「九州の建築」 毎日新聞西部版夕刊:?年
大分県立図書館(磯崎新)
過去性の新たな意味づけ
土居義岳

 大分市の「アートプラザ」が2月にオープンする。
この建物はもと大分県立図書館であり、設計者は世界的に有名な磯崎新である。
 一九六六年に竣工したこの建物は、同年の建築学会賞を受賞するなど、六〇年代を代表する傑作といわれていた。しかし九〇年代にはいり図書館機能が膨張すると、県はあらたな図書館の建設を決定したが、そのために旧図書館は一時取り壊されることになっていた。九二年からはじまった取り壊しか保存かの議論は、九四年、保存して市の美術ギャラリーとして活用することで落ち着いた。
 その間、志のある地元建築家たちは保存運動に奔走し、観光業界は磯崎建築の観光資源としての価値を強調し、マスコミもおおむね保存運動を後押しした。磯崎本人もシンポジウムなどによって県民に直接語りかけることで、保存の主体であるべき県民にアピールした。
 戦後の近代建築も保存の対象にされはじめ、それを援助するために登録文化財制度なども整備されてきた。それでも近代建築の価値に関する一般的な理解は不十分である。
 五〇年代、六〇年代は戦後の復興期と高度経済成長の時代であり、戦前の豊かな時期と七〇年代や八〇年代の成熟した時代のはざまである。だから戦前に資金を惜しまず建設されたもののほうが、戦後の安普請よりもはるかにできがいい場合は多い。また五〇年代は清貧の美学に甘んじた時代であり、造形的にもサービス精神は豊かではない。
 しかしはざまの時代には観念の豊かさがある。旧大分県立図書館の場合は、磯崎新の「プロセス・プランニング論」である。
 磯崎がその設計思想を明かにしたこの論は、いわゆる成長する建築のためのものであった。今後県の人口や蔵書の増加に対応すべく、既存の建物のデザインを破壊することなく、一体化したかたちでの増築を可能にした、というのがその趣旨であった。それは建物の表現にも表われており、将来の増築を見込んだ仮想の建物を「切断」したものが現在の建物だ、というふうに説明される。そういえば正方形の端部を露出させている梁は、そうした切断の行為を象徴している。
 しかしこれはいわば「実体的レベル」の解釈であり、じつは「観念的レベル」における解釈も用意されていた。つまり磯崎によれば、人口、予算、蔵書数などのデータはどれも曖昧で計画の根拠とならず、また公共建築には政治家や住民や業者などのさまざまな利害が反映されるものだから、決定の根拠はない。だから建築家がなしうるのは、その曖昧で他者の介入によってどんどん姿を変えてゆく仮想の建築を、ある時点で「切断」することで、現実のものとすることだけだ、と彼はいう。
 これは日本の社会ではいわゆる「主体」は確立しにくいということを、建築の実践において表現したものである。日本における近代的自我の確立しようとした中井正一らとは逆の立場がここにある。磯崎は一九九七年の「海市」展や「日本の夏?1960-64」展でも同じコンセプトを展開している。「主体」を消滅させるということは彼の建築の大テーマのひとつなのであるが、その探求が始められたのがこの旧大分県立図書館においてであった。
 空間的な側面においても、この建物は魅力に満ちている。中央のロビーはトップライトだけからの採光でプールの底から水面を見あげているような印象を受けるし、閲覧室はこんどはおもに水平の窓から採光されている。こうした採光システムの転換によって、空間が劇的に変化している。この閲覧室は地上二階レベルで、周囲が水平の切れ目がない窓であるから、書架が撤去されるとそこは広い台地のように感じられる。それが府内城址の石垣と対話している。外観は無骨だが、内部空間までもがランドスケープ的に考えられているのである。
磯崎の観念の豊かさとともに、こうした空間のみずみずしさに多くの若者が感銘を受け、建築をめざした。筆者もそのなかの一人である。
 古建築、近代建築、現代建築などというほとんど業界用語的で便宜的な区別はどうでもいいことだと思う。ここでは「古さ」と「過去」の違いについて考えたい。
 「古い」は、時代遅れの感性にもとづく絵や彫刻、一六ビットのパソコン、使い込んだ鞄のことをいう。それは「現在」を基準にして、それにそぐわないものをいう。しかし「過去」は、「現在」から独立しており、私たちはそれから距離をとりつつ畏敬の念をいだく。
 しかし「過去」はたんに失われたもではなく、私たちの目の前にある。天空を眺めるとそこには、一光年離れた恒星の一年前の姿、百光年離れた恒星の百年前の姿、一万光年離れた恒星の一万年前の姿など、さまざまな無数の「過去」が併存している。おなじように都市においてもさまざまな過去が併存している。旅人が星座によって位置を知るように、さまざまな「過去」によって私たちは自分を知る。建築はそうした「過去」を、そして「過去」によって構成されている人間を消去しないために保存される。
 「過去」は失われたのではなく、生々しく「現在」のなかに露出している。そうした新しい時間意識において、建築と都市と風景をあらためて眺める。「古い」は忘れられるが「過去」はなんども反芻され、記憶のなかに鮮明に刻まれる。「古い」ではなくポジティヴな意味で「過去」となった建物は保存されるべきだと思う。
 二〇年前にはじめてこの図書館を訪れ、空間がみずみずしくありうることを知った筆者自身の過去が、この保存によって、消去されなかった。私一人の存在と権利の名において、私は関係者の方々に感謝しつつ、この旧大分県立図書館の存続を祝福しようと思う。