安積遊歩さんの語り
 NPO法人エスタスカーサ(交流スペース) 2007年7月12
講師紹介(知足) 安積遊歩さんの紹介を簡単にさせていただきます。安積さんは主に障害を持つ方々の自立をサポートするカウンセラーとして活躍されています。それだけでなく、1994年に行われたカイロ国際人口会議において優生保護法についての問題提起をされ、母体保護法の改訂への糸口をつくる、など様々な活動をされています。講演後は参加者一人一人の方から安積さんに感想等のお言葉を送っていただき、繋がりが生まれてほしいと考えています。この会場であるエスタスカーサは障害者のホームヘルプを中心に活動しながら、障害者・子供・お年寄りの方々が共に居られる「場」を作ろうとしています。この交流スペースは民家を改築し昨年オープンしましたが、安積さんはここで行う講演会の最初の講師の方ということになり、この記念すべき日を喜んでいます。
泣くということ こんにちは。安積遊歩です。せっかく会場を準備していただいたのですが、やはりお互い気持ちよくやったほうがよいと思いますので、車座になっていただいていいですか?私はテーブルの前に行きますので。お互いの顔が見えたほうがいいかなと思います。小さな若い人が(会場には15人の幼児がいる)お母さんやみなさんに見守られながら話せたほうがいいものね。


 自己紹介をします。私は東京都の国立市というところから来ました。出身は東北の福島県です。51歳です。50年前の地方都市で過ごした日々の過酷さを思い返します。この会場にいる若い人たちは2、3歳でしょうか? 私は2歳ぐらいまで男性ホルモンをたくさん注射されていたので、よく泣いている子だったと母から聞いています。とにかくとても骨が弱く簡単に骨が折れるのです。実際、主に両足の大腿骨が約20回折れています。太腿が折れるとすごく痛いのです。しかし何がよかったかと言うと、泣くことを聞いてくれる親がいました。それから大きな声で叱られたという記憶がほとんどないということ。10代の頃父親と大激論をして大きな声をだしたことはありますが、でも泣くことを止められたことはないのです。5、6歳の頃、口が達者だった私は医者や看護師に向かって「ヤブ医者!」「もう一度勉強してこい!」などと言ったそうです。(笑)お医者さんたちは、なんて生意気な子でしょう、と言っていたらしいですが、私の代わりに母が謝っていました。そして私は痛いことは痛いと言っていいと、つまり「私の身体が教えてくれる感性」を押さえ込まなくてもいいと思えたことは、幸せなことでした。たくさん泣き、また身体の声を口にだしても脅かされなかったのです。小学校4年くらいまで大量の注射をされ、レントゲンはその重みで棚の棚板が抜けるほど撮られました。このような過酷な治療をされながら、それでも泣けたということ、身体の痛みを主張し聞いてくれる人がいたことによって、今の私の素地ができたのだと思っています。自分の心や身体の声を、小さな子は周りに伝えようとしますよね。それが涙であったり、笑ったり、はしゃいだりということなのですが、それを「受け止めてくれる人がいるかいないか」が自己信頼できるか・できないかに大きく影響するのではないでしょうか?これは私が自分の身体で感じていることです。

療育園  小学校5年の時に療育園に行きました。このエスタスカーサが本当にいいなと思うのは、様々な人がいて自然なのです。養護学校は障害をもった人だけがいるところ、つまり特殊なわけです。治療があったので小学校高学年から通ったのですが、しみじみ隔離された生活がいやになりました。そこで中学校は地域の学校に行こうとしたのですが、施設(療育園)の職員や養護学校の先生方から軒並み反対されました。そこで13歳の子にしてはよく考え、自分の意思は曲げないぞと園長先生に直訴しました。直訴が通って地域の学校に帰ることができたのです。みなさんも自分の声をどうやって表現したらよいか、どうぞあきらめないで絶えず考えていってほしいと思います。ほとんどの子はあきらめてしまいます。療育園や養護学校にきた障害をもつ仲間たちは、地域の学校ではあなたは受け入れてはもらえないのだと言われ続け、長い子で12年も居続けることになるのです。私は小学校4年生まで普通の学校にいましたから、地域の人達に会えなくなるという事にとても飢餓感を持ちました。


 療育園に入った時の思い出があまりに強烈だったので、私はあきらめなかったのだと思います。私は大好きな母親から離されて療育園に入り、最初の一週間を泣き暮らしました。みかねた看護師が、私をレントゲン室に連れて行きました。そして説教を始めたのです。「ホームシックになって泣いていいと思っているのか!泣いてばかりいられると、他の子にも悪影響を与える。いつまでも泣いてるんじゃない!」大人が大きな声でいさめようとする時は必ず反撃する、というのが小学校4年までの私の習慣でした。「私は母親から離れて悲しいから泣いている。なぜ泣いてはいけないのか。周りの子に遠慮して泣かないなどおかしい」と。ある種の大人というのは大声で説教すれば子供は黙るものだ、と信じている方が多いのです。でもそれは嘘です。もし子供が黙るとしたら、あなたのことが本当に恐ろしいだけなのです。子供の前で、あなたは「人間」ではなく「モンスター」なのです。彼女はさらにモンスターとなり怒りました。その時私は気づきました。私が今まで反論しても大人が黙ってくれたのは、そばにいる母親が間に入って謝ってくれていたからだと。母親がいない今、大人はさらに言い募ってきます。最後に私は絶叫しました。「お前は地獄の番人だ。私を天国にかえしてくれ!」(笑)すると、彼女はフッと笑い「少なくとも一ヶ月は、お前の母親がここに来ないよう電話してやる。」と勝ち誇ったように言い残し、レントゲン室の重い扉をガチャンと閉めました。そこで2、3時間、閉じ込められたのです。私は生まれて初めてチャイルド・アビューズメントを受けるという経験をしました。一瞬にして気づいたのは、味方がいないところで戦う事はこんなにも悲惨な結果を生む、ということなのです。それからの2年間は、大人の顔色をみることを学びました。と同時に顔色をうかがいながら自分の意見をどう表現すればよいかを学んでいったのです。とても残念なことに、今の子供たちの多くはあまりにも「大人の顔色を見ることはあたりまえ」という育ち方をしていると感じます。私はこの経験によって、どのようにして味方を増やしていけばいいかという事がひとつのテーマとなりました。

学校の受け入れ  ここで世の中の障害者差別がどれほど強烈なものか、ということを少し分かち合っていただきたいと思います。なぜならば、ここにいる皆さんの誰もがいつでも障害を持つことできる方ですから。おめでとうございます。(笑)どのような方でも後天的な障害者には一瞬にしてなることができます。ですから、その時に隔離されたり差別されたりといった悲惨なめにあうことがないような社会を作っていかなくてはなりません。
 療育園を出た私は、すぐに地域の中学校に入ることができると思っていました。そこで園長室の扉を開け「私をここからだしてほしい!」と直訴し、ワッと泣き崩れました。園長先生は想像もつかないことがおこったので「わかった、わかった」と言ってしまいました。そこで私は廊下に飛び出て「園長先生がいいと言った。私はここをでる!」と宣言して歩いたのです。これは親の同意を得ながら、半年間ほど煮詰めた構想だったんですよ。(笑)

 しかし、すぐ入れると思っていた中学校の校長先生が、いとも簡単に拒否してくれたわけです。この時代、障害のある子供を受け入れるかどうかは校長の胸算用でした。私の中学校就学の権利は、こうして宙に浮いてしまったのです。隔離されること、トイレの時間まで決められてしまう生活が本当にイヤでしたから、療育園にはもちろん帰る気はありませんでした。ですから13歳の3学期、私は学校に行けませんでした。不思議なことに学校側ではそのことを問題にさえしませんでした。13歳の少女が教育を受ける権利を剥奪されているにも関わらず、障害をもっているただその一点だけのために問題視されないのです。誰も注目してくれず、手も差し伸べてくれなかったということは、私にとってひどくつらい体験でした。私たち障害者が社会の中でどういう位置にいるかということを、学ばせてもらいました。手を差し伸べてくれたのは親だけです。母親がお百度参りのように学校に通い、市や教育委員会を動かそうとしました。ありがたいことに私を拒否した校長が退職してくれたのです。それ以来、歳をとることはほんとにいいことだと思っています。(笑)

 新しい校長先生もひどく差別的なお顔で私をみたことを覚えていますが、教頭先生や先生方が私を受け入れてくださいました。私は味方がいないことがどれほど辛いかを痛感していたので、仲間を作ろうとして中学校に来たのですが、思春期において味方を作ることは困難でした。でもひとつ思い出があって、私をいじめていた男の子達に助けられるという経験をしました。その頃私は叔母さんに車で送迎をうけて通学していました。その日の下校時、急に叔母に用事が入り連絡もとれないまま、私は学校で待ち続けていました。するとその男子たちが「安積今日お前どうするんだ?」と聞いてきたのです。「おばさんが忘れているみたいなんだよ。どうしようかと思ってるんだ」と答えると、「俺たち送っていってやるよ」と。その男の子達が5人くらいで代わるがわる、おぶってくれたのです。中学2年生の頃のいい思い出です。車椅子を使えなかった理由は、療育園を退園する条件が「車椅子を使わなくてよい」ということだったので車椅子を持って帰ることができませんでした。こういう風に味方がいないと世界は拡がらない、生きていけないとわかりながらも思春期は一番つらい時代なので思春期の中でなかなか味方をつくれるはずもなく、中学校卒業から死にたいという気持ちで3,4年家に閉じこもっていました。12年後にアメリカのバークレイに行き、スクールバスの制度や障がい者を取り巻く教育のシステムが、とてもきめ細かいものであることを知り、もしこのような仕組みがあれば私も高校に行くことをあきらめなかったと思いました。当時はそのようなサービスはないため、通信制の高校に通い、中退してから障がい者運動に関わり30年がたちました。あのころ障害をもつ人々の状況は大変厳しく、今も差別的な状況は続いています。

 でもそこで何が大事かというと黙らないということです。差別された時に、黙ったら何も変わりません。自分を我慢させてしまえば、差別している人は差別していると気づくことができない。もっとつらい状況がずっと続くということなのです。差別されたら、それはおかしいのだと言っていいのです。中学校に入る時も、レントゲン室での説教の時も私はそうしてきました。結果的にレントゲン室に閉じこめられるというひどい目に遭いましたが、大人に対してものを申さなければ伝わらないのだと再度確認できました。

障害者運動  20才になったとき、療育園で出会っていた障害を持つ友達と再会しました。重度の障害を持ち、療育園の中で一番ダメだと言われていた人々が「青い芝の会」において大変な運動をしていたのです。その2年後、川崎で彼らが行ったバス闘争がありました。私は骨が弱く最前線には立ちませんでしたが参加しました。バスの前に寝転がり、私たち障がい者を乗せないバスを止めて抗議したのです。乗せてほしい、乗せるべきだ、と訴えました。今では、川崎はもちろん関東地方を走る70%のバスが低床かリフトが着いています。福岡では低床式バスがまだまだ少ないと聞き、バス闘争が必要だねと先ほど話していたところです。みんなが利用するものに、使えない人がいるということ、乗れない人がいるということ、それは差別です。そのことをみんなで考えていってほしいのです。
赤ちゃんは最重度障害者  私たちはなぜこんなに簡単に差別に慣れ、無視してしまうのでしょうか。私たちは誰でも赤ちゃんの頃は、最重度障害者みたいなものです。赤ちゃんというとこっちをじっとみてくれた子がいますが。(笑)子供はみんな知っています。自分が持っている権利や、自分が大事にされ尊重されていいということを。どの施設でも最重度障害者への扱いはひどいものです。重度障がい者の施設に行っている私の友達に何度か面会に行くうちに、スタッフと大げんかしそうになりました。でも実際けんかをすれば、後でその人達がひどい目にあうことも知っていました。胸が痛くなるほどにひどい扱いを受けていました。例えば食事の際ごはんの上におかずをのせます。その上にみそ汁をぶっかける。そこまでは人間の食べ物をぐちゃぐちゃにしたものだからまだ許せるけれど、その上に薬までのせて私の先輩の口に突っ込んでいたのです。
 

 なぜ、そのようなことが起きるのでしょうか。私たちは赤ちゃんだった頃に、お父さんお母さんといった「限定された人」しか私たちの前にいてくれません。閉じた人間関係の中で、子育ては親だけがすればいいとなった場合、すごくつらくなります。地域の中のすべての人が「若い人やお互いの命を分かち合う世界」を仕組み的にも意識的にも作っていなければ、毎日毎日閉じた空間の中では「あなたは尊厳のある大事な人です」という風につきあえなくなってしまうよね。私たちもまた赤ちゃんの頃そういう風につきあってもらえませんでした。

 先ほど私の母の話で、かろうじて泣くことは聞いてもらえたと言いましたが、それには歴史があるのです。私の母は双子だったのですが、私が生まれる5年前に最愛の双子の妹を亡くしていました。だから私が生まれる事は、母にとって妹が戻ってきてくれるように感じたのだと思います。母の妹は結核だったのですが、家が貧乏でペニシリンやストレプトマイシンといった薬を買うことができず、みすみす見送ってしまったのです。それで私が生まれた時は「できることは何でもしてあげたい」と、過酷な治療を過酷だとも思わずにほどこしてしまったのでしょう。私が10代の頃、母親に対して「なぜこんなひどい治療を受けさせたのか」と許せない気持ちだったのですが、今になってよくわかります。


 人はみな小さな頃、最重度障害をもっているかのように扱われるから「あなたこそが人生の主人公である。あなたの言うことはよくわかるし、すごいね」という風には、なかなかつきあってもらえないのです。若い人は大抵エネルギーの固まりです。一時もじっとしていません。親たちは疲れて、だんだん若い人に対してエネルギーがなくなってしまう。私がなぜ子供という言葉を使わないかと言いますと「子供」という言葉の中に少しだけ「見下げても仕方ない人」という含みがあるからです。子供と呼ばれて丁寧に対等に扱われず見下げられることに同意をしていないにも関わらず、彼らは「子供だから。子供のくせに」といわれる。きっといやだろうな、と思うから「若い人」というようにしています。私にも11才の娘がいます。こんな体の小さな私が子供を産んだの?と驚かれると思いますが、自分も驚いています。11年たってもまだ驚いているくらい、自分の娘をみて眩しい気持ちになります。その娘に「子供でもいやなことは本気でいやと言っていいよ」と話すと「子供って言わないでよ」って言われました。(笑)子供という言葉の中には、少し大事にしなくてもいいというニュアンスがありますが、もちろん若い人たちは充分に大事にされていい権利があります。私たちの憲法は完全にそれを保障しているはずです。それだけでは足らずに子供の権利条約まで作ったのですが、それが仕組みの中で保障されているとはなかなか言えないのです。どうも私たちは子供の頃にひどい扱いを受けて生きのびてきたものだから、障害を持つ人たちに対して厳しくなってしまうのかな、と思います。(参加者のお子さんの泣き声)いっぱい泣いていいよ。泣きたいときには泣いていい。

苦しみと悲しみの価値  私がここまでこられたのは、20才の頃障害を持つ仲間達を作ったからです。川崎バス闘争、79年度養護学校義務化についての文部省座り込み交渉など、様々な闘争を闘いました。骨の弱い私が座り込みなど信じられないですが、それも3回ほど経験しています。脳性マヒの体が動かない仲間達を、私服の警官がごぼう抜きにひっぱっていきました。そのような闘争を繰り返しながら、20代は仕組みを変えようとしてきました。30代になって仕組みを変えると同時に、すごく大事なことは自分の心を見ていくことだな、と思うようになりました。自分を信頼しているかどうか、ということです。自分を信頼しないで何かをしても、つらいだけなのです。子供を持って本当にそう思います。子供のことが大好きで、本当にいい母親であろうとしても、自分をいつも責め、子供に対して私はいいお母さんだよという前向きな働きかけができなかったら、子供もつらくなるし自分もつらくなります。

 子供を産む前に「自分の心をみて、聴きあう」という時間を持てなかったら、自分を責めてばかりで子供は産めなかったなと思います。産んでからもいわれます。「あなたは障害を持って苦しかったのに、どうして同じ苦しみを子供に渡すとわかっていながら、子供を産めたのですか?」と。私の娘も私と同じ障害を持ち、11歳なのに15回ほど骨折しています。その人は、差別的であろうなど思いもせずに無邪気に聞いているのでしょうが、非常に差別的なのですね。私の身体は、こういう身体なのです。時々骨折して激しい痛みを覚えるけれど、それでもこの身体と共に生きていくのです。「苦しみというものを見てはいけない。感じてはいけない」ということなら、それは生まれてこないほうがいいかもしれません。でも「苦しみ」というものは多かれ少なかれ誰にでもありますよね。ですから苦しみを丸ごと引き受けるのが人生なのです。引き受けようと思って、どの方も自分の大事なお子さんをそばに招くのではないですか。

 苦しみを感じてはいけない、と世の中が言っていると思いませんか?苦しいことがあったら見ないようにして、考えず感じないフリをしようとする。苦しみを感じてはいけないということが、まるで生きるための約束や常識のようになっているのです。苦しみや悲しみはどんなにフタをしてもあります。どれほど他人から幸せだと思われている人でも、苦しみや悲しみはあるのです。それならば、それを分かち合う関係を作ることこそが、私たちにとって一番必要なことなのではないかな、と思うのです。私は今、つらい時いっぱい泣かせてくれる仲間たちに囲まれています。悲しんでいい、苦しんでいい、自分自身であっていいのです。そのことを聴き合うという方法が私に教えてくれました。若い人はいつもそのことを教えてくれています。若いときはすぐ泣きます。できればそれを聞いてくれる周りがいれば、いっぱい泣いた後に何をどうしたいのか分かっているのです。誰でもそうなのです。

わかちあう社会  しかし、大体は泣く前や泣いている途中で止められてしまいます。泣くだけでなく遊ぶこと・笑うことを止められてしまうから、だんだん何をしたいかが分からなくなります。大人になる頃はすっかりわからなくなってしまう。まるで苦しんではいけないかのように感じています。でも感じていいのです。苦しみや悲しみにも価値があるのです。それを感じきって、涙と共に出してしまうことができたら、どのように前進すればいいかがみえてきます。しかし問題なのは、その感じきることを止めようとする動きがたくさんあることです。お酒やタバコやお薬や、そういう中毒物質が社会に蔓延しています。テレビをつらい苦しい気持ちを感じないために中毒的に見る、漫画を読む、様々な依存物質があります。依存物質に頼るのではなく、人間に頼ってほしいのです。人間の中で分かち合えたらと思うのです。

 (会場内の子供の泣き声)子供の力ですね。自分が何をしたいかいつも知っている。この小さな子供たちの時代は、死にたいなど思わないですよね。またどうやって仲良くするかも知っています。例えば、ここにいる子供が隣の子に噛み付いたとしますね。噛み付かれたほうは、痛くてワーッと泣く。噛み付いた方もびっくりして泣く。ワーッと泣いて10分ほどしたら、そういうこともあったなという顔をしてもう仲良くしています。もし大人だったらどうなるでしょうか。「危ない人」「不審者」として遠ざけられてしまいます。不審者対策がいろいろとられていますが、一番の不審者対策は不審者をなくすことです。お互いに知り合えばいいのです。それなのに、お互いに近づかない方向に力を注いで恐い人を作っていく。若い人の方が仲良くする方法をよく知っています。そのことを大人たちが効果的にやるにはどうすればいいか。私は「聴き合う」ということを使います。時間を分けて聴くのです。私はそれを重ねて、障害を持つ子供を喜びの中で産むことができました。

 障害を持つ子供が生まれる確率はどれくらいだと思いますか?100人のうち1人2人、それとも5、6人でしょうか?7、8人、それとも10人くらい?国連の調査によると、生まれた時点では5・6%、後天的な障害を含めると成人人口の10%ほどになるそうです。全人口の10%前後は障害を持っているということです。にもかかわらず障害を持つ人との共生の場がありません。やはり「恐怖」で障害をもった人たちを見つめる常識の方が圧倒的です。それが簡単に差別に繋がってしまうのです。先ほど、娘を産む前に投げかけられた言葉が差別的だといいましたが、たとえそれが差別的であったとしても恐れずぶつけてほしいのです。きっかけは何でもいいのです。かわいそうでも、お気の毒でも。それでいいので、まず障害を持った人に近づいてください。近づいて友達になっていくうちに、かわいそうやお気の毒というまなざしが修正されて「同じ人間なんだな」と変わっていくのを感じることと思います。若い人はそれがすごく早い時間でできますが、大人はあまりに傷ついてきたので、もっと時間がかかるかもしれません。長い時間がかかったとしてもあきらめず、こういった誰とでも出会える場所に来て自分の仲間や味方を作ってほしいです。自分が一方的に助けてもらって申し訳ないなどありませんから。お互いがお互いに対して非常に重要な存在なのです。私たちは一人一人、社会という大きなジグゾーパズルの大事な一ピースです。どの人が欠けても社会は成り立ちません。お互いがどれほど大切な人なのかということを心から味わうために、こういう場所で交流しあえたらいいなと思います。泣いてもいいということ。泣いたり笑ったりという生きていく力を使って、一人一人が大事にされる世界を作って生きたいのです。(子供たちの声)やはり若い人のエネルギーには負けますね。子供たちは私の話より遊ぶ方が仲良くできることを知っています。いつも遊んであげているお母さんには他の人にまかせるということ通じで学んでください。若い人たち、今日はこのような場を作ってくれてありがとう。