音楽心理学への御招待1


中島 祥好

21 音脈の話

時間的に一つながりに聴こえる音のかたまりを「音脈」と言うわけですが、日常生活においては、一つの音脈が一つの音源(音の出どころ)に対応していることが頻繁に見られます。一つながりに聴こえる人の声は、一人の人の発する話し声ですし、一つながりに聴こえる鳥の歌は、一羽の鳥の鳴き声です。一つながりに聴こえる足音は、一人の人間が歩く音で、一つながりに聴こえる水の音は、一本の小川から発しています。たくさんの音脈を聴き分けると、楽しい「音の風景」の中に入ってゆくことができます。足音を立てたり人とおしゃべりをしたりしながら、山道を進み、鳥の歌(ときには合唱)や小川のせせらぎに心を和ませるとき、そこにはいくつもの「音脈」があります。

 もしも、いくつもの音脈が分かれて聴こえるという「広い意味での音脈分凝」が生じなければ、私たちは「音の洪水」に呑みこまれてしまうでしょう。幸いなことに、実際にはいくつかの音脈を別々に聴きとることのできる場合が多く、一つの音脈が、「一つ」あるいは「一まとまり」の対象、あるいはできごとに対応することが多いので、全体として、自分の置かれている環境に関連した、豊かな聴覚体験ができあがるわけです。ハイキングの場合には、これで楽しさが何倍にもなると言う次第ですが、我々の祖先が森や草原などで暮らしていたころには、もっと事情が差し迫っていたと考えられます。環境に即した聴覚体験を持つことは、変化や危険をすぐに察知し、仲間との素早いコミュニケーションによって適切な集団活動を行うために、不可欠であったと思われます。つまり、生き残るための重要な手段であったと言うことになります。

 話は逸れますが、現代では、昔に比べれば豊かで安全な社会が実現したおかげで、耳が不自由であることを克服して、人生を楽しむことが可能になっています。しかし、変化や危険の察知、他人とのコミュニケーションと言う基本的な点で、まだまだ難しい問題が残っているのです。我が国は、高度の技術と莫大な富を蓄積し、その一方では、人類始まって以来の高齢化社会を迎えつつあります。年をとれば避けて通ることのできない聴力障害の問題に対して、聴力障害者の環境への適応を総合的に助けると言う観点から取り組むことは、国民の責務であり、急務でもあります。

 音脈が成立する際には、さまざまな要因が絡まりあっていると考えられ、このことに関して世界各地で研究が進められています。多くの要因の中でも重要なのは「周波数近接の原理」と呼ばれるものです。昨年も年末の「第9」をお聴きになった方がいらっしゃるかと思いますが、4人の独唱者がそれぞれはっきりとした「音脈」を作っていることに気づかれたはずです。この場合、4人の声の基本音(最も低い成分)の周波数の離れていることが、それぞれの声を独立の音脈として浮き出させることに貢献していると考えられます。逆に言うと、周波数の近い成分は、一まとまりに聴こえやすいと言うことになります。もし「第9」の独唱部を編曲して、大人気のスーパー・テナー三人組にもう一人加えて、テノールばかりで固めたとすると、どんなに個性豊かな4人が揃っても、4つのはっきりとした音脈を作ることは難しいでしょう。

 二つのメロディーを、同時にはっきりと響かせたければ、離れた音域に置いたほうがよい、と言うのは作曲法の常識でしょう。フランクの「ヴァイオリン・ソナタ」終楽章では、ピアノとヴァイオリンとがカノンを演奏しますが、どちらのメロディーもはっきりと聴きとることができます。この場合、ピアノのメロディーに比べて、ヴァイオリンのメロディーが高い音域にあることが、大変効果的です。

 滑らかなメロディーのつながりを拒絶したかのように見えるウェーベルンの「ピアノのための変奏曲」においても、「周波数近接の原理」は働いています。作曲家が何をしようと、聴覚の基本原理が変わるはずはないのです。それゆえ、同じ音域の音符どうしが聴こえのうえで結びついて、メロディー「のようなもの」がふっと浮かびあがります(少なくとも私の聴きかたではそうです。)。ウェーベルンは、聴覚システムが音と音とを結びつける働きを信じていたからこそ、一見ばらばらな音符の並べかたを、思いきって試みることができたのではないでしょうか。

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