「九州の建築」015
メトロポリス的なものと都市的なもの
「コアやまくに」の建築的意義

毎日新聞西部版夕刊:1996年9月13日
土居義岳

 私事で恐縮だが、日本の現代建築を題材とする写真展の企画に参加している。作品の選定が主な仕事だが、作品が成立する枠組みとして「メトロポリス」と「都市(シティ)」はかなり明確に区別できるのではと提案したら、意外に賛同を得た。
 栗生明設計によるコアやまくに(大分県下毛郡山国町、九六年春竣工)を見て、その選定会議のことを思い出した。山国はむしろ「町」であるが、この複合施設はなによりも「都市」の理念を強く表明しているように感じられたのである。
 山国は人口四千人、老人人口がその三分の一を占める、典型的な過疎の町である。栗生氏自身の説明によれば、この町を伝統工芸などの地場「産業」ではなく、生活や文化に関する「環境」の質を高めることで、再活性化することが求められた。そのため劇場、博物館、アトリエ、町民広場(タウンホールと呼ばれる)、ギャラリー、会議室、図書館、店舗、銀行、市役所等といった都市的生活に欠かせない機能を集中させて複合建築とした。これはある意味で、CIAM(近代建築国際会議)において一九五一年に提案された「都市のコア」という理念の復活でもある。 
 造形的には、様々な機能が個々のボリュームに納められているが、それらは冬はスケートリンクになる池の周囲に配置され、かつガラス張りのアトリウムによって結合され、景観のレベルでは塔によって統一されている。外観は、亜鉛アルミ合金でメッキされた鋼鈑とガラスで統一されている。
 特に池と町民広場は秀逸で、塔もあることから、ヨーロッパの小都市の広場といった風情である。遠景においては塔とガラスのアトリウムが目立つ。この塔は景観としては色々と議論もあろうが、それほど違和感はなかった。しかしこの建築は、外部からモニュメントとして見るためのものではなく、景観を見るためのフレームである。例えば町民広場におかれた椅子に腰かけて、山の緑や町の家々、そしてそれらが池に映る光景を見ることは、郷土意識を高めよう。郷土への愛情は、風景へのそれを通じて育まれることはしばしば指摘される。自治都市の伝統のあるヨーロッパは、都市の隆盛期に俯瞰的な都市図が描かれて景観への意識が高まったのであった。
 つまり栗生氏は、山国が田舎であり田園であることを強調するのではなく、むしろ「都市」としての質を高めた。といっても都会の価値観を押しつけたのではない。彼は二年間調査をし、住民の要望などを聞いた上で、この建築を企画した。町おこし、村おこしにはえてして民芸調のデザインが採用されることが多いが、これは都会人の目を意識して田舎の特質を強調することである。山国は、そうした他者の目を意識したデザインではなく、町民自身の生活の質を高めることで、独自の価値をもとうとしている。ここにこの建築の新しさがある。たしかに公共施設の親密さは、大都市圏では想像できないものである。
 さて最初の話題だが、「メトロポリス」と「都市」はまったく異なるのである。「都市」はある意味で普遍的であるが、「メトロポリス」は二〇世紀特有の現象である。つまり旧来の都市にますます人や物や情報が集積した結果、まったく次元の異なるものとなった。
 一方、いわゆる都市化が進んだ今日では、ライフスタイルは大都市であろうが地方であろうが大差なくなった。そうすると旧来の都市対田園という対立図式は大きな意味をもたなくなった。今日ではメトロポリス対都市という図式にむしろリアリティがある。
 都市は市民すなわちそのメンバーの顔がある程度は見える調和的な社会であり、また都市計画もリーダーシップがとりやすい。メトロポリスは互いに他者のみからなる社会であり、調和よりもそれを内部から打ち破ってゆくエネルギーが過剰であり、ここでは土地も空間もすべて資本主義的なシステムに組み込まれており、その都市計画には間接的な介入しかできない。
 一九世紀までヨーロッパの都市は明確にその限界(例えば都市壁)があるものであったが、二〇世紀になると都市は成長するものと考えられるようになった。つまりメトロポリス化が現実のものとして認知された。一九二四年のアムステルダム国際都市計画会議において大都市圏構想が議論されたのは象徴的な事件であったし、レム・コールハースの『錯乱のニューヨーク』は建築の立場からこのメトロポリスを分析したのであった。一方、前述の「都市のコア」の概念は、都市の成長主義を批判し、伝統的な都市の調和のとれた空間の重要性を説くものであった。コアやまくには、こうした文脈でとらえてみれば、極めて興味深い例であることがわかる。
 「メトロポリス」指向のプロジェクトとしは、九州ではハウステンボスやキャナルシティが思い出される。実はこうした手法は、民芸調の村おこしの手法とも根底のところで繋がっている。どちらも不特定の他者を念頭においた一種の虚構であり、虚構を楽しむこと自体が目的とさえされるのである。
 デザインにおいてメトロポリス路線と、都市路線ははっきりと区別できると思われる。もっともここではその是非を問うものではない。それははっきりと認識されていればよいことであろう。しかし九州はどちらの路線がふさわしいか、じつに微妙な立場にいると思われる。九州のリーダー的な都市は、東京や大阪を追ってメトロポリスたろうとしているのか、そこにない価値をもとうとして「都市」を目指すのか、私は興味深く拝見させていただいている。<hr>

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