音楽心理学への御招待1


中島 祥好

25 音の補完

聴覚の補完現象に関連の深い現象に「ロール効果」と呼ばれるものがあります。「ロール」と言うのは太鼓をドロドロと打ち続けることですが、ここではスネア・ドラム(小太鼓)が、速めのテンポのもとに一拍当たり4回の刻みで(四分音符を一拍とすると十六分音符の細かさで)「タカタカタカタカ−−−」と鳴り続けている状況を考えてください。一つ一つの音がほぼ等しい強さで鳴らされる場合、全体としてひとつながりの音に聴こえます。ここで、「タ」の音が「カ」の音よりもずっと強く鳴らされると、「タッタッタッタッ−−−」と言う具合に強い「タ」の音だけのつながりが聴こえます。ところが、弱いほうの「カ」の音は、それだけが「カッカッカッカッ−−−」とつながって聴こえるとは限らず、「タカタカタカタカ−−−」と細かい刻みのつながりに聴こえることが普通です。このつながりの中では、「タ」と「カ」とはほとんど同じ大きさに聴こえます。私たちの聴覚システムは、「タ」の音を、「タッタッタッタッ−−−」と「タカタカタカタカ−−−」との二つの音のつながり、つまり二つの音脈に組み込んで解釈するわけです。

 ジャズのドラム・ソロなどでは、「タカタカダカタカタカタカダカタカ−−−」と、「ダ」のところだけスネア・ドラムを抜かして、代わりにタムタム(スネア・ドラムよりも大きめのサイズをもち、「ダッ」とか「ドン」とか鳴る太鼓)を鳴らすことがあります。このとき、タムタムはかなり強く鳴らされます。私たちの耳にはまず「ダッ−−ダッ−−」と言うタムタムの切りこみが跳びこんできますが、面白いことに、スネア・ドラムは「タカタカタカタカタカタカタカタカ−−−」とずっと続いているように聴こえることが多く、「タカタカッカタカ−−−」と「ダ」のところが抜けているようにはなかなか聴こえません。この場合、実際には鳴らされていないスネア・ドラムの音が聴こえているわけで、聴覚システムは「早呑み込み」をしたことになります。仮に、「ダ」のところでスネア・ドラムが実際に「タ」と鳴らされたとしても、その音は、タムタムの大きな音に、聴覚上かき消されてしまい、はっきりとは聴き取れません。「ダ」のところでスネア・ドラムが「鳴っているのか/いないのか」について、聴覚システムには不充分な情報しか与えられていないことになります。ここで、聴覚システムは「鳴っている」との素早い判定を下すわけです。この現象は、前回に御紹介した「補完現象」に通ずるものです。聴覚システムが、不完全な情報に対して素早い判定を下し、早呑み込みとなるわけです。そして、ドラマーに腕が三本生えているかのような印象が生ずるわけです。

 今の例では、早呑み込みのおかげで、規則的なリズムを聴き取ることができるわけですから、早呑み込みが、音楽の構造を把握する上で役立っている面もあります。音楽を理解するために私たちの聴覚システムが進化したとは考えられませんが、このような聴覚の仕組みが、言語の理解などに役立っていることは、充分にありえます。

 「ロール効果」の話に戻りますが、ここで御紹介したような現象について厳密に調べるには、楽器の音ではなく、機械的に合成した音を用いることが必要です。合成音を用いて実験を行ったのは、オランダのファン・ノールデンさんと言う研究者です。その結果によれば、強い音Aと、弱い音Bとを、素早く交替させてABABAB−−−と鳴らすと、A・A・A・−−−と言う具合に強い音だけのつながりが聴こえますが、一方では、Aが鳴るところで弱い音Bも同時に鳴るように聴こえ、BBBBBB−−−というつながりが知覚されます。

 私は、ファン・ノールデンさんのお宅に伺ったことがありますが、この方の本職は電話、通信関係の技師で、心理学の研究は何と休日の趣味なのです。お宅の二階に、自作の実験装置が転がっているのが印象的でした。私はヨーロッパで仕事をすることが多く、面白いことも面倒なこともたくさん経験していますので、ヨーロッパ(厳密には西欧北部)の良い点と悪い点とをかなり冷静に評価しているつもりですが、このように純粋な好奇心から大がかりな研究を行う人が存在し、しかも尊敬されて(少なくとも尊重されて)いるのを見て、今でもヨーロッパは科学の先進地域である、との感を深くします。日本では、このような研究成果に対して「それでどのようなことに応用できるのですか?」と言う類の質問しか思いつかない人が、大学の教官、学生の中にも多いのです。日本を含む東アジア諸国が本当の意味での先進国になるには、まだまだヨーロッパから学ぶべき点が残っているようです。

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