二冊の本

3年前(2003年)に読んだ本の抜き書きです。

私と同じように励まされる方があれば、と思いWebに載せることにしました。

 >Buck

               「ソウルメイト 愛と親しみの鍵」トーマス・ムーア著 平凡社

  魂のいろいろな要求によって生み出される緊張を持続すると、価値観の衝突がわずらわしいものではなくなり、複雑にひしめきあう価値観を未解決のまま許容できるような地点に近づいていく。

 魂は逆説と矛盾に満ちた複雑な心の領域である。魂には愛着を求める気持ちと同じくらい強く、孤独や自由、分離を求める何かが存在する。孤独と一体性の双方に敬意を払うこと。魂は矛盾という不快さにとどまるとき豊かさを見出す。

  魂であることのひとつのしるしは、内省することである。魂は人生で起こっていることを知る必要はない。解釈や説明、結論も必要としない。じっくりと考え、好奇心をふくらませ、探求することが魂であることの証なのだ。

  著しい変化がおこりつつあるとき、つきあっている人間が、こちらの身におこっていることに好奇心を抱いてくれなければ魂の絆をつくるのは難しい。うるおいをもたらすのは理解したいという衝動ではなく、好奇心や腹を割った話し合いである。そうした話し合いは体験に寄り添いながら、親しい関係になくてはならない想像力を磨く機会になる。

   魂の絆を築くには、ひとつは自分自身を知ること。もうひとつは他人の魂の奥深い霊妙な豊かさを知ること。一方に注意を向けることが、他方を知る助けになる。とりわけ葛藤にさいまなまれているときや絶望しているとき、人間関係に深入りすることは自分自身を知るための絶好の機会になる。何に憧れ、何を怖がっているかを観察できるからだ。周囲の人間が理不尽な行動を見せたとしても、それを受け入れやすくなるだろう。

  魂の理屈に合わない極端な側面に敬意を払っていれば、自分自身や他人に完璧さを期待することははるかに少なくなる。このような愛は忍耐と想像力を通して大きく成長する。

 本当に魂をもった人間は、愛するものの中に予期せぬものを見出したとき、驚くかもしれないが完全に打ちのめされることはない。

  魂は一見否定的にみえる奇妙なふるまいを通して、新しい肯定的な領域へと入り込んでいく性質がある。

  魂でつながった結婚は表向き奇妙に見えることがすくなくない

  ユーモアは人生の影の部分を受け入れる最良の方法の一つである。

  不信や理解不足による夫婦の距離感が、予測や説明ができない魂を受け入れる受容性を養ってくれる。夜毎に分析や解釈なしにお互いの夢をかたりあうこと。伴侶がどのような魂の生活を送っているか、それまで見えなかった部分がみえるかもしれない。

  魂は認められることや称賛を求める。また興味を抱かれることを望む。われわれはもっと自分の結婚に関心を持ち、結婚生活が日々自分たちに何を求めているかに敏感になったほうがいい。

  家族を仕事や職業から分離しないほうがいいだろう。家族を除外するのが習慣となっているところで、家族をひっくるめるのは、魂を招き入れるための簡単で効果的な方法だ。地位や職業などの一面だけを強調すると、残りの生活の部分(自分の感情が染み込んだ堆肥)が溝に落ちる危険がある。

 家族が負っているそれぞれの役割を単純化しなければ、彼らの存在の神秘に深く入り込み、逆説に満ちた魂の徴候を見出すことができる。表向きの仮面の下にある怒り、利己心、深い愛など。

  つながりは完璧である必要はないが、家族のものたちの想像力をつきうごかし感情を喚起できるものでなければならない。

  魂の養生のためには、意識的な操作や努力をしすぎないこと。自らが顕れてくるのに任せ、障害に出会ったとき、傷ついたときに気づかってやること。

   不和に対処する一つの方法は、魂のすべての表現が「自分の欲するものを語っている」という受け入れがたい真実を受け入れることであろう。家族のものは時間をつくって、感情を素直に表現してみる必要がある。そうすれば感情は整理され、お互いに何を欲しているのかが鮮明になるだろう。緊張の底にあるものを掘り起こし、お互いの要求を受け入れるための基盤作りになる。

   家族の伝統を守りながら、たえず家族のイメージを作り直す勇気をもてば、家族の魂を養うことができる。家族の影、緊張、相違、敵対、衝突を尊重しなければならない。

  悪と苦悩の神秘を苦労している親に求め、彼らを責めるとすれば、われわれは自分自身の責任から目をそらすことになる。また親や親戚に支えきれない重荷を背負わせることになる。そのような態度は人生の試練を過度に単純化してしまうことになる。

楽園と堕落は同じ神秘の一面であり、両者ともに人間存在にとって基本的なものである。それを理解すれば、より深い真実に近づけるだろう。大人になるには完璧でない親をゆるせるようになる必要がある。自分自身の生活に全面的な責任を負うようになれば、家族の関係はもっとうまくいくようになるだろう。

親も子供たちの責任をとることで、自分自身の人生への責任を回避している場合が多い。

 依存ゆえに親につながるのではなく、非難ゆえに親との滞った関係にわれわれをつなげ閉じ込めてしまう。

 自分独自の人生を歩むことは親と子にとって最良の方法である。共同体が存在できるのは、中に入っている人間がそれぞれに個性的に生きていける場合にかぎられる。

  家族の影の部分を家族の創造性の一部として評価しなおすこと。

   家族は儀礼や、祈りのように神秘的かつ創造的パワーをひめた場所なのである。

   狭く世俗的な家族の概念は内向しやすく、過度に個人的になる。家族の観念を神話的にひろげて人類全体を包含するような感受性をもつこと。服従ではなく尊敬の念にねざす力を見出すであろう。家族が神聖であること、畏敬に満ちた聖なる感覚を忘れないこと。

  家族の物語をいかに保存し、伝えていくかが、魂を養生する助けになることが多い。

  魂は固定された物体ではない。めまぐるしく変わる人生の際限ない源なのだ。

 家族の関係が権力闘争になっているケースでは、お互いが特定の価値やふるまいをおしつけあう。

   家族は友情で結ばれる必要がある。独立した個人として思いやる心、相手の魂の動きを感じる能力。相手に特定のふるまいを強要しない。

 パラノイヤ(偏執病)とは世界そのものを危険や脅威として感じる「ずれた知識」である。パラノイヤに抗して友愛の感覚を取り戻す方法として、直感やひらめきを大切にし、想像力を駆使して体験を理解する能力を養うということがある。

  魂に気遣って生活していれば、性格そのものが友好的になる。友好的な世界は作法(日常の行為を洗練する)によって維持される。

  親しさの表現技術を磨くこと。手紙を書く時間のゆとりを持つ。特別な贈り物を買ったり作ったりするために必要な時間を作る。質のよいものにお金をかける。贈り物や入念な言葉の選択で相手の魂に微妙な気持ちを伝えるのである。意思の伝達から、親しさを表現することへきりかえること。

  目的ぬきに話をしながら歩くとき、魂の活動となる。

  魂が好む意識の状態は、夢想、回想、黙想などである。平板でなく浮き沈みのする出来事の中に魂は住んでいる。

  問題の解決を急げば、それはどうしても自我の投影になりやすい。衝突する二つの世界が生み出す緊張を維持すれば、魂に通じる道が開け、最終的に思いがけない解決策(真にあたらしいもの、それらを見渡せる新しい視点)が浮かび上がってくるものだ。

  矛盾を矛盾のままに受け入れる態度で接すれば、二者選択を迫られなくなる。混乱した空想に敬意を払い、素直に耳を傾ければよい。矛盾によって引き起こされる感情から逃げずに、じっとつきあうことだ。そうすることは魂がひろがるという恩恵をもたらす。また人生の諸問題に奥深い解答を見出す可能性がでてくる。二つの相容れない選択肢の間にひっかかっていると身動きがとれず、新しい発想がうかばない。

恋愛は緊張を強いる混乱をもたらす。しかし豊富な体験をくぐりぬけることで子供っぽい単純さを捨てて、成熟した大人としての複雑さを身につけられる。

  魂によって問題を理解する方法は、愛と執着が深まったときに生まれる構造を理解し、みつめることだ。魂を魅了するものにはなんでもどっぷり入り込んでみたほうがいい。そのような情熱を生み出しているものの正体がわかるまでとどまっている必要がある。物事の核心に横たわる、痛みを伴いやすい特定のイメージとつきあわなくてはならない。ほんの小さな問題も、魂の深層世界ではなんらかの壮大なテーマにふれていることがある。

  分裂した欲求の一方に加担しないこと。両方の選択肢を深く掘り下げていくこと。じっくりと考慮し魂の欲求に耳を傾けることだ。じきにそれらの選択肢は性格を変え、お互いそれほど排他的ではないことに気づく。そうして葛藤が少なくなれば第3の可能性が見えてくる。

  心の奥に隠されている空想を、見通しのよい人生の舞台に連れ出す必要がある。そうすれば強迫的な行動や抑制のなかで力強く働いている動機の力が明らかになるかもしれない。

 様々な制限のある人生を送るのも、また自由である。

  人間関係の様々な問題は、人と接する時の自分自身の態度の中にある。自分の態度が変わると、人生の問題がそれほど大変なものでなくなる。

  魂のつながりを生み出すには、長年くりかえされる肌と肌とのふれあいや、眠りと夢を分かち合うことだ。

苦痛を避けようとすれば、逃げ出したいと思っている感情やイメージに長年つきまとわれる。痛みを引き受ければ、以前の関係で体験したことのないような始まりの意識を見出すことができるだろう。

   他人から何かを期待するのはやめなさい。

  死者に敬意を払うことが大切だ。魂はこの世の体験に限定されない。死は関係性を終わらせず、異なる文脈に関係性をおきかえるだけだ。死者との関係をはぐくむことは、魂に永遠、憂鬱、神秘という栄養を与え、魂を敬うことができる。人々への深い感謝という大切な気持ちをわれわれに与えてくれる。

   相手に怒りをぶつけると、魂の成長が阻止される。怒りの表現は対人関係のパワーゲームにわれわれを封じ込める。怒りの力強さ、強烈さをみつめ人格に組み込んでいくことができれば、魂の重要な通過儀礼となる。

    不安の原因は、自信の喪失というより想像力の衰退である。嫉妬心は本人の失われた生命力の断片だったのだ。嫉妬の核にある自己憐憫は無駄に人を消耗させる。自らの力で人生にむきあう勇気をもったとき、嫉妬心にわずらわされなくなる。

  被虐的な思いを抱き、そのようにふるまえばふるまうほど、その加虐性は隠蔽され破壊性が増す。

   土着性を好む魂の生活を敬うこと。家、自然、家族など土着的な人生は本質的に素朴な親しみを大切にする生き方を要求する。

   罪の意識は感受性を鈍らせる。愛と親しさの影を受け入れることで魂は統合される。

    結婚生活を通して魂の世話を焼くには、伴侶の話す物語、憧れ、記憶、空想、情緒的反応に敬意を払う必要がある。魂は粗野な形で与えられ、長い時間をかけた洗練を必要とする。そのことを理解すれば、人間関係を扱うとき性急でなくなる。

  人間関係を通して魂の世話をしてやれば、自他の個性を受け入れつつ、関係そのものを現実的で神秘的なものとして味わうことができる。予期せぬ出来事も、人々の変化も許せるようになる。自分独自の欲求や渇望を許容できる。異なる考えや奇妙な生き方、理屈にあわない自己表現をする人々との共同生活を評価し、楽しめるようになる。

 

 「時の輪 古代メキシコのシャーマンたちの生と死と宇宙への思索」カルロス カスタネダ・著 太田出版

 

「なんであれ、百万もある道のうちのひとつなのだ。その道を進むか離れるかの決断においては、恐怖や野心にとらわれてはいけない。そんなとき戦士が自らに問いかけなくてはならないことがあるとすれば、この道に心があるか、というものだろう。すべての道はどれも同じである。どこかわからないところにいくだけだ。」

 

「戦士はあらゆることを挑戦として受け入れ、凡人はあらゆることを祝福か呪いとして受け取る。」

 

「軽やかで柔軟でなくてはならない」「いささかもこだわることなく、なんであれすべてを試す」「いかに些細なことであったとしても、自らの行動に責任をとる」

 

「世界は理解を超えている。世界をあるがままに純然たる謎としてあつかわねばならない。」「いまここに存在していることに、全責任を引き受けなければならない」

 

「戦士は教師として、信じることや報酬を期待することなく、行動するために行動することの可能性を教えなくてはならない。教師として成功するか否かは、自分が面倒を見ている者をいかに上手に、調和の取れた状態に導けるかにかかっている。」

 

「自己憐憫は、それを招いた状況に対して当人が責任を負いたくない場合に起こる」

「存在の核とは感知する行為であり、存在の魔術とは意識を用いて気づく行為である。ふたつを切り離すことはできない」

 

「忍び寄りの術」

1、  戦士は戦の場を選ぶ。周囲の状況を知らぬまま、戦士が戦いにでかけることはない。

2、 不要なものは全て捨て去る。ものごとを複雑にしてはならない。

3、 すべての戦いに命をかける。全神経を集中し、慌てふためいたりうろたえたりしない。

4、 リラックスして自己を捨てる。何も恐れないとき、導く力が道を開いて力を貸してくれる。

5、 難関に直面したら、とりえず退却する。とりとめのないことを考え、何か他のことをして時間を費やす。

6、 戦士は時間を凝縮する。一瞬が重大事だ。

7、 忍び寄るものは決して自ら一番前にでるな。つねに背後から現場をうかがう。

 

7つの原則から3つの結果がもたらされる。

1、自分を決して深刻に考えないこと。自分が馬鹿であることを恐れず、自分自身を笑うことを学ぶ。

2、限りない忍耐力をもつことを学ぶ。絶対に急がない。いらいらしない。

3、限りない即興の能力を身に付けることを学ぶ。

 

「人間という存在は、ああしろこうしろと言われるのが大好きなくせに、言われたことをするまいと必死になるほうがもっと大好きときている。それで、最初にそのことを申し付けた人物を憎むという、わけのわからないことが起きるのである。」

 

「戦士にとって近づきがたい存在であるということは、自制心を持って自らのまわりに触れることを意味する。とりわけ彼は、自分自身や他人を消耗させることを、慎重のうえにも慎重に避ける。戦士はいたずらに人々を、特に自らの愛する人々を、そのいっさいが無に帰するところまでとことん利用し、しぼりあげたりしないものだ。」

 

「一度弱気になると、捨て鉢になって、なんにでもしがみつくようになるだろう。そうやってしがみついたら、今度は自分の方が消耗したり、しがみついている相手やものを消耗させることになる。反対に戦士の狩人なら、自分のワナに何度だって獲物をおびき寄せられることがわかっているから、くよくよすることがない。弱気になることは近づきやすくなること、そのつもりはなくても近づきやすい存在になることを意味する。」

 

「戦士は自らの苦痛を認めるが、それに溺れたりすることはない。未知なるものに分け入る気分は、とてつもない幸運に身もひきしまる思いから喜びに満ち溢れている。戦士の喜びは、自らの運命を受け入れることから、そして自らの前途に横たわるものを正直に評価することからもたらされるのである。」

 

「自尊心は、人間の最大の敵である。人がもろくなるのは、よきにつけ悪しきにつけ共にいる人間たちの行いによって感情を害されることによる。尊大ぶることは誰か(何か)によって、人生の大半を腹を立てたまま過ごすことを要求する。」

 

「悲しみと憧れのない完璧さなどありえない。それらがなければ、まじめさもいたわりもない。」