音楽心理学への御招待2


中島 祥好

4 言葉と音楽

 我が国独自の芸術的な音楽として伝統を伝えるものに、能楽があります(万葉集のメロディーは、残念ながら音楽としては、保存されていません。音楽の伝統は、伝える努力をしないかぎり完全になくなってしまいます。)。専門家ではありませんので「最も古い」と言う自信はありませんが、能楽が、我が国の古い音楽的伝統を代表する音楽であることは間違いありません。能楽は、ご存じのように歌と舞とを組み合わせた「総合芸術」であり、言葉と音楽との分かちがたい結びつきが見られます。

 ジャズの源流の一つであるアメリカ黒人のブルースは、歌曲として始まりました。生まれたばかりとも言えるロック音楽では、今のところ歌が中心の役割を演じています。多くの民族が文学創作に目覚めたときに、音楽が重要な役割を演じたことは、前回お話しいたしましたが、逆に、民族独自の音楽が生まれるときに、文学、言葉が重要な役割を演ずることも多いようです。

 現代日本の文化は、明治時代に源を発すると言ってよいでしょう。夏目漱石は今でも大変な人気作家で、その作品は、日曜日に寝ころんで読むこともできるくらい親しみやすいものです。近松や西鶴を読むとなると、一部の人を除いては、少し背筋を正さなくてはならないでしょう。漱石の作品には、遠いようでありながら、現代に通ずる生活実感がこもっています。明治時代に、日本人はかなり無理をして西欧近代文化を輸入し、漱石はそのために悩みました。国をあげての努力が効を奏して、日本がイギリスやフランスの植民地にならずにすんだのは幸いでしたが、他国を植民地化すると言う行動まで、西欧から輸入し、お隣りの国々に大変な迷惑をかけてしまいました。

 それに比べればはるかに小さい問題ですが、西洋音楽を輸入することも、政府の方針によって、かなり無理をしてなされました。明治政府は、学校唱歌を手掛かりとして、「日本人に適した洋楽」を育てようとしました。基本的にはこの線に沿って、西欧風のメロディー、ハーモニーと日本語とを結びつけることに、抜群の才を示したのが山田耕筰です。一方では、時代の風潮を受けて、西欧の詩歌が、様々なかたちで翻訳され、模倣されました。詩の形式は日本風に翻案され、我が国に古くからあった、5音、7音(5モーラ、7モーラ)のリズムによりながらも、構成のうえでは我が国の伝統的な詩歌よりも立体的な、新しい日本語の韻文が生まれました。外来語やローマ字さえも大胆に取りこみながら、この新しいリズムを駆使したのが北原白秋です。このように考えてくると、以前に取りあげた「からたちの花」は、明治維新以来続いた舶来文化の結晶とも言えます。(そもそも「舶来」と言う言葉には、「ハイカラ」な詩人や音楽家が、「珈琲」や「葡萄酒」を飲みながら、大理石の「インク壷」にペンを浸しているようなイメージがあります。)

 学校唱歌によって、もともと我が国にはなかった「ドレミファソラシ」の7音がもたらされ、多くの人々の努力によって「からたちの花」にまでこぎつけました。ところが、ちょうどその頃、西洋音楽の本家ヨーロッパでは「ドレミファソラシ」で作る音楽が行きづまり、新趣向が目まぐるしく入り乱れることになります。その影響は、どうも今でも続いているようで、「価値ある現代音楽は並の素人に解らない」と信じ、作曲家を苦行僧の一種であると思っている人は、案外世間に多いのではないかと思います。我が国の音楽家は、「正しい方向」を見つけてくることに追われ、欧米の動向から片時も目を離すことができなくなってしまいました。

 一方、「舶来風」の日本語韻文は、白秋らによって極限にまで発展させられ、そのあと、外面的なリズムにとらわれない「口語自由詩」の模索が始まります。詩歌の世界では、短歌などの伝統が守られていることからも分かるように、外国の影響が圧倒的なものではなく、日本人どうしが様々な趣向で競いあうことになります。ところが、私の知る限り、この頃生まれた独創的な詩歌の数々が、新しいタイプの音楽を生み出すことは遂にありませんでした。詩人の世界は、萩原朔太郎、伊東静雄などを筆頭に、百花繚乱を迎えたにもかかわらずです。音楽家のために少し弁解をしておくと、このあと、日中戦争、太平洋戦争の時代まで、時間が少なすぎたのかもしれません。

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