音楽心理学への御招待1


中島 祥好

23 音の常識と誤解

マルチ・メディアの時代になって、映像の重要性が増し、相対的に音の果たす役割が弱まった、と言う人が増えています。また、文学部の心理学科などでは伝統的に、視覚が日常生活を営むうえでの最も重要な感覚であり、聴覚は視覚の補佐をするにすぎない、と信じこんでいる人が多く、「知覚心理学」と言えば「視覚心理学」のことになってしまう場合が大部分です。聴覚の研究に携わる者にとって、これは生活の基盤を揺るがす大問題です。読者に、このような誤解を持つ方はいらっしゃらないと思いますが、どうしてこのような誤解が生ずるのかを、考えてみたいと思います。

 マルチ・メディアにおいては、映像に要する情報量が、音に要する情報量に比べて圧倒的に多いと言う厳然たる事実があります。オーディオがデジタル化しつつあることは、ご存じの通りですが、画像、映像をデジタル化することは、なかなか大変です。一例を挙げると、いまブームになりつつあるデジタル・カメラは、従来のカメラ(つまりアナログのカメラ)に比べて、画像の品質が明らかに劣り、CDがアナログのレコードを駆逐したのと同じように、デジタル・カメラが従来のカメラにとって替わると言うことは考えられません。従来のカメラに対抗しうるくらいの品質を得ようとするには、デジタル・カメラの情報量をもっと増やす必要があるのですが、そのようにすると、値段がとんでもなく高いものになってしまいます。技術の進展は信じられないくらいに速いので、十年後に、デジタル・カメラが主流になる可能性は充分にありますが、現段階では、高品質の画像に要する情報量の多さが、技術の壁となっています。

 このようなことから、多くの情報量を要する視覚のほうが、少ない情報量ですませている聴覚よりも、高級であり、重要であるとの考えかたが生ずるようです。しかし、少し考えてみれば、事実はそれほど単純でないことが解ります。例えば、私自身はテレビのニュースを、画面を見ずに音だけで済ませてしまうことがよくあるのですが、逆に、音を消して画面だけでニュースを見ることは、殆ど不可能です。ニュース番組に関する限り、画面よりも音のほうにはるかに重要な情報が含まれていると言うことになるわけですが、このような「情報の重要性」は「情報量」と言う概念では捉えきれないものです。

 深刻な例になり恐縮ですが、アメリカのスティーヴン・ヘンデルと言う先生が、1989年に出版された聴覚心理学の教科書の冒頭で「聴覚か視覚かのいずれかを失うとすればどちらを選ぶか?」と言う問いかけをしておられます。多くの人が、聴覚は失っても、視覚は失いたくない、と考えるのですが、実際には、聴覚を失うことは、他人とのコミュニケーションに大きな制限が生ずることになり、視覚を失うよりも、はるかに深刻な問題が生じます。ヘンデル先生はまた、稲妻よりも雷鳴のほうが、体験としては、はるかに恐いことを指摘しておられます。ピカッと光った後で、「恐い」と身をすくめても、現実には意味がないわけですが、これはよく見られる光景です。聴覚は、環境と自分との心理的な接触を保つうえでも、重要な役割を果たすことが解ります。

 ヘンデル先生の考察によれば、片方の眼には、約100万本の視神経の線維がつながっているのに対して、片方の耳には1万5千本の聴神経の線維しかつながっていません(それでも大変な数ですが)。ところが、情報が大脳皮質に達する段階では、大脳の片側(右側あるいは左側)において、直接視覚に関わる神経細胞の数が約1億個となるのに対して、直接聴覚に関わる神経細胞も約1億個と、殆ど同じ数になってしまいます。このような数えかたには異論もあろうかと思いますが、眼や耳に近い情報の入口の段階で、圧倒的に視覚システムのほうが多くの情報を得ているにもかかわらず、情報を加工し、伝える段階で、聴覚システムが巻き返しを図っていることは確かです。つまり、我々の聴覚システムは、限られた情報を、効率的に利用していることになります。実際に、耳から大脳に至る神経系の道筋はかなり複雑で、さまざまな情報の加工が行われていることが窺われます。一方、眼から大脳に至る道筋は、比較的単純で、網膜に映る物の形が、大脳における神経細胞の活動のパターンに、かなりはっきりと対応づけられます。

 それでは、聴覚システムにおける神経細胞の複雑なつながりは、どんな働きをしているのでしょうか?これが、意外に解っていないのです。おかげで、私もしばらくのあいだ飯の種に困らないと言う有難い話になります。

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