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前山 千尋

(注:この文章は、二風谷プロジェクトの参加者である前山千尋さんが、在籍する東京外大の授業のレポートとして書いたものです。[北原恵担当・哲学基礎―ジェンダー論])

 ジェンダー論のレポートを書くにあたってまずその中味について思い浮かんだのは昨夏の二風谷プロジェクトのことであった。けれども、何について書くかということを考えると、迷いが生まれてきた。それは、夏のことは先生も経験されたし、作業日記もある、かといってその感想を大学のレポートに書いて良いものなのかどうかということであった。しかし、やはり二風谷プロジェクトについて出発前、滞在中、帰宅後に自分なりに考えたことをここに記すことにした。
 昨年5月頃、大学に入学した私は半分5月病のようなものにかかっていた。受験中から何か大切なものを曖昧なままにして考えずにいて、例えば生活することや生きることについて考え始めたら、自分自身は大変混乱して収集がつかなくなっていった。そしてこのようなモラトリアム中の自分から脱け出したいと考えていた。そんな時に「二風谷プロジェクト」について知った。これについては、私なりに「アイヌ民族の地、二風谷に施工されたダムを契機として作られた知足院美加子氏による作品をダム横に設置する計画で、その行為は“記憶”を問うことである」と消化した。講義の中で触れられたこのプロジェクトに、知足院氏の作品のことも、二風谷ダム裁判のことも、その上アイヌ民族のことさえも良く知らなかったにも関わらず、直観的に参加しようと考えた。そして、見ず知らずの人々の中に飛び込む決心し、ボランティアという名目で誰よりも自分のために二風谷行きを決めた。
 行きのフェリーの中で初めて会った知足院氏は一晩の間に私に様々な話をしてくれた。それは、このプロジェクトを行なっていく上での心構えから地球における人の進化に至るまで、全てを率直に話してくれた。その中で知足院氏は私に「このプロジェクトに参加する人達に生活するということを考えて欲しい」というようなことを言った。驚いたことに、そのことは、私が出発前から考えたいと思っていたことであった。このことにより、このプロジェクトが全くの社会的活動であるかもしれないという不安感を抱いていた私を安心させ、来る決心をして良かったという確信が生まれつつあった。
 二風谷滞在中は、安易な表現かもしれないが、本当に驚きの連続であった。あの空の下で彫刻を眺めているとなぜか涙が浮かんでいた。芸術作品を見て涙がでるなんてことも初めての事だった。又、あの場所で、変わらなければならないこと(例えば、歴史、差別に対する我々の在り方)、変わってはならないこと(例えば、あそこに存在する生活・文化・自然であったり)の存在を実感した。援農によって土のぬくもりを得た。そして、知足院氏を見て、人が何か行動していく上では、細心の注意を払い、様々な立場から物を見据え、最後の最後までその責任を果たさなければならないことを教わった。身体面においては、つまらないことかもしれないが、あの大自然を前にして、肺で呼吸していた私が腹式呼吸をできるようになったのだ。人は元来腹式呼吸をする動物なのに都会の空気によって肺でしか呼吸できなくなるのだそうだ。そして生活とは、頭でごちゃごちゃと考えるような類いのものではなく、朝起き、働き、食べ、働き、食べ、働き、食べ、語らい、夜寝るという非常にシンプルなものであった。
 滞在中、先生に講義の感想を尋ねられて、「例えば、レズビアンやゲイの話を聞いても差別しないし、私は本当に何も思わないで、そのことは、その人に付属するほんの一部にすぎないし、その人はその人であるから何も思わない」という様な答えをしたと思う。この答えについて、私は自分に不信感を覚え色々と考えてみた。その中で、差別してないと口では話し、心底ではしているというようなことを考えてみたりした。その過程で、例えばレズビアンに対しても、彼女らそれぞれのルーツや記憶も知らずに私が「そんなことは何でもない」と話すことに私の考え方の危険性があるのではないかと気付いた。たとえ私が本当に何もそのことについて全く感じていなかったとしても、私が彼女らに近付かず、その記憶を共有しないという行為そのものに一種の差別が生まれているのではないか。人が日常生活の中で関わろうとしなければそのままでいられる出来事が山程ある。その事態は我々の態度一つで自在に変化し、また共有しようという態度によってひずみも生まれるかもしれないが、それを超える物も生まれてくるかもしれない。けれども、そもそも関わっていこうとしなければ、事態の進歩はあり得ないのだ。
 以上の経験を通して、自分の感じた事、考えた事は確かに楽しく、素晴らしいものに思えた。けれどもこの事をどんな風に表現すれば良いのかはっきりしなかったし、又今でも素晴らしかったことの原因を追求されても、はっきりと答えはできないかもしれない。しかし、それらはこれから私が経験していくことを通して消化していこうと考えている。


2000年2月9日