芸術の贈りもの シュタイナー・コレクション7 

 ルドルフ・シュタイナー/著 高橋巌/訳 2004年筑摩書房

論文のために抜き書きしたもの(彫刻を中心に)

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彫塑的=構築的なもの 

ノヴァーリスは自分の内面に深く参入し、時間と空間の中でも詩的=音楽的に生きようとして、空間と時間の融合を体験した。(詩的=音楽的なものを心理的に理解しようとしている)…生体全体を開き、直感の中で空間と時間を融合させる。*繊細なその魂の霊的な力は諸感覚をすべて自分のものにしようとするのではない

ゲーテは、人がみずからの霊的=魂的なものを空間の中に刻印づけるとき、この霊的=魂的なものは空間と時間を融合させるのではなく、霊的=魂的なものが愛を通して空間的、時間的なものに流れ込み、そしてこの空間的、時間的なものから、霊的=魂的なものが客観化されて、ふたたび現れてくるのを体験した。*彫塑的=構築的なものを心理的に理解しようとしている。人間の霊と魂が、感覚体験に留まることなく、目の中に留まることなく、事物の内部に没入し、事物の表面下に働く力を用いて、建築と彫刻を創り出す。力強いその魂の霊的な力は、感覚組織の殻を打ち破り、皮膚の境界を越えて、宇宙の中に拡がる。(だから霊的=魂的なものを空間的、時間的なものの中に流し込む芸術分野を理解したい、という烈しい憧れを持つ)

この霊的な力は、人間の皮膚の境界を越えて、彫刻という有情化された空間を、そして建築という霊化された空間を求める。そこでは空間と時間の働きは内面化されている(P68)

この両極(ゲーテとノヴァーリス)の間に存在するひとつの体験(内的体験)を外なる世界の中までに持ち込む事に、私たちの最大の現実的課題を見ることができる。それは自由の体験である。(p.67)

現実から離れたところで自由を形成しようとする場合には、詩的=音楽的な立場にたつ。

彫刻、建築、絵画を体験するときの自由の力は、外的な物質存在の内部に沈んでいくことによって、外的な物質は感覚的な拘束を打破する。自由になるということが、芸術を真に把握するのに必要な体験である。

人体形姿は運動と不可分に結びついている。人体形姿の中に内からは意志が、外からは知覚が働きかける。内部で発達した意志が、運動に駆り立てられながらも、外的な現実の前に立ち止まざるをえないとき、人は自由ではない。神経=感覚系の働きを超えて、世界といきいきとした関わりを持つことができる能力が、お前の中に生きている。そう考える時、通常の生活状態を表現している静止した人体形姿を運動させ、その形姿の本質そのものを空間と時間の中に持ち込もうという要求が生じる。そのときふたたび人間の内面と時間、空間との間に闘いが生じる。この闘いを芸術的に形成しようとするときオイリュトミー的なものが生じる。

芸術についてかたるときはどうしてもどもりがちになる。けれどもあえて語ろうとするなら、内的に芸術の中に留まった状態で語らなければならない。人間の魂全体を芸術的に体験するのでなければ、認識の目指す領域に参入することはできない「芸術家よ、創れ、語るな」(ゲーテ)その語り方において常に創ることを心がけることで、この言葉に応えることができるのではないか。芸術家よ、創れ、語るな、というのなら、そして人間として芸術について語らざるをえないなら、創りつつ語り、語りつつ創るように試みるべきなのだろう(71〜72)

ゲーテ「芸術家の神化」

「そのようにその高貴な人は、力強く

数世紀の間、同じ種類の人間に

働きかける。

良き人間が成就しうることは

一生の短い間では成就しえない。

だから死後も生き続け

生きている限り働き続ける。

人間はこの世で働き、

良き行為は、美しい言葉は

死ぬことなく働く。

だから芸術家よ、

あなたも計りがたい時の流れを

生き続けて

不死の存在になるよう心がけるがよい。」

芸術の中に感覚的なものだけを求める人は挿絵的、図解的な要素からあまり抜け出られない。感覚世界をただ図解し、また単なる自然模倣に留まることで満足できるのは粗野な魂である。しかし理念のような純精神的なものを芸術的に具現化しようとするのも、一種の知性に憑依された魂の態度であり、イデオロギーの芸術化は洗練された趣味に応えているとは言えない。感覚生活を野蛮化する社会傾向に見合っている。

芸術は、人生に深く根ざした営みである。もしも人生に深く根ざしていなかったら、どんな芸術も社会の中で正当な存在権を認められないだろう。…芸術を理解してもらうために、芸術は非現実的な要素を自らの営みの中に浸透させざるをえない、だからこそ、芸術は人生に深く根ざしていなければならない。芸術感覚は、人生の至るところで働いている。感覚世界で出会う通常の、見慣れた事物の中で、超感覚的、神秘的なものが語り始める時なのだ。いつもの物質存在が、いつもの日常の中で、いわば魔法をかけられたかのように、一種の超感覚的な性質を現すとき、それを美しいと感じる。

低次の生命がいつでもどこでも、高次の命によって克服される。人間の魂、人間の高次の生命に浸透されている人体形姿は、この魂により、この高次の生命によって絶えず殺され、絶えず克服されている。…彫刻家は、人体が外に現すことなく、高次の生命である魂の営みによって克服され、殺されている姿、本来人体が欲しているその姿を発見して、今ある人体には欠けている隠された本来の姿を人体形姿の中から取り出してみせる。…このようにして克服されたもの、魔法を解かれたものを正当に評価し、体験すること、そのことが芸術感覚に通じる。

本来の芸術経過は、自然の生きる意志を一方では殺し(硬直させ)、他方では高次の次元に蘇らせる試みでなくてはならない。常に殺し、そしてユーモアによって復活させること、この二つが芸術創造においても、芸術鑑賞においても体験されなければならない。硬直した像にふたたび生命を与えるために、身振りを与え、ふたたび周囲との環境と結びつけ、そうすることで新しい生命を与える。(ふたたび愛すべきものにしなければならない(150))

「自然からその公然の秘密を打ち明けられ始めた人は、自然の最もふさわしい解釈者である芸術への抑えがたい憧れを感じる」(ゲーテ)

芸術的創造力の厳正と超感覚的認識の源泉(p.160)

見霊体験の場合、通常の表象と知覚は働きをやめが、異なる種類の思考が感情と意志から流れてくる。真に芸術的に創造された建築と彫刻とに特別の親近感を抱く。現代人の愛好する実体のない抽象的な思考が働きをやめ、対照的な思考:思考内容を空間形態に移行させる思考が現れる。延び、曲がり、更に折れ曲がる動的な空間形態の中に、世界を貫通する意志の流れが表現されている。

通常の思考では霊界に参入できない。霊界に参入しようとするなら、彫塑的、構築的な形態を、しかも生きた形態をみずからの内に創造できなければならない。それによって芸術家が潜在意識の中で形態を体験するのと同じ体験を持つようになる。彫刻家や建築家が計量化できる通常の思考内容を、魂を充実させる形態にしようと努める。(芸術的に作り替える)建築と彫刻は見霊的な表象と知覚を体験するための通過点でもある。

(芸術家と見霊者の違い)建築・彫塑活動の根底にある形態が潜在意識的な衝動から生じているのに対して、見霊者は同じ衝動を霊界の諸関連をとらえるのにもっている。見霊者が洞察・体験するものは、無意識的な仕方で建築・彫刻家の中で生き芸術行為に活力を与えている。

内面に生きる感情が激しく高まり、そして再び沈静するとき、彫刻表現に到る。彫刻は身体形態と結びついた内的な体験の表現だが、それが可能になるのは、知覚と思考を動かぬ形態に作り変える時である。身体からは、混沌とした働きが生じているのではなく、人間が宇宙から生み出されたことを示す形態が生じる。

 魂が無意識に体験する、この外へ向かう力に注意を向けることで、彫塑的な想像力が喚起される。人体は、古代においては魂のための神殿であると感じられた。このことは、建築と人体、および宇宙全体の均衡関係とか一致していることを暗示している。

 芸術家の魂は、芸術家のからだが大宇宙の小宇宙的な模像であることを、世界との関連の中で体験している。その体験がなければ、そもそも芸術家の制作は不可能である。しかしそのことを意識的に理解するためには、見霊能力が働かなくてはならない。

 芸術家は講壇美学からは、何も学ぶことが出来ない。魂は身体の外で、霊界を生きることができる。その状態において、いつもは潜在意識内に留まっている働きが芸術作品の中で結晶化されていることを理解できる。この見霊体験が持てたとき、芸術的な成果を挙げることもできるし、芸術家に役立つこともできる。そして芸術体験もまた、同様に見霊能力を有効なものにすることができる。

 芸術感覚を持ち、美的な趣味を大切にする見霊者は、霊学を世俗の垢にまみれさせることなく、いきいきと動的に表現できるだろう。

私たちは潜在意識に素朴に存在していたものを意識化するという、歴史的必然性の中にいる。通常の学問では芸術は理解できない。見霊能力による美学は生き生きとした態度で芸術を理解しようとする。芸術と見霊能力との間に橋を架けなくてはならない。

世界を芸術的に理解するのに必要な力は、霊学から流れてくる。

自然に依存し、モデルに依存する度合いをへらし、もっと集中的な仕方で外界とひとつになることである。人間の魂は自分の中に存在する道徳的・精神的な本質と感覚の輝きを通して私たちにもたらされるものとを、いつかは本当に一つに結びつけられるようになるだろう。

人間の魂は、死後物質界を離れ去ると、物質空間から抜け出て、霊界の中へ入っていける線や面や形態のすべてを求める。これが本質的には、芸術形式としての建築形式に他ならない。建築を前にするとき、魂のこの人体離脱と、空間超越への欲求のことを考えなくてはならない。

「彫刻芸術は、霊的に直感された人間の現在の姿であり、建築は人間が身体から魂を離脱させたときの状態を指示しており、そして衣装芸術は魂が身体に入った時の思い出を指示している。」

衣装芸術は、地上生活との関係で言えば、いわば昔を示す。建築は未来。それに反し、彫刻は人間の地上形態が現在直接霊的なものに関与する時の、関与の仕方を示している。(個々の形態や全体の形成の中での霊的なものを表現している)これらの(空間形成に関わるある)芸術は、人間の魂と世界との空間関係を示している。

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