音楽心理学への御招待1


中島 祥好

31 日本語の歌

 「からたちの花」の初めの4行は、次のようになっています:


 からたちの花が咲いたよ

 白い白い花が咲いたよ



 からたちのとげはいたいよ

 青い青い針のとげだよ

初めの2行と、次の2行とには、大変よく似たメロディーが付けられていて、「からたちの」から始まる歌詞に対応関係があることを反映しています。ところが、1行めの「咲いたよ」が階名で「ドレレミ」となるのに対して、4行めの「いたいよ」は「ドミレレ」となっています。もしも、「いたいよ」を1行めに合わせて「ドレレミ」と歌うと「いたいよ」か「ひたいよ」かが紛らわしくなり、無理に「いたいよ」と聴こうとすると、とって付けたようなメロディーに聴こえかねません。音楽のメロディーを言葉と切り離して扱うようなことが、極めて不自然であることを示す例です。

 日本語では、単語ごとに決まっている音の高さの変化が重要です。広島の名物は「柿」と「蛎」ですが、関西の人と関東の人が、駅の売店で発車直前におみやげを買おうとして、店員が混乱したと言う話を、どこかで読んだ覚えがあります。(ただし、実話ではないかもしれません。)「ドレ」というメロディーで「かき」と言えば、関西では蛎のことですが、関東では柿のことになります。英語やドイツ語でも、もちろん音の高さの変化は重要な役割を果たしますが、単語の意味にまで、決定的に影響するのは、日本語の特徴です。(私には知識がありませんが、中国語、タイ語などもそのような言語であるそうです。)「からたち」を東京方言で喋ると、「か」だけが低めの音で、後の3つの音は、だいたい同じ高さになります。「はな」では「は」よりも「な」のほうが高くなります。「からたちの花」では、全曲を通して、東京方言の持つ言葉のメロディーが重んじられています。「白い白い花が」の行では、その枠組みの中で「花」の「な」に特別高い音を当てはめることによって、強調がなされています。言葉の本来持っている抑揚に乗せて、音楽が羽ばたく瞬間です。

英語のミュージカルでは、台詞にだんだんと強い抑揚がつき、いつのまにか歌が始まっていると言うような場面があります。このような例を見ていただければ、言葉に乗せて音楽が羽ばたくと言うことの意味がお解りいただけると思います。盛り上がるところでいきなり英語に早変わりする、日本語のロックやポップスでは、英語の部分は意味を伝えると言うよりも、花火のように華やかな音響効果として使われていることが多いようです。そのままでは、言葉の抑揚やリズムがうまくつながらないので、日本語の部分も少し英語風に発音したりすることになります。これを、だらしないと見るか、おしゃれと見るか、趣味の違い、考えかたの違いもあると思いますが、本場の英語のポップスやロックとは全く異なったものであることは強調しておきたいと思います。(本場の英語のロックは確かにカッコよく響きますが、カッコいい部分だけを切り取ってきても、何となく外国っぽく響くだけで、ある程度英語のできる人には、まねごとのように聴こえる可能性が高いのではないでしょうか。)

それでは、日本語歌曲は「からたちの花」路線で決まりかと言うと、そう単純にはゆきません。モーラを単位とするリズム、単語ごとに決っている音の高低関係などは、作曲家に大変強い制約を課することになるからです。日本語そのもののリズム、メロディーを最大限に生かすということになると、それに付けることのできる音楽の種類が限られてしまい、英語のロックのようなおしゃれで強烈なリズムや、ラテン語の宗教音楽のような澄み切って、しかも深みのあるメロディーは、決して実現しないことになってしまいます。英語がうまく聴き取れないけれどもポリス(イギリスのロック・グループ)の切れのよい発音にしびれた人、キリスト教徒でもないのに、モーツァルト(外国語の達人)の「アヴェ・ヴェルム・コルプス」をラテン語で歌い幸せな気分に浸った人は、多いと思います。このような曲に、試しに日本語の訳詞を付けてみるのも、日本語の可能性を広げると言う点では、意味のあることかもしれません。ただし、この場合には、歌手に適切な歌いかたを工夫してもらうことが絶対に必要ではないかと思います。次回は訳詞の話をいたします。

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