公開講座「美術との関わり」ー道と選択ー  1997年6月26日 →BACK

*福岡教育大学・美術科の学生に、道と選択について話さなければならなかったもの

 どんな学問でも最初の基本はよく見てより関わる事から始まります。よく見て、感じて、考え、試行錯誤をしてけば必ずハッと何かに出会うような感覚に出会えます。美術というものは内面的な感覚に比較的楽しみながら出会えていくありがたい学問です。しかしその道にはマニュアルがありません。絵の中でただ一本線を引くだけでも、全て自分で決定しなくてはなりません。「決めていく」という強さがなくては一歩も動けない世界なのです。

 私が今からする話によって自分のやり方をあなた達に押しつけるつもりはありません。

私は優等生ではなかったし、むしろはみ出しぎみだった私の人生があなた達の役に立つかどうかわかりませんが、こういう生き方もあるのだと考え方の幅を広げてもらい、あなた達自身のオリジナルな決定をしていく勇気にしてもらえばいいと思います。

 高校時代美術に進むことを反対されたため、(またそう裕福でもなかったため、地元の国立を受けろと言われ、家庭内でもめてばかりいた)自分のバイト代でデッサン講習会を受けたりしていました。反対されるということは後から考えるとありがたいことかもしれません。「自分で決めたんだ」という自覚が強くなりますので少々のことでは弱音を吐けません。かえって良かったと思っています。

 そうやって身につけた受験テクニック(受験用のデッサン方法)を用いて、大学入学後デッサンを描いていましたら「こうしてやろうとか思って描いたらいかん。対象をを大きいと感じればその絵は自然と大きくなる。まず始めに感じることだ。」と先生に言われハッとしました。技術のうまい下手よりも「感じること」が対象物と自分との距離を近づけるのです。これを聞いてひとつ自由になった気がしたものです。

 バイトもよくしましたが、あれは一種の会社訪問と考えました。実際正社員にならなくてもバイトを通じてその職業の質や雰囲気をかいま見ることが出来るのです。そしてデザイナーやスタイリストといった一見かっこよさそうな職業でも内情やシステムは他の職業とさほど変わりがないことを知りました。

 2年生の頃大学をやめて働こうかと思ったことがあります。その時ある人から「20才前後の時間が、自由に使えるということはとても大切なことだ。その暇な時間になんでもいいからやれ。」といわれました。その時から大学の授業にも少しずつ深く関わっていくとことなりました。するとやはり関わった分だけおもしろい。今までつまらなかったのは他に責任があるのではなく自分がのめり込んでなかったからだったのです。どんなゲームでも真剣になればなるほど面白味が増すのと一緒です。

 私は今彫刻を専門にしていますが、入学当初は考えもしてなかったことでした。授業の中で彫刻に出会い、意味もなく「これだ!」と感じたのです。「彫刻家になりたい」と言ったら家族に笑われたものです。

 何事でも付き動かされるような確信に近い直感があったら、それに従っていくほうが物事はうまくいくような気がします。 

 卒業制作の時もそうでした。NHKの番組で北海道のばんばという馬の特集があり、これしかないと確信しました。バイト代の10万円をもち「これがなくなった帰ろう」と決め北海道行きのフェリーに乗りました。いろんな方々にお世話になりながら、最終的には旭川の牧場に居候させてもらってデッサンしました。真剣な目的があるものには大概のひとが親切です。お世話になった人には顔の絵を描いてお礼にかえました。

 就職を決める時期になり「美術の先生なんかなりたくない」と思っていた私はある企業の内定をもらいました。それに重なるように家の方にも問題がおこり随分と悩みました。諸事情によって結局、内定を蹴ってしまいました。その代わりが何もなかったのですから、今思えば思い切った決断でした。

 卒業した私は身分も所属もなく、金もない。何もないわけです。しかし何も持ってないという事は、非常にすがすがしく強い気持ちにさせてくれます。人は失うことに必要以上の恐怖を抱えているのではないでしょうか。実は大したことないことが分かり、何もかも失ったとしても何とかなる、と思うようになりました。名目は次の採用試験までということで、お金がかからないように祖母の家でしばらく暮らすことにしました。(私の先祖は英彦山というところの山伏だったため、山の中に祖母は住んでいました)水を山から汲んできたり、ごみを自分で燃やしたり、保存のために野菜を干したりしました。限られた資源にどうかかわっていくかということをここで学びました。排泄物が土に戻り、私が持ってきた種が土と水と太陽などの力で人参になり、また自分が食べたときは感慨深かったです。食べるということはこういうことなんだと感じたのです。自分が大きな循環の一部であることを実感しました。 

 今まで頭で知っていたことを腹で分かるといった経験を度々しました。例えば自分の古い先祖たちは土葬されているのですが、その墓のそばに赤松の木が生えています。その木を眺めていると「先祖が土になりこの木がそれを吸い上げて酸素となってこの世に送り出されているとしたら、この世からなくなるものはないのだな」と感じ、満たされたような気持ちになったものです。一文無しのこの時期がその後の人生の大きな基盤になりました。むせ返るような自然の中にいると、自分の枠をを超えた大きなものが存在することを確実に感じます。

 いずれの場合も、内的な対応が人を楽にするのだと気がつきました。外部を変革することも大切ですが、その事のみに終始するなら満たされないまま一生を終えるでしょう。

 時期が来て山をおり、図書館などを利用して勉強しました。懐はさみしかったのですが自分のイメージ力を使って豊かに生きていました。例えばお金持ちなんていうのは別にお金がその人の体の中にあるわけではありません。「お金をもっている」というイメージを持っているだけなんですね。そこで、思う分はただなんですから、例えば図書館の本は全部自分のものだと思ってみます。「君、私は全部読み切れないから読んでいいよ。」「管理の方は君に任せた」などど心の中で言いながら図書館を悠々と歩く。市民プールは平日の午前中などだれもいません。私が泳いだ波紋だけが静かに広がっていきます。家にプールを持ったとしても管理や掃除がたいへんでしょう?年に数回しか入らないマイプールを、たった150円で管理してもらっていると考え、ますます悠々と泳いだものです。お金持ちになるのは、意外と簡単です。幸せに生きていく上で大切なことは、まわりを変えようとする努力だけではないのです。内面的な適応をする努力も必要なのです。内省の力で自分自身を知り、組み替える勇気を人は忘れがちです。革命を起こすよりも、自分のものの見方(視点、認識、想像力、思索の展開の仕方)を変えるだけでその日から世界はかわります。美術に関わると、ものの見方や捉え方をがより豊かになっていくと私は思っています。

 とある日、中学校の産休代理講師をやらないかと電話がありました。あんなにいやがっていた先生業でしたが、ふと「やってみよう」と感じたのです。実際やってみると非常におもしろい。まるでドラマみたいに予想しないことが次々おこります。160万円を電話ボックスで拾った中学生たちが、それを少し使ってしまったために言い出せなくなり失踪したことがありました。私が何気なくいったささいな言葉に救われたと、あとから手紙を書いてきた登校拒否の子もいました。

 なんというか人間の後ろにあるものに触れあう瞬間があるのです。40人の生徒が関わる40通りの家族のあり方を見るということはすさまじいことだし、学ぶべき事ばかりです。表面的に悪いとみえるものの後ろには、そうするに至った奥深い事情があります。それがまた相互に関わっていることを感じると「だれのせいだ」気安く言えなくなってきます。物事の原因を見て理解するということを学びました。

 ある日ふと青年海外協力隊か、ワーキングホリデーで外国に出てみようと考えました。

 30才までは自分に投資と考えていましたので、自由に動ける内に新しい環境に自分を投げ込んでみたいと思ったのです。ですから本音をいえば人のために役立ちたいというより、旅費を出してもらえるからというような気持ちで協力隊の受験をしたのです。合格するにあたって、大学でもらった教員免許と一年間の教員としての実績などが有効に役立ったのは意外でした。社会に出てから何年か実績を積んだ方のほうが、協力隊としても活躍できるようです。新卒で協力隊に来た人の中によく、学生気分が抜けず不平が多く、厳しく仕事をやりぬくという気概にかける人がいます。(日本のやり方が一番という意識が強いため、現地の人に歩み寄れないことが多い)

 皆さんも自分のための修行と思って気軽に社会に飛び込み、3年経ってもう一度自分にあった道を検討してみるという感じでいいのではないでしょうか。卒業時に決まった職業に一生従事しなくてはいけないという決まりはありません。自分が望めば多様な道が開けることを信じて、作品を作るなどして実績をつんでいくようにすればいいと私は思います。

  

 こうして私は中南米のコスタリカという国に美術隊員として2年間派遣されました。私が勤務した美術学校は貧しい人たちにも美術を学ぶ機会を与えるために授業料が無料でした。この点では日本より文化的に進んでいると思います。(これと並行して小学校で廃物利用の玩具作りを教えました。コスタリカのゴミ事情に疑問を感じたからです)それまでスペイン語のスの字も知らなかった私が、日本で3ヶ月+グァテマラでの1ヶ月の語学訓練でスペイン語をしゃべれるようになったのは自分でも驚きでした。「水」と言えなければ水が飲めないわけですから必死で覚えました。教養のために学ぶ知識は身に付かないものですが、そこに生きるか死ぬかといった切実な問題が絡んでくると、人間というのは嘘のように記憶力が良くなるものです。

 ラテンの人々は貧しくても人生を楽しむということをよく知っています。事あるごとによく踊るし、驚くほど家族が仲がいい。まわりを気にせず感情を素直に表現する。人を招くのが大好きです。私もよく教え子の家に招かれましたが、体裁を整えたごちそうでなくごく普通の食事を共にします。家族の一員になったような気にさせてくれるもてなしでした。食事の後近くの牧場を散歩すると、父親が拾った木で手早くブランコを作って遊ばせてくれたり、みんなで野苺を摘んでジャムにしたり、木の上で昼寝をしたりしました。その時私は豊かさの意味を知りました。

 外国に行くと今までの自分の肩書きなど0になってしまいます。私がそこで何を語りどんな振る舞いをするかがそのまま私自身なのです。どんな国の人間でも感情というレベルでは全く同じです。感情の中でも「喜ぶ」という感情はとても大切で、食事にせよ、音楽にせよ共に喜ぶ事で人は心を開きます。この事は私たちが関わっている芸術の根本かもしれません。

 私たちが一方的に第3諸国と呼んでいる国でも、そこの環境に適応したすばらしい知恵や価値観があります。異なった文化と本当にコミュニケーションしたいのなら、こちらのやり方を押しつけたり必要以上に教化しようとしないことです。「ここではこうなんだな」とそのまま受けとめる事が大切なのです。人類の歴史は今まで異文化同士がコミュニケーションすることなく、どちらかが一方を「征服する」といったことで進んできました。(最後までどちらかのやり方を押し通すことを、征服というのです)この近代文明のやり方が人間同士ならまだしも、環境に対して必要以上に用いられる場合地球全体を苦しめます。そしてそのことが結局人間の首を絞めているのです。

 電話一本で材料が届く日本と違って、材料などを自分の足で探したり道具を作ったりするのは大変でした。しかし人間というものはものがないと工夫をしたりして頭を使うようで、いい頭の訓練になったかもしれません。

 東洋人で女性である私が彫刻をやっているといっても最初は信じてもらえず苦労しました。コーヒーの木の根を使って民芸品を作るロゴリゴさんという人がいたのですが、縁あって道具や場所を貸して下さり、彼のおかげで作品を一つ作ることができました。それが認められ私はやっと彫刻の授業を開けるようになったのです。そのおじさんは敬けんなクリスチャンでした。「神がこの世を創造したのだから、あなたがものを作るなら、あなたにも神のキャパシティーがあるということだ。私たちの国のために働いてくれているのに、あなたからお金はもらえない。」といって場所代など受け取らないどころか、行く度に家族でもてなしてくれるのです。こんな心の余裕を私はどこかで失ってしまっていたのです。

 

 協力隊生活の中でフランシスコ・スニガという彫刻家の作品と出会い、私は強いショックを受けました。この作家についての論文を書いてみたいという思いにかられ、また協力隊活動の中で自分の勉強不足を痛感していた私は、帰国後筑波大学院に入学しました。

 協力隊事務局が失業保険のかわりに任期中毎月9万積み立ててくれていましたから、帰国すると200万程支給されました。まとまったお金は次への投資と考えていましたから、積立金を授業料と道具を購入するのににあてることにしました。あとの生活費は奨学金を使いました。学部在学中は、大学の道具を使えるのに甘えて自分自身の道具はあまり購入してなかったため、卒業してからとても困りました。今使用している道具は、院生中にそろえたものです。皆さんも卒業してからも一人で仕事が出来るよう、今から少しずつ気に入った道具を吟味し、揃えていくことを心から勧めます。

  大学院時代は自分で授業料を払っているという意識がありますから、学部時代と違って授業をさぼるなんてもったいなくて出来ませんでした。逆に先生があまり力を入れない授業をすると腹が立つほどでした。時間と労力をバイトなどにつぎこむのが惜しかったので、生活の方を切り詰め、制作をする毎日でした。それでも協力隊から帰ってきてからは、生水が飲めたり湯船に浸かれるだけで感謝出来るようになっていたので、充分生活には満足していました。些細なことに感動し感謝できる子どものような心があれば、生きるのは簡単です。

 27才の時に大学院に入学した私のまわりは年下ばかりでした。しかし新しいやり方があればなんでも吸収したかったのでよく質問しました。ちゃちなプライドに縛られて勉強できるチャンスを逃すことだけはしたくなかったのです。

 私が調べているスニガという彫刻家の日本語の資料は殆どなかったので、自分で資料を翻訳しなければなりませんでした。日本における世界の情報といわれているものには偏りがあります。欧米だけに芸術的な栄養があるわけではありません。皆さんも美術館の学芸員が選んできた展覧会だけが全てと思わずに、自分の目で見て感じたものを信じて、随時反省を加えながら大切にしていって下さい。

 こうして大学院時代に作った作品と論文によって、ありがたいことに今の職場に勤務することが出来ました。このように話すとトントン拍子に進んできたように思われるかもしれませんが、アルバイトで生活を繋いだこと時期もあるし、家族から「どうするんだ」と責められたこともあります。今私がここにあるのはフラフラしている私を支えてくれた心ある人々のおかげなのです。

 私が日本を離れたときに初めて日本について深く考えたように、大学を出てから初めて大学のありがたみに気がつくものです。卒業すると制作場所を確保するだけでも大変なのです。何度も言うようですが、皆さんが手遅れになる前にこの事に早く気がついて、この空間と時間をできるだけ利用してほしいと思います。

 ものを作るということで、関わりの中で生きている自分に気がつき、とらえどころのない自分を深く感じていけるのではないでしょうか。もの作りで得るものは、自分のものとなった身に付いた感覚です。巷で言われている「情報」とは意味あいが違います。上辺で即答するのではなく、深くじっくりと見つめるもの作りの態度は、人間関係や環境を考えて行く場合でも必要なものだと私は思います。(よくものごとを実感し、感動し、よく見て思索・反省する中で生じる矛盾や分裂.......その「ズレ」こそが「自分」であり、芸術の出発点なのです。それがなければ現状のシステムを改善する力も持てないだけでなく、精神そのものが空洞化します)

 芸術に携わるなら、今まであったものに囚われず、本物に向かって一歩踏み出す勇気や、進むべき道を自分で決めていく強さがいるのです。(私自身そう強い方ではないので、自分自身にたいして申しているようなことですが)その道を心底あなたが望むなら、内側から力がわくし必ず助力が得られるはずです。自分が喜んで暇をつぶせる仕事があったら、それはあなたの道に近いかもしれません。

 淡々と毎日の目の前の仕事にベストを尽くしていけば、いつのまにか次のステップに進めるだけの力が身についているものです。毎日の出来事の中に未来のヒントが転がっているので、うっかりしてると見逃しまうでしょう。今この瞬間の状況をよく理解し判断した内容は確実ですが(これが案配を知るということです)、情報さえ不確定な未来のことは煩っても無駄なような気がします。

(もちろん「煩うこと」が無駄なエネルギーなのであって、10年後,100年後,1000年後を思考し、現在を構築する視野は必要です。)

 やりたいことをやり、やらねばならぬ事は楽しんでこなしていく。皆さんが充実した人生をおくられることを心から祈っています。

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