすることは多くなり、自然のすることは少なくなるであろう」
労働の増加と、交換価値の高騰は述べられても、富と自然の破壊と危機に気づくことはない。
土地地代から一般的自然地代へ −労働生産性対自然生産性 −自然と商品 p283
地代問題とその科学的究明は、土地所有者の分配問題であり、土地は地代を「生産する商品」であった。
リカードゥはこの考え方を、何の説明もなく鉱山について地代源泉を認めている。これは、生産者と土地所有者の間では重大な問題であり、この事情の多くの分野への広がりは、彼の論理の整合性を失わせた。
前提である自然の分裂は虚構であり、土地地代は拡張され一般的な価値地代になる。
商品にまつわる自然の分裂が止揚され、外的自然が物象的統一性において生産の一部とみなされるとき、必然的に交換価値形態を取る自然の合理性は取り去られざるを得ない。
商品と自然の誤った同一性は、「残余」、「残余としての自然」、「残余としてのリスク」を存在し続け、いかなる交換価値計算といえどもこの残余を計算の中にとりいれることはできない。
換言すれば、社会的生産・再生産における自然の役割が完全に把握され、観察され、実現されるのは、交換価値計算が取り除かれ、自然とその生産力が物象的な質として理解されるときだけである。その時はじめて、量的及び質的な「分け前」を持っているかということが完全に認識できる。
交換価値と対立する全ての価値は、自然の生産力と具体的労働の生産力の協同により成立する。
リカードゥの価値学説と地代理論の欠陥は、自然生産性に関する二つのトリックである。
・ 抽象的労働を構想することで自然の関与分を平準化した
・ 無尽蔵な自然を前提にすることができた。
この両者の重層的作用により、自然生産性と労働生産性の相互作用の成果は、交換価値経済においては労働生産性のみによる作用とその成果であるとされた。
分裂した自然という考え方に対する批判は、地代理論と共に価値理論をも崩壊させる。
現実の自然の上に投げかけられたリカードゥ的・ブルジョア的な交換価値思考のヴェールを剥ぎ取るならば、物象的自然は全ての人間への贈り物として法外な富を携えて自ら姿を現し、それを増大するような仕方での管理が成されねばならないのである。
Iwamoto
5章 ディヴィッド・リカードゥ
5. リカードゥと経済学理論の方法
リカードゥの経済理論の方法:抽象的・数量化の方法の創出→経済学の内的モデルの生成
ケインズのリカードゥ批判:資本主義的経済発展における危機問題の過小評価
「リカードゥの経済理論においては経済危機,過剰生産あるいは過小消費によって引き起こされる特殊な経済危機が認識されておらず,しかもこの経済危機がケインズの時代の経済的現実を強く規定しているのであって,この結果,とりわけこの現実の事態によってリカードゥは経済理論による科学的な解明の効果に対する信頼が薄らいできた.」
近年ますます多発している経済的・社会的紛争は,数量的・抽象的解決方法によっては全く接近できない問題構造を示しており,さらに言えば,これら紛争の一部は,故意にではないにせよ,数量的・抽象的解決方法それ自体が作りだしたものであるという問題構造を示している.
=抽象的・数量的な経済学的決定構造に対する物象的・自然的反乱
e.g. 人口の増大,栄養,健康,環境の悪化,技術進歩の質,労働における人間性の回復...
こうした問題に対する経済学の責任:経済学理論は,実際的な決定の手段を提供するために,自然,物質,資源,価値等々との関わり方の法則性を発見するという権限を持っていること.
→近代的経済学理論の「物象的」理解とその為の方法に対して注意を向ける必要がある.
→経済学理論の「物象的理解」とその為の方法が由来する根元,リカードゥにたどり着く.
☆リカードゥは経済学理論を間違った軌道の上に載せたのではないのか?
■抽象的方法と物象的自然
リカードゥの価値理論を支える2大要素
1.具体的労働(外的自然と相互に作用し合う具体的な力)から抽象的労働への転化.
質的に異なる様々な労働を,「相対的熟練度」と「遂行される労働の強度」によって量的関係に還元.
→具体的労働は常に外的自然の変換でもあるという認識,この変換の中にこそ労働の意味が存在している という認識の喪失.=「外的自然」と「具体的労働」そのものを捨て去る.
2.普遍的自然の恒常性という価値理論上の想定を設けることによる,自然の質の否定.
具体的労働は常に外的自然との具体的対決を含んでいるので,労働をとりまく様々な自然が質的に中和さ れることはないが,労働が抽象化されること(外的自然によってではなく,労働の量的関係によってのみ 労働の価値を規定すること)で普遍的自然の恒常性を想定することが可能となる.
→自然の価値はその質(地代に結びつく)ではなく,個々の土地の間に存在する価値で測られた収益差額 によって測られるようになる.
■自然における質と量
リカードゥの経済学理論における問題点:機械装置としての経済学
いかに多様かつ根源的な質が存在していようとも,それらがすべてこの抽象的・数量的尺度に関連づけら れることによって,価値を持つという属性以外の属性はすべて消え失せてしまう.
時間要素以外においては労働(生きているもの)と資本(死んでいるもの)の間の価値の違いが考慮され なくなる.=価値単一性
→人間の本性と自然的生存基盤に対立する(→経済学資本による労働の排除(合理化)の問題等)
☆それでは,現実性を損なわない抽象化と定量化に基づく経済学とはどのようなものだろうか?
量→質の経済学
抽象労働及び質を喪失した外的自然というリカードゥの前提を取り除く必要がある.
→労働と自然が質として妥当性を持たなくてはならない.
→交換価値の支配及び交換価値の合理性は排除されなくてはならない.
→既存の経済学の解体,及び既存の経済学を動かす価値体系の解体
質をもった自然を認める=外的自然そのものが,質的属性を生み出すということを認める
→自然そのものを,生産者として,還元すれば,労働と一緒に作用する主体として,理解することを意味 する.(生産する自然という観念)
■絶対的価値尺度への渇望と自然がこの願いをかなえてやらない理由
絶対的価値尺度を求める際浮き彫りになる矛盾.
労働価値と資本利回りの関係:12人の人が1ヶ月ある生産物の生産に従事した場合と,1人の人が12ヶ 月間労働した場合,両者の間に価値の違いが存在する →労働だけが唯一の絶対的尺度とはならない
価値と自然の関係:すべての交換価値の基底にある恒常的自然の中に,ある絶対的価値尺度を求めようと しても,それは交換価値の内部でのみ規定しうる相対的価値尺度にすぎない.
■破滅についてのリカードゥのヴィジョン
リカードゥの描く資本主義社会の未来
国富が増大するにつれ,それに相対する形で人口が増大する.
人口の増大によって引き起こされる食料に対する需要の増大は必然的に社会的生産物に対する地代の分け 前を高める.
→社会的総価値に対する地代の分け前は絶え間なく増大し,その結果生み出される利潤は低下し,社会全 体が全般的停滞の状態に到達する.
これは農業における自然の制限性に基づく考え方である=リカードゥの中にある価値と自然の対立構造
リカードゥの想像していたような社会の停滞状況というのは現在の所起こっていない.しかし「いっさいの経済成長は遅かれ早かれ自然的資源の欠乏のために静止状態に陥らざるを得ない」という彼の考え方は経済的成長が,外的資源の限りない搾取にもとづいているという,現在の経済成長の孕む危険性を指摘している.
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