音楽心理学への御招待2


中島 祥好

25 脱線

 今回は、あえて政治上の大問題である「君が代」の話題を取り上げます。と言っても、右翼にも左翼にも味方をするつもりはさらさらなく、音楽寄りの立場から、この問題を取り上げたいのです。教育現場で「君が代」をいかに扱うべきであるか、現在盛んに議論されています。ところが、驚くべきことに、「君が代」が音楽として、あるいは歌として「国歌」にふさわしいものかどうか、と言う議論はあまり出てきません。特に、音楽家、音楽教育関係者からの、専門家としての発言には殆どお目にかかりません。この歌が、音楽として優れているのか、皆で声を合わせて歌いたくなるような歌であるのかどうか、「国歌」を選ぶときには、第一に考慮しなければならないはずです。これはまさに「国歌の一大事」です。

 「君が代」、「日の丸」と言うと、まず「日本の過去の侵略行為につながる。」などとして反対の声が上がります。このような意見には一理ありますが、私には納得できない点があります。「植民地化」や「侵略」は、確かに恥ずかしい、許すことのできない行為です。しかし、そのような理由で「君が代」、「日の丸」に反対すると言う人は、「ユニオン・ジャック」や「三色旗」にも反対しなければならないはずです。(ちなみに、三色旗の三色は、現在では「自由、博愛、平等」を象徴するとされていますが、白色は、もともとブルボン王家の象徴でした。)フランス国民の聖地であるパリの凱旋門では、ヴェトナム侵略に参加した兵士達も英雄となっています。国際化の世の中ですから、凱旋門前で「ラ・マルセイエーズ」反対の演説でもして、ついでに三色旗を一枚燃やしてみたらどうでしょうか。どう猛な警官どもに殴られて大怪我をするかもしれません。つまり、国旗や国歌が間違って使われ、そのことが国家権力によって正当化されることは、どの国にも見られることで、愚かさをもった人間が集まって権力を形成する以上、避けられないことです。愚かな歴史も、一国の歴史として受け入れるしかなく、国旗や国歌を変えて、今日から別人ならぬ別国になりましたと言っても、それだけでは誰も信用しないでしょう。失った信用は、長年かかって取り戻すしかありません。「鉤十字」のように、それ自体がファシズムの象徴であれば、それを使い続けることは許されないでしょうが、「日の丸」、「君が代」はそうではありません。

 一方では、「国を愛することは、国民として当然のことである」と言う理由で、「君が代」を歌わない人を非難する人もいます。これは、「地域を愛することは、住民として当然のことである」と言う理由で、自治会の運動会の障害物競走に参加しない人を非難することに似ています。楽しい人もいるでしょうが、そうでない人もいるのです。一所懸命に働いて税金を納め(または、そのための準備として勉強し)、貴重な時間を割いて選挙の投票所に足を運ぶ人は、皆、それぞれのやりかたで国を愛しているはずであり、各自のスタイルは尊重されなければなりません。そもそも、運動会の障害物競走に参加するよりも、近所で困っている人を見かけたときに見て見ぬふりをしないことのほうが、ずっと地域にとって重要なはずです。

 さて、「君が代」のメロディーですが、これは、世界各国の国歌が進軍ラッパや凱旋式典を連想させるのに対して、実に平和な感じがいたします。雅楽の旋法(「壱越調律音階」と呼んでよいのでしょうか?)に従うゆっくりとうねるようなメロディーを、侵略行為と結びつけて聴く人は、随分変わった耳の持ち主であると思います。一方、歌詞が難しすぎると言う人もいます。私自身も小学生の頃に、「ちよにやちよにさざれ」が一つのフレーズだと思いこんでいた時期がありました。週刊誌「Newsweek」も、歌詞の解りにくさが若者に「君が代」が受けない理由ではないかと論じています。(記事をなくしてしまったのですが、「岩音鳴りて」と歌詞を誤解する例が紹介されていたように記憶しています。)しかし、歌詞が解りにくいと言う点では、長野オリンピックの閉会式で、皆が声を合わせて歌った「故郷」もいい勝負です。「都の西北」で始まる早稲田大学の校歌なども、難しい言葉を並べて作ってありますが、雑草のごとく広まり、早稲田の誇りをこめて学生に歌いつがれています(私は関係者ではありませんので、念のため。)。「君が代」の受けない原因は、歌詞とメロディーとがうまくかみ合っていないことではないか、と私は見ています。私自身の誤解について先に述べましたが、「君が代」斉唱の場面では、「さざれー」の後で盛大に息継ぎが行われることが、実に多いのではないかと思います。つまり、誰も歌詞の切れ目のことを気にしていないのです。「故郷」や早稲田の校歌では、このような問題は生じていませんから、訳がわからずに歌っていても、あるとき歌詞の素晴らしさに気付く可能性があるわけです。ある新聞の投書欄に「故郷」を国歌にしようと言う提案が出ていましたが、私もこれに賛成です。しかし、式典のメロディーを変えることが「技術的に」難しいのであれば、「君が代」のメロディーを残し、メロディーに合った歌詞を公募して、付けなおせばよいと思います。多くの国際的な場面では、歌をつけずにメロディーだけが演奏されるわけですから、これは難しいことではないと思います。

 最後に、言い古されたことですが、我が国に特有の旋法でメロディーができているのに、西洋の機能和声が崩れかけたような伴奏が付いていることは、実におかしいと思います。大太鼓が盛大に鳴り渡るところなどは、漫画映画で東洋の島国ジパングの神秘の皇帝が簾の奥から出現する場面のようで、笑ってしまいます。長野オリンピックでは、この点でも画期的な演出があり、雅楽風の素晴らしい「君が代」を聴くことができました。オリンピックの度に、選手団が「雅楽部隊」を引き連れてゆけば、まさに「国威発揚」で一石二鳥です。

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