音楽心理学への御招待1


中島 祥好

13 オクターブの話

高い声の出ない人が歌を歌うとき、高い音をそのまま出さずに、1オクターブ低い音でごまかすのは、よくあることです。これは、特にその人が音楽理論のことを気にしているかどうかとかかわりなく見られる光景で、例えば、酔っぱらってカラオケでがなりたてている人が、苦しくなって1オクターブ下の声を出すのを御覧になった方も(ひょっとしたら自分で経験された方も)いらっしゃるのではないでしょうか。酔っぱらいのカラオケとは別の理由で、一つのつながったメロディーが、あちこちの音域を飛びまわりながら演奏されることが、古典的名曲にもしばしば見られます。面白い例としては、ベートーヴェンの「ハンマークラヴィーア・ソナタ」の冒頭があります。

 余談になりますが、ベートーヴェンの音楽は、聴覚心理学、音楽心理学の研究材料の宝庫と言えます。よくよく楽譜を見れば「何で、これがこの感じに聴こえるの?」と驚かされることがしょっちゅうあります。ものすごい例は、かの第5交響曲の冒頭「ダダダダーーン」(GGGEb)です。私はあるとき、これがなぜ運命的なハ短調に聴こえなければならないのか、どうして変ホ長調に聴こえてはいけないのか、気になってしかたがなくなったことがあります。色々な人に理由を尋ねてみたのですが、皆、首を傾げるばかりです。ただ一人慌てずに答えてくれたのは、和声学に詳しい音楽学者で、「それは、これを聴いた途端にこの曲だと判りますから−−−。」とのことでした。そうだとすると、初めてこの曲を聴いた人には、この冒頭の部分が変ホ長調に聴こえることもありうると言うことになります。このことを確かめるには、ベートーヴェンの第5交響曲を一度も聴いたことがなく、かつ、長調と短調との区別が判る、と言う被験者を捜しだす必要があります。実験心理学にも苦労が多いと言うことがお解りいただけるでしょうか。

 「ハンマークラヴィーア」の冒頭では、「ティラーンタタンティラタンタン」(BbDDDEbDDBb)と言うメロディーが聴きとれ、鼻唄で真似をすることもできます。しかし、このメロディーは、楽譜の上では数オクターブにわたって飛びまわっていて、とても鼻唄で追える代物ではありません。それでも、我々はこれを歌うことができるのです。この曲の、この後の部分でも同じようなことが見つかります。考えてみれば、ベートーヴェンも例のスケッチブックを持って散歩しながら、高貴なるメロディーを、鼻唄のごとく思いつき書きつけたのかもしれません。楽譜を書く段になって、鼻唄の音よりも、1オクターブ下のBbを使ったり、1オクターブ上のDやもっとずっと上のD、Ebを使ったりしたのかもしれません。ベートーヴェンが実際にどうしたのかはさておき、面白いのは、違うオクターブにある音でも、同じオクターブにあるかのように聴きとってしまう、我々の聴覚の働きです。

     (譜例:ベートーヴェン「ハンマークラヴィーア・ソナタ」、冒頭5小節)

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