「日本とタイの女性アーティスト」

  
日時 平成13年3月2日(金) 
会場 福岡アジア美術館8階あじびホール
参加美術作家(スピーカー) 嶋田美子、知足院美加子、ピナリー・サンピタク(タイ)
コメンテーター 北原 恵
司会進行 ソンポーン・ロドボーン


知足院美加子(ともたりみかこ):彫刻家 

作品の一部をご紹介します。>作品紹介 彫刻制作は自分の身体的な感覚や限界を感じ、土、木、石や鉄などの素材がもつ自然の仕組みや道理などに気づき、学んでいくものです。
 作品は等身大のものが多く、一人で作業します。仕事が早いほうではないのでいつも相当な時間はかかりますが、逆に時間さえかけれられるならば、女性だからできないというような労働は存在しないと思います。

作品は、個人的な出会いや、自分の中にある無言の思い、自然な感覚、経験から感じた事が、集積していく過程のすべてです。生活から生まれ、生活に帰るものです。逸脱したものではなく、自分の感覚でそのとき必然的だったものを形にしてきました。作品は結果ではなく、他と共に気づいていく道のりです。
 どのアーティストでもそうだと思うのですが、本当の自分にうそがつけないまま歩いていたら、そこに立ち止まざるをえなかったのであって、道の最初から何かをテーマにして、目標達成というゴールを目指してはいないはずです。

これは「回想 ニ風谷ダム」という黒大理石の作品です。>作品紹介 この作品にいたる経験と、これが中心になって始まったプロジェクトについてお話します。 北海道の二風谷ダムは、古来からアイヌ民族の生活文化や信仰にとって大切だった沙流川のニ風谷村流域に建設されました。アイヌ民族は土地、文化、言語などを日本人によって搾取されてきた民族です。
 アイヌ民族である貝澤氏、萱野氏は、ダム計画に対して 「二風谷ダムを盾として、人間としての権利を求め」訴訟を起こし、初めて法的に「アイヌ民族の先住性」が認められ「ダムは違憲である」との判決を得たにも関わらず、1997年、ダムは施工されてしまいました。

 判決文の内容はニュースで取り上げられましたが、ダムが施工されてしまったことを私は知りませんでした。ダムを前にして立ちすくみました。何よりも衝撃だったのは、自分が何も思えないということ。この土地の生活を回想する要素を、私がかけらも持っていないということ。忘却するものも持てなかったのです。私にとって考えることとは立ち止まることでした。その抵抗感を体に染み込ませるためには、行為と時間が必要でした。ダムが完成したら全て終わってしまうのか。そこに寄せられた記憶や思いは途切れてしまうのか。あの沈黙した存在に対して、私は分析するためでなく、事の亀裂を自分の身体に刻むために石を彫ったのです。私にとって彫刻は記憶の断片を繋ぎ合わせた、無言の残像でした。
 

 ダムに反対したニ風谷アイヌ民族は二人。その他の大多数は土地を手放す選択をしたのです。その状況(生活の困窮)を引き起こすにいたる歴史的事実が問題の中心なのです。
強制的な変化は文化と環境を破壊し、アイヌ民族の中心を空洞化しました。私も無知によってその体制を維持している日本人の一人だったのです。
 私は当初、作品をダムに沈めたいというコンセプトを持っていました。水抜きの度に作品が現れ、破損を重ねて裁判からの年月を感じさせてくれると考えたからです。制度上その計画は断念しましたが、ダム原告の貝沢氏に出会い、プロジェクトは別の形で広がって行きました。
その内容を紹介する前に、ここにいたった私なりの必然性を簡単にお話しします。
 
 
まず、私が持っている水の感覚です。私の祖先は、英彦山という山で修験道に携わる山伏でした。身体を山におき、自然の関わりを神として体得するのです。明治の廃仏毀釈で、修験道は禁止され、苗字や文化はそこで断絶されてしまいました。
 英彦山は湧き水が多く、水や水脈は龍神として恐れられ大切にされました。水が生まれるには、山、土、磐、木の全てが必要になるということを父に教わりました。英彦山に暮した時期、動植物の排泄物や死体が土を創り、新しい生命を産むことを頭ではなく肌で実感しました。そして水際のデリケートな働きにも気がつきました。曽祖父まで受け継がれてきたものが断絶した事、山自体から感受したこと。これらはニ風谷プロジェクトを通じて、やっと話せるようになったことです。

 
 中南米で2年間暮したことも、影響しています。>海外青年協力隊の経験
数々の素晴らしい体験もしましたが、貴重だったと思うのは自分も人種差別されるという体験でした。多様な文化が混在し、先住民が差別される状況を肌身で感じました。
 伝統的文化をヨーロッパに破壊され、その後生まれた文化を独立や革命によって塗り替えようとした現代ラテンアメリカは、2重によりそうべき中心を失っています。また構造的に先進国に環境を破壊されざるをえない中米の貧しさを知りました。

 帰国してから中南米の経験や記憶を、ほんとうに自分のものに熟成するために、作品を作っていきました。彼らの強さと空虚さは何なのか。そして中学校の非常勤をしながら、部落問題や在日外国人の問題に直面している子供たちに出会いました。問題になっていたサラエボや中米の話も 遠いところの問題ではありませんでした。自分がいる国が抱えていたことに、やっと気づいたのです。

ニ風谷ダム原告の貝沢耕一氏が「彫刻をダムについて問い続ける素材にしたい」と申し出てくれたことで、プロジェクトは形を変えることになりました。ダム横の貝沢氏の土地に作品を設置するというのです。
問題というものは、その土地の空気を吸い、生活する毎日の隙間に垣間見えるものです。彫刻設置の手助けを理由にして、多くの人々に実際にニ風谷に訪れてもらおうと考えました。

 
 1999年8月、農業を営む貝沢氏の納屋で生活をし、援農しながら設置作業を始めました。
活動内容は、現地で毎日ホームページを更新し、Webで流しました。>活動のWeb 毎日新しい人が訪れ、力仕事や食事を共にして、地域の人とも少しずつ親しくなりました。碑文の内容は「遠い昔から、この豊かな大地で生活してきた先住民族アイヌの人々。その事実を誰が変えられるだろうか。」というものです。

この活動にさきがけ、アイヌの方々を講師に招き、私が勤務する大学においてアイヌ文化のワークショップとダムの問題提起をおこないました。まず楽しさや好意の感情が、深刻な問題にたどり着こうとする力を与えると考えたのです。イメージをメディアを通じて作りつづける日本人側の意識が深まらなければ、差別は再生産されていきます。>ワークショップ

 ワークショップと北海道の活動の後、アイヌ問題の活動をしている計良夫妻を招き、観光の問題や、文化の取り戻しについて討論を行いました。楽しさに満足するのではなく、痛みの原因を考えるためです。日本人は原罪ではなく責任として意識にアプローチしてほしいと彼らは語りました。 >テープ起こし

一連の活動がイメージに終始しないよう、そしてカテゴライズされないよう注意しました。最終的な結論に到達するためでなく、出会いや気づきの中で柔軟に対応していっただけなのです。関わる人々のそれぞれに応じた答えがあり、そこから始めていく。それは私がものづくりとして身につけた考え方なのです。
 立ち止まり、拾い集めた断片を何度も修正しながら紡いで行く。その繋ぎ目からわずかに生まれるものが、文化なのかもしれません。完了してしまったものを、僅かでも揺らし続けたいと、あがいているのが私なのです。
変化することは生きることであり、よい変化を与えるのは本当の自分に正直になる人間の勇気です。人間の身体は自然そのものです。素直に耳をかたむければ世界と調和するものなのです。
 しかし、この「本当」という言葉はくせものです。本当と思っているのは単なる思いこみで、それが生死の道理を狂わせる時もあります。身体の道理の方に正直になるためには、一層知恵深く慎重でなければいけません。ごまかしたり、楽したりはできないようです。

 人間は異なると感じるもの、一体感を感じられないものを恐れます。逆に手の届かないくらい敬います。どちらも、自分を侵害しないところに追いやるためです。
同じこととは、人間の思い、感情。身体的な営み。異なることとは、人間があとから作り出した経験や教育による価値観やシステム。
自己存在の不安は、自分より劣っているものを作り出そうとします。自分が悪者になることを引き受けられません。相手と自分との違い、相手の素晴らしさ、相手の痛みが自分を損なうという恐れが、多くの不幸を生み出します。
アイヌ民族、女性、障害者・・そうひとくくりにしたり、からかうのは、語るものにとってそうすることが楽だからなのです。星座や血液型と同じように、相手を把握した気になって安心する。目の前の相手は、日々変化する複雑なとてつもない存在です。とてつもない存在たちが生きているすさまじい世界なのです。
世界の複雑さや痛みを自分のものにするということは、世界を愛することだと思います。その手段がアートにも残されていると、私は信じているのです。

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