音楽心理学への御招待2


中島 祥好

1 言葉と音楽

 言葉と音楽とはどちらも、音によって他人に何かを伝えたり、自分の心を満足させたりする手段です。言葉や音楽がどのように始まったのか、多くの人が興味を持っていますが、このことを研究するのは、宇宙の起源を探るのと同じくらいに難しいことです。音は化石のように残りませんし、エジソンが 1877 年に蓄音器を発明するまで、音を保存する技術は全く存在しませんでしたので、研究のための材料が根本的に不足しているのです。(「音楽の起源はここにあります」などと自信に満ちて言うような人は信用しないほうが安全です。)しかし、人類の知恵の基本である言葉の始まりを知りたい、これほど心を動かす音楽がいつ始まったのかを知りたい、と言う気持ちを持つ人は、当然のことながら多いのです。そこで、できることと言えば、間接的な調査から、「状況証拠」を積み重ねてゆくことだけです。どこから手をつけるかは、人によって違いますから、推定する内容にもその違いが現れます。ここでは、一例として、私自身が手持ちの書物などから集めた「状況証拠」を列挙してみます。


1.プラスチック板などを「単語」にして、意思を伝えたり受け取ったり

    することのできるチンパンジーがいる。一部の類人猿は、記号を操作

    してコミュニケーションを行う能力を、潜在的に持っている。

2.十数万年前の旧人(ネアンデルタール人)は死者を丁重に葬っていた。

    また、数万年前の新人が描いた洞窟壁画は、その内容と出来映えなどから、

    儀式に用いられていたことが推定されている。ところで、現代では、

    どの民族においても儀式に音楽やお経がつきものである。

3.数十万年前の人類(原人)は、ゾウ、クマなどの、大型動物を、素朴な

    武器のみによって狩猟していた。何人もの人間が素早く共同作業を

    行うのでないかぎり、このようなことは不可能である。

4.子供は触ると音の出る玩具が大好きである。皆で踊ることも大好きである。

    また、子供のはやしたてる声が歌のようになることがよくある。

5.乳幼児と接する大人は、言葉の抑揚を大げさにして、歌うように喋る。

    喋り始めた子供は、歌うようにメロディーやリズムをつけて喋ることがよくある。

6.両生類から哺乳類に至るまで、多くの動物は、異性を引きつけるために

    独特の鳴き声を持っている。

7.思春期、青年期に突然音楽に夢中になる人が多い。(音楽なしでは

    暮らせない人の比率が、この年代で最も高いと言う調査結果もある。)

 「状況証拠」と言っても、一体何の証拠なのでしょうか。ポスト新人類の学生諸君からは、「言葉と音楽とが、それぞれ何年前に始まったのか、早く聞かせてください。」と無言の催促をされそうですが、勝手に自分の答えを見つけてくださいとしか言えません(これは、かつて「現代っ子」と呼ばれた初期新人類の無責任発言かもしれませんが)。私自身が確信しているのは、言葉も音楽も、数十万年前の原人が集団で生活していた頃、既に芽生えていたと言うことです。知能や、身体機能の点で優れた新人が出現したときには、現代人から見ても立派な言葉と音楽とができあがっていたのではないでしょうか。

 氷河期のような厳しい環境の中で、生き抜いて、子供を産み、育てるためには、多くの人間が、場合によっては自己犠牲を払うくらいの協力関係にあることが必要でしょう。それゆえ、言葉によって素早いコミュニケーションを行い、集団の団結を音楽や踊りで高めるような行いは、その能力さえあれば必ず現れるはずです。心を和らげ、人間関係の摩擦を少なくするにも、音楽が特別の働きをすることでしょう。(「天の岩戸」の伝説は、象徴的であるように思います。)さらに、配偶者にめぐり会い近づくために、昔の人類は、今の人類と同じように、持てる能力(モテる能力)の全てを使ったでしょう。また、異性に近づかれたことを感知することも、同じくらい重要であったでしょう。ここで、歌や踊りが一役買うことは明らかです。一方では、一人前になるまでに何年もかかる子供と親との結びつきを強め、大事なことを次の世代に伝えるためにも、歌や音楽が重要でしょう。古代の人々や、文字を持たない民族が、歌の形で歴史や物語を伝承していますが、大事なことを代々語り伝えてゆくときに、言葉と音楽との緊密な協力関係が生じた可能性があります。

 原人たちは、既に簡単な道具を作る能力を持ち、巧妙な聴覚コミュニケーションを必要とする狩猟活動を行っていたわけですから、この段階で、言葉と音楽とが何らかの形で現れていたに違いないと私は考えます。皆様はいかがでしょうか(ポスト新人類の方もぜひ一緒に考えてみてください。)。

 今回の議論は、人類学、音楽史などの専門家から御覧になればかなり粗雑であろうと思います。考古学ファンが「魏志倭人伝」を読んで邪馬台国のありかについて議論するようなものとして、大目に見ていただければさいわいです。

2 言葉と音楽

 子供の頃、遊び相手を集めるために「かくれんぼするもん、このゆびとまれ」などと大声でメロディーをつけて呼びかけたような経験は、多くの方がお持ちでしょう。ここでは、メロディーが付くことによって、メッセージが明確に強く伝わるとともに、呼びかけのリズムが集団の団結心を高める効果を持っています。「かくれんぼするもん−−」と呼びかけることを思いついた子供は誰だったのでしょうか。きっと、何とか仲間を沢山集めて楽しく遊びたいと言う思いが、このリズムとメロディーとを生みだしたものでしょう。実際、子供の遊びの中には、面白い言葉のメロディーがすぐに取りこまれます。私自身も幼稚園のときに「あーんぽー、はーんたい」などと叫んで気勢を上げていた覚えがあります。シュプレヒコールの強烈なリズムが、訳の分からない子供にも影響したものと思われます。私が現在、安保問題を大変重要であると感じていることの始まりは、この(ラジオ、テレビなどで聴いた)1960 年頃の若者たちのシュプレヒコールであることは疑いようもなく、言葉のリズムが理屈抜きで次の世代にメッセージを送りうる実例です。

 当然、このようなことが悪用されるとファシズムになりかねないわけで、チャップリンの映画「独裁者」で茶化されているヒットラーの演説などはその例でしょう。言葉は、はっきりとしたリズムとメロディーとを持つことによって、強いメッセージを伝え、場合によっては、理屈抜きで心を動かします。ちなみに「独裁者」の最後では、独裁者と瓜二つに生まれついたユダヤ人の散髪屋が、ひょんな成り行きでナチスの兵隊に独裁者と人違いされ、逃げだしたユダヤ人であることを隠して身を守るために、独裁者のふりをして演説をしなければならなくなります(まだの方はぜひ見てください)。気の弱い散髪屋が、次第に独裁者顔負けの力強いリズムで、自由と愛の尊さについて語り始めるところが、感動的なのですが、ここではヒットラーの演説と紙一重の白熱した言葉のリズムが、正反対のメッセージを伝えています。言葉の圧倒的な力を感ずる場面です。ある新年のテレビ番組で、アメリカ黒人の非暴力闘争の指導者であったキング牧師の歴史的な演説「I have a dream」の一場面を見ましたが、この演説が今も多くの人の心を揺さぶるのは、まるで歌うような朗々とした言葉のメロディーを抜きにしては考えられないことです。ちなみに、キング牧師とよく対比されるマルコムXの演説も、同じ番組に出てきましたが、叩きつけるようなリズムが、彼の攻撃的な思想を表しているように感じました。

 ユダヤ人の散髪屋や黒人指導者のように、心の底からの言葉が、思わず力強い音楽のようになる例もあれば、ヒットラーやいかがわしい宗教指導者のように、多くの人の心を引きずりこむ武器として強烈な、あるいは執拗なリズムを用いる例もあります(最近の我が国にも不幸な例がありました)。

 もっとも、人の心を引きずりこむこと自体は、やましいことではなく、魚屋や八百屋の店先で、「ほーら、安いよー」などと威勢のよい声を聴いて、意気に感じて立ち止まった経験をお持ちの方は多いはずです。物売りの声は、「歌になりかかった言葉」の宝庫で、昔の我が国には「がまの油」を初め、芸の域にまで到達したものがありました。残念ながら、「竿竹」と「石焼き芋」くらいしか、現在では残っておらず、それも、エンドレス・テープからスピーカーで流したりしていますが−−−。新しく生まれた物売りの声は「本日5時よりの、タイムサービスの御案内です」などと味気ないものになってしまいました。人の心を引きつけるために言葉のリズムやメロディーを強調する、もう一つの例は、小さな子供を相手に話をする場合です。「また会おうね」と小さな子供に話しかけるとき、殆どの人が、大人に話しかけるときよりも大げさな、リズム、メロディーを付けているはずです。そうしないと、小さな子供は聞いてくれません。。

 いま例に挙げたような強調された言葉は、音楽の起源と深く関わっているように思われます。前にも述べましたが、英語のミュージカルでは、喋っている言葉の抑揚が次第に大げさになり、いつの間にか伴奏がつき、ついには歌に変わってゆくことがあります。登場人物の心の高まりが、言葉を音楽に変えてしまうわけです。ロックでは、言葉では語りつくせないことが、強烈な、または華やかなギター・ソロで「語られ」ます。音楽は、言葉では表すことのできない理屈抜きのメッセージを伝え、さらに言葉のメッセージを強めるために、言葉と手を携えあって発展したものではないか、との仮説が生まれます。(このあたりの考えかたは、私の以前の上司である九州芸術工科大学元教授、寺西立年先生から受け継いだものです。)

 面白いのは、言葉を芸術作品として後世に残す場合、多くの民族が、まず言葉と音楽とが結びついた「歌」を残すと言うことです。次回は、ここから話を始めます。

3 言葉と音楽

 「万葉集」の言葉からは、様々なメロディーが伝わってきます。雄大なメロディーが心に残るのは、何と言っても山部赤人の次の歌で、「万葉集」と言えば、まずこの歌を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか(表記は斎藤茂吉著「万葉秀歌」(岩波新書)に従います。):


 田児の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ不尽の高嶺に雪は降りける



 たごのうらゆ うちいでてみれば ましろにぞ ふじのたかねに ゆきはふりける

一方では、次のような優しい響きのメロディーもあります(平仮名のみの表記では新仮名使いを用います。):


 暁と夜烏鳴けどこの山上の木末の上はいまだ静けし



 あかときと よがらすなけど このおかの こぬれのうえは いまだしずけし

1200年以上も前の言葉の響きが、そのまま現代人の心に伝わって来るのは、日本人が誇りとしてよいことです。我々は、文化の本質的な部分を損なうことなく守り育てて来たと言うことです。当時の人が耳にした日本語は、現代の日本語とは随分異なっているでしょうが、それでも、どこかに通ずるものがあるのでしょう。そうでなければ、万葉の言葉を文字で読んだだけで、鮮明に音の響きが伝わってくると言うことは起こりえないはずです。このように、我が国の文学は「歌」から始まりました。  古代ギリシア民族も、古代中国民族も、文学の源流として、歌うために作られた作品を残しています。独自の文字表現を持たないアイヌ民族も、言葉に歌のようなメロディーをつけて語り伝えることによって、鮮烈な文学の世界を築いています。ドイツ文学の源流の一つは、1200年頃(鎌倉時代の始まりくらい)に生まれた「ニーベルンゲンの歌」ですが、この作品から更にさかのぼると、英雄ジーフリト(ジークフリート)のことを歌った古い英雄歌謡に行き着くのだそうです。この作品がゲーテを育み、ワーグナーに「ニーベルングの指輪」を書かせたわけですから、ドイツ音楽の歴史に興味がある人には必読の書と言うことになるでしょう。文学と音楽とを渾然一体のものにしたのはワーグナーが初めてではなく、もともとドイツの文学、音楽はそのようなものだったのです。ワーグナーは御先祖様のやりかたを、直接受け継いでいると言えるでしょう。

 このように、実に多くの民族の文学が、読むものではなく、聴くものとして生まれました。言葉を美しく、力強く響かせる努力がなされた結果、美しいメロディーが現れ、伴奏が付くと言うことは、当然の成行きであると思われます。本や、コンピューターの画面で文字を読むことに慣れた現代人は、このことを忘れがちです。

 ちょっと面白い話ですが、いま名前を挙げたワーグナーの代表作の一つである「ニュルンベルクのマイスタージンガー」に登場する、靴屋にして詩人ハンス・ザックスは実在の人物で、当時普及しつつあった印刷術によって、人気作家となりました。一般市民が、活字によって気軽に文学を楽しむことができるような、新しい時代の幕開けには、一人の靴屋さんの抜群の音楽的才能が物を言ったのです。

 マルチメディアが普及しつつある現在、文学は美しい言葉の響きを取り戻すことができるでしょうか。私は、人間の本性が変わらない限り、必ず「マルチメディアのハンス・ザックス」が現れると信じています。

 下手な(ときには上手な)英語の混じった和製ロックや、ドイツ語風に味付けをした日本歌曲くらいは、いざとなれば聴かなければすむことです(もちろん、好きな人は聴けばよいのです。)。ところが、何度歌ってもメロディーと歌詞とが結びつかない「君が代」や、舌足らずの見本のような「日本国憲法」となると、状況は深刻です。このままでは、万葉集の輝かしい伝統を誇る日本語の将来は、バリベチョです(チョベリバだったかな)。

4 言葉と音楽

 我が国独自の芸術的な音楽として伝統を伝えるものに、能楽があります(万葉集のメロディーは、残念ながら音楽としては、保存されていません。音楽の伝統は、伝える努力をしないかぎり完全になくなってしまいます。)。専門家ではありませんので「最も古い」と言う自信はありませんが、能楽が、我が国の古い音楽的伝統を代表する音楽であることは間違いありません。能楽は、ご存じのように歌と舞とを組み合わせた「総合芸術」であり、言葉と音楽との分かちがたい結びつきが見られます。

 ジャズの源流の一つであるアメリカ黒人のブルースは、歌曲として始まりました。生まれたばかりとも言えるロック音楽では、今のところ歌が中心の役割を演じています。多くの民族が文学創作に目覚めたときに、音楽が重要な役割を演じたことは、前回お話しいたしましたが、逆に、民族独自の音楽が生まれるときに、文学、言葉が重要な役割を演ずることも多いようです。

 現代日本の文化は、明治時代に源を発すると言ってよいでしょう。夏目漱石は今でも大変な人気作家で、その作品は、日曜日に寝ころんで読むこともできるくらい親しみやすいものです。近松や西鶴を読むとなると、一部の人を除いては、少し背筋を正さなくてはならないでしょう。漱石の作品には、遠いようでありながら、現代に通ずる生活実感がこもっています。明治時代に、日本人はかなり無理をして西欧近代文化を輸入し、漱石はそのために悩みました。国をあげての努力が効を奏して、日本がイギリスやフランスの植民地にならずにすんだのは幸いでしたが、他国を植民地化すると言う行動まで、西欧から輸入し、お隣りの国々に大変な迷惑をかけてしまいました。

 それに比べればはるかに小さい問題ですが、西洋音楽を輸入することも、政府の方針によって、かなり無理をしてなされました。明治政府は、学校唱歌を手掛かりとして、「日本人に適した洋楽」を育てようとしました。基本的にはこの線に沿って、西欧風のメロディー、ハーモニーと日本語とを結びつけることに、抜群の才を示したのが山田耕筰です。一方では、時代の風潮を受けて、西欧の詩歌が、様々なかたちで翻訳され、模倣されました。詩の形式は日本風に翻案され、我が国に古くからあった、5音、7音(5モーラ、7モーラ)のリズムによりながらも、構成のうえでは我が国の伝統的な詩歌よりも立体的な、新しい日本語の韻文が生まれました。外来語やローマ字さえも大胆に取りこみながら、この新しいリズムを駆使したのが北原白秋です。このように考えてくると、以前に取りあげた「からたちの花」は、明治維新以来続いた舶来文化の結晶とも言えます。(そもそも「舶来」と言う言葉には、「ハイカラ」な詩人や音楽家が、「珈琲」や「葡萄酒」を飲みながら、大理石の「インク壷」にペンを浸しているようなイメージがあります。)

 学校唱歌によって、もともと我が国にはなかった「ドレミファソラシ」の7音がもたらされ、多くの人々の努力によって「からたちの花」にまでこぎつけました。ところが、ちょうどその頃、西洋音楽の本家ヨーロッパでは「ドレミファソラシ」で作る音楽が行きづまり、新趣向が目まぐるしく入り乱れることになります。その影響は、どうも今でも続いているようで、「価値ある現代音楽は並の素人に解らない」と信じ、作曲家を苦行僧の一種であると思っている人は、案外世間に多いのではないかと思います。我が国の音楽家は、「正しい方向」を見つけてくることに追われ、欧米の動向から片時も目を離すことができなくなってしまいました。

 一方、「舶来風」の日本語韻文は、白秋らによって極限にまで発展させられ、そのあと、外面的なリズムにとらわれない「口語自由詩」の模索が始まります。詩歌の世界では、短歌などの伝統が守られていることからも分かるように、外国の影響が圧倒的なものではなく、日本人どうしが様々な趣向で競いあうことになります。ところが、私の知る限り、この頃生まれた独創的な詩歌の数々が、新しいタイプの音楽を生み出すことは遂にありませんでした。詩人の世界は、萩原朔太郎、伊東静雄などを筆頭に、百花繚乱を迎えたにもかかわらずです。音楽家のために少し弁解をしておくと、このあと、日中戦争、太平洋戦争の時代まで、時間が少なすぎたのかもしれません。

5 音の常識と誤解

 少し息抜きに、クイズをいたします。80人のフルート奏者がいて、皆、同じ高さ、同じ強さの音を出すならば、そのうちの8人だけが出す音に比べて、物理的に何倍の強さの音がでるでしょうか? 答は、10倍です。80人寄れば8人分の10倍の音エネルギーが集まるのですからあたりまえですね。それでは、8人分の音と80人分の音とを、目を閉じて聴き比べたとき、音の大きさは、何倍になるでしょうか? もちろん、これも10倍−−−と言うのではクイズになりません。条件にもよりますが、音エネルギー(厳密には単位時間あたりの音エネルギー)が10倍になっても、耳に聴こえる音の大きさは2倍くらいにしかならないことが多いようです。もっとも、これは実験室の中での話で、実際に80人のフルート奏者が舞台の上に集まると、見た目に圧倒されて、10倍、あるいはそれ以上の感じになる可能性はあります。しかし、多くの場合、音エネルギーが増すほどには、音の大きさが増すようには感ぜられないのです。喋っている人が声を張りあげたときに、音の大きさが2倍になったように感じたならば、喋る側では10倍くらいエネルギーを消耗している可能性があるのです。その場合、体にとっては10倍の距離を歩くのと同じことです。音の大きさが数倍程度増したように感ずるときに、音エネルギーは100倍くらいになっていることがありえます。うるさいロックのコンサートなどに出かけるときには注意しておかないと、「今日はいつもより少しうるさいな」と感じているあいだに耳を痛めることにもなりかねません。

 このように、物理量(物理的に測定される音の強さ、または音エネルギー)と、主観量(聴いて感ずる音の大きさ)とのあいだには、くい違いがあります。このようなことが起こるのは、何も音の大きさに限りません。

 私の学生時代以来の研究テーマは、「時間の長さ」がどのように感ぜられるかと言う問題ですが、ここでも、物理量と主観量とのあいだにくい違いが現れます。例えば、ドアのノックのように「コッコッ」と短い音を二つ鳴らしたときに、二つの音の始まりから始まりまでの、時間の長さがどのように感ぜられるかを、実験したことがあります。物理的な時間の長さが0.1秒の場合と、0.4秒の場合とを比べてみると、物理的には、長いほうの時間間隔が4倍の長さになっているわけですが、聴いた感じでは2倍〜3倍くらいにしかなりません。あまりに大きなくい違いですので、何回も実験をくり返しましたが、いつもそのような結果になります(耳で聴けば判るのに、なぜ実験をくり返すのかと思われるかもしれませんが、話を他の研究者に信じてもらうためには、何人もの被験者に参加していただいて、他人が認めるような方法で実験を行う必要があるのです。)。

 このような、くい違いがあるので、例えば、付点8分音符と16分音符とが楽譜の上で「3:1」の比率を作っていても、物理的には「4:1」あるいは「5:1」と言うような、「きつめ」の比率にしないと正しく聴こえないことがあります。この話を音楽関係者にすると、「メトロノームどおりの演奏など、もともとないのですから、そんなことはあたりまえですよ。」と言われることがあるのですが、ここで言いたいことをあえて割り切って言うと「メトロノームどおりでないほうが、教科書的に正しく聴こえる場合がある」と言うことなのです。これは、音楽表現以前の問題で、実際に音を出して実験することによって明らかになる、物理量と主観量とのずれの問題なのです。「ずれている」と言うよりも、「そもそも別物である」と言ったほうが、研究者の実感には近いのですが。

6 リズムの話

 物理的な時間と主観的な時間とのくい違いについての話題を取りあげましたから、ここで、リズムの話を始めましょう。リズムは、メロディー、和声と並んで音楽の三要素の一つとされることもあり、その三要素の中でも際だって重要なものです(重要性を強調するために、三つのものを一緒に並べるのは、世界三美人、日本三景などの場合と同じ要領でしょう。)。ところが、リズムとは何か定義せよ、と言うことになると、なかなか多くの人を納得させるような答が見つかりません。

 重要な概念を定義することが極端に難しいのは、別に珍しいことではありません。深刻な話題になって恐縮ですが、最近注目されている「脳死」の問題を取りあげてみましょう。この問題は、人の「死」とは何か、それに対立する「生」とは何かと言う、国会などで論ずるにはあまりにも重い問題を含んでいます。そのため、わたしたち一人ひとりが人生の中で築き上げたものの考えかたを総動員して理解を深める必要があり、なかなかすっきりとした議論にまとまるものではありません。「生」や「死」の意味は、直観的には明らかですが、それに対して多くの人が納得するような明快な定義を与えることは、不可能に近いことでしょう。結局、「医療現場ではこう考える。」、「この法律ではこう解釈する。」、「宗教上の信念を尊重することが望ましい場合には、このように但し書きをつける。」などと言うように、条件を限定して定義を考えるようにしてゆかないと、議論がかみあわなくなり、「臓器移植をどうするか」と言う眼前の問題に対して何ら生産的な判断がなされないことになります。このように条件を限定することは、何もその場しのぎの便法ではなく、人間の知恵の限界をわきまえたうえでの現実的な対応であると思います。

 リズムの定義は「生」や「死」の定義に比べるとはるかに軽い問題ですが、詩人や音楽家にとっては、まさに死活問題ですから、なかなかすっきりと結論がでないのは当然のことでしょう。リズムが時間に深く関わりあいを持つことについては、殆どの人が、一致しているでしょう。それでは、どのような関わりあいがあるのか、と言うところで意見の違いが出てきますが、ここで無理に統一的な見解をまとめようとしても、おそらく無駄骨におわります。知覚心理学、音楽心理学の世界では、リズムを「時間上の形」と定義することがあります(「形」を意味するドイツ語の「ゲシタルト Gestalt」と言う言葉を使うことがよくあります。英語でも外来語としてこの言葉を使います。)。これでは、殆ど定義になっていないと思われるかもしれませんが、リズムについて考えを進めるうえでの「現実的な対応」としては充分に有効です。

 まず、この定義を与えることによって、「時間上の形」と「空間上の形」とはどこが違うのか、と言う具体的な問題を考える手がかりが得られます。早速この問題を取りあげてみますが、大変大きな違いとして、わたしたちが、空間における対称性をわりあい簡単に見つけることができるのに対して、時間における対称性は見つけにくい場合があると言うことが挙げられます。例えば、「車」と言う漢字を見たとき、大まかに捉えれば左右対称であり、上下対称でもあることに殆どの人が気づくでしょう。ところが、ラヴェルの「ボレロ」を聴けば耳にこびりついてしまう「タ..タタタタ..タタタタ..タ..」と言うリズムの一小節め(いま「」に示した部分)の10個の音の始まり(サイド・ドラムの撥が当たる瞬間)が、大まかに見れば前後対称に並んでいると言うことには、どれくらいの人が気づくでしょうか。曲全体を通して鳴り続けるリズムに、前後対称の形が含まれると言うことに全く気づかない人も多いのではないかと思います(楽譜を見ると、いま述べた対称性は、かえって分かりにくくなります。コンピューターなどに音の波形を取りこんで、目で「空間上の形」として観察すると、対称性が明らかになる場合もありえます。上に示した「タ」の文字を全部黒く塗りつぶせば、大体の感じが分かります。)。このように、時間の上では対称性を把握しにくいと言うことを指摘したのは、オーストリアの物理学者マッハです。マッハは、超音速を表す単位に名を残し、さらに相対性理論の先駆者となった人ですが、リズムの知覚にまでその関心が及んでいたのです。音楽の都ウィーンは、百年前には学術の都でもあり、今世紀の思想界を揺るがせるような天才の一群を育てましたが、マッハはその代表格です。

7 リズムの話

 前回は、リズムを「時間上の形」と定義しました。「時間上の形」と「空間上の形」とのどこが違うのか、考えを進めてみましょう。空間上の形は、じっくりと眺めたり、指で何回もなぞったりすることができますが、時間上の形は、どんどんと現れては消えてしまいます。まさに、つかみどころがありません。それでは、「つかみどころ」を作るにはどうすればよいでしょうか。これには、同じような時間パターンをくり返すことが有効です。また、時間に等間隔の目盛りをつけて、それにうまく当てはまるような時間パターンを並べてゆくことも有効です。抽象的な言いかたをしてしまいましたが、規則的なテンポや拍子に合わせて音 を出せば、形として把握しやすいと言うことです。日常会話では、「リズム」、「テンポ」、「拍子」と言う三つの言葉の区別があいまいになることがよくありますが、「リズム」をはっきりさせるためには、「テンポ」や「拍子」が必要であることから、この三つの言葉を完全に区別することは難しいのでしょう。私たちが時間上の形を捉えるときには、規則的なテンポ、規則的な拍子を何とか当てはめようとするような働きが見られます。何らかの意味での時間上の規則的な繰り返しが、はっきりとしたリズムを成り立たせるうえで、必要なのです。空間上の形も、左右対称のような規則性によって、はっきりとすることがありますが、曼陀羅やアラベスクのような繰り返しは、必ずしも必要ではありません。

 先に少し述べましたが、空間上の形は右に左に眺めまわして、どのような形であるかをじっくり観察することができるのに対して、時間上の形であるリズムは、本来、現れるとともに消えてしまいます。これをしっかりと捉えるには、規則的な繰り返しを手掛かりにして、「じっくり観察する」ことが重要なのではないでしょうか。「ボサノヴァのリズム」、「ウィンナ・ワルツのリズム」などとリズムに名前のつくことがありますが、どれも繰り返しのパターンを示しています。ジャズ・ピアニストのデイヴ・ブルーベックに「テイク・ファイヴ」と言う名曲があり、それまでのリズムの常識を覆したと言われています。ブルーベック自身は、5拍子の繰り返しパターンを(見たわけではありませんが)黙々と演奏しており、繰り返しに頼ると言う点では、それまでのリズムと変わるところがありません。

 もっと根本的にリズムの常識を覆したのは、「リズム解放の英雄」ストラヴィンスキーの「春の祭典」でしょう。この曲の最後の「いけにえの踊り」は、一小節ごとに拍子記号が入れ替わる複雑なリズムの例として、よく話題にされます。


    ンチャッ、ズチャブチャーっチャー んティトト

    ズチャっチャーっチャー んティトト

    ズチャーブパー パーパヤパ

    ズチャブチャズチャー んティトト

    パパパヤパチャーチャーチャ

と始まるところの拍子記号は:


    3/16(フェルマータを含む)、2/16、3/16、そのまま、2/8、

    2/16、3/16、そのまま、2/8、

    3/16、そのまま、5/16

    2/8、3/16、2/8

    5/18、そのまま

となっています。「そのまま」と言うのは直前の小節の拍子を引き継ぐと言うことですが、ここでは17小節の中で4箇所にしか見られません。つまり、13個の拍子記号が、入れ替わり立ち替わり現れると言うことです。

 しかし、ストラヴィンスキーの鼻歌を再現するために、私が極秘に開発した「片仮名平仮名混ぜこぜリズム表記法」による上記の分析結果を詳細に御覧いただきますと、繰り返しのパターンが「続きそうで続かない」絶妙の仕掛けになっていることがお解りいただけるかと思います(レコードがあれば、一緒に歌ってみてください。)。「起承転結」のような仕組みも見つかります。ここでは、リズムの規則性が崩れてはいますが、「超規則性」があるのです。

 リズムを知覚するうえで、規則的な繰り返しが必要であること、しかし、リズムの根源に迫るには、その規則性をあえて崩すことも有効であることが解ります。規則性が必要であることを、心理学実験によって示すことはある程度できますが、ストラヴィンスキーのリズムから受ける圧倒的な衝撃を、音楽心理学の立場から捉えることは大変難しく、このあたりが現代の科学の限界ではないかと私は感じています。また、このような限界を大切に

8 リズムの話

 前回は、「リズム解放の英雄」ストラヴィンスキーの功績について(ふつつかながら)紹介いたしましたが、解放される側には、どうも昔のやりかたが懐かしいと言う感じも残り、「春の祭典」ほど徹底的に聴衆の期待をはぐらかせ続けるような音楽は、その後あまり現れていないようです。少なくとも、私のような音楽の素人が、演奏会や放送で耳にする限りは、この曲のすさまじい破壊力が群を抜いています。先日テレビでこの曲に関するドキュメンタリー番組を見ていますと(少し記憶違いがあるかもしれませんが)、ストラヴィンスキーができたての「春の祭典」をピアノで弾くのを聴いていたディアギレフが、「いつまでこんな感じが続くんだね」と尋ねたところ、「最後までです」との答えが返ってきたと言う、少しできすぎのようなエピソードが紹介されていました。

 「リズム解放」と絶対に区別しなければならないのは「リズムに無関心」の場合です。いわゆる現代音楽で、「グピィー」とか「ゲジャッ」とかが延々と続く曲があります。このテの曲は短く切りあげてくれると面白いのですが、少し長くなると、はぐらかされようにも、もともと何のリズムを期待しているわけでもなく、何も破壊されず、ひたすら時間が経過するということになりかねません。現代音楽の相当な部分が、一部の専門家とその取り巻きによって支えられているのは、数十年来変わらない状況のようです。シェーンベルクのような超大物でも、演奏会プログラムに定着したとは言うものの、時が経つにつれて圧倒的に支持が増すと言うことはなく、気がついてみれば、むしろビートルズなどの方が、文化として世代から世代に伝えられる中で、古典としての風格を帯びてきています。もちろん、百年後のことは判りませんが、「リズムに無関心」の現代音楽を何かの拍子に聴かされて迷惑に感ずる人が少なからずいることは、間違いないようです。イギリスの「カンタービレ」と言う男声カルテットが、そのような現代音楽の一つを演奏会に取り上げたのを聴かされたことが、私にもあります。「ビィーヒャーッ」とか「ドッ」とかを人間の声で出す歌唱テクニックは抜群でしたが、最後の部分だけ譜面にない歌詞をつけて「ゲンダァーイ(ゲンダァーイ)オンガークワー...クダラン(実際は英語)」とどんでん返しをつけたので、会場は大爆笑の渦となり、拍手大喝采となりました。なお、この切れ者の四人組は、南アフリカのズールー族の歌や、ミュージカルのメドレーなどでたっぷり楽しませてくれました。

 多くの人が揃って夢中になる音楽は、ウィンナ・ワルツ、タンゴ、ロック、「何とか音頭」のように、リズムの繰り返しパターンがはっきりしたものばかりです。以前に述べた「安保反対」の大合唱とも通ずるものがありそうです。それでは、人類みな兄弟と言うわけで「美しく青きドナウ」や「東京音頭」にうつつを抜かしていれば、ともかく幸せになれるかと言うと、どうも人間はそこまで単純にできてもいないようです。第一、それではレコード棚が寂しくなることこの上ありません。

 偉大な音楽家は、さすがにこの当たりのバランスを心得ているようです。モーツァルトの「交響曲第41番:ジュピター」の第1楽章、第4楽章では、快適に流れていた規則的なリズムが、急になくなり、あれっと思う(あるいは感ずる)あいだに、また元のリズムに受けとめられていると言う場面が、何箇所かに見られます。個人的な体験ですが、このような場面で突然感動したことが何度かあります。モーツァルト解釈の権威として名高いブルーノ・ワルターは、このような「リズムのはぐらかし」を、演奏によって実現しています。「交響曲第40番:ト短調」の第1楽章で、規則的なリズムが、まさに天上の馬車のように、生き生きとした感じを失わずに、しかもすべるようにどこまでも続いてゆく場面があります。ところが、一瞬このリズムがふっと消え去り、あっと感じた次の瞬間には力強く復活するのです。さすが神童モーツァルトと思わせる場面ですが、これを仕組んだのはワルター大先生なのです。大先生には、きっと立派な理屈があったのでしょうが、ともかくカッコいい演出です。大学の授業などでは、カッコいいのではなく格好をつけて「リズムと言う言葉は、古代ギリシア語の『流れ』を意味する単語を語源としており、−−−」などと喋ることがありますが、まさにリズムは流れであると感じさせてくれるのが、このような音楽です。

 私たちの聴覚システムが、音のパターンに何とか時間的な規則性を当てはめて捉えようとする傾向があることは、多くの知覚実験によって確かめられています。この仕組みがはぐらかされたときに、強い印象が生ずるようです。私たちの知覚システムが、次々に鳴る音を単に右から左へと処理しているのではないことが判ります。

9 リズムの話

 私たちの聴覚システムが、音のパターンに何とか時間的な規則性を当てはめようとする傾向は、話し言葉を見てもわかります。日本語を喋るとき、聞くときに、0.15 秒くらいの「モーラ mora」と言う時間の単位が基本になっていると言う例については、以前にお話しいたしました。日本語ができない外国人にも、このことを教えておくと、日本人に道を尋ねたりするときに大いに役立つようです。福岡市では、空港行きの地下鉄と同じ線路に「貝塚行き」と言う別の方面の列車が走っていて、私もうっかり乗り間違えたことがあります。外国人が、このような場面で慌てたときに、「クコ、いっきまーすか」と周りの人に尋ねるのと、「クーコー、いきますか」と尋ねるのとでは、結果に相当な違いが出てくるのではないでしょうか。言葉を伝えるあうときには、どのような時間的な規則性があるのかを把握することが大事です。ちなみに、私はこのようなことを外国人に理解してもらうために「クーコー」にあわせて手を4回叩くことにしています。

 英語には、モーラがありません。日本人の喋る英語が「ジャパニーズ・イングリッシュ」になる原因の一つは、モーラを英語にまであてはめて、例えば「the airport」を「ジ・エアポート」と「・」まで含めて7拍分に数えようとするところにあるようです。実際の英語会話では、文脈にもよりますが、「ズィアポ」くらいの感じになることもあり、「ジ・エアポート」を期待していると、聴き取りができないことになります。かく言う私も、英語圏ではいろいろと失敗をしていますが、面白いのは、サン・ディエゴでの経験です。カリフォルニア大学サンディエゴ校の「スィアミ」に行ってみなさいと人に勧められて、行くことにしたのですが、大学構内で迷い、構内警察官に道を尋ねました。人から聞いたとおり「スィアミ」と発音すると、その場所を親切に教えてくれ、目的地に辿りついたのですが、「Computer Music Institute(コンピューター音楽研究所)」と言う看板をみて、「スィアミ」とは「スィー・エム・アイ」のことであったかと納得した次第です。どうもお粗末でした。

 しかし、英語に時間的規則性が認められないかと言うと、これはとんでもないことです。「John and Bob are friends with each other.」と言う文は、「| John and | Bob are | friends with | each other.」のように、4拍に分けて喋ると、発音しやすく、また聴き取りやすくなります。英語初心者の日本人がよくやるように「with」だけを他の単語から離してはっきりと発音してしまうと、聞く方には文全体の意味が解らなくなるようです。英語には英語特有の規則性があるのです。ここで「John and Gabriel are friends with each other.」と中身が変わっても、事情は同じです。「Bob」よりも「Gabriel」のほうが長いからそこで「どっこいしょ」という感じで休んでしまうと、聞く方はリズムに乗れなくなります。ここは頑張って「Gabriel are」の部分を速く発音して、4拍のリズムを崩さないのが得策です。(私は英語の専門家ではありませんが、この話題については、英語を母語とする心理学者に意見を聞いてまとめました。)英語では、このような規則的な拍を生み出すために、単語の強勢(強い発音)の位置が移動することさえあります。リズム知覚の分野における第一人者であるアメリカのスティーヴン・ヘンデル先生は、「a hundred thirteen men」と言う例を挙げています。この言葉を発音するときに、単語だけ見れば「teen」と「men」とに強勢が置かれるはずのところが、この二つの部分が隣りあっていて、強弱の規則的なリズムを作るのに具合いが悪いので、強勢が「thir」の方に移動します、さらに本来は「teen」よりも弱かった「hun」が、「a hundred thirteen」の中では最も強く発音されるような、第二の変化が加わります。このようにして、英語の文の中には、強弱の繰り返しパターンが自然に発生します。ここに時間的な規則性を当てはめれば、そのまま、ラップにでもロックにでもなりそうです。このリズムさえつかめば英語はすんなり通ずる、と言うことに気づくまでに、私は、英語を実務で話す必要が生じてから10年かかりました。英語圏では、母親が子供に言葉を教えるときに、ラップのような調子のよい言葉を、リズムに乗せて読み聴かせているようで、 「セサミ・ストリート」などは、それをテレビがやってくれる便利な番組であるようです。

 話がそれましたが、日本語と英語とでは、リズムのありかたがかなり異なっていることが判りました。これでは、日本語のロックはサマにならなくて当然です。しかし、どちらも時間的規則性を基盤としている点では、モーツァルトの音楽にも通ずるものがあり、この原理を把握すれば、外国人に日本での道の聞きかたを教えたり、英語を通ずるように喋ったりすることが、うんとやさしくなります。(このようなすぐに役立つことを、中学校の段階で習いたかったと言うのが、私の個人的な感想です。)

10 リズムの話

 日本語と英語とは、全く異なるように見えるのに、「時間的規則性」と言う共通の基盤を持っていることをお話しいたしました。これと同じような関係を、異なった種類の音楽のあいだにも見ることができます。モーツァルトの音楽について、時間的規則性が突然消失し、また戻ってくるような例を以前に取りあげました。今回は、「神童」であること以外にはモーツァルトとあまり共通点があるようには見えない、ジミ・ヘンドリックス(いわゆる「ジミヘン」:たぶんアメリカ生まれですが、イギリスを中心に活躍しました。筋金が101本くらい入った、ロックの神様で、死後も人気が高まり続けています。)の、「ストーン・フリー」と言う曲を取りあげます。この曲の後半では、速めのテンポでぐんぐんと音楽が突き進んでゆくのですが、ときどき、「いち と に と −−−」の「と」に当たる「裏打ち」の音が、突然に拍の頭を示す「表」の音のように強く演奏され、それに対抗しうる「本当の表」の音がなくなってしまいます。すると、「とー とー とー」が「いち に さん」に入れ替わったように聴こえ、それまでにできあがった時間的規則性が、たちまち崩れそうになります。ところが、元の「表打ち」のパターンがすぐに復活し、規則性が破壊されるめまいのような感じから、突き進むような音楽に引き戻されます。これぞ「Stone free 文句は言わせねえ」の世界です。モーツァルトにせよ、ジミヘンにせよ、時間的規則性を崩してしまいそうな「いたずら」を仕掛ける点は似ているのですが、裏打ちを無理やり表に引き出すと言うジミヘンのやりかたはいかにも強引です。しかし、元々の規則性が復活したときに、体操競技などで「◎回転※ひねり」が見事に決まったときのような快感があると言う点で、モーツァルトにもジミヘンにも共通するものがあります。

 このように、並べて比較されることの少ない二人の音楽家を、あえて一緒に取り上げたのは、奇をてらったわけではありません。同じように人間が聴く音楽である以上、ジャンルが異なっても、どこかに同じ聴覚の仕組みが働くはずだと言いたかったのです。日本語と英語とを比較したのも、系統の異なった言語にも、共通する知覚の法則が反映されているかもしれない、と言うことを示したかったからです。聴覚心理学の世界では、文化の違いを超えた、一般的な傾向について考えることが多いので、そこで得られた結果が、音楽のジャンルや、言語の種類の違いを乗り越えて適用される可能性が高いと言えます。これが、音楽心理学を学ぶ一つの効用ではないかと思います。音楽家や音楽学習者の皆様に、ジャンルの違いにこだわりすぎず、同じ音楽として、モーツァルトにもジミヘンにもつき合っていただくきっかけができればと思います。

 ただし、物事には裏表があります。このように、文化の違いや、個人の性格、能力の違いを軽視した物の見かたは、芸術作品に対してはあまりにも軽薄なものになる可能性があります。私は、そのことに対して反論しようとは思いません。

 音楽に限らず、もっと困ったことも起こります。ある日食べたカニの味が忘れられない、と言うような経験は、誰にでもあると思いますが、ここで、カニの味をいくら実験心理学的に分析しても、思い出すたびによだれが出てくるような、その日の特別な体験を理解することはできません。その日の状況を再現する手だてがないからです。

 このように、実験心理学の手法には限界があることをわきまえたうえで申しあげるのですが、普段つきあう音楽の種類が増え、楽器の種類が増え、音楽を聴いたり演奏したりする場所や機会も増えつつある現代において、音楽のありかたを総合的に考えるための手段として、音楽心理学の存在意義があるのではないかと思います。私自身は音楽心理学の専門家ではありませんので、これは決して手前味噌の意見ではありません。まあ、とんかつ屋のおっさんが、肉屋のコロッケのことをほめるくらいの感じでお聞きください。

 今回の後半は脱線いたしましたので、ついでに、私の専門である聴覚心理学の研究において音楽がどのように役立つかを述べておきます。音楽には、聴覚の限界に挑戦する面があります。ジミヘンのアクロバットのようなリズムがその例です。このようなリズムを聴くと、「時間的規則性」の働きを強烈に感ずることができます。そして、これをヒントにして知覚実験を行うことができます。つまり、音楽は、いつでも見学させてもらえる壮大な実験室とも言えるのです。もう一つの音楽の効用として、音楽の演奏、鑑賞が、音の細部をはっきりと聴き取り、記憶する訓練になるという面があります。音は、現れたとたんに消えてしまうので、それについて研究するには、音に対してできるだけ鮮明なイメージを持ち、できるだけ多くのイメージを記憶するような訓練が必要です。これには、音楽演奏の経験がかなり物を言うようです。視覚心理学の研究者に日曜画家が多いと言うような話は聞いたことがありませんが、聴覚心理学の研究者にはアマチュア音楽家が多いようです。

11 音の常識と誤解

 リズムの話は重要ですから、もう少し続けたいと思いますが、少し息抜きに話題を変えます。今回の話題は「声」です。人間の声は最高の楽器であると言われますが、楽器に比べて、声はどこが優れているのでしょうか。厳密に言うならば、「声を出す仕組み」と「楽器の鳴る仕組み」とはどこが違うのでしょうか? 「人間は生き物だから優れているのはあたりまえ」と言うのでは答えになりません。トランペットは、生き物である人間の唇がなければ鳴りませんし、拍手の音も、生き物の発する音です。「芸術的な音楽においては、声と楽器とは対等である」と反論される方が、もしいらっしゃるならば、ベートーヴェンの第9の独唱者が、最後の方だけ参加して主役並みの拍手を受けるのはなぜか、どうしてヴァイオリンとピアノとは対等な二重奏になるのに、歌とピアノの組み合わせでは必ずピアノのほうが伴奏になってしまうのか、と考えてみてください。人間の声は、どう見ても音の主役です。

 声が物理的にどのように出るのかは、かなり複雑な話ですが、肺から空気が出入りする通路のところにある「声帯」が振動して、音が出ると言うのは常識になっています。ところが、この声帯がどのような形であり、どのように震えているのかは、専門家以外の人にはあまり知られていません。気管の入口のところで左右から内側に張り出した筋肉の組織が声帯で、上下の唇のような筋肉が左右の向きになって気管を塞いでいると考えればよいでしょう。もっとも、この「唇」がふだんは開いていないと息ができません。声を出すときには、この「唇」を閉じたり狭めたりして、肺から無理矢理に空気を押し出します。空気はたまらずに「唇」の間を突き抜けますが、このとき、本物の唇を閉じて無理矢理に息を出したときのように、空気の振動が発生し、音が出ます。声帯の筋肉が脳の指令を受けて振動しているのではなく、これは、単なる物理現象です。ゴム風船の空気が抜けるときに、ブルブルッと音がするのは、似たような現象です。ただ、空気の出口が筋肉であることから、この空気の振動の様子をさまざまに制御することができます。例えば、歌を歌うときのように、振動の速さ、すなわち周波数を制御すると言うことも可能になります。ゆっくりと膨らむようなヴィブラートは声の得意技ですし、ブルースやジャズにおけるブルーノート、謡曲における変わらないようで少しずつ変わる音の高さ(専門用語は知りません。あしからず。)など、声の表現力は抜群です。このようにきめ細かく振動の様子を変えることは、楽器ではなかなか難しいことです。また、緊張しているときに声が震えることから解るように、感情の変化がじかに振動の様子に現れることも重要です。わたしたちの基本的な感情に深く結びついた「息をする」という動作に、声帯などの複雑な働きが加わり、多彩な表現が可能になるのです。

 これだけでも、楽器としてはかなり有利ですが、さらに大事な点があります。声帯の上には、咽(のど)や口の空洞があり、この空洞の形を、顎や舌を動かすことによって、素早く、かつ細かく変えることができます。声帯から生ずる音は、倍音を豊富に含んではいますが、音色の変化を欠いています。ところが、空洞の形を変えることによって、自由に音色を変えることができるようになります。これは、話し言葉の生ずる物理的な仕組みでもありますが、楽器には絶対に真似のできないことです。これをヴァイオリンに例えますと、弦が声帯で、音を響かせる木の胴が空洞の部分と言うことになります。空洞の形が変わると言うことは、ヴァイオリンの胴が、歪んだり、膨らんだりすることに相当します。このようなことは、普通の弦楽器では原理的に不可能です。金管楽器では、管の中に手や物を突っ込んで、ある程度音色の変化をつけることができますが、すばやい変化と、きめの細かさと言う点で、人間の声にはかないません。しかも、わたしたちの聴覚は、人間の声の音色の変化をうまく聴き分けるように進化していますから、人間の声である限り、微妙な変化、思い切った変化が、聴き手に効率的に伝わります。多くの場合は、言葉にメロディーが付きますが、言葉の音色やリズムを生かしたメロディーが付いていると、意味の解らない外国語の歌であっても、感情が伝わってきます。これは、聴覚システムの進化の産物であるようですが、このように言ったから説明になるわけでもなく、実に不思議なことです。

 さて、楽器に人間の声と同じ役割を果たさせることが、いつかは実現するのでしょうか。この質問には、人間と同じように自由に喋ることのできる楽器ができるならば、実現するでしょう、とお答えしておきます。人間が月に移住することのほうが、ずっと簡単ではないかと言うのが私の感想です。しかし、このような楽器を作ることは、音響に携わる人間の夢でもあります。

12 音の常識と誤解

 よく脱線いたしますが、人間の声について、言い忘れたことがあるので、今回はその話を続けます。声帯から発する音の話をいたしましたが、人間の声にはそれ以外の音も混じっています。「ふたをしめます」と言って見てください。「ふ」のところには、唇をすぼめた間を空気が通り抜ける音が入っています。「し」、「す」のところでは、舌と硬口蓋(上の歯茎の後ろの部分)、舌と上の歯や歯茎の間を空気が通り抜ける音が入っています。ちなみに、「ます」の「す」の音には母音のないことが多く、その場合は、この空気が通り抜ける音だけで「す」と聴こえます(由緒正しい京都弁は例外で、「レレレシシシドー」のメロディーで「ふたをしめますぅ」と喋ると京都風になります。)。このような音は、ガス漏れの音と同じで、狭いところを空気が速く通り抜けるときに生ずる乱流が引き起こしたものです。葉書などの丈夫な紙に、ボールペンなどで数ミリの穴をあけて、そこに強く息を吹きかけると、このような乱流が発する音を聴き取ることができます。一方、「た」のところでは、舌と上の歯や歯茎とで出口を塞がれていた空気が、一気に飛び出すさいに、破裂の音を発生します。これは、紙鉄砲を撃つときや、結婚式場などでシャンパンのコルクを景気よく抜くときに出るポンと言う音と同じで、気圧が一瞬高くなって、空気の振動を生ずるのです。このように、話し言葉には、声帯の振動とは異なる音もたくさん参加しており、人間が、ありとあらゆる音を動員して聴覚コミュニケーションを図る様子が解ります。

 このような様々な音が、ひとつながりに聴こえると言うのは大変不思議なことで、この働きをコンピューターで模倣しようとすると、なかなかうまくゆかないようです。コンピューターで話し言葉を聴き取るくらい、とっくに実現していると思われるかもしれません。中には、コンピューターに言葉を聴き取ってもらった経験をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。しかし、静かなところで(または、マイクのすぐ近くで)、はっきりと発音するのでなければ、なかなかうまくゆかないのが現状です。「ふたをしめます」などと言う言葉を騒がしい環境で聴き取るときに、声帯の発する音と、それ以外の音とを、ひとつながりの信号として抜き出すと言うことは、コンピューターの苦手とするところです。人間の聴覚システムが、様々な音の混じりあった中から、一人の話し声だけを瞬時に抜き出すことのできる能力は、人間のすばらしさを象徴するものです。

 さらに、人間の聴覚システムは、話し言葉の一部が、強い音でかき消されてしまっても、全体としてつながった言葉に修復することができます。このことについては、以前にお話しいたしました。このように、聴覚システムは、音のメッセージを一旦捉えると、それをどこまでも追跡してゆくことができます。音楽によるメッセージが伝わるのも、このような働きによることは間違いありません。人間の声が、楽器では真似ができないくらいに、変化に富んだものであることを前回からお話ししておりますが、変化に富んだ音のつながりを、雑音の中でも追跡することのできる聴覚システムの働きが伴わなければ、人間の声がここまで複雑に発展することはなかったでしょう。

 歌詞のついていない音楽のメロディーやリズムを、意味のある言葉や擬音語に置き換えて把握することはよくあります。「ねこ踏んじゃった」と言う可愛らしいピアノ曲がありますが、メロディーと「歌詞」とがあまりによく合っているので、何度聴いても「ねこ踏んじゃった」としか聴き取れない、と言う経験をお持ちの方は多いと思います。日本語を知らないピアニストがこの曲を「解釈」するとどうなるのか、気になるところです。ジャズ・トランペット奏者のクラーク・テリーは、共演しているドラム奏者がワルツのリズムをうまく叩けないので困ったことがあり、トランペットの手を(口を?)休めたときに、あわてず騒がず、そのドラム奏者に「ワルツの秘伝」を授けたそうです。その「秘伝」と言うのは、「Who parked the car ? Who parked the car ? Who parked the car ?」です。ひょっとすると、皆様の中にもこの話しを聞いて、得をされた方がいらっしゃるでしょうか?

 私達の聴覚システムは、複雑きわまりない話し言葉(音声)を聴き取るように進化したものです。歌詞のついていない音楽を聴いたり演奏したりするときにも、どうやら話し言葉と無縁ではいられないようです。だからどうせよと話を発展させすぎるのは、いまどきの教師の悪い癖ですが、音楽を勉強する人は、ぜひ、各地の方言や外国語の発音に耳を澄ませて、表現の幅を広げてください、と言う具合に、脱線した話を偉そうにまとめさせていただきます。

13 リズムの話

 四拍子を「1と2と3と4と」と言う具合に数えることがあります。このとき、「{(1と)(2と)}{(3と)(4と)}」と言う具合に、一小節が「階層化」しています。「階層化」などと言うと随分ややこしそうですが、日本全体が、都道府県に分かれ、都道府県が市町村(東京都区内では区)に分かれ、さらに小さな地域に分かれているのは、階層化の典型的な例です。あるいは、お役所の組織などが、局、部、課、係と言うように次第に細かく分かれているのも階層化の例です。お役所の階層秩序が厳しいことは有名で、私の属している大学も国立大学ですから、これを身にしみて感ずることがあります。もう時効になったことで、現在の職員とは関係のない話ですが、廊下の非常ベルが突然鳴り出したので、ある部署に電話で知らせたところ、「ここは非常ベルの担当ではありませんので」と言われて困ったことがあります。非常ベルが鳴っているときには、何課、何係の担当と言うことが、決まっていて、担当の違うところでは取り扱ってもらえないと言うのが、お役所の階層秩序です(これではいけないと思う、ガッツのある役人もたくさんいるようなので、今後の変化に期待しています)。もし、非常ベルの取り扱いに問題が生ずると、直接の担当者と、それを監督する係長、課長が責任を取ることになり、他の部署に責任は及びません。「長」と名のつく人は、上位の長になるほど責任の範囲が広くなるので、気楽に仕事をすることができなくなります。4拍子の場合は「(1と)」あるいは「(2と)」がそれぞれ「係」であると考えることができます。係の先頭にくる「1」、「2」は「係長」です。「{(1と)(2と)}」は「前半課」で、「1」はその「課長」を兼ねます。「{(3と)(4と)}」は「後半課」で、「課長」は「3」です。さらに、小節全体が「部」になり、「1」は「部長兼課長兼係長」と言う超多忙な役目を果たすことになります。

 このような拍子の階層化において重要なことは、いつも「偉い」単位のほうが時間的に先にくると言うことです。「(1と)」の中では「1」が偉く、「{(1と)(2と)}」の中では、「2」よりも「1」のほうが偉くなります。拍子の階層の中では、ある時間的なまとまりの中で、一番重要な要となる単位は、いつも先頭にきます。この「偉さ」の順は、4拍子の中に実際の音符を当てはめてリズムやメロディーを作るときに、重要な役割を果たします。いま「1と2と」のところに2拍分の音符が入ると、この音符の中で一番偉いのは始まりの「1」です。始まりのところに偉い部分がくると、リズムは丸く納まります。ところが「2と3と」のところに2拍分の音符が入るときには、始まりの部分の「2」よりも偉い「3」が音符の途中にきてしまいます。2拍のまとまりの中で一番偉い部分が始まりにならず、言わば、全体をまとめるだけの権限を持たない人がリーダーとなって、2拍分のチームが生まれたような感じになります。「2」は一時的に「3」から権限を譲り受けたことになります。これが、イギリスのクリストファー・ロンゲット=ヒギンズ、クリス・リーの両先生が定義する「シンコペーション」です。余談になりますが、このお二人のうちリー先生は、「玄人はだし」と言うような言葉では表しきれないくらいの、ピアノの名手です。一方、ロンゲット=ヒギンズ先生は、(私がお会いした時点では)絵に描いたような温厚な老教授で、リズムの研究が趣味で、その趣味だけで生きているようなうらやましい方です。このお二方は、「シンコペーション」の定義に10年近くをかけるような息の長い研究を続けておられ、イギリスの底力を感じます。(我が国がバブルで浮かれていた頃、イギリスを「斜陽国」と呼ぶ失礼な日本人がいましたが、お城が焼けても、香港を失っても、イギリスではこのような学者が活動を続けています。)

 このようにシンコペーションを定義すると、1拍半の音符と半拍の音符とが合わさって小節前半の2拍を占めるとき、「1と2」プラス「と」と分かれる場合が圧倒的に多いことが説明できます。「1」プラス「と2と」と分かれると、2つ目の音符でシンコペーションが生じてしまうからです。「123」という3拍子の小節を、2拍の音符と1拍の音符とに分けるときに「12」と「3」とに分けると丸く納まりますが、「1」と「23」とに分かれると、「23」のところで、始まりの「2」と同じくらいに偉い「3」が途中にくるので、「2」は音符全体を率いるには少し納まりが良くないことになります。この例はシンコペーションとは言えませんが「シンコペーションの一歩手前」と言うところでしょうか。両大先生の努力のおかげで、このような突っ込んだ考察ができるようになりました。

14 リズムの話

 「シンコペーション」の話をしておりました。ここで、改めて思い起こしていただきたいのは、「音に拍子が書いてあるわけではない」と言うことです。音に拍子を与えるのは、わたしたちの知覚システムです。物理的には均等な電子メトロノームの音を聴いているときにさえ、聴き続けているうちに、2拍子や3拍子を感ずることがあります。この現象は「主観的リズム化」と呼ばれ、リズムが、わたしたちが感ずることによって生まれるものであることを示す、解りやすい例です。バッハのフーガの主題には、リズムの面においても複雑なものがたくさんありますが、聴いている間に、何となく拍子の感じができあがってゆきます。ただし、この場合、バッハが楽譜に書き込んだ拍子がそのまま聴こえるとは限りません。それよりも細かい時間の単位が「拍」に感ぜられることは、私の場合にはよくあります。しかし、ともかくも「拍」が感ぜられることを、ここでは問題にいたします。

 わたしたちの知覚システムは、音に、例えば「(1と)(2と)...」と言うような時間の目盛りを刻んでいることになりますが、一体、何を手掛かりにして、このような目盛りを付けることができるのでしょうか。物差しで長さを測るときのように、途中の音とは無関係に、拍子の目盛りを当てはめることもできるはずですが、知覚システムは、決してそのようなことはいたしません。鳴っている音に当てはめる努力をしながら目盛りを刻んでゆきます。ここまでは、あたりまえの話です。しかし、事はそれほど単純ではありません。「鳴っている音に当てはめる」と言うのは、具体的にはどのようなことなのでしょうか。「カッカッカッカッ」という時計の音に、「1、2、1、2」と2拍子を当てはめて聴くことがよくあります。ところが、2拍子の階層構造「{(1と)(2と)}」の二つの「と」に着目して、「カッカッ」に「と、と、」を当てはめて聴くことは、ほとんどありません。なぜでしょうか? 私の腕時計は、1秒に1回の割合で「カッ」と鳴りますが、試しに、「1と2と」の下線の「と」に「カッ」が当てはまるように聴いてみると、それほど難しくはないことが判ります。それにもかかわらず、このような聴こえかたは、わざわざ試みなければ、決して生じないのです。

 リー先生の考えかたは明快です。そのポイントは、わたしたちの知覚システムが「シンコペーション」を嫌う、と言うことです。「カッカッ」に「1、2、」を当てはめると言うことは、「{(1と)(2と)}」の階層秩序を守ることになります。これに対して、「と、と、」を当てはめると言うことは、「(と2)(と1)」という形のシンコペーションを生みだすことになります。

 リー先生は、人間が拍子を聴き取るときの様子を、コンピューター・プログラムのような形で表現しています。このプログラムに、たとえば「ほたるの光(もともとはスコットランド民謡)」の音符のパターンを与えると、「ほたるのひかり」の「ほた」の間隔が、初めて現れる時間間隔となるので、目盛りの間隔として「試しに」採用され、時間の上に刻まれてゆきます。その結果、目盛りではないところで始まった音符が、次の目盛りを乗り越えてしまうような「シンコペーション」の生じないことが判るので、「本採用」となります(厳密に言うと、目盛りではないところで始まった音符が、直前の目盛りのところで始まった音符よりも長ければ、「不採用」になりますが、この部分の考えかたは複雑です。)。次に、ここで採用された目盛りの間隔よりも長い音符を探すと、「ほたるの」の「た」が見つかります。そこで、「た」の始まりから、「の」の始まりまでを、一段階大きな目盛りの始まりとすると、「ほたるのひかーり」の両端を除く部分が「ほ<たる><のひ><かー>り」と<2拍の単位>に分かれます。この場合、この単位の途中、つまり階層秩序のうえで低く位置づけられる時点から始まった音符が、次の<2拍の単位>に突入してしまうような「シンコペーション」が生じません。ところが、もし冒頭の「ほ」から始まる2拍を<2拍の単位>とするならば、「た」の音符がシンコペーションになってしまいます。プログラムは、そのような解釈をしりぞけ、シンコペーションが現れないような、拍の取りかたをうまく見つけてくれるのです。

 このプログラムは、なじみ深い西洋音楽のリズムを、多くの場合うまく処理することができます。しかし、うまく行かない例を見つけることはたやすく、その点を改善することは骨の折れる作業です。「シンコペーション」に着目したリズムの理論は、これまでもやもやとしていたリズム知覚の世界に光を投げかけてくれましたが、その光の向こうには一層入り組んだ原始林のような世界がありそうです。

15 リズムの話

 リズムには、規則性や階層秩序があるというお話を続けてきました。それでは、わたしたちの知覚システムは、なぜ、規則性や階層秩序を好むのでしょうか。これについては、想像力をたくましくする以外にありません。したがって、以下の話は、学問的に厳密ではありません。けれども、音楽心理学、聴覚心理学などに興味を持つ人が、必ず考えておかないといけないことでもあります。そして、リズムの本質に関わる問題として、音楽に関心のある全ての方々にとって重要な事柄であるはずです。

 話し言葉も、音楽も、時間とともに変化する音の信号です。言葉やメロディーを、じっくりと眺めまわすことはできません。一度出た音は、たちまち消え去ってゆくからです。なぐり書きの文字やかすれた文字が読みにくい場合には、前後の文脈を頼りに、じっくりと解読にかかることができますが、話し言葉ではそのようなことはできません。そこで、話し言葉では、様々な工夫が必要です。電話でこちらの電話番号を相手に伝えるときのことを、考えてみてください。ほとんどの人は、「それでは番号を申し上げます」などと前置きをして、まず相手の注意を引きつけ、規則的なリズムで「さん、いち、よん、の−−−」と番号を言うでしょう。ここで、前置きがなかったり、「さん、いち、ええと、よん、の、ああー−−−」などと規則的なリズムをくずされたりすると、聞く側では混乱して、いらいらすることになります。ここで、相手をいらいらさせずにメッセージを伝えようとする心遣いは、音楽の演奏で、大事なフレーズをしっかりと聴き手に伝えようとする努力に通ずるものがあります。一つの音をじっくりと聴くことは、決してできません。音は、次々に出ては消えてゆきます。規則的なリズムがあったり、同じメロディーや同じ言葉のくり返しが適当にあるおかげで、安心してメッセージを聴き取ることができるのです。ただし、規則的なくり返しさえあればよいわけではありません。規則的なくり返しにのせて、次々に新しいメッセージが伝えられたり、適当にテンポが変化したりするところも重要でしょう。

 さて、電話番号の例に戻りますが、電話番号が全部で10桁ある場合、立て続けに10個の数字を言うことはせず、2〜4個くらいの数字からなるグループに分けて伝えます。これについては、もちろん市外局番、局番、電話機の番号と言う区別のあることが大きな理由ですが、もう一つ、そのように小分けにしたほうが覚えやすいということがあるでしょう。もし、30桁の番号を覚えなければならないとすると、どうするでしょうか。多くの人が、まず30桁全体を2〜5個くらいのまとまりに分けて、更にそれぞれのまとまりを、2〜5個くらいのまとまりに分けようとするのではないでしょうか。全体をいくつかのまとまりに分け、更に小さなまとまりに分けること、つまり「階層化」は、人間がたくさんの部分からなる対象を把握し、記憶するために必要なことであるように思われます。「じゅげむじゅげむ−−−」を覚えたり、円周率(π)を100桁覚えたりするときにも、事情は似ていると思います(私には経験がありませんが)。音楽を演奏するときには、どこからどこまでが一つのまとまりであるのかをはっきりと伝える必要があることは、ご存じのとおりですが、その理由の一つは、聴き手の頭の中でリズムが階層化されることを助ける必要があるからだと思われます。未熟な音大生のピアノ演奏などで、「息継ぎ」がないために聴いている方が疲れはてることがありますが、これについては、このような「階層化」に対する配慮のないことが一因であるようです。

 これで、お解りいただけたと思いますが、規則性や階層秩序は、ある程度の分量を持った音のメッセージを、正しく伝えるために、欠かせない手段であるようです。もともとは、発せられた途端に消えてしまう話し言葉によって、複雑な内容を伝えるために、このような仕掛けが必要であったのでしょう。音楽では、このような仕掛けが最大限に生かされています。ピアノなどでちょっとしたメロディーを弾くだけで、文字通り「人を動かす」演奏家がいます。例えば、オスカー・ピーターソンなどがそうです。そのような演奏を聴くときに、たまには規則性と、階層構造に注目して聴いてみるのも一興ではないかと思います。

16 リズムの話

 リズムが音楽の根本であることは、音楽が好きな人なら誰でも知っています。ところが、リズムの研究は簡単ではありません。その理由の一つは、リズムについては楽譜を見ただけでは解らないことが多すぎるので、楽譜を材料にして研究を行うことが難しい言う点にあります。

 和声やメロディーについては、ある程度楽譜の上でも研究ができるでしょう。特に、和声については、楽譜の上でもある程度の話が解る「和声学」というものがあります。和声学には、日本語では「学」の文字が付きますが、実証的なデータを抜きにして結論を出したりするので、どうも「和声法」が適切な名前ではないか思います。それでも、和声学の「学」の文字が生きのびているのは、和声学の書物に楽譜の例がたくさん出ていて、ピアノで弾いたりしているうちに、何となく納得させられるからでしょう。

 リズムでは、なかなかこう言うわけにはゆきません。私は、前回例に挙げた巨匠オスカー・ピーターソンが、スタンダードの名曲「一晩中踊れたら」を演奏しているCDを持っています。その演奏は、伴奏の付かないピアノの単旋律で始まります(背後にリズムを取るようなかすかな物音が入っていますが)。ところが、この単旋律のところで圧倒的なリズム感に引き込まれてしまうのです。私は実験心理学者ですので、教室にこの演奏のテープを持参し、学生を実験台にして、即席の実験をすることがあります。と言っても、大変なことをするわけではありません。講義でリズムの話をするときに、細かい説明をとばして、いきなりこの演奏を聴かせるのです。私は、こっそりと(のつもりで)学生の様子を観察します。そうすると、たくさんの人が、リズムに合わせて体を動かし始めます。目をつむっていい気分になっている人もいます。残念ながら授業用のテープは、すぐに終わりになります。ここで、私が言いたいのは、オスカー・ピーターソンが、よく知られたメロディーを伴奏なしで弾いたときでさえも聴かせてしまう、あのひたすら前進するリズムは、決して私一人の思い入れの産物ではないと言うことです(ちなみに、私にも思い入れのあるジャズのピアニストがいますが、それは別の人です)。このオスカー・ピーターソンのリズムを研究するのに、楽譜だけですませると言うわけにはゆきません。細かい音符やスタッカート、アクセントが一杯ついた楽譜をいくら眺め回しても、体が自然に動いてしまうような感じがどこから来ているのかを突きとめるのは難しいでしょうし、第一、誰が見ても解るような楽譜を書くまでが大変です。それでは、私の教室で学生が経験するように、いきなり演奏を聴けば良いのかと言うと、そう言うわけにもゆきません。演奏を聴くのは、もちろんすばらしいことですが、それだけで学問的な研究に耐えるようなデータが得られるのであれば、音楽の研究をするにはひたすら演奏会に行ったり、CDを買いこんだりすればよい、と言うことになります。どうもそんなにうまい話はないようです。

そこで、リズムの研究をするには、録音された演奏を材料にして、様々な物理測定を行うことが必要になります。しかし、物理測定と言っても、卵の目方を量るように単純ではありません。まず、何を測ればよいのかを決めなければなりませんし、次に、それをどのように測るのかを考える必要があります。リズムについては、差し当たり、「音の長さ」、「音の始まりから次の音の始まりまでの時間の長さ」、「音の強さ」を測ればよいと思いますが、実は、この一つ一つの項目について、大きな研究テーマができるくらいに大変な問題が生じます。「音の始まりから次の音の始まりまでの時間の長さ」を例に取りますと、まず音を目に見える形で表示し、次に、「音の始まり」が表示されている部分を見つける必要があります。しかも、その時刻を精密に定めなければなりません。これは、現在でも大変難しい作業です。声楽などの場合、殆ど不可能に近い場合も多いでしょう。

 この分野では、1970 年代の初めに、北欧における最古の大学であるウプサラ大学で、音響心理学の大御所であるアルフ・ガブリエルソン先生が、先駆的な研究を行いました。その測定装置は、心電図などを記録するジーメンス社の医療用測定器を改造したもので、お世辞にも使いやすいとは言いかねるものですが、人のいやがる作業を間違いなく積み重ねることは、科学者として成功する早道です。ガブリエルソン先生は、これで成功しました。その研究内容については次回にお話しいたします。

17 リズムの話

 ガブリエルソン先生が開発された、演奏リズムの測定装置は、実は二つあります。一つは、単一の声部からなるリズムにおける、音と音との時間関係、強弱関係を精密に捉えるもの(愛称モーナ)で、もう一つは、二つ以上の声部に分かれたリズムにおける、全体の時間構造を大まかに捉えるもの(愛称ポリー)です。

 このような研究でよく話題になるのは、「2拍めが長い」ことで知られるウィンナ・ワルツです。ベングツソン先生、ガブリエルソン先生の共同研究で、典型的なウィンナ・ワルツの演奏が分析されました。二つ以上の声部を扱うほうの装置が用いられました。材料になったのは、例えばボスコフスキー・アンサンブルが演奏する、ヨハン・シュトラウス1世作曲「吊り橋のワルツ」です。この分析では、2拍め、3拍めを刻むヴィオラのパートで、確かに2拍めが長めに演奏されていることが判りました。チェロ、バスのパートと合わせると、2拍めが伸びるかわりに、1拍めの縮むことが判りました。これは、音楽家にとってはあたりまえのことかもしれず、それほど面白いことではないかもしれませんが、それでも、きっちりと確かめることは科学の基本です。この研究では、第1ヴァイオリンの演奏するメロディーのリズムも分析されました。メロディーでは1拍めと2拍めとが、3拍めよりも長めになっています。当然、メロディーと伴奏とのあいだにタイミングのずれが生ずることになり、メロディーの1拍めが、チェロ、バスに比べて、5分の1拍分程度(あるいはそれ以上)早めに始まる場合が目立ちました。コンサート・マスターの雄姿が目に浮かぶようです。

 面白いのは第2ヴァイオリンで、ヴィオラと一緒に「短・長・中」の3拍子の、2拍め、3拍めを刻んでいるのですが、第1ヴァイオリンと音域が近いところでは、3拍めがかなり早めに始まり、第1ヴァイオリンやヴィオラとのあいだにかなりのずれが生じています。

 まあ、何やかやで、あちこちがずれたりくっついたりしながら、テンポがだんだん速くなってまた遅くなる、と言うことをくり返すのがウィンナ・ワルツであるようです。実際の演奏を分析してこのようなことが判るのは、楽屋裏をのぞくような面白さがあります。

 しかし、楽屋裏以上のことを求めるならば、やはり、実験を行う必要があるでしょう。詳細は省きますが、ベングツソン、ガブリエルソン両先生の研究で明らかになったことは、ウィンナ・ワルツに関しては、2拍目が物理的に少し長めになるほうが、聴いた感じでの評価が高くなると言うことです。これも、音楽関係者にはあたりまえのことかもしれませんが、実際に心理学的なデータが得られた点は貴重であると思います。さらに、この研究で、ウィンナ・ワルツを聴き慣れている人の方が、聴き慣れていない人よりも、2拍めが長めであることを好む傾向が強いことが、はっきりしました。

 ウィンナ・ワルツのリズムが、面白い問題を一杯含んでいることは、多くの方がご存じであると思います。このように改めてデータを示されると、なるほどそうだったのかと納得する点も多いのではないかと思います。ベングツソン、ガブリエルソンの両先生は、似たような研究を、スウェーデンの民謡についても行っておられます。ここで、再び強調したいのは、このような先進的な研究を 1960 年代の終わりから行っておられると言う点です。この頃は、大学の普通の研究室でコンピューターを使うのも、いろいろと苦労を要した時代です(私自身は、1970 年代の初めに高校に通いましたが、現在のプログラム電卓くらいのコンピューターが学校に1台だけあって、貴重品でした。)。

 最後に少し脱線いたしますが、1960 年代の終わりと言えば、ビートルズの全盛期です。彼らは、いまはやりの多重録音を巧みに用いて新しい音楽の世界を開拓したことで知られていますが、「アビー・ロード」と並んで彼らの最高傑作と目されている「サージェント・ペパーズ−−−」では、なんと4トラックしかない録音機が用いられていたと言う話を最近読みました。当時の人々が、制約の多い環境で最大限の創造性を発揮するエネルギーには、驚異的なものがあったように思います。アポロ11号が、現在のパソコン程度(あるいはそれ以下)のコンピューターの力で月着陸に成功したのもこの頃です。人類が突然大きなエネルギーを吹き出した時代に、音楽心理学の世界でも、大きな進歩があったと言うことになります。この頃、わが国のNHK技術研究所では世界で初めてのデジタル録音が実現しました。

18 音の常識と誤解

 音楽について、色々なことを考えてきましたが、このあたりで、「音とは何か」と言うことを整理しておきたいと思います。音は、手にとって眺めまわすことも、秤で重さを計ることもできないので、具体的なイメージになりにくく、専門外の人が科学的な態度で接することが難しい対象です。CDなどのデジタル・オーディオ媒体に対して、不当とも言える非難が絶えないのは、このことが一因であるようです。デジタル・オーディオを非難する人々は、多くの場合感情的です。ところが、人気の高まってきたデジタル・カメラに対して、「なんと言っても究極の画像はアナログですよ。」と大声で非難する人は少ないようです。その理由の一つに、画像が粗くなると確かに安っぽくなると言うこと、画像を細かくすると、次第に微妙な色彩が見えてくること、などが、目で見ただけでも理解できるので、何となくデジタルの理屈まで解ったつもりになり、それ以上大人気ない議論はしない、と言うことがあるのではないかと思います。一方、デジタル・オーディオが非難されるのを、聞いたり、読んだりすると、「この人は、そもそも音のことを知らないのではないか。」と思われることが多いのです(もちろん、そうでないこともありますが。)。と言うことで、今回は「10分でわかる音入門」のお話をいたします。内容をすでにご存じの方も、息抜きにおつきあいください。

 大太鼓を叩くと、太鼓の皮が振動しているのを見ることができます。音を出しているスピーカーのコーン紙に指先を触れると、コーン紙の振動が感ぜられます。このように、音の出る元には、必ず何らかの振動があります。この振動が、空気に伝わって音になるのです。初めから、空気そのものが振動することもあります。 簡単な実験をしてみましょう。A4判程度の上質紙(コピー紙)を、自分の口の数センチ前方に、口と向かい合うような角度で広げ、思いきり「アー」と声を出してみてください。紙を持つ手に振動が感ぜられます。次に、口の形をそのままにして、声を出さずに「ハーッ」と息を出してみてください。紙に息のかかったことが、指先でも少しは感ぜられるかもしれませんが、声を出したときのような「ビリビリッ」と震える感じではありません。この紙を、迫力のある音楽を鳴らしているスピーカーの前に広げると、紙を持つ手に「ビリビリッ」と振動が伝わってきます。口と紙、あるいはスピーカーと紙との間には、空気しかないのですから、音は空気を伝わる振動であることが判ります。(厳密には、空気のない真空のところに音が伝わらないことを示して、初めてこのことが証明されます。残念ながら、このような実験は簡単にはできません。しかし、宇宙で音が伝わらないことは、よく知られています。)

 振動が空気を伝わると言うのは、空気そのものが移動することではありません。風の音が聴こえるのは、風が何かに当たって、空気の振動が生じているからです。息を吹き出して5メートル先にまで空気を送ることは困難ですが、人間の声は、軽く10メートル先にまで伝わります。このおかげで、声はコミュニケーションの道具として、大変強力なものとなっています。空気が振動するとき、部分的に空気が濃くなったり薄くなったりします。つまり、気圧の高い部分と低い部分とが生じます。この気圧の変化はごく小さいもので、天気予報では「ヘクトパスカル(100パスカル)」が単位になっていますが、我々がふだん耳にするような音では、大きく見積もっても数パスカル程度が最大の変化です。音が伝わるときに起こっていることを大雑把に説明いたしますと、ある部分の空気が濃くなると、その濃い空気に押されて、隣の空気が濃くなり、それに押されてそのまた隣の空気が濃くなる、と言うように、濃さの変化が次々に伝わってゆくのです。ある方向から押されて空気が動くと、動いた先の空気が濃くなり、その圧力で反対向きに押し返されるようになりますが、ジェット機が逆噴射で押し返されても急に反対向きに動き始めることがないのと同じで、空気も急に動きの方向を変えることはできません。そこで、空気の進む行き先の方向では、しばらくの間空気が濃いままになり、さらにその先の空気を押すと言うことになるわけです。このように、隣から隣へと次々に伝わってゆく変化のことを「波」と呼びます。濃い薄いの変化が伝わってゆくときには、これを「縦波」と呼びます。音は、「空気を伝わる縦波」であると定義することができます。

 音の通り道をさえぎるように膜や軽い板を置くと、膜や板は空気と一緒に振動します。私たちの耳の中には鼓膜と呼ばれる膜があり、これが音によって振動させられます。鼓膜の振動は、複雑な経路をたどって聴神経の電気信号(インパルス)を生じ、この信号が様々に加工されて大脳に伝わり、更に加工されて、音の知覚を生ずるとされています。

 と言うことは、(頭や体の動きを考えなければ)すべての音は、気圧の時間的な変化にすぎないと言うことです。「火の用心」の拍子木であっても、マーラーの交響曲であっても、一旦は左右の耳の入り口で、気圧の変化になります。「乾いた冬の街中を走り抜ける拍子木の音」や、「ホールを包みこむホルンの響き」などは、全て、気圧の変化を、私たちの聴覚システムが「解釈」した結果なのです。

19 書評

 書いている途中で、良い本が発刊されましたので、取り上げます。

 リタ・アイエロ編(大串健吾監訳)「音楽の認知心理学」(誠信書房:\4500+消費税)は、ここで取り上げているような、聴覚心理学と音楽との関連を重視した音楽心理学の教科書で、ジュリアード音楽院の教科書として使われているものです。音楽を専攻する学生がここまで高度な内容を勉強すると言うのは、ちょっとした驚きです。私は、この本の原書を、授業などのネタ本に利用させてもらったことが何度かありますが、我が国の優秀な研究者が邦訳に取り組まれたおかげで、多くの人にとって近づきやすいものになりました。以前に取り上げた、クラムハンスル先生の調性の研究などについては、日本語で書かれた解説書がなく、学生から質問を受けたりした場合に、不便な思いをしていましたが、本書には詳しく解説されているので、今後はこの本のことを教えるだけですみそうです。ただし、邦訳に取り組むきっかけになったのは、監訳者の大串先生が編者のアイエロ先生を訪問されたときに、アイエロ先生が、日本からの留学生が英語の教科書を読めずに苦労しているので何とかしてほしいと頼まれたと言うできごとだったそうで、少し情けないような気もいたします。ともかく、有益な書物であることは間違いなく、私は、早速自分の授業の教科書に指定することに決めました。

 内容は次の4部に分かれています:


   第吃堯‥学的視点

   第局堯“達的視点

   第敬堯\律、調性、リズムおよびタイミングの認知

   第孤堯_山攤酩覆涼粒

 第吃瑤砲蓮◆峅山擇噺生譟廚搬蠅気譴進埃埃身の筆になる章があり、言葉を単語のような小さなまとまりから、文のような大きなまとまりにまで、階層的に組み上げてゆくことができるような、人間の能力が、音楽活動においても重要な役割を演じていることが論じられています。「ウェスト・サイド物語」で有名な作曲家のバーンスタインが、言葉と音楽とのあいだに存在するこのような共通点を初めて指摘したとのことですが、第吃瑤任蓮△海里茲Δ暴斗廚任△蠅覆ら見逃されがちな話題に触れることができます。

 第局瑤任蓮音楽教育に関わるさまざまな事柄が取り上げられており、例えば、優秀な音楽学生がどのような環境で育ったかと言った、教育全般の話題としても見逃せない部分があります。ただし、教育の話は、一筋縄では行かないことを肝に銘じておくことも大事だと思います(などと、人様に偉そうに言える立場ではありませんが、あしかあらず。)。

 第敬瑤蓮∪律、調性、リズムなどに関して、知覚実験や演奏実験によってどのようなことが判るかを、解説したもので、これまでに比べて「謎解きの楽しみが増えた」音楽心理学の姿を紹介しています。このような話になると、よく音楽関係の方から「音楽は実験で解るような単純なものではない」との批判を受けるのですが、これは、試験管で細胞分裂の研究をしている生物学者に「生命は試験管の中で理解できるものではない」と批判するようなものです。心理学者は(少なくとも私は)、これで音楽の本質がすぐに解ると思って実験をしているのではありません。面白いことがいろいろと見つかるからついつい実験をするので、音楽はそのための絶好の材料にすぎないのです。「音楽にはこんな楽しみかたもあるんだ」と気軽に実験結果を見ていただければよろしいかと思います。

 第孤瑤蓮∧埃圓砲茲觚綵颪です。と言うわけで、魅力的で解りやすい本書を推薦します。ただし、すべての章を推薦するわけではありません。読みにくい章はとばしてください。

 もう一つ、新しい本として、生野里花「音楽療法士のしごと」(春秋社:\2000+消費税)を紹介しておきます。最近、「音楽療法の勉強をするにはどうすればよいでしょうか。」と質問に来る学生が増えているようです。私の答えはだいたい決まっていて、「私は素人なのでよく分かりませんが、とりあえず医者になるのが賢明でしょう。」と言うものです。もう少し耳障りのよい返事ができればとも思うのですが、「療法」、「治療」と名の付くものに、うわついた気持ちで興味を持つとロクなことはないとの判断により、このように答えることにしているのです。医学畑とは違う立場から音楽療法に取り組まれている方が、どのような工夫をされ、どのようなことに悩んでおられるのかについては、正直に言ってイメージがはっきりとつかめなかったのですが、インタビュー形式で書かれたこの本で、いろいろなことが解ってきました。今度質問に来る学生がいたら、一読を薦めるつもりです。

20 学会報告

 今回は、気軽な話題です。最近(1998年秋)は、「国際学会」なるものに参加することも、昔のように大変なことではなくなりました。私が、初めて国際学会に参加したのは、20年近くも前のことで、スウェーデンに行ったのですが、外国に行くと言うだけで、飲み仲間の話題になったりしておりました。日本円に対して米ドルが今の2倍くらいしており、しかも、北欧では日本円からの両替をしてくれないところもあり、心細い思いをいたしました。時代は移り変わり、バブルが絶頂に達した10年くらい前には、会社員も学者もパック旅行軍団も貧乏一人旅軍団も、一斉に海外へ飛び立ち、貧乏一人旅軍団は別として、ビル、酒、バッグなどを買いあさりました(私も酒を買いあさりましたが、全部なくなりました)。そして今、20世紀の終わりにさしかかり、日本国内を旅行するのも、海外を旅行するのも、同じくらい気軽なものになりました。国際学会は「桧舞台」ではなくなり、同じような研究をしている仲間どうしが集まって、近況報告をするような場所になっています。このごろは、インターネットを通じて、職場の同僚に通信するのと同じ要領で、どこの国の仲間とでも通信ができるので、国際学会を計画することも昔よりずっと簡単になり、乱立気味の国際学会に義理を欠かさないようにつきあっていると、肝腎の研究をする時間がなくなる、という珍現象まで生じています。

 このような時代ですが、それでも注目すべき国際学会がありました。それは、ソウルで1998年8月末に開かれた「第5回国際音楽知覚認知学会」です。このような、基礎研究まで含む国際学会が韓国で開催されるのは、私の知っている限りでは珍しいことで、これを機会に、隣国に研究仲間が増えることを心から望みます。韓国も日本も経済危機で大変ですが、このようなときこそ、基礎研究を育てるチャンスではないかと思います。経済的に最も苦しいときに、今回の学会を大成功に導いた韓国の研究者、学生の底力は大変なものだと感じました。

 学会では、実にさまざまな発表がありました。全体的な印象として、音楽教育関係の方が、きっちりとした実験を発表されているのが印象に残っています。新潟大学のミト・ヒロミチ先生と愛知教育大学の村尾忠広先生との共同研究について、日本の今風のポップスを聴き覚えで歌うのが上手な人は、演歌を聴き覚えで歌うのが苦手で、逆に、演歌と相性のよい人は、今風のポップスと相性が悪いと言う、面白い結果が、演歌を実際に鳴らしながらユーモラスに発表され、会場が盛り上がっていました。次に気付いたのは、心理学の世界で長らく本格的な研究が途絶えていた「感情」の研究が、音楽心理学の分野で確実に復活しつつあると言うことです。さらに、実証的な取り扱いが大変難しい「感動体験」にまで、研究者の手が伸びています。リズムの研究で紹介したアルフ・ガブリエルソン先生は、「音楽に関する強烈な体験」を何人もの人に言葉で書き記してもらい、膨大なデータを集めたうえで、その「強烈な体験」を分類しました。分類の大項目としては、全般的な体験、身体的な反応や行動、知覚体験、(連想、イメージなどの)認知体験、感情の動き、実存体験ないし超越体験、人間的成長体験があり、それぞれがさらに小項目に分かれています。今後感動体験について研究する人は、この分類を避けて通るわけにはゆかないでしょう。そう言えば、ガブリエルソン先生の所属するウプサラ大学は、動植物の体系的な分類に手をつけたリンネの活躍した場所でもありました。

 音楽演奏における表現のありかたを考察した研究には、大変意欲的なものがありました。アメリカのハスキンス研究所(音声研究の殿堂です)に所属するブルーノ・レップ先生は、ショパンの「別れのエチュード」の冒頭5小節について、百を超える録音を手作業で分析し、歴史的なピアニストを含む演奏家の特徴を分類することを試みました。このような研究は、ぜひ音楽学の分野で行ってほしいのですが、どうも、音楽学者は、現実の音よりも音の理想的な姿に関心があるために、音楽心理学者が隙間を埋めている感じがいたします。しかし幸いに、レップ先生はプロとして通用するくらいのピアニストであり、このような役割を果たすにふさわしい人ではないかと思います。

 韓国料理はキムチと焼き肉だけではないことも判り、韓国の若者が電車でどんどん年配の人に席を譲るのを見て感動し、大学生や大学院生が女の子どうしで手をつないで歩くのを見てびっくりし、楽しい旅行ができました。なお、韓国についてニュースなどでは解らなかったことを一つお伝えしたいと思います。旧朝鮮総督府を完全に取り壊すことについて、そこまでしなくてもと思った方は多いはずで、私もその一人だったのですが、総督府は、王宮への入り口を塞いでおり、過去のいきさつを抜きにして考えても、ないほうがずっと良いのです。ひょっとすると、このようなことも報道されていたのかもしれませんが、私は取り壊しのほぼ完了した総督府跡を見て、初めて知りました。日本人に対する悪い感情を体験することは全くなく、むしろ沢山の韓国人に親切にしてもらったことが思い出に残っています。しかし、知り合いのイギリス人は、学会期間中に飲み屋にいったところ、年配の韓国人ビジネスマンから、日本人の悪口をさんざん聞かされたようで、まだまだ、日韓両国の関係はデリケートです。2002年のワールドカップまでに、ぜひ相互理解を深めておきたいものです。

21 リズムの話将

 しばらく途切れていたリズムの話を復活させます。前回「感動体験」について名前を挙げた、ウプサラ大学のガブリエルソン先生が開発された装置の一つに、モーナと言う愛称がついており、この装置を用いて単一の声部からなるリズムの演奏を録音し、精密に分析することができます。実際に用いられたのは25年以上前であり、演奏されたリズムを物理的に分析して考察を進めるような研究の出発点になりました。この種の分析は、その後、オランダ、イギリスなどでも行われるようになり、現在ではリズム研究の重要な一部門になっています。前回報告したハスキンス研究所のレップ先生の演奏分析もその一例です。

 今回はガブリエルソン先生の研究から、このモーナの助けを借りて、ボンゴを叩くリズムを分析した例を取り上げます。演奏は、一人の打楽器奏者がメトロノームに合わせて行いました。メトロノームを鳴らしていたと言うことは、機械的に正確な演奏になりやすい条件をわざわざ作っていたことになりますが、それでも、楽譜と演奏とのくい違いがはっきりと現れました。楽譜に示された4分の4拍子、1小節分のリズム・パターンが、4小節分くり返して演奏された場合のデータを見てみましょう。メトロノームのテンポは1分間あたり108拍でした。分析の結果を下に示しますが、大体の傾向を見るために、4小節分の演奏を平均して1小節分にまとめてあります(4小節目の最後の音符の長さは、測定できなかったので、平均に含めてありません。)。1行目の数字は、それぞれの音符が、1小節分の時価(合計4拍)のうち何パーセントを占めるかを示します。つまり、この数字は音符の代わりです。分かりやすくするために、1拍ごとにスラッシュ「/」を入れました。2行目の数字は、それぞれの音符が、1小節分の時間(約2.2秒)のうち何パーセントを占めるかを示します。もしも機械的に正確な演奏がなされているならば、1行目と2行目とは一致するはずです。

1拍目2拍目3拍目4拍目
楽譜18.75 6.25/12.5 6.25 6.25/12.5 6.25 6.25/25.0
演奏19.2 5.7/13.5 5.1 6.0/13.0 5.3 5.8/26.4
                 [パーセント]

ところが実際には、1行目と2行目とのあいだにずれが生じています。演奏しているのは人間ですから、演奏に「ゆらぎ」や「偶然」があるのは当然ですが、それ以外に、楽譜と演奏とのあいだに、ある決まった方向のずれが生じているのです。まず1拍目では、楽譜上の時価の比率が3:1になっています(これは付点8分音符と16分音符です)。ところが、演奏データを見ると、長いほうの音符は一層長く、短いほうの音符は一層短くなっており、したがって比率も少し極端な(1:1から遠い)側にずれていることが判ります。比率はおよそ3.4:1となっています。このような「比率の極端化」は、他のリズムパターンにおいても生じています。私自身も、この問題に興味を持っており、たくさんのデータを集めました。そして、これがかなり安定した現象であることを、確かめました。私の研究室では、さらに心理実験を行い、「比率の極端化」が少し生じている演奏の方が、機械的に正しい演奏よりも「一層正しく」聴こえる場合のあることを確認しています。つまり、物理的に楽譜どおりではないほうが、楽譜どおりであるように聴こえやすい場合があると言うことです。このようなことは、芸術表現以前の、我々の知覚システムの歪みから来ている現象であると考えられ、MIDIなどを用いた自動演奏システムでは、慎重に対応する必要があると考えられますが、今のところ、このようなことは全く問題にされていません。そもそも、現在のMIDIシステムは、初期のYMO(いわゆるテクノ・ポップの元祖でした)が使っていた、アナログのシステムよりも、時間分解能が悪く、派手な音色でリズムの鈍さをごまかしているようなところがあります。私は、自動演奏のシステムが、早く音楽の本道に戻ってほしいと願っているのですが、皆様はどのようなご意見をお持ちでしょうか。

22 リズムの話将

 前回ご紹介した、ガブリエルソン先生の四半世紀前のデータについて、もう少し考えを進めてみます。2拍目、3拍目の後半に注目してください。どちらの拍においても、16分音符が二つ並んでおり、機械的に正確な演奏がなされたとすると、物理的に同じ長さになるはずですが、実際には、二つ目の16分音符のほうが長めに演奏されています。これは偶然ではなく、ほかのリズム・パターンにおいても同じような現象が見られますし、私の研究室で行った同様の実験でも、この現象が確認されました。周りの音符よりも短い音符が2つ並んでいるとき、2つめの音符のほうが少し長めに演奏されることが多いのです。

 この現象がどうして生ずるのかについては、まだよくわかっていませんが、私自身はある仮説を持っています。自分の研究のことなので、ついついややこしい話を押し付けてしまうかもしれませんが、これは学者の習性ですから大目に見てやってください。二つの短い時間間隔が隣接し、そのうちの二つ目の時間間隔のほうが少し長い場合、二つ目の時間間隔が過小評価されることがあります。例えば、100分の1秒くらいの大変短い音を、「タタタッ」と三つ鳴らすと、音の始まりから始まりまでのあいだに時間間隔が示されますから、二つの時間間隔が隣りあうことになります。このうち、第一の時間間隔が0.04秒、第二の時間間隔が0.12秒であるとき、第二の時間間隔は0.07秒くらい、あるいはもっと短いくらいに知覚されます。つまり、第二の時間間隔に0.05秒以上の「過小評価」が生ずることになります。本来の0.12秒を基準にすると、40パーセント以上の過小評価が生じたことになります。この現象は、オランダのライデン大学で聴覚心理学の研究を続けているテン・ホーペン先生と私とが、1987年に発見したもので、「時間縮小錯覚」と名付けています。時間縮小錯覚は、隣りあった短い二つの時間間隔のうち、二つ目のほうが物理的に少し長い場合に生じ、結果として、二つの時間間隔が一層よく似た長さを持つように感ぜられます。

 さて、ガブリエルソン先生の実験において、16分音符が二つ並び、その直後にもう一つの音符がある場合を考えます。全部で三つの音符の始まりが、隣りあった二つの時間間隔を区切っており、演奏データによれば、二つ目の時間間隔のほうが少し長めです。これはまさに時間縮小錯覚を引き起こすために作られたようなパターンです。もし、二つ目の時間間隔が過小評価されるならば、二つ目の時間間隔のほうが多少長くなっていたにせよ、結局は同じくらいの長さに感ぜられるということになります。

 ここからが、仮説−−と言うよりは思い込み−−なのですが、人間の演奏者に完全無欠と言うことはありませんから、等間隔に演奏せよと言われても、どうしてもずれが出てしまいます。ずれる場合にも、一つ目の音符が長めになるようなずれが極力生じないように、すなわち、ずれが出るにしても、二つ目の音符が長めになるようなずれのほうに倒しておけば、聴いている人には気付かれにくい、言わば「安全策」になるのではないでしょうか。慣れないホテルの部屋でシャワーの温度を設定するとき、とりあえず低めにしてやけどを防ぐとか、忘年会の幹事が会費の額を見積もるとき、とりあえず多めの額を集めて余った分を二次会にまわすとか、世の中には色々な「安全策」がありますが、短い二つの音符が並んでいるとき、とりあえず一つ目を短めに、二つ目を長めに演奏して、等間隔でないことに気付かれにくくする、と言う安全策が、リズム演奏の仕組みの中に隠れているのではないでしょうか。これが、ガブリエルソン先生のデータと、時間縮小錯覚のデータとから考え出した、私の仮説です。ただし、この仮説がはっきりと現れたのは、似たような研究を行っている、フランス在住のイギリス人であるキャロリン・ドレーク先生(現在ボルドー大学)と、上に挙げたテンホーペン先生との三人で議論していたときのことで、最初に話をまとめかけたのがドレーク先生と私とのどちらであったのかは忘れてしまいました。ほとんど同時であったと思います。これはちょうど10年前のことですが、日本でもフランスでも、実験は継続中です

23 リズムの話将

 同じ長さを表す短い音符が2つ続く場合、2つめの音符が伸ばし気味に演奏される傾向があると言うことをお話しいたしました。愛知教育大学の村尾忠廣先生もこのことに注目しておられますが、前回紹介した仮説とは異なり、演奏者の動作上の制約からこのような時間構造の歪みが生ずると考えておられます。打楽器演奏の場合はっきりするのですが、短い2つの音符の次の長い音符をはっきりと演奏するためには、大きい動作が必要になり、直前の音符が少し伸びてしまうと言うものです。私は村尾先生にときどきお会いするのですが、この仮説について初めてうかがったのが、時間縮小錯覚を発見する以前のことであったため、この問題について先生と議論したことがありません。どうも、狭い日本の中で不手際なことでした。この前ソウルで開かれた国際学会でも、村尾先生にお会いしたのですが、先生がいきなり韓国の酒の話を始められたので、ついつい話がそちらに流れてしまいました。まあ、酒好きの人間と言うのは大概こう言うもので、先生を訪問するとまた同じパターンにならないとも限らないので、この場をお借りして、私の考えかたをまとめてみたいと思います。

 どのような楽器であっても、人間の声の場合であっても、相対的に長い音符の直前は、少し動作の準備が必要でしょう。実際の音楽では、相対的に長い音符が拍の始まりを示すことが多いので、一層この傾向が強くなると思われます。従って、村尾先生の考えかたが成立する可能性は高いと思います。しかし、その場合でも、演奏されたリズムを聴いたときに、短い音符が2つ並んでいるうちの2つめのほうが長すぎると感ぜられるならば、そのことが、自分自身や教師などを通してフィードバックされ、修正されてゆくのではないでしょうか。実際に、修正される場合があることは、村尾先生も考えておられたように思います。しかし、このような演奏のずれが控えめに生じている場合には、伸ばし気味の音符を聴いても、修正する必要があまり感ぜられず、ずれた演奏が生き残るのではないでしょうか。2つめの音符が物理的にやや長めであっても、時間縮小錯覚が生じて、物理的な測定値に見られるほどには長く聴こえないとするならば、確かに「修正する必要があまり感ぜられない」と言うことになります。

 前回紹介した「安全策」の考えかたが正しいのか、いま述べた「未修正」の考えかたが正しいのか、いまのところはっきりしません。「未修正」であることが同時に「安全策」であるのかも知れません。どちらの考えかたにも共通しているのは、演奏の動作が多かれ少なかれ不完全であることが関連していると言うことです。また、短い音符のうち2つめのほうがやや長めであっても、あまり気にせずに聴くことができると言うことです。私自身の守備範囲は知覚心理学ですので、この2点のうち、後のほうを確かめる必要があります。しかし、知覚心理学の伝統的な手法では「長さの違いが判るかどうか」と言うことは実験によって確かめることができますが、「長さの違いが気になるかどうか」と言うことは、意外に調べにくいのです。

 このような研究のアイデアについては、ライバルの研究者に聞かれると困る場合もあり、大学の授業でも話さずにすませることが多いのですが、今回の件については、他の研究者が問題を解決してくれるならば大歓迎です。(ライバルに難題を押し付けているようにも見えますが。)

 話をややこしくするようで申しわけありませんが、時間縮小錯覚に関して、これまで触れてこなかったことが一つあります。数ミリ秒程度のごく短い音が次々に3つ示されるときに、2つの「空虚時間」ができますが、このうち1つめの空虚時間に比べて2つめの空虚時間が少し長い場合に、2つめの空虚時間が過小評価されると言うのが時間縮小錯覚です。ヘルト・テンホーペン、佐々木隆之の両先生と私とは、共同研究によりこの現象に関するデータを蓄積しています。もちろん、我々教官とともに働く学生諸君の努力が大きいことは言うまでもありません。恐らく、実験室で実際にデータをとった時間だけで、のべ1万時間くらいに達しています。自慢するわけではありませんが、データの信頼性を充分にチェックしていることを分かっていただきたいのです。そのデータの全体を見渡すと、物理的に等しい長さの空虚時間が2つ隣接するときにも、2つめの空虚時間が過小評価されるようなのです。例えば、100ミリ秒の空虚時間が2つ隣接すると、2つめの空虚時間が数ミリ秒程度過小評価されるようです。この程度の時間の長さの違いは、人間が聴いて区別できるかどうかと言う微妙なものですので、1〜2回実験を行っただけではよく分からないのですが、大量のデータのおかげで、このような過小評価があるとはっきり結論することができます。そうすると、短い2つの音符が隣接するときには、2つめの音符をやや長めに演奏したほうが、むしろ正しい演奏であると言うことになってしまいます。そんなおかしいことがあってよいのだろうかと言う気もするのですが、こうなればデータを更に積み重ねる以外にありません。さしあたり、時間を区切る音の長さ、高さ、強さなどを色々に変化させて研究を続けています(学生諸君が自分でアイデアを出しています。)。

24 日本語の歌 

 以前に、クラシックの歌手が、日本語歌曲を、まるでドイツ語や、イタリア語のように歌う例について述べました。少し後戻りして、この話を続けてみます。クラシック音楽に変な日本語がまかり通っていること自体は、聴けば誰にでも判ることです。我が国における音楽心理学の先駆者である兼常清佐は「ピアノの音は、パデレフスキーが弾いても猫が弾いても同じ」などの問題発言で名を残していますが、日本語の歌いかたについても「ニッポンの唄は結局ニッポン語の話、あるいは朗読の一種である。しかしゾプラン(ソプラノ)の唄は咽喉という楽器の演奏する音楽である。」(岩波文庫「音楽と生活 −兼常清佐随筆集−」)と明快に発言しています。この人は、ただ言いたい放題を言っているわけではなく、常に何らかの根拠のある発言をしており、そのために余計に煙たがられると言うタイプの人で、今の発言に関しても、自分自身の音響学的な観測に基づいているようです。当時の技術でどのくらいのことができたのか、私には見当がつきませんが、ソプラノ歌手が、しばしば、輝かしい高音のために歌詞の解りやすさを犠牲にしていることは、誰しも気付くことでしょう。

 ソプラノ歌手の名誉のために言っておきますが、そもそも、高い声で歌う場合には、声の中に、言葉を伝えるための手掛かりが少なくなり、言葉の意味を正しく伝えるには不利なのです。例えば五線譜の上にはみ出したAの音は、基本周波数が、約880ヘルツですから、

 880ヘルツ、1760ヘルツ、2640ヘルツ、−−−

 といった、880ヘルツの倍数の周波数をもった成分からできています。ところが、日本語の「ウ」の音を聞かせるためには、通常は、200〜500ヘルツくらいの成分が必要です。今の音には、そのような成分はありません。つまり、目をかっと開いて高音で「ウ」と歌うことは、原理的に困難なのです。このような問題は、喉頭の位置を上げていわゆるベルカントではない歌いかたを採用することにより、ある程度改善することが知られていますが、それにも限界があるようです。日本語の場合、子音が少ないので、母音の区別がつきにくいと、歌詞全体の意味がわかりにくくなる可能性があります。そうだとすると、ベルカント唱法で無理矢理高い音を出して日本語歌曲の歌詞が解りにくくなっているわけで、作曲家、あるいは作詞家、訳詞者の責任も大きいことになります。さらに、日本語会話で重要な役割を果たしている音の高低が、音楽のメロディーのために犠牲になっていることも多く、この場合、一層困ったことになります。

 クラシックの歌いかたにおいては、ソプラノに限らず、高い声がよく出て、声がよく目立つように、普段の会話とは異なった発音が採用されています。それが、果たして日本語に適切であるかどうか、地道な研究が必要なはずですが、兼常清佐のあと、そのような研究は決して多くありません。現在、大阪芸術大学の中山一郎先生がこのような骨の折れる研究を続けておられます。

 作曲家、作詞家、研究者、それぞれに責任があるわけですが、もちろん、歌手の責任も大きいと思います。そもそも、お客さんに言葉が通じているかどうかを気にするのは、舞台芸術の初歩だと思うのですが、ここにまず問題があるようです。兼常清佐が指摘したように、歌手が単なる楽器としての役割に満足している可能性があります。そうすると、声を出しやすくするために、作曲家の意向を無視するということも起こります。藍川由美著「これでいいのかにっぽんのうた」(文春新書)に出ていた話ですが、「からたちの花」のクライマックスである「まろいまろいー」と「い」で伸ばすところを、藤原義江は「まろー」と「ろ」で伸ばして歌い、最後に「い」をくっつけたのだそうです。この場合、高音を思いきり伸ばすには便利かもしれませんが、モーラ(日本語の基本となる時間の単位)の規則性に基づく日本語のリズムは崩れてしまい、「まろいー」の「ー」のところに余韻を残すような日本語独特の情感は失われてしまうでしょう。

 「これでいいのかにっぽんのうた」は、ソプラノ歌手である著者の経験に基づいた鋭い考察に溢れており、一読をお薦めします。「うさぎおいし」で始まる「故郷」の「おもいいずる(思い出ずる)」を、歴史的仮名遣いに従って「おもひいづる」と歌えばよいのではないか、と言う面白い指摘が特に印象に残りました。「日本語の歌は日本語の発声法で」と言う主張は明快で、兼常清佐に槍玉にあげられたソプラノ歌手が、兼常のお株を奪った感じです。

25 脱線

 今回は、あえて政治上の大問題である「君が代」の話題を取り上げます。と言っても、右翼にも左翼にも味方をするつもりはさらさらなく、音楽寄りの立場から、この問題を取り上げたいのです。教育現場で「君が代」をいかに扱うべきであるか、現在盛んに議論されています。ところが、驚くべきことに、「君が代」が音楽として、あるいは歌として「国歌」にふさわしいものかどうか、と言う議論はあまり出てきません。特に、音楽家、音楽教育関係者からの、専門家としての発言には殆どお目にかかりません。この歌が、音楽として優れているのか、皆で声を合わせて歌いたくなるような歌であるのかどうか、「国歌」を選ぶときには、第一に考慮しなければならないはずです。これはまさに「国歌の一大事」です。

 「君が代」、「日の丸」と言うと、まず「日本の過去の侵略行為につながる。」などとして反対の声が上がります。このような意見には一理ありますが、私には納得できない点があります。「植民地化」や「侵略」は、確かに恥ずかしい、許すことのできない行為です。しかし、そのような理由で「君が代」、「日の丸」に反対すると言う人は、「ユニオン・ジャック」や「三色旗」にも反対しなければならないはずです。(ちなみに、三色旗の三色は、現在では「自由、博愛、平等」を象徴するとされていますが、白色は、もともとブルボン王家の象徴でした。)フランス国民の聖地であるパリの凱旋門では、ヴェトナム侵略に参加した兵士達も英雄となっています。国際化の世の中ですから、凱旋門前で「ラ・マルセイエーズ」反対の演説でもして、ついでに三色旗を一枚燃やしてみたらどうでしょうか。どう猛な警官どもに殴られて大怪我をするかもしれません。つまり、国旗や国歌が間違って使われ、そのことが国家権力によって正当化されることは、どの国にも見られることで、愚かさをもった人間が集まって権力を形成する以上、避けられないことです。愚かな歴史も、一国の歴史として受け入れるしかなく、国旗や国歌を変えて、今日から別人ならぬ別国になりましたと言っても、それだけでは誰も信用しないでしょう。失った信用は、長年かかって取り戻すしかありません。「鉤十字」のように、それ自体がファシズムの象徴であれば、それを使い続けることは許されないでしょうが、「日の丸」、「君が代」はそうではありません。

 一方では、「国を愛することは、国民として当然のことである」と言う理由で、「君が代」を歌わない人を非難する人もいます。これは、「地域を愛することは、住民として当然のことである」と言う理由で、自治会の運動会の障害物競走に参加しない人を非難することに似ています。楽しい人もいるでしょうが、そうでない人もいるのです。一所懸命に働いて税金を納め(または、そのための準備として勉強し)、貴重な時間を割いて選挙の投票所に足を運ぶ人は、皆、それぞれのやりかたで国を愛しているはずであり、各自のスタイルは尊重されなければなりません。そもそも、運動会の障害物競走に参加するよりも、近所で困っている人を見かけたときに見て見ぬふりをしないことのほうが、ずっと地域にとって重要なはずです。

 さて、「君が代」のメロディーですが、これは、世界各国の国歌が進軍ラッパや凱旋式典を連想させるのに対して、実に平和な感じがいたします。雅楽の旋法(「壱越調律音階」と呼んでよいのでしょうか?)に従うゆっくりとうねるようなメロディーを、侵略行為と結びつけて聴く人は、随分変わった耳の持ち主であると思います。一方、歌詞が難しすぎると言う人もいます。私自身も小学生の頃に、「ちよにやちよにさざれ」が一つのフレーズだと思いこんでいた時期がありました。週刊誌「Newsweek」も、歌詞の解りにくさが若者に「君が代」が受けない理由ではないかと論じています。(記事をなくしてしまったのですが、「岩音鳴りて」と歌詞を誤解する例が紹介されていたように記憶しています。)しかし、歌詞が解りにくいと言う点では、長野オリンピックの閉会式で、皆が声を合わせて歌った「故郷」もいい勝負です。「都の西北」で始まる早稲田大学の校歌なども、難しい言葉を並べて作ってありますが、雑草のごとく広まり、早稲田の誇りをこめて学生に歌いつがれています(私は関係者ではありませんので、念のため。)。「君が代」の受けない原因は、歌詞とメロディーとがうまくかみ合っていないことではないか、と私は見ています。私自身の誤解について先に述べましたが、「君が代」斉唱の場面では、「さざれー」の後で盛大に息継ぎが行われることが、実に多いのではないかと思います。つまり、誰も歌詞の切れ目のことを気にしていないのです。「故郷」や早稲田の校歌では、このような問題は生じていませんから、訳がわからずに歌っていても、あるとき歌詞の素晴らしさに気付く可能性があるわけです。ある新聞の投書欄に「故郷」を国歌にしようと言う提案が出ていましたが、私もこれに賛成です。しかし、式典のメロディーを変えることが「技術的に」難しいのであれば、「君が代」のメロディーを残し、メロディーに合った歌詞を公募して、付けなおせばよいと思います。多くの国際的な場面では、歌をつけずにメロディーだけが演奏されるわけですから、これは難しいことではないと思います。

 最後に、言い古されたことですが、我が国に特有の旋法でメロディーができているのに、西洋の機能和声が崩れかけたような伴奏が付いていることは、実におかしいと思います。大太鼓が盛大に鳴り渡るところなどは、漫画映画で東洋の島国ジパングの神秘の皇帝が簾の奥から出現する場面のようで、笑ってしまいます。長野オリンピックでは、この点でも画期的な演出があり、雅楽風の素晴らしい「君が代」を聴くことができました。オリンピックの度に、選手団が「雅楽部隊」を引き連れてゆけば、まさに「国威発揚」で一石二鳥です。

26 日本語の歌 

 日本語の発音、語調を、西洋風のリズムに乗せるときに、難問となるのが、促音「っ」と、撥音「ん」との扱いです。これに、「えー」などと表される長音を含めて、日本語の「特殊拍」と呼ばれ、外国語話者が日本語を学ぶ時に苦労するところとされています。なぜか外国人がまっさきに覚える「ちょっと待ってください」が「チョトマテください」になるというのは、実際に経験された方も多いのではないでしょうか。昔本当にそのように歌って(歌わされて)いる外国人歌手がいて、ほほえましい例でしたが、「ビールください」が「ビルください」になったり、「おはようございます」が「オハイオございます」などと変わると、随分気の大きな人だと誤解されかねませんし、「担任の先生」が「他人の先生」になると、何となく水臭くなり、「『キャッツ』は見ましたか」が「キャツは見ましたか」になったりすると、こんなガラの悪い言葉をどこで覚えてきたのかと思われるかもしれません。たとえ外来語であっても、日本語の文脈では、日本語のリズムに従わなければ言葉としての用をなさないのです。

 逆に、日本語話者が外国語を学ぶときに、このような日本語の特殊拍が邪魔をすることがあります。私自身が中学生の頃の経験ですが、「happen」と言う英単語を「ハップン」と読んでいたために、英語の「happening」からきた「ハプニング」と言う言葉に関係があると気づきませんでした。外国にちょくちょく出かけるようになってからも、「ヘマ」が「ハンマー hammer」のことなのかと驚いたり、「Happy birthday to you.」を「ヘァッピバースデイ−−−」と思いきり「ッ」を入れて歌わなくても大丈夫と言う「大発見」をしたり、「チョトマテください」の世界を経験しております。こう言った問題点は、意識して減らすようにしているのですが、どうも根深いものがあるようです。

滝廉太郎作曲、武島羽衣作詞「花」は、代表的な日本語歌曲で、殆どの方が教室などで歌った経験があると思います。この曲の最後の方の歌詞は「げに一刻も千金の/ながめを何にたとふべき」となっており、新仮名遣いで仮名書きすると「げにいっこくもせんきんの/ながめをなににたとうべき」となります。「いっこく」が、「亥刻」、「異国」、「E国」などに聴こえないようにするためには、「い」が短く、無音部分「っ」が長ければよいのですが、「いっ」の部分に、4分の2拍子の付点8分音符と16分音符とが当てはめられており、「い」を16分音符にまで延長しないと、この音符がなくなってしまうので、無音部分「っ」は、ただでさえ短い16分音符の後のほうに入れざるをえません。無音部分が長すぎると、この16分音符がぶっきらぼうに聴こえるでしょうし、短すぎると 「いっこく」という言葉が聴こえないと言う、歌手にとっては、技量を試されるところではないかと思います。日本語歌曲には、このような促音「っ」がたびたび現れ、さまざまな問題を生じています。「鉄道唱歌」にいたっては、「汽笛一斉新橋を」の「いっせい」の促音に4分の2拍子の16分音符が当てはめられており、しかも「い」と「っ」との音高が等しいので、この16分音符を実際に歌うことは不可能です。それでは、どのくらい無音の時間を挟めば促音に聴こえるかと言うと、歌に関しては実験データを見たことがありません。日本語では、促音が言葉の強調に使われることが多く、古くは「あはれ」が「あっぱれ」となった例があり、新しくは、「ださい」が「ダッセー」になったりしているので、この問題は思いのほか重要です。日本語の歌について実証的な考察を行うためには、「どのような物理条件で、促音が聴こえるか」についての研究を避けて通るわけにはゆかないでしょう。

 日本語歌曲の長音についても、実証的な研究があまりなされていないのではないかと思います。「夕焼け小焼けで 日が暮れて」(中村雨紅作詞、草川信作曲「夕焼け小焼け」)は、おそらくわらべうたをヒントにして作られた歌ではないかと想像いたしますが、この曲においては、「ゆう」が2モーラであり、「や」、「け」などが1モーラであることが、音楽のリズムにはっきりと示されており、「ゆう」が長音であることが、はっきりと聴こえます。一方、「夕焼け小焼けの 赤とんぼ」(三木露風作詞、山田耕筰作曲「赤とんぼ」)の場合には、「ゆう」よりも「や」のほうが、譜面の上では長くなっていますが、「ゆう」のところで音高が上昇しているので、東京方言の「夕焼け」の最初の2モーラの感じになり、「ゆう」が長音であることが、聴き取られるものと思われます。このような、作曲家が直観的に選んだ手段に対しても、今後科学のメスを入れることが望まれます。

 撥音「ん」は、歌手にとって鬼門です。「ん」が一つの音符を占めていると、声を響かせにくい上に、音の高さが下がり気味になります。「ん」を短くするために、直前の母音をそのまま引き伸ばして、音符の最後に少しだけ「ん」を付ける場合もあるようですが、これは、日本語の特性を無視した姑息な手段であると言わざるをえません(合唱などでは、それでもやむをえない場合があるとは思いますが。)。

27 日本語の歌 

 日本語の歌に関しては、大学の授業でもよく取り上げるのですが、その時には、教師としての立場を悪用して、「最近の英語混じりの和製ポップスは、日本文化の恥である。」と言う、授業としてはやや脱線ぎみの話に持ち込み、日頃言いたかったことを言わせてもらうことにしています。面白いことに、この話に対しては、レポートでかなり真剣に反論する学生が現れることがあります。大学の授業で反論があるのは当然ではないかと思われるかもしれませんが、最近の日本の大学では、授業中の反論が驚くほど少ないのが普通のようです。私が学生の頃は、少なくとも大学院の授業では、先生に反論してみようと学生どうしが競争していた記憶がありますし、現在でも、欧米の大学で講演をさせてもらうと、講演の後(場合によっては途中)の「反論処理」に結構手を焼くのが普通です。どうして、現在の日本の学生だけこうなってしまったのか、気になるところですが、これは今回の話題ではありません。「英語混じりの和製ポップス」が、学生の反論を呼び起こすことのできる希有な話題であることが注目点です。

 恐らく、反論する学生は、「英語混じりの和製ポップス」にかなりの親近感をいだいており、私がそれを斬って捨てようとするのに強い抵抗を感じているものと思われます。世代間のずれと言ってしまえばそれまでなのかもしれませんが、私は、これを何とか現代日本の文化の根本問題として、議論の題材にしたいのです。「英語は音響的に面白いし、かっこいい」、「現代日本には外国のものを好む人が多いと言うことを、素直に文化として受け容れるべきである」、「日本人の本来の精神がそう簡単に変わるとは考えられないから、気にしなくてよい」など、実にいろいろな反論があることにも驚かされます。ここで、少しはっきりさせておきたいのですが、私は英語を使うこと自体に反対しているのではありません。日本語の美しさを強調するような歌が少ないことを問題としているのです。さらに、盛りあがるところで、決まって英語にひっくり返る軽薄さにうんざりしているのです。現代日本には現代日本の言語があるはずであり、これを音楽に乗せて楽しみ、後世にも伝えることが重要ではないのか、と言うのが私の主張です。日本語で大いに盛りあがろうではありませんか。そのための音楽を見つけようではありませんか。

 私が和製ポップスの英語をけなすことに関しては、和製ポップスにおける英語は単なる音響効果であるから、多少発音や文法が変であってもかまわない、と反論する人がいます。しかし、自国語を大事にする人は、外国語をも大事にしなければなりません。あるドイツ人が、日本で「ロイヤル・マンション」と言う庶民的なアパートに住んでいたことがあり、本国の友人に手紙を書くときに、「Royal」は皇室と何の関係もないとわざわざ説明したと言うことですが、この種の不用意な言葉遣いは、和製ポップスにおける「love」の大安売りに通ずるものがあるように思います。「love」を繰り返すことが悪いのではありません。スタイリスティックスの歌う「Love is the answer.」と言う曲は、「love」という言葉のくり返し回数では、大きく他の曲を引き離していますが、取ってつけたような「love」ではなく、心の底から湧き出した「love」が伝わってきます。やはり、英語の「love」は英語の文脈の中でこそ生きることが判ります。和製ポップスの作詞家、作曲家は、こんなにかっこいい英語を聴いて恥ずかしいと思わないのでしょうか。アンドリュー・ロイド・ウェッバー作曲の「Aspects of Love」は、いきなり「love」で始まりますが、これが、舞台を最後まで見終わってから、「love って何のことだったのかなあ」と考えこませる伏線となっています。ここまで大事に扱われている英語を、単なる音響効果として用いる人々は、言葉を命あるものとして大切にした先祖の歌人達に何と言いわけするのでしょう。

 そもそも、英語がかっこいいと感じている人は、まともに英語を学んだうえでそう感じているのでしょうか。これは、現在の多くの学生の英語力から見て大いに疑問です。かっこいいと感じていながら、どうして真面目に勉強しないのだ、とついつい教師の愚痴が出てしまいます。学生諸君の真面目な反論に対して、愚痴で締めくくることになり、申しわけありませんが、ともかく、このような討論ができることは素晴らしいことです。再反論は大いに歓迎いたします。(学生以外の方にも、大学の雰囲気をくみ取っていただければさいわいです。なお、ここで「大学」と呼んでいるのは、特定の大学ではなく、あちこちの大学を重ね合わせた印象であるとお考えください。) 音楽心理学のトップにもどる

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