3. 科学としての心理学の歴史
「心理学は科学ではない」と言ってしまえば、再現性にまつわる批判は全てかわせて終わってしまう。逆に言えば「心理学は科学である(べき)」と社会が思っていた(いる)ことが示されていて、うさんくさい学問と散々言われてきた私にとって、これは少し意外なことだった。では心理学はいつから・どの程度“科学”だったのだろう? その歴史を見ていこう。
3.1. 光を科学する
他者は存在するか?その他者と分かり合えるか?この問題を心理学の言葉にすれば、感覚の質感は他者とシェアできるのか?「私の赤とあなたの赤は同じか?」となる(“クオリア問題”とも呼ばれる)。心理学者はそれを知ろうとした人間だった。
クオリア問題を、光と色の関係から解き明かそうとした科学実験は、アイザック・ニュートン(1642-1727)によるプリズム分光実験にその端緒がある。ニュートンは分光によって見える虹が7色だと報告したが、弟子は8色だと意見し、二人の間に理解し合えない断絶の谷が現れた。これはニュートンの心理実験が、弟子の追試で再現されなかったということもできるから、心理実験は最初から再現性が疑われていたのだ。
オックスフォード大学のジョン・ロック(1632-1704)は、モノには物体の中にある一次性質(固さ・長さ・形・運動・数など)と知覚者の中にのみ存在する二次性質(色・音・匂い)があると考えた。これは感覚知覚がどこまで外界(物理世界)にあるのかについて洞察し、区分した面白い取り組みだったが、アイルランドのジョージ・バークリー(1685-1753)は「一次性質に区分された性質も全て脳の中で生まれていて、二次性質と全く変わらない」と否定した。ロックとバークリーの「知覚について」の意見は分かれ、その結論は相互に再現されなかったと言える。
その少し後、ドイツの文豪 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749-1832)は、色と光に関する実験的業績を『色彩論』にまとめた。その中でゲーテは、物理的に捉えるだけでは色は理解できないから、心(まだ見えない闇)の世界へ議論の足先を伸ばすべきだと書いている。色そして光の理解は、人間の客観的記述を超えている。そう考えたゲーテはさらに、その不足分は、文学の力によって記述することができることを後世の人間に示そうとしていた。
人はわかりあえそうで、わかりあえない。そうだとしても、その断絶の闇へ一歩踏み込む。
“Mehr Licht” (もっと光を)
こうして心理学が始まった。
3.2. 精神物理学のおこり
「自然法則を数式で書けるのだから、心の法則も数式化できるはずだ。」そう考えたドイツの解剖学者エルンスト・ハインリヒ・ウェーバー(1795-1878)は、モノの量と知覚された心理量の対応関係を、数式で記録していった。
はじめに持っていた重りに、どれほどの重りを足せば「重くなった」と気がつくか?を実験で調べ、必要な変化量が初めに持っていた重りの重さに対し、常に一定比率になっていることが発見された。
簡単に言えば、最初に重いモノを持っているほど、比例して足すべき重りも重くなることがわかった。発見自体は当たり前に感じるが、実測データで数式化したのは彼がはじめてだった。数式化したことで、他者による検証が可能になり、データを比較すればそこに再現性があるかどうかがわかった。これによって、心理学に実験と追試の可能性が担保された。
太陽を見続けたせいで著しく視力を低下させ、個性的なメガネ・スタイルになったドイツの グスタフ・テオドール・フェヒナー (1801-1887)は、ウェーバーの数式を発展させ「フェヒナーの法則」を導出した。これは「感覚は刺激の物理量の対数に比例する」というシンプルな法則で、五感を通して一貫性があった。
多くの学者がフェヒナーの法則に「心の量とモノの量の間に数式の橋が架かった」と感じ、その取り組みに“精神物理学(心理物理学)”という名がついた。ここから「科学としての心理学」の歩みが本格化する。
だが心の数式は、一般的な物理法則と異なりそのものピシャリの決定的な式を定めることができなかった。例えば、マッチョには20kgの重りでも軽かったり、味を極めた者にはシジミのわずかな泥の臭みが気になり、椀を床に叩きつけてしまうようなことがあった。さらに気温など環境条件が異なれば再現性が保たれないことも沢山あった。誰にでもいつでも当てはまる心とモノの間の数式は、どうも 出来っこないモノに感じられていた。
それでも“より広く当てはまる”心の数式へ洗練させるという課題に、心理学者は取り組み続けた。そこで複数人の平均値を用いて、人間全体の特性を語るというアプローチが取られ始める。そしてこれが冒頭に書いた“サンプリングバイアス”の問題を生んだ。
人間全体にいつでも当てはまる心の数式を40人の平均値から算出するとして、その40人をどう集めれば良いか?どう集めてもその40人に極端な偏りが起こることは当然、確率の問題でありえる。まして、カーネマンの本に載っていたような面白い実験は、スタンフォード大やらハーバード大で集めた学生が被験者だったから、たぶんそもそも偏差値が高い方(良い悪いの価値観とは無関係でありたい)に振れているし、欧米人、白人というところに集まっていて、例えばイスラム教の下に育った人たちの感性はあまり拾われていない。この時点で物理・化学の実験と違って、そもそも100%の再現性がある世界観じゃないことがわかるだろう。
少しでも再現性を高く担保する手立てを統計学を用いて確立してきた歴史もある。例えば、データのばらつき(分散)を事前に予測して、必要な被験者の数を数学的に割り出しておくなどの手続きだ。
しかしそういった工夫をしても、2015年までのおよそ150年間で仕上がった数式の完成度は40%に届かなかった。
3.3. 心理学の父 ウィリアム・ジェイムズ
ウィリアム・ジェイムズ(1842-1910)は、哲学、文学、生理学など当時の学術界に広く影響を与えた。20代前半にハーバード大学の医学部で生理学を学び、1875年から同大学で「生理学と心理学の関係」という講義を開始している。
彼はその著 『The Principles of Psychology』 (1890年)で、「心は生理学の視点で解説できる」という脳と心の一元論を発表している。
ウィリアムはドイツ留学の際、物理学者ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ(1821-1894)の仕事に感銘を受けている。
ヘルムホルツはエネルギー保存則を打ち立て電磁場理論の基礎を作った。さらに、光の3原色説を生理学的視点で発展させたり、感覚情報から外界の状況を推論する過程は無意識裏に行われるとする感覚・知覚の“無意識的推論“を提起した。この物理学と心理学を同時に語る彼の姿は、ウィリアム・ジェイムズに「心理学を科学として進めることが可能になった」という感覚を与えたといわれている。
ちなみに、私が“ウィリアム”と聞いて思い出すのは、全日本プロレスで活躍した殺人医師 スティーブ・ウィリアムスだから、ウィリアム・ジェイムズの印象はどうしても「口喧嘩の強い人」になってしまう。だがそれはただの思い込みだから、ここに書いても仕方がない。
書くべきは、時代を代表する天才ウィリアム・ジェイムズであっても「心理学はギリな課題」だと思っていたことの方だ。再現性の問題を考える上で、この事実はとても重要だと思う。時代の寵児が挑戦してみたとしても 「出来っこない課題」 それが心理学であるという認識。この認識は今も捨てるべきではないどころか、心理学者はこの認識を社会全体にシェアしておいてもらえるよう、強く働きかけねばならない。これはこの本で主張したい大事なことの一つだ。
3.4. 構成主義
1879年ドイツの生理学者ヴィルヘルム・マクシミリアン・ヴント(1832-1920)は、観察と実験に基づくことで、心理学を哲学から離し純粋な自然科学として成立させることを目指しライプチヒ大学に “心理実験室”を創設した。ウィリアム・ジェイムズによる心理学実験室の立ち上げの方が4年先だが、規模感や歴史的に途切れが無いなどの理由でヴントの方を「世界初」とする心理学者が多い(今後調べるほどに一つの結論にまとまらなくなるだろう。大事なのは志があったことだと思う。)
ヴントはフェヒナーと同じで、外界の刺激の量を変化させ、それによって生じる人間の反応を記録した。現在の我々には刺激と反応という二つの要素があるのは当たり前に感じるが、当時はその割り切った考えが新しかった。彼の要素に分けて考える姿勢は“構成主義”と呼ばれるようになる。
それまでの心理学では、被験者が観察された自分の心を口頭で報告する「内観法」に依拠していたため「客観性に欠けていて科学とは言えない」という批判が常にあった。分けるから「わかる」というのは科学の主たる方法であり、科学的でないという批判に真摯に向き合った結果の、要素還元主義であった。
同時期ロシアの生理学者イワン・パブロフ(1849-1936)は、条件刺激(ベルの音)と無条件刺激(餌)を結び付けることで「ベルの音で唾液をたらす」という“新たな反射(条件反応)”の形成が可能であるという“古典的条件付け”(通称パブロフの犬)を報告していた。どんなに複雑な行動であっても過去に受けた刺激の履歴によって形成されているという可能性(物語)が人に示されていた。
「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ。」ジェームズ・ランゲ説
1884年ごろ、ウィリアム・ジェイムズは刺激に体が反応し、それが意識化されることで感情が生まれるという説を提唱した。同時期、デンマークの心理学者カール・ランゲも同様の説を提唱していたので、彼らの説はジェームズ・ランゲ説と名付けられた。
意識が世界を変える主役ではなく、刺激と反応に随伴して意識があるというジェームズ・ランゲ説は『トムソーヤの冒険』を著したマーク・トウェインによって 『人間機械論』(1906) という文学作品にもなっている。
トウェインは「人間は環境の奴隷で過去の刺激の履歴の帰結として今の行動が一つに縛られている。舞い落ちる落ち葉に自由がないのと同じで、人間の全ての行動もまた自分が欲しているに過ぎない」という物語を紡いだ。
人間が機械であるならば、その行動は精緻に数式で記述できるはずだ。そして、そこには再現可能な真実が書かれるだろう。そんな希望が当時の心理学者たちの日々の実験へのやる気を支えていたのだと思う。
3.5. クレバー・ハンス
1891年ドイツに クレバー・ハンス という算数の簡単な問題や人の会話に、地面を叩いて正しく答える事ができる馬がいた。ハンスはあたかも数学・言語能力を有しているかのように見えた。
しかし1907年、心理学者のオスカー・フングストは、回答を知る人間が周囲に居なければハンスが正答できないことを実験で示し、その能力の正体が「周囲の人の空気を読んで正答する力」であることを明らかにした。例えば、正解が「7」の時、蹄をコツコツゆっくり鳴らせば、7に至るまでに周囲の人間の緊張感が高まる。それを人々の視線や姿勢からハンスは読んでいたようだった。心理学ではこれを「クレバー・ハンス効果」とか「観客効果」と呼び、注意深く避けなければ心理実験の意味が変質してしまったり、再現性が保てないことの教訓として教科書に載っている。
14世紀の神学・哲学者 オッカム は「少数の論理でよい場合は多数の論理を定立してはならない」という提言をしている。(通称、オッカムの剃刀)
「ハンスの内側に人間のような計算・言語能力がある」ことを仮定したせいで皆が勝手にハンスに騙されてしまったが、そもそも「内側に心がある」という仮定は、最初から切り捨てておく方が科学的に正しいのではないか? そんな態度が心理学をより科学的にしていった。
3.6. 行動主義
心理学は目に見えない「心」を学ぼうとしてきたが、“科学として正しい”のは心を内側に定位しないことだった。外界の「刺激」とそれによって生じた「行動」の記録に心理学を閉じれば、被験者の主観・思い込みに左右されない客観的で再現性のある心理実験が行える。アメリカのジョン・B・ワトソン(1878-1958)はそう考え、“行動主義心理学”を推奨した。
行動主義は、客観性を上げた。心すなわち主観を削ぎ落とし、外の世界のモノすなわち客観的事実のみで物語を作るのである。当然再現可能性は上がる。例えば、「ちょっと赤い絵の具持って来て」と頼むのではなく「430nmの波長の絵の具を持って来て」と頼めば、誰でも確実にその物理特性の絵の具を持ってくることができる。実際、現在の社会ではトラブルを避ける目的でウェブセーフカラーとかCIE1931表色系など、標準とされる色見本が存在する。主観を避け、物理的特徴のみで語るのである。
行動主義は動物心理実験の道も開いた。バラス・スキナー(1904-1990)は、箱の中にラットを入れレバーを押すと餌を与えたり、急に電撃を与える実験、通称スキナー箱実験を行なった。電撃を与えれば水を飲む頻度が上がり、さらに与えればラットは動かなくなる。
人間がその様子を見れば「電撃をくらったラットが水を飲むのは、ストレスからだろう」とか「動かなくなるのは無力感からだろう」といった「推察」が自然に起こる。だが行動主義は、そういった人間の主観的推察を捨て、電撃の強さと回数、ラットが水を飲む回数、動かなくなるまでの刺激の量だけを記録していった。再現できる科学的事実はモノの世界にある刺激の量と反応だけだから、その対応関係の記録に徹するのだ。
行動主義によって、心理学の再現性は跳ね上がり、確実な科学的事実が発見され積み上げられていった。
本来、行動主義はそれまでにあった内観法と並列にあるべき研究方針に過ぎないはずだったが、いつしか“内観法から行動主義へ心理学が発展した”という認識ばかりで心理学が語られるようになってしまった。
出来っこないをやらなくちゃ!の世界から、出来っこないはコンプラ違反!の世界観へのシフトが、しれっと起こり、それが今や「やってはいけない」ことになっている。
2021年の学術雑誌『心理学』上で、日本心理学会理事長を勤めた東京大学心理学教授だった佐藤隆夫は、“現在の心理学者の大多数は心とは何かという問いを発してはいないし、心理学は「心とは 何か? 」という問いをかなり前に、少なくともいったん、放棄してしまった。本質的な問いの放棄、心理学の堕落の犯人は行動主義心理学にある”と書いている。 同時に、このあたりから心理学者内の態度も二つに別れていったように思う。それは、「心理学は科学であり私は科学者である。」と主張する人と、「心理学は胡散臭いし、トンデモ系である。私は心理学者である。」と主張する
タイプ
だ。前者は90年代以降、自身のことを脳科学者であると自称したり、脳もやってる心理学者であると名乗っていたと思う。彼らが増えれば、心理学の客観性は向上し再現性も上昇していく。一方で、それは本当に知りたい「心」から遠ざかっていくことでもあった。心理学業界の面白かったところは、後者にも居場所を与え続けてきたことだった。 文学は人間の英知だし、芸術家とか
ストーリーテラーのほうが科学者より賢いと感じる場面は無限にある。
『エヴァンゲリオン』に書いてあること
の方が真実であると感じることもあった。そういう「世界」を科学エビデンス不足として、数学や物理と同列に扱えていない現在の科学の中で、心理学は自らの胡散臭さを積極的に認め引き受ける態度をとることで、科学とそれ以外の人間の学びをつなぐ橋であろうとしてきた。みんなちがつて みんないい。 3.7. 愛を測った男ハーロウ ウィスコンシン大学教授ハリー・ハーロウ(1905-1981)は、サルを使った動物心理実験で、アメリカ心理学界を30年間牽引した。苗字のハーロウは改名したもので、もともとはISRAELという姓であった。幼少期、彼の母は冷たかったと彼自身が書いていて、生涯にわたる精神的落ち込みに悩まされていたという。 彼は生後すぐ親と分離させた子ザルから毛布を取り上げる際、子ザルが鳴き叫ぶ様子から「親を知らない子ザルでも愛を知っている」という直感を持った。 針金で母親を模した人形を二体作り、一方の母人形にだけ毛布の皮膚を与えた。すると子ザルは大半の時間を毛布ありの母人形にしがみついて過ごした。 ミルクの哺乳瓶を毛布なしの母人形に装着しても、子ザルは依然として毛布ありの方にしがみついて過ごし、お腹が空いた時にだけ毛布なしの母からミルクを飲んだ。 子ザルを毛布母人形から強制的に引き離すため、人形を激しく揺らしたり、圧縮空気を噴射したり、急にスパイクを当てても、子ザルは鳴きながらそれにしがみついたという。 ちなみにこの「しがみついた“という”」の情緒こそが心理学の怪しさであり、面白みでもあった。 1958年、ハーロウはサルの実験の成果を著書『The Nature of Love』にまとめ発表した。親子の愛をサルという人間に近い動物で、科学的に数式で記述した。ハーロウと世間はそう思った。しかし実験内容が動物虐待であると世間から批判を集め、地位と名声を失った。 さらに、この実験、ハーロウ自身が実験者である時と、別の人間が実験した場合で、記述される内容に違いがありそうだと思わないだろうか?ハーロウに“先に伝えたいストーリー”があったことは明らかで、この実験も再現性が疑われている。ただ追試の実行が倫理面で公式な科学の場ではもう不可能になっている。 内側の心は科学の範疇を超えるから、モノとしての刺激と反応(行動)をだけを記録する行動主義は、内側を無視し過ぎる態度を心理学者にもたらし、子ザルが泣き叫ぶことを「実験成功!」と喜ぶ自身のかなしみを抑圧し無意識へ追いやってしまっていた。 再現される科学より、もっと大切なものがあったと思う。ハーロウの場合それは、かなしかった過去を鳴くサルに投影せず、無意識から拾い上げて語ることだったはずだ。 人間が怖くて、信じられないからサルに愛を学ぼうとした。心理学者には多かれ少なかれそういう面があると思う。心が知りたい理由は、心がわからないからだから。元来その問題は、文学で扱われてきたことだったけど、そこに科学的データをのせて文学的に論文を書いたのがハーロウたちだったと思う。そのメッセージ性とか、物語性が心理学の良さだと、学部生の時からずっと思っている。物語を絵に載せる漫画家と、物語をデータで語る心理学者。心理学はそういうものだよという前提は、ゲーテ、
フェヒナー、
ウィリアム・ジェイムズの時代からずっとあったのではないか? だが再現性を軽んじ過ぎれば、それは科学と呼べないシロモノになった。両者の中庸を目指すことは、心理学者にとってとても難しい課題だった。