INTRO FIELD BOOK HTML PLANT TOP

LC JOURNAL,No138、(社)日本造園コンサルタント協会、(1998.5)
特集/サステイナブル・ディベロップメントへの挑戦


持続可能な社会と環境保全

九州芸術工科大学芸術工学部環境設計学科 朝廣 和夫

■はじめに

「さても、またか」、昨今様々な事件が新聞に書かれている。経済では銀行・証券会社の倒産、政治では官僚汚職、都市では交通事故や少年犯罪の増加、環境問題ではダイオキシンをはじめとする環境ホルモンの危険性。一方、長く続きそうな不景気と少子高齢化問題などを考えると、増えない給料と上がる税金のはざまで家庭は苦しい生活を余儀なくされ、行政も国民の生活を反映してそうそう借金を重ねてまちづくりを進められない。戦後50年、日本は諸外国に追いつけ追い越せと発展を続け、新しい技術を大量生産ラインに乗せ全国津々浦々に普及できるシステムを構築した。ハード面では道路や公園、上下水道、ソフト面では地方自治体の各種サービスや学校教育など、私達は全国どこにいてもほぼ一定の便利さを享受している。しかし、昨今いわれているこれらのシステムの硬直化は多様性の欠如と創造性の欠落をもたらし、時代の流れに対応できずに破綻するものまである。「持続可能な社会」や「環境保全」などのキーワードがこれらの社会的背景の中で脚光を浴びているのは、将来のまちづくりや地域づくり、学校教育や家庭における市民一人一人の新しい取り組みを必要としているからである。筆者は干潟、山林など自然とのかかわりを通して、持続的な社会へのヒントを以下に記していきたい。

■持続可能な社会とは

「持続可能な社会」とは何か、これについては本紙のNo.132, 環境特集号の中で深く取り上げられているのでここでは記述しない。しかし、この言葉の意味する重要なポイントは「生き残ること(survival)」、「生存」にあると考える。持続可能な社会が目指す目標は経済と環境の調和、自然生態系との共存であるが、人間という種を将来にわたって絶やさないという究極的な目的が存在し、外部、もしくは内部の攻撃から種を守るという安全保障的な考え方が含まれている。私達は今後の社会の将来を考えるとき、この点を深く・真剣に考えて事に当たっていかなければならない。鹿児島大学の森本雅樹教授は、日本造園学会九州支部大会の基調講演で「繁栄しすぎた人間を滅ぼす自然の摂理はすでに発動されてしまった」と述べた。環境を守るのではなく、自然の「摂理」と真っ向から戦う意思が必要だというのだ。例えばボタン一つで全世界の人々を何回でも殺すことができる原子爆弾は人間が自ら招いた摂理であろう。繁栄しすぎた生命は生存基盤である自然環境を食い尽くし、病原菌などの外敵にも弱い体質となり激減する。まさに人がその対象となろうとしている。

日本は高度経済成長以降、工業製品の輸出を伸ばし、石油や食糧等の輸入を増やしてきた。工業と都市圧による自然環境の破壊、国内農林漁業の弱体化は自然の生産性や多様性を過度に損なわせ生態系を攪乱してきた。しかし、これからの私達の社会は低成長時代に入り都市や経済の諸問題との絡みの中で、摂理に対抗し得る持続可能な自然環境や人のライフスタイルを確立しなければならない。自然許容量を越えない生活・廃物システムを確立し、特に都市は周辺自然環境に迷惑をかけないよう発展を厳に慎むべきであろう。生態系の一部となり得るライフスタイル・都市空間の見直しと共に、自然と関わりの深い生活・産業のあり方が求められるべきである。

 

■母なる干潟の将来の位置づけ

筆者は学生時代に建築や都市計画、ランドスケープを学んでいたが、ふと、ある時「干潟はなぜ大切なのだろうか」という疑問を抱いた。自然が大切だからという説明に納得できず、諌早湾で活動されている日本湿地ネットワーク代表の山下弘文氏を訪ねた。今は無き小野島堤防近くの干潟に入ったのが初体験であったが、生暖かい泥の中からは見たこともない生物たちが続々と掘上げられた。その日は様々な貝を採り、漁師さんには七色に光るシャコを分けていただき、ガザミを買ってみんなで飲んだ「美味い」、しみじみと干潟の大切さを感じた一瞬だった。ここでの驚きは、まさに私達が歩むべき将来を感じたからである。川を伝って山や都市から流れ出す有機物を、干潟は化学肥料も人手もかけずにこんなに美味しい食糧を生産している。干潟は自然の中で最も重要な有機物処理場であり生物生産工場なのである。

干潟の現状をさらに深く知るために福岡市の今津干潟において干潟の形成過程や生物・土質調査を行った。魚介類が大変豊富だった昔の干潟は近年の都市化による河川水の富栄養化により潟が泥質化し、藻場はなくなり生物多様性の貧化が明らかとなった。いつしか人々は先祖が歩んできた干潟との営みを忘れ、背を向けた私たちの側で様々な生物たちが顧みられることもなく消滅していった。都市開発や人工システムに偏った私達の嗜好がその原因であるといえる。

現在この今津干潟は以前ほどの豊かさはないが、多くの野鳥が舞い飛び無数のカニ達が戯れておりまだまだ貴重な自然環境である。今後、この干潟の生物多様性や水の浄化等の生態的な機能を高めることができるならば、私達は豊かな景観や美味しい食糧、遊びを含めた環境教育の場を享受することができるだろう。このような場を病んだ都市近郊に確保できればこれほど貴重な環境資源はありえない。この干潟のデザインには「大切だから保全しなければならない」という観点だけでは不十分で、山、川、農地、都市、海等の周囲の環境との繋がりを明らかにし、山から海にかけてのトータルなマスタープランと、自然のシステムを取り入れた周辺のデザインを考えなければならない。何よりも豊かな魚介類を呼び戻すことが大きな目標であろう。

 

■生命を育む山の多様性

最近、研究絡みで雑木を求めて山へ入ることが多くなった。農家の方に分けていただくようお願いに上がるのだが、山にはスギ・ヒノキ林ばかりで雑木林がほとんどない。古老の話では、戦中戦後は炭の生産のために山は雑木ばかりであったが、人の生活が変わると共に山の様相も一変したそうである。都市との経済的な結びつきの中で植生環境は著しく変化を伴い、近年においてはスギ・ヒノキの供給過剰と材価の低迷をもたらし、多くの山林が放置されつつある。これは干潟が都市の影響により生物多様性を貧化させたように、山も都市の影響を強く受けすぎ多様性を欠いた様にみえる。最近「魚つき林」という言葉を耳にされたことはないだろうか、牡蠣などを養殖されている漁師さんが山に植林をされている活動である。広葉樹の落葉などが山で分解され養分として川を伝って海まで運ばれ、そして牡蠣の餌となる植物プランクトンを育てる。まさに山の多様性が海の多様性を育てている。よく山の緑は木材生産や水源涵養機能についてその役割が協調されがちであるが、人を含む生物多様性が生活圏の文化的・生産的豊かさを育むことも重視されなければならないのである。持続可能な生物環境を求めるならば、雑木などの様々な植生を山に復元し、山で生活される人々が自立できる新しい産業開発が極めて重要である。

筆者は九州芸術工科大学で重松敏則教授と雑木を利用した法面緑化手法としての幹挿しの研究を進めている。萌芽してきた雑木を一部伐採し、60cmぐらいの挿し穂に加工して近くの法面に挿し付けるというものである。これは、現在炭の焚き付けとしか利用されない雑木に対し山村の人々に挿し穂の代金を支払えるという産業が成り立つのである。また、裸地の早期樹林復元に向けて期待される技術であり、かつ、雑木の除伐は次の世代の樹木を育てる上で生物多様性の面からも大きな意味がある。

 

■都市における水環境の復権

山で育まれた水が海の生命の源となるように、生態系を活かすデザインを創造するには水の流れを再考しなければならない。昔から人々は洛中や農村に用水を引き、多くの人々が同じ水を利用することからその扱いには知恵を巡らし汚さないよう努めてきた。用水の水は川や湿地、水田などを出たり入ったりすることで自然に浄化され、人のモラルもあって下流まで利用可能な水が流れていた。

さて、私達の周りの水は現在どう流れているだろうか。農村では住宅からの雑排水や農薬などにより水が富栄養化したり汚染されることが多い。下流では取水された水が上水を通して都市で利用され、下水処理場から富栄養化したまま海近くの川や浅海に放流される。都市内に降った雨はすぐさま側溝に流れ込み、土壌に浸透することもなく川や海に流される。富栄養化した水を干潟は浄化しきれずに、海では赤潮を引き起こす原因となっている。問題点は水の汚しすぎと陸上での循環・土壌への浸透・浄化が十分に行われていないことにあり、人のモラルと水循環のシステムを再構築し考え直さなければならないのである。

生活に密着した水の問題を解決する筆者の考えるポイントは、汚した水は利用者に近い各家庭・各場所などで処理し、一人一人が関係できる場を設けることである。上流では汚した水は合併浄化槽や集落排水、自然地などで処理を行えばきれいな水を下流に流すことができる。都市では上下水道のシステムが必要であるが、市民がその管理に水道代という金銭面にしか関われないことが、人のモラルの低下を生む問題点となっている。その改善には人が水と関われる場を雨水や処理水を利用して都市内に創造してはどうだろうか。例えば各家庭が雑排水の浄化装置や雨水の貯留場所を作れば、より身近に水と関わりを持つことになる。公園や干潟の近くにたくさん湿地を作れば、多くの生物たちがその環境を利用できる。養分で育った植物の管理は必要になるが、水や自然と触れ合う良い市民参加の場となり積極的に住民を取り込むことが可能だろう。更に自然に前向きな姿勢を考えるならば、その養分で私達の食糧を生産できないだろうか。野菜や果物、魚介類などが生産できれば豊かな生態系を都市に構築したといえるのではないだろうか。各家庭の菜園や、都市近郊の農地は水の循環・浄化という新しい役割を担い、より楽しい市民参加の場となるだろう。

■おわりに

本テーマでもある「環境保全」という言葉から、以上の論点が少しずれているように感じられた方がおられるかもしれない。従来の環境保全は貴重な動物や植物、また屋久島や白神山地などにスポットが当てられてきた。しかし、「持続可能な社会」という私達の生命に関わるテーマが加わることにより、より身近な環境が最も考えられなければならないのである。食料や水環境の生産・管理は第三者に全てゆだねるものではなく、市民一人一人が日常的に地域の中で関わり、そのノウハウを蓄積させなければならない。その活動と住環境が豊かな自然環境を育むのではないだろうか。人間の生存のために環境と経済の調和、自然生態系との共存が実行されるべき時が来ているのである。