音楽心理学への御招待2


中島 祥好

11 音の常識と誤解

 リズムの話は重要ですから、もう少し続けたいと思いますが、少し息抜きに話題を変えます。今回の話題は「声」です。人間の声は最高の楽器であると言われますが、楽器に比べて、声はどこが優れているのでしょうか。厳密に言うならば、「声を出す仕組み」と「楽器の鳴る仕組み」とはどこが違うのでしょうか? 「人間は生き物だから優れているのはあたりまえ」と言うのでは答えになりません。トランペットは、生き物である人間の唇がなければ鳴りませんし、拍手の音も、生き物の発する音です。「芸術的な音楽においては、声と楽器とは対等である」と反論される方が、もしいらっしゃるならば、ベートーヴェンの第9の独唱者が、最後の方だけ参加して主役並みの拍手を受けるのはなぜか、どうしてヴァイオリンとピアノとは対等な二重奏になるのに、歌とピアノの組み合わせでは必ずピアノのほうが伴奏になってしまうのか、と考えてみてください。人間の声は、どう見ても音の主役です。

 声が物理的にどのように出るのかは、かなり複雑な話ですが、肺から空気が出入りする通路のところにある「声帯」が振動して、音が出ると言うのは常識になっています。ところが、この声帯がどのような形であり、どのように震えているのかは、専門家以外の人にはあまり知られていません。気管の入口のところで左右から内側に張り出した筋肉の組織が声帯で、上下の唇のような筋肉が左右の向きになって気管を塞いでいると考えればよいでしょう。もっとも、この「唇」がふだんは開いていないと息ができません。声を出すときには、この「唇」を閉じたり狭めたりして、肺から無理矢理に空気を押し出します。空気はたまらずに「唇」の間を突き抜けますが、このとき、本物の唇を閉じて無理矢理に息を出したときのように、空気の振動が発生し、音が出ます。声帯の筋肉が脳の指令を受けて振動しているのではなく、これは、単なる物理現象です。ゴム風船の空気が抜けるときに、ブルブルッと音がするのは、似たような現象です。ただ、空気の出口が筋肉であることから、この空気の振動の様子をさまざまに制御することができます。例えば、歌を歌うときのように、振動の速さ、すなわち周波数を制御すると言うことも可能になります。ゆっくりと膨らむようなヴィブラートは声の得意技ですし、ブルースやジャズにおけるブルーノート、謡曲における変わらないようで少しずつ変わる音の高さ(専門用語は知りません。あしからず。)など、声の表現力は抜群です。このようにきめ細かく振動の様子を変えることは、楽器ではなかなか難しいことです。また、緊張しているときに声が震えることから解るように、感情の変化がじかに振動の様子に現れることも重要です。わたしたちの基本的な感情に深く結びついた「息をする」という動作に、声帯などの複雑な働きが加わり、多彩な表現が可能になるのです。

 これだけでも、楽器としてはかなり有利ですが、さらに大事な点があります。声帯の上には、咽(のど)や口の空洞があり、この空洞の形を、顎や舌を動かすことによって、素早く、かつ細かく変えることができます。声帯から生ずる音は、倍音を豊富に含んではいますが、音色の変化を欠いています。ところが、空洞の形を変えることによって、自由に音色を変えることができるようになります。これは、話し言葉の生ずる物理的な仕組みでもありますが、楽器には絶対に真似のできないことです。これをヴァイオリンに例えますと、弦が声帯で、音を響かせる木の胴が空洞の部分と言うことになります。空洞の形が変わると言うことは、ヴァイオリンの胴が、歪んだり、膨らんだりすることに相当します。このようなことは、普通の弦楽器では原理的に不可能です。金管楽器では、管の中に手や物を突っ込んで、ある程度音色の変化をつけることができますが、すばやい変化と、きめの細かさと言う点で、人間の声にはかないません。しかも、わたしたちの聴覚は、人間の声の音色の変化をうまく聴き分けるように進化していますから、人間の声である限り、微妙な変化、思い切った変化が、聴き手に効率的に伝わります。多くの場合は、言葉にメロディーが付きますが、言葉の音色やリズムを生かしたメロディーが付いていると、意味の解らない外国語の歌であっても、感情が伝わってきます。これは、聴覚システムの進化の産物であるようですが、このように言ったから説明になるわけでもなく、実に不思議なことです。

 さて、楽器に人間の声と同じ役割を果たさせることが、いつかは実現するのでしょうか。この質問には、人間と同じように自由に喋ることのできる楽器ができるならば、実現するでしょう、とお答えしておきます。人間が月に移住することのほうが、ずっと簡単ではないかと言うのが私の感想です。しかし、このような楽器を作ることは、音響に携わる人間の夢でもあります。

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