音楽心理学への御招待2


中島 祥好

24 日本語の歌 

 以前に、クラシックの歌手が、日本語歌曲を、まるでドイツ語や、イタリア語のように歌う例について述べました。少し後戻りして、この話を続けてみます。クラシック音楽に変な日本語がまかり通っていること自体は、聴けば誰にでも判ることです。我が国における音楽心理学の先駆者である兼常清佐は「ピアノの音は、パデレフスキーが弾いても猫が弾いても同じ」などの問題発言で名を残していますが、日本語の歌いかたについても「ニッポンの唄は結局ニッポン語の話、あるいは朗読の一種である。しかしゾプラン(ソプラノ)の唄は咽喉という楽器の演奏する音楽である。」(岩波文庫「音楽と生活 −兼常清佐随筆集−」)と明快に発言しています。この人は、ただ言いたい放題を言っているわけではなく、常に何らかの根拠のある発言をしており、そのために余計に煙たがられると言うタイプの人で、今の発言に関しても、自分自身の音響学的な観測に基づいているようです。当時の技術でどのくらいのことができたのか、私には見当がつきませんが、ソプラノ歌手が、しばしば、輝かしい高音のために歌詞の解りやすさを犠牲にしていることは、誰しも気付くことでしょう。

 ソプラノ歌手の名誉のために言っておきますが、そもそも、高い声で歌う場合には、声の中に、言葉を伝えるための手掛かりが少なくなり、言葉の意味を正しく伝えるには不利なのです。例えば五線譜の上にはみ出したAの音は、基本周波数が、約880ヘルツですから、

 880ヘルツ、1760ヘルツ、2640ヘルツ、−−−

 といった、880ヘルツの倍数の周波数をもった成分からできています。ところが、日本語の「ウ」の音を聞かせるためには、通常は、200〜500ヘルツくらいの成分が必要です。今の音には、そのような成分はありません。つまり、目をかっと開いて高音で「ウ」と歌うことは、原理的に困難なのです。このような問題は、喉頭の位置を上げていわゆるベルカントではない歌いかたを採用することにより、ある程度改善することが知られていますが、それにも限界があるようです。日本語の場合、子音が少ないので、母音の区別がつきにくいと、歌詞全体の意味がわかりにくくなる可能性があります。そうだとすると、ベルカント唱法で無理矢理高い音を出して日本語歌曲の歌詞が解りにくくなっているわけで、作曲家、あるいは作詞家、訳詞者の責任も大きいことになります。さらに、日本語会話で重要な役割を果たしている音の高低が、音楽のメロディーのために犠牲になっていることも多く、この場合、一層困ったことになります。

 クラシックの歌いかたにおいては、ソプラノに限らず、高い声がよく出て、声がよく目立つように、普段の会話とは異なった発音が採用されています。それが、果たして日本語に適切であるかどうか、地道な研究が必要なはずですが、兼常清佐のあと、そのような研究は決して多くありません。現在、大阪芸術大学の中山一郎先生がこのような骨の折れる研究を続けておられます。

 作曲家、作詞家、研究者、それぞれに責任があるわけですが、もちろん、歌手の責任も大きいと思います。そもそも、お客さんに言葉が通じているかどうかを気にするのは、舞台芸術の初歩だと思うのですが、ここにまず問題があるようです。兼常清佐が指摘したように、歌手が単なる楽器としての役割に満足している可能性があります。そうすると、声を出しやすくするために、作曲家の意向を無視するということも起こります。藍川由美著「これでいいのかにっぽんのうた」(文春新書)に出ていた話ですが、「からたちの花」のクライマックスである「まろいまろいー」と「い」で伸ばすところを、藤原義江は「まろー」と「ろ」で伸ばして歌い、最後に「い」をくっつけたのだそうです。この場合、高音を思いきり伸ばすには便利かもしれませんが、モーラ(日本語の基本となる時間の単位)の規則性に基づく日本語のリズムは崩れてしまい、「まろいー」の「ー」のところに余韻を残すような日本語独特の情感は失われてしまうでしょう。

 「これでいいのかにっぽんのうた」は、ソプラノ歌手である著者の経験に基づいた鋭い考察に溢れており、一読をお薦めします。「うさぎおいし」で始まる「故郷」の「おもいいずる(思い出ずる)」を、歴史的仮名遣いに従って「おもひいづる」と歌えばよいのではないか、と言う面白い指摘が特に印象に残りました。「日本語の歌は日本語の発声法で」と言う主張は明快で、兼常清佐に槍玉にあげられたソプラノ歌手が、兼常のお株を奪った感じです。

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