第T部 古典経済学以前−古典経済学−マルクス
−「価値なき」自然と「自然なき」価値−3章 ジョン・ロック
4.限定的な物象的自然から無限定的な抽象的価値への以降
5.自分自身を所有する権利と賃労働について
6.資本による価値の生産
7.価値の諸源泉 −労働の優位
8.ロックにおける自然と社会:質量なき社会という論理構成について
9.経済理論における自然像に与えたロックの影響 −生産力の概念
4章 アダム・スミス
1.交換価値規定と政治経済学における自然の喪失
2.地代は何から生じるか?
3.交換価値によって規定される合理性<Tauschwertrationalitat>と自然
4.価値パラドックスにおいては何がパラドックスなのか
5.自然を排除した社会的生産力 −自然の生産力は労働の生産力として表れる
6.2頭の鹿は1頭のビーヴァに値する −交換価値計算の合理性と非合理性について
以下、レジメ
Asahiro
3章 ジョン・ロック、p112-124
4. 限定的な物象的自然から無限定的な抽象的価値への移行
―自然の無尽蔵性と価値の無限界性
○人間が自然の果実を自分の物にしうる量について
個人的消費の物象的限界として、人間は、生活の手段として必要以上の果実を取り、土地を耕してはいけない。
上記のロックの考え方は、労働の成果に対する権利主張と現実に存在しているストックの公正な配分との健全な妥協であり、物象的な生産と再生産の関連を深く洞察していた。
しかし、抽象的な貨幣価値の導入によって、物象的・物質的な労働と価値の概念は、貨幣価値あるいは交換価値として考えられうるようになり、彼の論証は、究極において抽象的富の増大を正当化することに照準を合わせていたと推測できる。
○抽象的な価値形成について
ロックは抽象的価値に関する思想を効果的に準備した人として現れ、自然の富を物質的に理解するよりも、ブルジョア的な所有として占有することを問題とした。抽象的な貨幣価値を優先させることは、必要な措置であったと考えられ、貨幣価値による自然の占有は、自然の従属化を意味し、自然の富は無限に利用できることを可能とした。
ロックは、経済的価値形成において社会の外にある自然に副次的な地位しか認めないが、労働価値理論および所有理論は自然の無尽蔵性を前提とする矛盾をもたらしている。
自然の果実を腐敗させてはならないという所有制限に関する判断基準は、腐敗しない貨幣によって占有の限界は喪失し、根源的な判断基準は逆転する。また、貨幣の使用は生産と通商が利益をもたらすことを主たる問題として取り扱っている。
したがって、無限の貨幣価値は、勤勉と労働による富の増大を物象的に無限界のものとして裏づけ、人間の外的自然は無尽蔵の自然として従属させられる。
5.自分自身を所有する権利と賃労働について
無限の貨幣価値 →
・人間の所有できる土地は、一定の限界内でしか自由にならない。
・再生産の手段として自分の労働しか自由にならない。
しかし、労働価値理論および所有理論は土地所有者を前提として構築された。彼は社会的富の形成における工業労働の労働の成果も他人によって占有されるかどうかについては述べていない。
人は誰でも自分自身の所有権を持っているとすれば、労働もまたそうでなければならず、その権利について考察されねばならない。
○マックファーソン(Macphearson)
ロックは、「他人の労働力を合法的に要求することができる賃金関係の妥当性を一般に前提としている」という確信を得ている。
○筆者は
ロックの問題としていた封建的労働諸関係の廃止は、賃労働諸関係の存在と共に商品流通および貨幣流通の存在も前提とされているという結論を許す。これは資本制的な生産諸関係を正当化する明確な基礎を与えたことを意味する。
また、労働力が契約期間中につくりだす労働の成果は、労働力の購入者に帰属することを前提とし、この二つを物象的側面から根拠付けた労働価値学説は区別できず、未解決のままであった。
6.資本による価値の生産
対立する物象的使用価値と抽象的交換価値という二つの側面が、ロックの価値理論の中で平和的に共存しているのはなぜであろうか?
彼は内的矛盾に気づくことなく、価値形成を二重の仕方で解明した。
一つ:物象的価値(使用価値の生産にかかわるもの)
二つ:抽象的な価値・交換価値・貨幣価値
貨幣価値について「諸考察」の中で、価値の大きさは需要と供給により決まると述べており、主観的な価値形成の信奉者と見て取れる。また、彼の貨幣価値理論では、貨幣の資本機能が認められるのに加え、借り手のもたらす余剰が生産の領域から出てくるのか、流通の領域から出てくるのかということをはっきりさせていない。彼の価値概念の二面性は、この資本概念の二面性に照応している。
Yamaguchi
7.価値の諸源泉---------労働の優位
価値に関するロックの見解に見られる特徴:
物象的・具体的な価値学説と、量的・抽象的な価値学説が対立なく併存している。
@
なぜロックは物象的領域において物質的自然を価値の源泉として認められないのか。
「当然のことながら土地は何か新しいもの、役に立つもの、人間にとって価値あるものを生産
する」と言いながら…..
「あなたの土地は、あなたの借地人の労働のゆえに地代となる以上の収穫物を生産することが
できる」と言う。
→ 土地所有者にだけ譲渡される地代が残る。
→土地所有者と借地人をお互い切り離して取り扱い、そうすることによって余剰生産物の異な
った取り分を区別する。
■労働の価値についての彼の理解は主として物象的基礎の上に築かれている。
なぜロックは物象的・物質的価値の源泉として労働を重視し、外的自然を軽視したのか?
背景1.ニュートン、デカルトなどによる、自然の分割可能性、計算可能性、物体化の強調
→人間と自然(Physis)の分裂を推し進める。
○人間と自然との間の生産的な対応を社会的な関係として認められない。→論理が破綻する。
背景2.「人間の行為の内的動機は、幸福と自由の追求である」
→エピクロス学派的な、快楽主義に近い自然法学説の、個人の快楽充足と功利追求を目指す幸
福。(←自己保存の衝動)人間の幸福追求=物質的富の追求
○人間個人の労働を前面に押し出し、「幸福の極大化」の過程で人間を取り巻く物象的自然を単
なる客観的な有用性に格下げする。高く位置づけられるべきものは、物質的幸福と人格的自由
であるとする、当時の市民階級の政治的、社会的な物の見方とも照応していた。
A 賃労働者の労働力は、価値の源泉と見なせるか?
・ロックは人間の労働を物象的価値の源泉として見なしたが、この労働価値理論は土地及び生産
諸手段の所有を前提としている。
→自然の諸財ないし土地の占有によって私的財産を形成するような労働に対しては無条件に当
てはまる。→ブルジョア階級の価値学説
■貨幣所有と賃労働の関係
賃労働関係:所有者と労働者は自由な個人として相対し、契約を取り結ぶ。契約に含まれてい
る権利と義務のみが有効である。この権利と義務に基づいて労働者は賃金をもらう。
→賃労働者は、彼の労働力のみを売る。労働者の労務によって作り出された生産物は所有者の
ものである。
■労賃はいかなる高さのものか。
・「最低生活費」の観点:
「そして事実、労働者を売買契約との関連で見るならば、彼らが自分の食料、衣服、道具を買うのにちょ
うど足りるだけの貨幣を持っているならば、彼らは自分の責任を十分に果たしたことになるだろう。」
→賃労働者は、彼が自分の賃金の等価物として受け取る商品、つまり消費財とちょうど同じだ
けのものを作り出すということを意味する。
○賃労働者は、彼が労賃の等価物として受け取る以上の価値を作り出すことはできない。
○ロックの労働価値学説の破綻:
・価値増殖が本当はどこからもたらされるか?-----この論理でいけば、余剰生産物は必然的に労
働の外側で作り出されざるをえない。
8.ロックにおける自然と社会:質料なき社会という論理構成について
・ロックの功績:中世の哲学を支配していた伝統的な自然法を、ブルジョア社会の発展と少なく
とも矛盾しないような政治的、倫理的、および道徳的見方へと転換した。
・自然と自然法
ロックの自然権の解釈:ストア学派的なものとエピクロス学派的なもの
※中世的な自然法は、「神の永遠の法」<lex divina et aeterna>という考えと結びついている。
・ロックの自然(Physis)観:創造の真っ只中に人間の本性を見ているが、「一切の知識は感覚
的経験に基礎を置くものである」→人間の限定的な認識能力の指摘。
・自然の富の有用性に関するロックの見解:自然は「それが正しい方向に向けられるならば、人
間にとって模範的な慈善の記念碑以上の利益になるのだ。
・真の科学:社会における道徳的及び倫理的評価の科学
・人間の本性について
○ロックの人間像理解の出発点:人間の生存に関わる生活基盤の保全
→「神は人間に労働を命じた」:人間の義務として見る。
→労働することは私的占有の形成を意味すると同時に自然の征服も意味する。
→自然を素材として見、生命連関として把握することがない。
・労働:人間が生き残ることを保証し、幸福を見出し、生活上の楽しみを増す可能性がある。人
間の幸福追求の出発点とする。
・幸福:物質財としての富あるいは私的財産の増大。
→外的自然に対する人間中心的な、かつ一方的に外的自然を細分化して利用するという方向で
の行為を求めることになった。
→現在の大量生産、物象的な生活へ…。
・自由:自分の意志を押し通すこと、行為を自由に選択することは自由の一部をなすものである。
幸福の追求が行為の基準であり、それは悪しきものを回避することとして規定される。人間が
不幸を回避することができるように行動しうることは人間の自由の一部だとみなされる。
ロックの人間像:人間なる自然がその物象的な生命連関から切り離されている。人間の生命を
権利の主張としてあらわす。
・物質を喪失した社会
■ロックの「道徳が真実の科学」であるという主張:
・「道徳概念」を自然および自然科学との対立において使用している。
○最高の幸福に到達するために、自然に関する包括的な知識は必要ではなく、道徳に関する包
括的な知識が必要である。
・「本来自然に関する科学というものは存在しえない」:自然を認識することには一定の限界が
ある。→人間は、幸福のために彼ら具体的な経験の世界において、彼らが欲するだけの自然資
源をいくらでも占有することができる、という考えへ…。
■倫理学と自然学の分離が引き起こしたもの:
・倫理学の優位性が失われる。:
科学としての倫理学は、物質的事象を問題とすることなく、個人相互間の社会的な共同生活の
規範を問題とするので、生産、分配過程のみが関心の対象となる。それは力関係及び契約関係
による制度的な規制と管理へ向かう。「物象的なもの」は社会生活におけるたんなる基盤、基礎
にしかならない。
・生活の概念:「生物学的領域」(:生物学的健康に最高の意味を持つ)と「社会的領域」(:本
来的な生活の内実と目標をここで追求)に分離。
→「最高の幸福」は、もっぱら道徳から導き出しうる。
■脱物質化した生活概念から引き起こされたもの:
・自然(Physis)を否定する性格をそれ自身含むような生産諸関係をもたらす。
・幸福、快楽、あるいは自由の定義は自然からの開放、自然と対抗したものとなる。→「自然状
態」はみじめなものである、とする。
・物質的自然に固有の要求を正当に評価しえない。
9.経済理論における自然像に与えたロックの影響------生産力の概念について
■
私的所有の形成に関する権利と、経済的価値の形成との間に存在している内的結合点
「意のままになる」自然の労働による占有は、同時に所有の形成過程であり、価値の形成過程
であるとした。
■ 生産力概念
社会的生産における物象的自然の占有の仕方を直接的に表現する。→労働によって生じる。
生産:生産過程の内部における、労働と自然間の相互作用
○しかし、ロックは自然が労働価値形成の手段にすることによって、自然生産性も労働生産性
の単なる手段として扱われる。このことによって、ロックが自然独自の生産力を認めることは
ありえない。
○物象的自然は一方で生産諸力の現実的増大に意義を持つが、社会の中での生産理論や価値理
論においては単なる手段となる。
Iwamoto
4章 アダム・スミスアダム・スミス(1723-1790)
ホッブズらの,人間の性格に関する悲観的判断に依りつつも,しかし,人間というものは社会的行動を求める願望を持っていると主張し,人間の本性に関する道徳哲学的な仮定と人間の個人的な行為によって成立する経済学的な法則性との融合の可能性を追求.=人間の利己主義と利他主義との妥協点を見つけだそうとする.
■スミスの経済学における自然の位置付け自然法の伝統に影響されつつも,経済的に行動する人間はもはやより高位の秩序から発せられる命令の下にあるのではなく,人間がこの秩序をつくり出すのである,という考え方へ移行.
=「人間個人がその中心に置かれた自然的秩序」の形成.
→自然法は,神によって人間に与えられた秩序から経済的および社会的法へと変化し,この法が 個々人に対して彼自身の経済的利益を追求する可能性を認めるだけでなく,さらにそれは現に 機能しており,裕福さを求めているブルジョワ社会にとって前提条件であることを宣言する.
「諸国民の富」
全体としての国民とそれを構成する個々の人間に幸福と富を約束するこの社会的構造物はどのようなものに見えるのであろうか.それはいかなる経済法則によって維持されねばならないのだろうか.
■スミスの(市場それ自体による秩序形成力によって規定される)経済体系
前提:自己の利害に従って自己保存と自己の幸福を意識的かつ自由に追求することができる人間 の存在.(経済的自由)
→人間はめいめいが自分の経済的利益を合理的に主張することができる. 人間はめいめいが自分の個人的な目標を持っている「ホモ・エコノミックス」として行動する.
・市場に関する均衡モデル
個人のすべての利害と決定は交換と市場を媒介としてそれぞれの社会的評価が与えられる.
→個々人の意志(私は○○が必要だということ)ではなく,その外側で作用する経済的法則性(互 いに利益を交換すること)によって,社会的秩序と個々人の最大限の裕福がもたらされる.
→市場の社会的価値体系を考慮しない私的な決定は,制裁を加えられ,その結果カオス的状態は 回避される.
=分業社会は市場及び競争の法則によって社会の内的結合性と同時に社会的価値尺度のもとに おける個人の経済的な最適行動のためのメカニズムを与えられるのである.
=市場は均衡状態を保とうとする.
なぜこの個人主義的な市場システムが当時の社会に対していかに革命的に作用せずにはおかなかったか?
■スミスの経済モデルが革命的であった点
それまでは神の秩序あるいは国家の権威主義的な支配として「上から」調停される状態にあった自然秩序とその機能諸条件を天上から引き降ろし,すべて個々人の責任のもとにおく.
→個人は,その利益と収益を追求する際,彼の行為それ自体をとおして社会的な自然秩序の保証 人となる.=秩序は永遠に存続する.
→ブルジョワ的・個人主義的な自然秩序は,個々の人間と全国民の幸福にとって決定的な条件で あるという説得力ある議論を提供.=ブルジョワ的個人にある強固な地位を与える.
→個々の市民に対して個人的自由を求める権利を経済的に主張する義務を与える.
+
社会的実践を求める.
→能動的な労働するブルジョワ個人が,自己自身に対して責任を持ち,社会的に秩序を形成する 主体として認められる.
社会的に秩序を形成するという社会的責任・行動する自由と自己の財産に対する保証
■スミスの失敗
彼は,資本家の搾取と,社会諸階級の抗争に関する命題を拒否し,経済的均衡モデルが機能しうる能力はまさに地位の等しい市場当事者達の公正かつ均等な分配にあることを強調し,資本の集中と独占を否定した.しかし,彼の論理は結果的に収入と財産の公正かつ均等な分配を要求することとなり,その点において経済的・工業的発展の現実を見誤り,市場経済的・資本主義的体制の成長と蓄積の法則と一致することができなくなったのである.
自然は経済学的理論の範疇としては消失する.しかし,アダム・スミスは経済均衡に関する彼のモデルの中で「自然的価値」から出発しており,また規制的な市場力による物象的資源の可能な限り最良の配分から出発しているのであるから,自然とその生産諸力は市場システムの中でどのように有効に働くか,という点が検討されねばならない.
■交換価値規定と政治経済学における自然の喪失
ペティ:自然と労働はなんらかの仕方で価値に含まれていなければならず従ってまた,両者は価値の構成部分である.
↓
アダム・スミス:生産物は交換の衝動と分業社会にもとづいて商品として交換され,したがって,生産物は交換において価値を持たざるをえない.
→交換価値の中に価値構成物として探り出されるのはもはや生産要素としての自然と労働では なく,交換価値が現実に存在しているということから出発して,この交換価値を分析すること が必要である.=交換価値の構成要素の解明
経済的・社会的価値=交換価値
交換社会=社会の自然形態
・労働価値学説 価値を生み出すものは労働である
「労働は一切の商品の交換価値の実質的尺度なのである.」
交換価値を労働価値として解明することで,労働は抽象的に把握されるものとなる.
交換される労働の量は,自分が購買できるその労働の生産物と等値されうる.
・労働価値学説は,資本の形成も私的土地所有もいまだ存在していない,最も低い発展段階にある諸国においてのみ妥当する.資本と土地所有が新しい社会関係として労働に付け加わるや否や,交換諸関係は変化する.
・生産要素学説 価値を生み出すものは所有への包摂である
「賃金・利潤および地代は,一切の交換価値の三つの本源的な源泉であると同時に,いっさいの収入の三つの本源的な源泉である.」
ここでおこる矛盾:地代は自然から生み出されるものではないのか?
交換価値の領域における自然要素の出現.
スミスは,外的自然の生産力が価値形成に対しておよぼす影響についてはなんら述べていない が,土地収入は少なくとも一種の自然収入として理解されている.
なぜ交換価値の規定にあたって労働が,厳密にいえば,労働と資本が価値生産的な要素として強調されるのに対して,物象的自然は,交換価値領域において全く消え去ってしまうのか.
■スミス的社会の構造:ブルジョア経済学における価値と自然をめぐる理解
スミスにとってのブルジョア社会
・個々人の分業(=交換)社会:個々人は交換諸関係によって相互に結び付けられており,この 相互結合によってのみ彼等の生存は保証され,保全される.
→この社会では,何が価値を持ち,何が価値と見なされるかは交換によって決定される.
=すべての社会的価値は交換価値そのものである.
→交換価値が十分に発展していない段階では,一定の労働力が交換されるが,発展した段階では 一定量の労働,資本,地代が交換される.
→交換価値が十分に発展していない段階では,社会的価値は一定の労働量として相互に交換され,社会的関係が価値の中に表現される.それに対して発展した段階では交換社会の内的連関性は,労働収入,資本収入,地代収入を含む価値量の等価交換から成り立つことになり,社会的価値は,労働量,資本量,あるいは土地の価値量として把握される.
スミス的社会において物象的自然が社会的価値を持つことができるのは,上述の交換価値によって規定された合理性に基づいてのみである.物象的自然は社会的価値に関する独自の範疇を持たないので,自然は経済的価値関係の分析対象でもありえない.
しかしながら,自然(地代)が価値範疇の一つに含まれる場合は事情が若干変わってくる.地代規定にかぎってなぜ,スミスは彼の価値理論において外的自然の生産力を交換価値の価値構成部分として認めざるをえなかったのだろう.
■地代は何から生じるか?
1.地代は自然の純生産物である
2.地代は労働の純生産物である
3.地代の中にはすべての土地所有に関して土地所有者の独占価格が実現されている
4.地代の中には特定の優等な土地所有に関して土地所有者の独占価格が実現されている
土地所有者が地代を求める場合,彼は自然生産物としてそれを求める.
→土地収入は単なる収入源泉であるだけでなく,価値源泉でもある.
→地代の中に自然的な価値生産性だけを想定せざるをえない.
=自然の仕事は地代の中に自らを体現している.
∴スミスは自然要素を交換価値の源泉として特徴づけている.
↓(反論に答えるために)
スミスは自然の生産力を直接的に自然力として理解していたのか?(NO)
スミスの地代解釈
誰の所有物でもない土地に果物がなる.そこには人間の労働はほとんど関与せず,人間は単に それを採集するだけである.そこにはいかなる経済的・社会的関係も作り出されない.
→その土地が誰かの所有物になる(土地所有者の出現).
土地の生産物(物象的生産物)は土地所有者と土地耕作者という社会的支配関係の諸制約の下 に置かれ,そこで初めて社会的価値が生まれる.
→地代とは,一種の社会的価値の生産方法であり,その社会的価値のもとに置かれた自然が有す る素質の究明が重要となる.
しかし同時に,地代を労働価値として理解することも可能である.
マルクスによるスミス解釈:スミスは地代を価値源泉としての労働に帰属させている.
土地の生産物=労働の生産物
地代は剰余労働によって生み出される剰余価値.
地代は労働者によってつくり出された剰余価値の特殊な形態(=利潤)
結果的に,自然生産物は,それが土地所有によって包摂されるか,それとも労働と混和されることによって,その社会的価値を受け取る.スミスは「発生した交換価値は労働量で測られるべき」であるという点,また「自然,自然諸力及び自然生産物を交換社会の社会的価値基準に従属させるべき」という点については確信を持っていた.しかし価値の発生を「労働に起因させるべきか,それとも所有への包摂に起因させるべきか」ということについては,それらを決定的に区別することはできなかった. |