5. 現状
5.1. ビッグデータによる心理学
橘玲の著書『スピリチュアルズ』では、ビッグデータの活用が心理学、そしてこの社会を既に大きく変えてしまっていることが紹介されている。AmazonやYouTubeをはじめとしてネット上には、膨大な人間の行動データが集められている。通称ビッグデータと呼ばれるそれらは、もはや自然を観察するかのように人をみている。行動と行動の間に、物凄い数の意味の有る関係性(相関)が見つかり続けている。それにより、“オススメ”が的確に提示され、欲しいものばかりが次から次に画面上に現れる。隠したいはずの「嗜好」までもがお勧めされ、自覚よりも先にがん予防の動画がトップページに上がり、検査に行って「助かった。」なんてことが起こり始めた。
AIはFacebook上で行った250程の「いいね」で、人間を20パタンに分類した際にどこに入るのかくらいの判断が、配偶者の判断とほとんど変わらないクオリティでできる。
外側に現れた購買行動とその履歴。「いいね」や 「BAD」のボタン押し。 それらのデータから、その人が次に取る行動が予測できる。
さらにもうすぐ、それらビッグデータに合わせてヘッドマウント型のデバイスによってリアルタイムな瞳孔サイズ・脈拍・発汗などの生体データも手に入るようになる。そうなれば、刺激と行動の間の相関関係は、もっと見つかるだろう。
人の脳のブラックボックスをプロスペクト理論等で埋めても、カーネマンの本で紹介された実験結果の5割は再現できないかもしれないという。だがビッグデータがあれば、内側など無視して、次の「欲しいもの」を直接提示しどんどん売りつけることができる。もはや『売れる広告』も、その法則性の理解は必要が無くなってしまった。
そして、エゴの充足には際限がない。刺激すればモノが売れるという実験結果は、再現され続けてしまう。
内側のブラックボックスはわからないままでも、未来の行動は入れた刺激の履歴から予測可能な世界。それはウェーバー・フェヒナーの時代から、ずっと望まれて来た「行動主義の最果て:科学として恥ずかしくない再現性ある心理学」の実現だった。
人間は環境からの刺激に隷属し、自分で決めたように錯覚していてもその実、全て自動的に行動が決められてしまっているという世界。あらかじめ用意され、決められた世界。『心理学的決定論』(2021年)にたどり着いた後の世界線。
「外に現れ、記述できることのみから語るべきである。」行動主義者たちは言った。

サイトウマコトの”Neural Network_10”(2017)では、フロイトの孫 画家ルシアン・フロイトの顔が描かれている。サイトウは「顔」には、すべてがダイレクトに表れていると言う。もしこの考えに疑問を呈する人がいるとすれば、それは見切る能力[ちから]がないだけだとも言っている。
落合博満も中日投手、山本昌のスクリューボールの球筋は全て外に表れているのだから、打てないのは見切る能力がないだけだと言っていた。
実際、それが“正しい“。だからこそ行動主義は100年以上心理学のメインストリームであり続けた。
GoogleやAmazonにはものすごい量“”行動-反応”データがあり、人間の行動はもはや自然科学の対象のように“観察・記録”が可能になった。その中から今まで知らなかった相関関係を見つければ、仮説を立てて検証しなくても、新しい科学的心理事実が知らしめられるだろう。
ビッグデータの解析によって、心理学に「先行する物語」すなわち胡散臭さは必要なくなっていき、再現性のある自然科学としての心理学が生まれ出たのだ。
でもなんだか寂しい…
どんなにたくさんの 関係の糸を巡らせても、それは心がある理由そのものの説明にはならない。圏論によるクオリア理解やヴィトケンシュタインの言語ゲーム、脳細胞同士のネットワーク解析の詳細化と同じで、 「風が吹いたら桶屋が儲かる」の間の理屈 を埋めて世界の密度を高めても、心がある理由、自分がいる理由はわからない。
それでも 知りたいのだ
その心で 体を動かしたかった

不機嫌な顔
何をおそれているのですか?
何がこわくて
そんなに不機嫌な顔を見せるのですか?
不機嫌でとおすこともできぬくせに。
人と人との関係を複雑な
こんぐらかった糸のようにするものを
ほおり投げてしまいたい
ここにいるのはわたしで
こんなにわたしがこころを開いているのに
心を開かれているということが
恐ろしいのですか?
やどかりの殻から触覚をのばして
わたしにちらりと触れ
わたしがふり向いて
それから向きを変えたとたんに
あなたはからの中にひっこんでしまった
まるでわたしに触れたのは
自分ではなかったとでも言うように
なぜそんなに不機嫌な顔を?
わたしたちはなにも知らない・・・・・・
『比佐子 その生と死(下)』(1978). 滝澤克己編より
滝沢比佐子(1944-1978)作家・歌人。日本の神学・哲学者で九州大学教授の 滝沢克己 を父に持つ。
拝啓,
いかがお過ごしですか?
ご無沙汰してしまっています. お元気であることを祈っています.
すっかり冬ですね. 南国の園に, 今年は雪が積もりました.
思えば, あなたはいつも悲しげでした.
死ぬことも, 孤独も恐れない.
だというのに, 自分を反射するすべての事物に, いつも畏えていた.
5.2. 色即是空 空即是色
本当のことに取り組みたい。ゲーテは『色彩論』の中で、暗闇に一歩踏み出せと書いている。色は入射光と物体の反射特性が掛け算され、それが目の中に入りその人の細胞反応が積み重なって作られた「主観」だ。外の世界に色は無いとさえ言える。
色彩心理・生理学の授業では「網膜上の3種類の錐体細胞とその後の反対色応答という生理学的制約があるため、赤と緑は同時に知覚されえない。赤っぽい緑と緑っぽい赤は言葉の上でしか存在せず、イメージすることも不可能である。」と教えてきた。だが1983年のScience誌上で報告された実験論文は、「赤っぽい緑は知覚されうる」と報告している。そして2001年、JOSAという学術誌に『禁じられた色』という論文がその追試に成功したと報告している。
同じ明るさの緑と黄が円の上下半分ずつに提示されるようにすると、2つの色の境界は溶け合ってぼやけ、黄緑に混色して知覚される。この時、円を赤と緑の補色(反対色)で作り、さらにそれを 「静止網膜像」 と呼ばれる状態で提示する。
視覚心理学では「静止網膜像の消失」という現象が知られている。眼球にでっかいコンタクトレンズをはめ、その上に小さく櫓を組んで映像を提示できるようにする。さらに目の微動をリアルタイムで補正して、完全にブレなく同じ網膜部位に映像を提示し続けると、その映像は数秒で知覚から消える部分が生じる。

図. 目の上に櫓を組み静止網膜像を実現する模式図と、実際にどのように見えなくなるかを示した事例。右下は、静止網膜像を体感するためのデモで、片目で真ん中をしっかり見つめ続けると、エッジが消えて無くなり一様な灰色になる。
人間の脳細胞の反応は一過性のもので、変化が無いものには反応できなくなってしまうために起こるとされていて、それを起こさないために 眼は常に微動 している。それがない 静止網膜像は数秒で意識から消失するが、その直前に赤と緑が混色され「赤っぽい緑」が知覚されるという。赤と青を混ぜると紫になるが、それと同等な赤っぽい緑が見えたと答えた被験者が、7名中5名いた。毎回それが見られたわけではなく、2色の透明な重なりに見える時など知覚はまちまちで安定しなかったと論文に記載してある。


図.
等輝度
による混色と、等輝度かつ静止網膜像による混色の模式図。黒い円が
「赤っぽい緑」
であるがそれは描くことができない。
この実験は再現できるだろうか?
成長しきった(臨界期をこえた)人間の脳は、可塑性を十分に発揮しないことがある。少なくとも、繰り返しその体験をせねば脳は変わらない。これはリハビリテーションに時間がかかることや、第二言語をすぐには覚えられないことからもわかる。特殊極まる装置が必要な実験は、追試そのものが困難で、嘘をついてもバレるリスクが低い。総合的に考えて「禁断の色」の実験は、再現できないのではないかという意見もある。
色々な要因が、この実験の再現性への疑義に対して貢献しうるが、突き詰めると主観は人それぞれだから色について完全に再現性のある結果は、主観の次元でしか得られない。従って、100%再現可能な実験結果は「色」においては未来永劫に得られないと思う。であれば、心理学の再現性はもはやデータの送り手だけでなく、その受け取り手の態度と事前理解に基づいた“共創”の中にしかない。それは「私の赤がたとえあなたの赤と異なっていたとしても構わない。でも、同じだと私は信じたい。」と言うことに似ている。
5.3. 似非科学
世界を以下の4つの事象に分けてみる。
科学的である | 科学的でない | |
真である | 科学的に真 | 似非科学 |
偽である | 科学的に偽 | 似非科学(悪としての) |
問題なのは、科学的ではないが真である事象を似非と呼ぶ習慣があることだ。元来、その事象は、今の科学では説明がつかないから「今後の課題」として保留し、真だと信じる人が世界に居続けることが許容されて良いはずで、「見える」という人の言葉を、否定も肯定もせず、保留したまま居場所を与えるべきだと、私は思う。
だがかつての宗教と同じように、形骸化した科学は、グレーなものを未来に向けて抱えたままでいられる器を無くしてしまった。科学は万能であると思い込み過ぎてしまった。
哲学者ウィトゲンシュタインは「語り得ぬものには沈黙すべきだ」と言っていた。だが彼は晩年「語り続けたことで何かが語れていたことに気がつく日が来る」ことに言及している。「愛」のように語りえぬものであっても、連れ添った夫婦のように二者間で、話し、体感し、時間を乗り越えて来たことでそれについて「語れていた」とふたりは強く実感している「今」にたどり着くことは、ありうると。
これを二者間を超えて、社会全体、世界全体に敷衍させていくことを私たちは目指してきた。
谷川俊太郎は詠っている。
黙っていた方がいいのだ
もし言葉が
言葉を超えたのものに
自らを捧げぬ位なら
常により深い静けさのために
歌おうとせぬ位なら
『もし言葉が』より抜粋
「心理学はアニソン。」そう思っている。
心理学 “Psychology“は「息」「魂」をあらわす「プシュケー」”Psyche”と、「ことば」をあらわす「ロゴス」”Logos”の合成語だ。「ロゴス」には「世界の法則」という意味もあり、日本語の「神」や「心」の含みがある。プシュケーは、ラテン語では「息を吹き込む」という意味の「アニマ」に相当し、パラパラ漫画を「アニメーション」と呼ぶのは、そこに理由がある。
これらの語源に即して考えると、心理学は今の科学(言葉)を 超えたものに捧げられる「アニソン」 となる。
「言葉」では「ロゴス」に足りない。量が違い過ぎて質(次元)も違う。未来でそのギャップが埋まるかどうかは、今のところ科学者にははっきりとはわからない。でも、埋まる!という直感を心理学者は持っていた。
心理学は、言葉が足りない段階で、見切り発車で始まった。フェヒナーが数学と結びつけ、ウィリアム・ジェイムズやヴントが実験室を作り、ワトソン、スキナー、ハーロウが行動主義の形で“科学的”にして見せた。だが本来は焦り屋集団が「できっこない」をやっていたのだ。
そんな中、また戦争があった。
「なぜだ。人間はひどい。人間社会ってなんなんだ。おかしい。美しく面白いことがなぜこんなにもなされない。これではまたかなしみが繰り返される!」当事者たちは、自制して進める態度を失ってストーリーを先行させた。はじめからあるロゴス(仏性)に基づいたそのストーリーは、最終的には再現可能なモノになる。そんな信念がどこかにあっただろう。
やがて使える「言葉」が少しずつ増え、その都度より高い場所から俯瞰して過去を見ることができるようになっていった。
マルクス・ガブリエルが21世紀にリバイバルさせた 「新実在論」 は、その教義の中で「言葉で定義できる存在は、この世界にある。」と提唱している。「赤っぽい緑」という言葉が、色を定義できているとすれば、それは実在することになる。それを物理空間に降ろすことができれば、不可能だと思われてきたモノであっても、脳が人間の成長を待ち構えているのだとすれば、それに応じた可塑性を発揮し 「見る」ことを実現させるかもしれない。
クレバー・ハンスについてもう一度考えたい。ハンスは人間たちが醸す空気を読むことで、数や言葉を「わかっている」ようにふるまった。
ハンスのパフォーマンスを「言葉や数学がわかる」として実験すれば、再現性は無いが「周囲の人間の言葉や数学がわかっているかのように振る舞う力がある」として実験すれば、結果の再現は可能になっただろう。
スタンフォード監獄実験、ミルグラムの電気ショック実験そのものの結果には、再現性が無いのかもしれない。だが「人間は意識的であれ無意識的であれ、実験者や集団、偉い人たちの空気を読んで、それっぽい結果を出すように振る舞う」という俯瞰視点の結果なら、既に彼ら自身で追試に成功していると言える。
ミルグラムも子猿を鳴かせたハーロウも、実験者ではなく、何者かが仕組んだ壮大な実験の被験者に過ぎない。その科学をこえた実験は、「人間は自分たちを超えた何かの力に屈服し戦争を起こす」という追試に、何度も何度も成功してきた。
10001回目にその再現性を崩壊させるために、私たちはこの時代にめぐり合った。
言葉が先にあったなら、失われなかった尊厳がたくさんあった。その場で一体何がおかしいのか?自分の心の中にあることを適切にすぐに言語化できていたなら。相手の嘘を、その許された嘘をその場で明確に言語にできたなら。相手だって本当はそれを知っている。その場で止めてやることができたなら。守れたものがたくさんあった。
後悔が、心を言語化する仕事に心理学者をつき動かし、実験による再現可能なデータを論文の形で、世に示した。
だが、言いたいことが強すぎ、焦り、さらに自分本位になり過ぎれば、それは再現されえないモノになってしまう。
だから、再現性の問題をないがしろにせず考え続け、その上でそれを超えるようなことばで語らねばならない。それは、今は歌に知覚されるかもしれないが、未来では冷静な言葉になって響いているはずだ。