「九州の建築」毎日新聞西部版夕刊2004年5月7日掲載
建築の「ルーム」概念 世界への窓として
塩塚隆生のプラーベートギャラリ(大分)と入江のゲストハウス(大分)
土居義岳

 建築のエッセンスはなにかという古くて新しい問いがある。かつては柱と梁がそうだと考えられた。最近では建築とは現象であり、都市は迷宮である、といううがった見解もある。それらはときに形而上学的でもあり、ときに深淵である。共通しているのは、本質がただちには目や触覚ではとらえられないということだ。柱と梁は、壁や内装で隠されていることが多いし、ましてや都市の迷宮などという発想は、見えないことが本質だという考え方である。
 では反対に、最も直裁に認識できるものはなにか。それは自分が今たたずんでいる「部屋」である。隣や上下に別の部屋があるという事実は、記憶と常識によってわかるが、直接に認識することはできない。人間の身体に注目すれば、結局のところ、人がそのときどきに知覚するのは、まさにその当人がいる部屋という領域である。
 こうした主旨のことを述べたのが、アメリカ二〇建築の巨匠ルイス・カーンである。部屋(ルーム)は、こうした意味で、自己の延長であり、建築の始まりである。それは空想する以前にすでに目の前に直截に存在するものであり、そこには固有の光、名前、完結性がある、のである。
 そしてこの部屋は、完全に閉ざされた密室ではなく、窓があり、外の世界を知覚できる。それは外と内の関係、ひいては世界と人間の関係を規定している。
 こうした「部屋」の可能性を展開しているのではないかと感じられる建築家がいる。塩塚隆生さんである。彼は大分を拠点に活躍している建築家であり、住宅や店舗を中心に公共建築も手がけており、専門誌にはたびたび登場し、受賞歴も豊富である。
 大分市内にある「プライベートギャラリー」は、鉄筋コンクリート造の三階建てで、三室が上下に積み重なっているという単純なものである。しかしここでは、上の階の部屋は下よりも数十センチずらして積み上げられる。そのことで内部と外部の関係がまったく変わっている。まず道路側の壁は、まったく窓がないので、車の騒音が気にならない。光は、上階の壁とこの階のそれとの隙間にあるトップライトから入り、内壁面を柔らかく照らす。庭側の床は下階から、空中に張り出すかっこうなので、床に換気口をつけることができる。庭側にはコンクリートの壁はなく、全面がガラスとなっている。また換気は床下から取り入れるので、このガラス窓にはサッシがなく、いわゆる嵌め殺しである。風景を縦断する邪魔なサッシはない。これは窓というよりガラスの壁、である。そこから住宅地の景観を大胆に取り入れられるようになっている。
 すなわち光のためのトップライト、換気のために床下窓、景観のためのガラスが完全に機能分化されている。それにより各開口部は、より純粋にその性能をじゅうぶん発揮できるようになっている。
 「入江のゲストハウス」はやはり大分県にある。その名のとおり海に面した別荘である。これも単純なハコであり、丘を背にして海に向かって開いた筒といった感じである。単純だが、外と内の関係は入念にスタディされている。地形といえば、まず海底は岸にむかってしだいに浅くなり、海岸となり、すぐに丘となって上昇する。それと平行するように、床は奥ほど高くなっている。部屋全体が、緩やかな階段室といった感じである。
 この部屋のテーマは海の知覚である。部屋の奥から海を眺めるとき、その開口部が額縁の役割をする。このとき、視点が低い位置にあると、水平線は床からごくわずかの高さの位置までしかこない。光景の大部分を占めているのは、じつは空である。しかし視点が高く、ほとんど天井に届きそうな位置にあると、水平線は額縁のなかを上昇して、枠のほとんど大部分を占めるようになる。
 視点の高さが水平線の高さであるというこの原理は、ブルーノ・タウトが熱海に設計した日向邸を彷彿させる。タウトは丘の上に建設したこの別荘において、おなじ視覚の原理で、遠くの海を近くに引き寄せたのであった。
 原型としての「部屋」。それは密室ではなく、世界を切り取る額縁でもある。建築家・塩塚隆生さんは、身体を限定し閉じこめるとともに、光、空気、光景といったさまざまな要素をコントロールして身体と世界の関係を調節する。そうした意味では身体の最小限の延長であり、建築の本質であるとするのもうなずける。


(なお写真は塩塚隆生さんご提供のものです。
 ありがとうございます。)