4. 脳科学
4.1. 分離脳実験
1976年、アメリカで認知神経学会を設立した心理学教授マイケル・S・ガザニガは、後に分離脳実験と呼ばれる神経脳科学のデモンストレーションを実施した。
てんかんの治療で脳梁(脳の真ん中にある部位)が切られ、左右脳半球の情報のやりとりが起こらない状態になった脳を「分離脳」と呼ぶのだが、ガザニガはこの分離脳の少年患者P.S.の左視野だけに「ガールフレンド」という文字を瞬間提示した。左視野の情報は右脳半球に送られるが、その情報がこの少年では脳梁を渡って左脳の言語中枢に届けられない。そのためP.S.は「何も見ていない」と答える。
だが 「ガールフレンド」 という文字を意識の上では「見ていない」はずのP.S.に「あなたが好きな人は誰ですか?」と聞くと、彼は頬を染め「LIZ」(リズという女性名、おそらくその当時の恋仲の子)を示した。このハートフル・ストーリーは、脳科学を世界中に流行させるのに一役かった。
2017年の学術誌“Brain”において、ガザニガらの分離脳実験は追試に成功しないと発表されている。
心を科学するとき、言葉による内観報告では客観性がない。だから心をなんらかで数値化する必要があった。そのため行動主義が生まれ、行動や生体反応の記録に重きが置かれていった。中でも脳活動の記録は、そこに新しく素晴らしい指標をもたらした。
今考えれば、それは発汗や心拍数に対して、並列に一つ指標が増えただけだったのかもしれないが「体の内側、すなわち「私」の内側にあるモノとしての脳の活動を数値化すれば、私の「心」がなんでもわかる!」という期待が強く生まれていた。やがてそれは社会的な熱狂となった。
脳はモノで、その活動量は完全に数値化できるから、心はすべからく数値化され、再現性のある心の科学が実現される。多くの人がそう考える「心脳一元論」が推されていった。
抗体の多様性を生み出す遺伝的メカニズムの研究で1987年にノーベル生理学・医学賞を受賞していた分子生物学者の利根川進(1939-)は、90年代に入ると自らの知見を脳と記憶の研究に転用し、「記憶」でさえ脳というモノで説明できるかもしれないという期待感を世界中にもたらした。
1953年にDNAの二重螺旋構造を発見し1962年のノーベル生理学・医学賞を受賞したイギリスの生物学者フランシス・クリック(1916-2004)は、70年代から意識と脳の関係を重点的に調べていた。その著『驚きの仮説』で「意識は脳内の神経細胞の活動の結果である」という心脳一元論を提唱し、アメリカの神経科学者クリストフ・コッホ(1956-)と共に、「意識内容と相関関係を持った脳活動の上がり下がりを片っ端から脳画像診断を中心とした手法で集めていこうぜ!」と呼びかけ、「意識の神経相関(NCC; Neural Correlates of Consciousness)」という合言葉の旗を掲げた。
クリックの前の時代の生理学によって、機能ごとに脳部位は分けられていて、それらに「初期視覚野」とか「運動野」といったラベルが貼られていた。初期視覚野はV1とも呼ばれ、その中にもまたハイパーコラム構造というモノがあり、そこには単純細胞という名の細胞があった。
「色の処理はV4で運動はMT野」,「言葉の処理はブローカ野で発話はウェルニッケ野」,「顔の処理は紡錘状回」などにはじまって、「角回を刺激すると神秘的体験が起こる」とか「ハリウッド俳優ハル・ベリーの顔にだけ反応する脳細胞」のようなNCCの報告が膨大な数なされていった。
脳はモノだ。モノの世界には再現性がある。モノの世界の再現可能なルールを徹底して暴いた未来では、心の世界の再現可能なルールが全て命題として手に入っている。これでもう完璧な心理学が出来た。多くの人がそう信じた。

2001年ごろ、実験のため筑波のfMRIで撮影した著者の脳画像。
4.2. 神経哲学からの指摘
“ものを考えたり、感じたり、知覚したりできる仕掛けの機械があるとする。その機械全体を同じ割合で拡大し、風車小屋の中にでも入るようにその中に入ってみたとする。だがその場合、機械の内部を探って、目に映るものと言えば、部分部分が互いに動かしあっている姿だけで、表象について説明するに足るものは決して発見できない。” ライプニッツ『モナドロジー』1714年
フランスの哲学者ゴットフリート・ライプニッツ(1646-1716)は、「脳」という「モノ」の理解だけでは、心を説明することは出来ないと予言していたが、この問題提起は哲学では、実はプラトンの時代からあった。
1994年の学会で、オーストラリア出身の哲学者デビッド・チャーマーズ(1966-)は、意識の主観的な体験(クオリア)と物理的な脳活動は直接結びつかず、神経科学が進んでもこの問題は解けないかもしれないと提言し、これを「意識のハードプロブレム」という新しい名で呼んだ。
チャーマーズの発言は、当時の科学者たちに“新発見”かのごとき ディープ・インパクト を与えた。それほどまで90年代の脳神経科学の進展は、明るい未来の幻想を人々に見せていた。

図. ライプニッツとチャーマーズ. ふたつの時代、異なる ロン毛 、一つの結論。『心理学的決定論』よりサトウノブコ氏による絵を転載。
「脳科学研究は、一貫性に欠ける結果が集まっている。それら齟齬の大半は脳イメージング研究で行われている手続きに関連があると考えられる。つまり、実験条件で得られた脳活動から統制条件で得られた脳活動を引き算するという手続きである。これは fMRI が 原理的に持つ問題である。」 妹尾. (2009). 日本バーチャルリアリティ学会論文誌.
これは自身の専門テーマ 「ベクション」 に関して、その時までに集まっていた脳科学的知見を解説する論文の結論に書いたことだ。
そこから11年が経った2020年、nature誌上に膨大な数の脳科学者が連名で書いた論文が投稿された。彼らは70のチームに別れ108名分のfMRIの脳画像診断結果のデータセットに対して、9つの“異なる仮説”を検証するという、ある種の「競技」のようなことをした。
するとまず、活性化した脳部位がどこだったか?については、全チームに一貫性がある報告がなされていた。一方で、9つ仮説のうち5つで、あるチームでは仮説が正しいと結論されたのに、別のチームでは仮説は正しくないという結論が出された。つまり脳活動をモノとして捉えた報告には意見の一致があるのに、そこから導かれる人間の主張には一致が無かったということだ。
世界中の有名レストランに、ナスやカボチャの108の食材を提供し、9個のメニューを作ってもらう。お題の一つ「カレー」に対して、タイカレーだったり欧風チーズカレーだったり、和風キーマカレーができあがる。それぞれ全力だから、全て美味しいが、料理としては全然異なっている。たとえるならそんなところだろう。
「菓子」対決において「柿のゼリー」で、至高と究極のメニューは確かに一致したが、それは海原雄山が山岡士郎に対して、炉口の柿の木の話をした直後に「この中に大事なものが隠されている。」「この茶室の中に!?」(栗田ゆう子)「それを見つけ出してそもそも菓子とはなんであったかをじっくりと考えれば自ずとわかるはずだ。ふふふふふ。ふははははは。はーは、ははは。このヒントをものにできるかどうか。」と教えたからに過ぎない。登場人物全員が物語の都合に操られているが、時代の荒波に流されていた読者たちには、そのやりとりは自然に見えた。
現在、脳と心の相関に基づく仮説(ストーリー)を裏付ける(ないしは否定する)統計的結果は、データ処理の算術計算によって、導き出すことが出来る可能性が指摘されている。あえて過激な言い方をすれば、今のデータ解析テクニックを使えば90年代の脳画像診断の結果は、オリジナル論文と逆の結論さえ導き出せる。
それぞれの研究所が、個別の解析技術を有し、かつそれが外に秘匿されているような場合、 査読 (プロによるチェック)を経ていたとしても、本当に再現性があるのか?については実際のところ、もう誰にもわからない。そんな状態が何年間も科学界の中に続いていた可能性が(今も)ある。
さらに一般にあまり知られていない事実がある。活性して“真っ赤になっている部分の脳”は、全体の変化率で見れば1%にも満たないノイズに埋もれるようなわずかな反応なのだ。だから一度fMRIの中に入ると、同じ刺激を何度も繰り返し見せて、反応を重複させることで刺激に特化した部分を強調させる工夫が、脳画像を用いた実験では必要になっていた。赤くなっていない部分は脳の中で沈黙などしておらず、引き算によって「沈黙」を演じさせられていただけだ。そういう数式操作と「赤くする」などの画像操作で、絵を作るのだ。
さらに、fMRIで見ているのは細胞の発火活動そのものではなく、それに伴う血液動態反応に過ぎないという批判もある。「顔を見たときに紡錘状回が反応する」くらいのシンプルなものなら十分な再現性がありえても、込み入った条件、例えば政治的ジョークと下ネタジョークに対して、同人種が言った時と異人種が言った時の脳反応の違いを、わずかな脳の血流増加の変動で説明することが本当にできていただろうか?
脳はモノだから客観的で再現性があるとしても、その結果を人が人に伝える時、心理学におけるストーリー先行と同じで、人間の恣意性や認知バイアスが必ず混じっている。そうやって作った「脳の赤くなっている場所」が、私たちがテレビで見ていた「エビデンス」だったのだ。
80年代から脳科学者はずっと「同時に計測する箇所を増やして、もっと細かく時間と空間を分けて脳を見れば、わかることが増える。」そう言って、未来に期待し続けてきた。だが、今の技術で分けても、分からないことが、未来の技術ならさらに「分かる」というのは、初めから「分かった」当たり前のことだと思う。脳年齢が分かって、何か知らなかったことが分かったか?
結局「心とは何か、なぜそれがあるのか?」は、世界各地の博士や学士が、徹底して研究・議論し尽くしたが、確かな事実は一つもわからなかった、ないしはわかっていた分だけ、分かっていたことが確認されただけだったと、私は思っている。
だが同時に、「それでも分かろうとしつづけること」は尊い。アメリカの哲学者ダニエル・デネット(1942-)は、意識を「神秘的な現象」としてとらえず、ダーウィンの進化論に徹して考えることを推奨している。例えば、自由意志を「伝統的な超自然的概念」(不思議な魂のような何か)ではなく、進化論と神経科学の文脈で、どのようにして生物の行動に現れたかを考えるべきだと主張している。そして、もし「科学の範疇ではわからない」と諦めてしまうくらいなら、クオリアについて考えるのは時間の無駄だから辞めろとも言っている。
4.3. 数学と脳
今もNCCの道は続いている。クリストフ・コッホの名著『意識の探求』を日本語に訳した土谷尚嗣は、『クオリアはどこからくるのか?: 統合情報理論のその先へ 』(2019年)にて「クオリア構造」という新しい作業仮説を提案した。数学における圏論「米田の補題」のロジックを用いれば、クオリアの謎は解けるだろうというのだ。
「私にとっての赤の赤さ」とは別の言葉で言えば「赤の実体」だ。過去、哲学では世界に「実体(実存)」があるのかないのかがずっと議論されてきた。実体(実存)の名は、心理学ではシンプルに「心」と呼ばれてきたもので、プラトンの言葉なら 「イデア」 (物事の真の姿、永遠の本質)である。認知心理学やAIの勃興以降は「ブラックボックスで行われていること」と言ってもいい。
「圏論」によるクオリア理解の方法論を簡単に説明しよう。
ある人にとっての「赤」の公理を一つでも多く列挙する。例えば「赤いもの」の事例を、トマト、ポスト、夕日、恥ずかしい時の顔の色、激しい恋愛の時に想起する色のように可能な限り書き出してみる。同時に脳神経学的な事実や、過去の哲学生物学的事実なども、そこに足す。そしてそれらがどこにどう配置されているのか、その構造を記述する。

上図を見てほしい。Aさん(左)とBさん(右)の、赤にまつわるエトセトラを集めて、赤というイデアが人間の脳、及び認識のフレーム構造の中で、どの場所にどんなふうに配置されているかを調べ尽くして、その構造を書いたものだと思って欲しい。中心には「赤」のイデアが赤丸で示されていて、それぞれの「形」は、何かしらのイデアを示している。例えば、灰色のパックマンは「蟹」、黄色三角は「金太郎の服(服で良いとして欲しい。)」のイデアを示しているとしても良い。
黒い線での繋がりは、脳と認識の中で、イデア間につながりがあることを示している。上図では、AさんとBさんのフレーム構造は似ているが、同じとは言えないというレベルで描いてみた。これは現状の科学の到達点を反映していると思って欲しい。心理学の場合、それは37%程度の類似性を示せていると言っても良いだろう。
要素を集めていけば、構造の記述は精緻になる。同時にAさん、Bさん、CさんDさんとサンプル数をどんどん増やす。やがて大体の「赤」のネットワーク構造が数学的に「誰かと同じ」と言える段階に達する。
もし「赤」の構造が誰かと共通していることがわかった後、それでも自分の赤の赤さ(クオリア)が他者のそれと違うかもしれないと感じ続けるようなら、その時は数学的に「その空虚感こそ赤の実体だ」と結論づけて良い事になるというのだ。
科学の範疇で、諦めずクオリアに迫り続ける態度は尊い。

『僕という心理実験』では、表紙に現代芸術家の
大崎のぶゆき
の作品を使わせてもらった。
この作品では、精緻に描かれた美しい女性の顔が溶けてしまい、再び現れる。さっきの顔と今見ている顔は同じだろうか?そもそもなぜ顔が溶けてしまうのか?いつ溶け始めたのだったか? 溶けて行く事に気がつけたのはいつだったか?
大崎は、脳が抱えるわからなさを視覚という次元にあえて落として表現し続けている。
“大崎は、一番はっきりわかる事は、わからないということの確かさだと述べている。結局それはずっとわからないのかもしれない。だとすれば、わかることを放棄して、わからないことこそが真理であると声を大にして主張すればいいのではないか?しかし、わからないことを主張するためには、その前提として誰よりもわかろうとする努力をせねばならない。” 妹尾 (2011).日本バーチャルリアリティ学会誌.
圏論によるクオリアへのアプローチが「尊いことだ」と言う理由は、誰よりも科学を使ってわかろうとし続けているからだ。数学という科学の力で「その空虚感こそが赤の実体だ」と結論づけて良い場所に、人間を導けるかもしれないからだ。
ただし、人間が「数学」をまだ理解できていない点については留意せねばならない。人は自然数、0、少数、負の数、無理数、複素数などの「数」を見つけてきた。しかし、まだ解明されていない数の概念の方がずっと多い。
例えば素数。正多面体は点、辺、面の数及びそれらの和から1を引けば、全て素数か素数の二乗になる。こんなふうに自然界の大事なことに素数が関わっているのに、その並び方がわからない。
2003年、ロシア系ユダヤ人数学者グリゴリー・ヤコヴレヴィチ・ペレルマンは、素数の謎を解く前段の前段にあった“ポアンカレ予想”を解いたが、その後山に籠り人前に姿を見せなくなった。少年のような笑顔が印象的だったという。人はまだ「数」の深淵を知らないのに…
直感的にわかっていることを言葉に置き換えようと焦っても、言葉そのものが足りないという限界は、過去に何度も味わってきていて、それは心理学の再現性が低い理由の一つでもある。宗教、文学、行動主義、脳神経科学、数学、“伝わる感覚のある表現”に主戦場が変えられて来た。しかし、新しい何かに託しても、そこでも行った先でやがて言葉が足りないという問題に追いついてしまった。
オーストリアの哲学者ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)は、言語は模型でありそれを使って脳内にシミュレーション世界を構築しており、人間は言語が指し示す中身そのものを知らず、できるのは言葉でその場所を示し、他者とそこに集合する 「言語ゲーム」 に過ぎないと主張した。
言語の中身を私たちは知らないから、言葉で指定した場所に集合した後(言語的合意)には、必ず綻びが生じ、「愛」とか「善」についての「言語ゲーム」は解決を見ない。だから「語り得ぬもの」については沈黙せねばならない。ウィトゲンシュタインはそう主張した。
これに対し、心理学者たちは言葉の限界を自覚をした上で、今できないことがこれから先もずっと出来ない訳ではなく、人間の存在価値を信じろと謳って来た。