音楽心理学への御招待2


中島 祥好

3 言葉と音楽

 「万葉集」の言葉からは、様々なメロディーが伝わってきます。雄大なメロディーが心に残るのは、何と言っても山部赤人の次の歌で、「万葉集」と言えば、まずこの歌を思い浮かべる方も多いのではないでしょうか(表記は斎藤茂吉著「万葉秀歌」(岩波新書)に従います。):


 田児の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ不尽の高嶺に雪は降りける



 たごのうらゆ うちいでてみれば ましろにぞ ふじのたかねに ゆきはふりける

一方では、次のような優しい響きのメロディーもあります(平仮名のみの表記では新仮名使いを用います。):


 暁と夜烏鳴けどこの山上の木末の上はいまだ静けし



 あかときと よがらすなけど このおかの こぬれのうえは いまだしずけし

1200年以上も前の言葉の響きが、そのまま現代人の心に伝わって来るのは、日本人が誇りとしてよいことです。我々は、文化の本質的な部分を損なうことなく守り育てて来たと言うことです。当時の人が耳にした日本語は、現代の日本語とは随分異なっているでしょうが、それでも、どこかに通ずるものがあるのでしょう。そうでなければ、万葉の言葉を文字で読んだだけで、鮮明に音の響きが伝わってくると言うことは起こりえないはずです。このように、我が国の文学は「歌」から始まりました。  古代ギリシア民族も、古代中国民族も、文学の源流として、歌うために作られた作品を残しています。独自の文字表現を持たないアイヌ民族も、言葉に歌のようなメロディーをつけて語り伝えることによって、鮮烈な文学の世界を築いています。ドイツ文学の源流の一つは、1200年頃(鎌倉時代の始まりくらい)に生まれた「ニーベルンゲンの歌」ですが、この作品から更にさかのぼると、英雄ジーフリト(ジークフリート)のことを歌った古い英雄歌謡に行き着くのだそうです。この作品がゲーテを育み、ワーグナーに「ニーベルングの指輪」を書かせたわけですから、ドイツ音楽の歴史に興味がある人には必読の書と言うことになるでしょう。文学と音楽とを渾然一体のものにしたのはワーグナーが初めてではなく、もともとドイツの文学、音楽はそのようなものだったのです。ワーグナーは御先祖様のやりかたを、直接受け継いでいると言えるでしょう。

 このように、実に多くの民族の文学が、読むものではなく、聴くものとして生まれました。言葉を美しく、力強く響かせる努力がなされた結果、美しいメロディーが現れ、伴奏が付くと言うことは、当然の成行きであると思われます。本や、コンピューターの画面で文字を読むことに慣れた現代人は、このことを忘れがちです。

 ちょっと面白い話ですが、いま名前を挙げたワーグナーの代表作の一つである「ニュルンベルクのマイスタージンガー」に登場する、靴屋にして詩人ハンス・ザックスは実在の人物で、当時普及しつつあった印刷術によって、人気作家となりました。一般市民が、活字によって気軽に文学を楽しむことができるような、新しい時代の幕開けには、一人の靴屋さんの抜群の音楽的才能が物を言ったのです。

 マルチメディアが普及しつつある現在、文学は美しい言葉の響きを取り戻すことができるでしょうか。私は、人間の本性が変わらない限り、必ず「マルチメディアのハンス・ザックス」が現れると信じています。

 下手な(ときには上手な)英語の混じった和製ロックや、ドイツ語風に味付けをした日本歌曲くらいは、いざとなれば聴かなければすむことです(もちろん、好きな人は聴けばよいのです。)。ところが、何度歌ってもメロディーと歌詞とが結びつかない「君が代」や、舌足らずの見本のような「日本国憲法」となると、状況は深刻です。このままでは、万葉集の輝かしい伝統を誇る日本語の将来は、バリベチョです(チョベリバだったかな)。

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