音楽心理学への御招待2


中島 祥好

27 日本語の歌 

 日本語の歌に関しては、大学の授業でもよく取り上げるのですが、その時には、教師としての立場を悪用して、「最近の英語混じりの和製ポップスは、日本文化の恥である。」と言う、授業としてはやや脱線ぎみの話に持ち込み、日頃言いたかったことを言わせてもらうことにしています。面白いことに、この話に対しては、レポートでかなり真剣に反論する学生が現れることがあります。大学の授業で反論があるのは当然ではないかと思われるかもしれませんが、最近の日本の大学では、授業中の反論が驚くほど少ないのが普通のようです。私が学生の頃は、少なくとも大学院の授業では、先生に反論してみようと学生どうしが競争していた記憶がありますし、現在でも、欧米の大学で講演をさせてもらうと、講演の後(場合によっては途中)の「反論処理」に結構手を焼くのが普通です。どうして、現在の日本の学生だけこうなってしまったのか、気になるところですが、これは今回の話題ではありません。「英語混じりの和製ポップス」が、学生の反論を呼び起こすことのできる希有な話題であることが注目点です。

 恐らく、反論する学生は、「英語混じりの和製ポップス」にかなりの親近感をいだいており、私がそれを斬って捨てようとするのに強い抵抗を感じているものと思われます。世代間のずれと言ってしまえばそれまでなのかもしれませんが、私は、これを何とか現代日本の文化の根本問題として、議論の題材にしたいのです。「英語は音響的に面白いし、かっこいい」、「現代日本には外国のものを好む人が多いと言うことを、素直に文化として受け容れるべきである」、「日本人の本来の精神がそう簡単に変わるとは考えられないから、気にしなくてよい」など、実にいろいろな反論があることにも驚かされます。ここで、少しはっきりさせておきたいのですが、私は英語を使うこと自体に反対しているのではありません。日本語の美しさを強調するような歌が少ないことを問題としているのです。さらに、盛りあがるところで、決まって英語にひっくり返る軽薄さにうんざりしているのです。現代日本には現代日本の言語があるはずであり、これを音楽に乗せて楽しみ、後世にも伝えることが重要ではないのか、と言うのが私の主張です。日本語で大いに盛りあがろうではありませんか。そのための音楽を見つけようではありませんか。

 私が和製ポップスの英語をけなすことに関しては、和製ポップスにおける英語は単なる音響効果であるから、多少発音や文法が変であってもかまわない、と反論する人がいます。しかし、自国語を大事にする人は、外国語をも大事にしなければなりません。あるドイツ人が、日本で「ロイヤル・マンション」と言う庶民的なアパートに住んでいたことがあり、本国の友人に手紙を書くときに、「Royal」は皇室と何の関係もないとわざわざ説明したと言うことですが、この種の不用意な言葉遣いは、和製ポップスにおける「love」の大安売りに通ずるものがあるように思います。「love」を繰り返すことが悪いのではありません。スタイリスティックスの歌う「Love is the answer.」と言う曲は、「love」という言葉のくり返し回数では、大きく他の曲を引き離していますが、取ってつけたような「love」ではなく、心の底から湧き出した「love」が伝わってきます。やはり、英語の「love」は英語の文脈の中でこそ生きることが判ります。和製ポップスの作詞家、作曲家は、こんなにかっこいい英語を聴いて恥ずかしいと思わないのでしょうか。アンドリュー・ロイド・ウェッバー作曲の「Aspects of Love」は、いきなり「love」で始まりますが、これが、舞台を最後まで見終わってから、「love って何のことだったのかなあ」と考えこませる伏線となっています。ここまで大事に扱われている英語を、単なる音響効果として用いる人々は、言葉を命あるものとして大切にした先祖の歌人達に何と言いわけするのでしょう。

 そもそも、英語がかっこいいと感じている人は、まともに英語を学んだうえでそう感じているのでしょうか。これは、現在の多くの学生の英語力から見て大いに疑問です。かっこいいと感じていながら、どうして真面目に勉強しないのだ、とついつい教師の愚痴が出てしまいます。学生諸君の真面目な反論に対して、愚痴で締めくくることになり、申しわけありませんが、ともかく、このような討論ができることは素晴らしいことです。再反論は大いに歓迎いたします。(学生以外の方にも、大学の雰囲気をくみ取っていただければさいわいです。なお、ここで「大学」と呼んでいるのは、特定の大学ではなく、あちこちの大学を重ね合わせた印象であるとお考えください。)

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