音楽心理学への御招待1


中島 祥好

22 音脈の話

 音脈が生ずる際に「周波数近接の原理」が重要な役割を果たすことをお話しいたしました。もう一つ重要な役割を果たすのが、「共通運命の原理」です。「共通運命」などと言うといかにも大げさですが、元になる英語が「common fate」ですからしかたありません。八人の漕ぎ手が息を合わせてボートを漕いでいるとき、同じ側の四本のオールが一つにまとまって見えることがあります。また、一斉に同じ方向に泳ぐ水槽の中の鰯が、一つの生き物であるかのようにまとまって見えることがあります。一匹だけ逆方向に泳ぐ「自由な」鰯は、群れから外れているように見えます。このように、同時に同じような変化をするものがいくつかあるときに、ひとまとまりのものとして知覚される傾向を、共通運命の原理と言う言葉で表します。

 音楽において、二つの以上の声部が、いつも同時に鳴り始めたり、同時に鳴り終わったりするとき、声部と声部とが知覚の上ではっきりと分離されにくくなり、一体として聴こえやすくなります。例えば、シベリウスの「フィンランディア」の合唱の部分では、合唱団員の全ての声が一斉に鳴り始め、一斉に鳴り終わります。ある声だけが、またはある声部だけが先に聴こえたり、後に残ったりしないわけです。また、ある声部の動きだけが聴こえると言うこともありません(先に取り上げたベートーヴェンの「第九」において独唱者が競いあって歌う部分とは、この点が異なります。)。こう言うわけで、あたかも人間の声を超えた一つの偉大な声が響きわたるように聴こえます。この曲の場合、各声部がばらばらに聴こえてはまずいのです。演奏に当たっては、合唱団全員の音符の始まり、終わりがぴったりと揃うように、細心の注意が必要であると思われます。ところが、同じ合唱でも全く異なる場合があります。バッハの「マタイ受難曲」では、多くの声部が別々に始まったり、終わったりするところが多く、決して一枚岩ではない沢山の人間の声が響くように聴こえます。もっとも、バッハの場合にも、合唱団全員が揃うべきところは揃うと言うことが重要であることは申しあげるまでもありません。「フィンランディア」も「マタイ受難曲」も、強い祈りの気持ちがこもった名曲ですが、二つの曲のあいだで人間の声の響きかたは随分違っています。「フィンランディア」の合唱は、まさに「共通運命」の言葉にふさわしいものです。

 対位法の曲では、声部の独立性をはっきりさせるために、楽譜の上では同時に始まる異なった声部の音符に、演奏家が時間的なずれを与えることがあると言われています。ただし、この点に関してはデータを集めることが難しく、一般的な結論を出すのは大変です。とりあえず、面白い仮説として注目しておきたいと思います。

 二つ以上の声部が、同じように上昇したり、下降したりするときには、一体として知覚される度合が増します。同じ種類の木管楽器が三度の間隔を保ったまま、同時に上昇したり、下降したりすると、音色が似ていることも手伝って、一つのメロディーが、豊かな音色で演奏されているようにも聴こえます。この現象については、またの機会に詳しく触れるつもりです。

 考えてみれば、一人の人間の声は、たくさんの純音成分に分解することができ、これらの純音成分は、同じように始まり、終わります。また、同じように上昇し、下降します。このような、純音成分をまとめて「一つの声」として聞くことは、一人の声を一つの声として聞くことですから、環境への適応になっています。例えば、うるさい場所で誰かの話を聞く必要があるときに、役立つはずです。「共通運命の原理」は、最終的には適応を助けていると思われます。

 しかし、何十人分もの声をひとまとまりにして捉えることが適応と言えるでしょうか?我々の聴覚システムは騙されているのではないでしょうか?私は、この場合には騙されるのが適応であると思います。音楽は音の遊びですから、私たちの知覚システムを騙すことがあるのは当然です。

音は時間的に変化し、その変化の様子は、音を知覚するうえで極めて重要です。聴覚の世界で共通運命の原理が大きな役割を果たすのは、恐らくそのためでしょう。

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