音楽心理学への御招待1


中島 祥好

28 音の補完

前回に、言葉を話し、聴き取ることの重要性についてお話しいたしました。「音の補完」に関しても、言葉を聴き取ることの重要性に関連した現象があります。私が教室でよく使うのは、この現象の発見者であるアメリカのリチャード・ウォレン先生が公表された聴覚デモンストレーションです。「Try to tell which speech sound is missing in the sentence.」と男性が喋っている横で、誰かが「ゴホッ」と咳払いをしていると言う、一見何の変哲もない情景が録音されているのですが、ここに少し仕掛けがあります。咳払いは、「missing」の「m」が始まりかけたところから、「i」にかけて入っているのですが、この箇所では、言葉の音が録音から削られており、その代わりに咳払いが入っているのです。つまり、「which speech sound is mゴホsing in the sentence.」という感じになっています。ところが、教室でこのデモンストレーションを聴いた学生に、この文を黒板に書いて見せ、言葉の音が一部消えているのが判るかどうかを尋ねると、誰にも判りません。それどころか、咳払いが英文のどの箇所に入っているかと言うことすら、なかなか判らないのです。つまり、「missing」の一部が、録音の上ではなくなっている(つまり missing である)のに、私達の耳はその音を聴き取ってしまうのです。

もし、音を聴き取るのでなく前後の文脈から考えて、なくなった音を推測しているのであれば、苦労して推測したのがどの音であるかは、すぐに判るはずです。ところが実際には、それがどの箇所であるのかなかなか判らない−−−と言うことは、私達が考えて音を推測しているのではなく、その音を本当に聴いている、と言うことになるわけです。私達が考えるのではなく、私達の聴覚システムが考えてくれると言うこともできますが、聴覚システムの中に賢い小人がいるわけではなく、限られた仕組みを巧みに用いて、瞬時にこのような補完が行われるわけです。つまり、このような補完は自動的に生じます。この現象を「音韻修復」と呼びます。

 音韻修復は、日常生活で広く生じていると考えられています。今述べたデモンストレーションでは、言葉の音の一部が、物理的になくなっていたわけですが、物理的になくならなくても、咳払いの音が強いときには、聴覚システムの入口(末梢)のところで、それ以外の音がかき消されてしまい、言葉の音がなくなったのと同じことになります。咳払いに限らず、強い騒音は言葉をかき消してしまいます。例えば、航空機の離着陸のときにその近くにいると、強い騒音がべったりと続くので、喋っている言葉が聴こえなくなることを経験します。ところが、窓を開けた列車に乗っているときには、「ガタッガタッ、ガタッガタッ」という騒音が、言葉の一部をかき消しているはずですが、何とか隣の人と話を続けることができます。言葉の大半がかき消されずに残っているので、音韻修復が生じ、会話全体を聴き取ることができるわけです。

 音楽においても、似たような現象があります。例えば、テンポが速めで、メロディーのはっきりとしたピアノ曲を録音し、その録音から、メロディーの中の短い音符を一つ消してしまいます(同じ箇所の伴奏も消えます。)。そして、消した音符の箇所に、「ザッ」という強めの雑音を入れます。そうすると、雑音が確かに邪魔にはなりますが、メロディーがつながっているように聴こえます。また、雑音がどの音符の箇所に入っていたのか楽譜の上で当てようとしても、かなり難しいことが判ります。音楽におけるこのような補完現象を発見されたのは、宮城学院女子大学の佐々木隆之先生です。この現象が発表されたのは、日本国内でもあまり広く読まれていないローカルな学術雑誌でしたが、この佐々木先生の論文は、国境を越えて読まれています。(若い研究者には、英文で論文を書くことの重要性を強調したいと思います。雑誌がローカルであっても、英語さえ使っておけば、論文が広く読まれるチャンスがあるわけです。)

 音楽におけるこのような補完現象を体験することができるのは、古いレコード盤を聴くときです。「ガリガリ」とか「ゴッ」とかひどい雑音が入っていても、音楽はきっちりとつながって聴こえます。私達の音楽経験が、隠された音を聴き取るのに役立っているわけです。音韻修復や音楽における補完などの現象は、音をうまく聴くためには、聴くという体験が重要な役割を果たすことを示しています。かなり論理が飛躍しますが、音楽をうまく聴くためには、よい生演奏に触れる体験が重要なのだろうと思います。

 ところで、ウォレン先生のデモンストレーションから咳払いをなくして、そこを空白(無音の時間)にするとどのように聴こえるでしょうか。この場合には「m sing」という具合に、空白がはっきりとその箇所にあるように聴こえ、言葉がつながって聴こえることはありません。したがって、言葉を聴き取ることが難しくなります。この意味では、咳払いは言葉を聴き取りやすくすることに貢献していたことになります。このように、面白いことがたくさんあるので、いま世界中の研究者が、この現象の仕組みを解明するために研究を続けています。

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