八. 科学論文体による「私」小説『心理学』
8.1. はじめにあったストーリー
「心」を一旦脇におき、それがあったとしても無いかのように進んだ戦後八十年。心の「中空」には、金やモノが埋められて来た。2020年ごろには、モノによる充足はある程度実現され、おいしい物が暖かい家で食べられるようになっていた。インターネットに繋げば面白いコンテンツを大量に見ることもできた。でも自殺者はめっちゃくちゃ沢山いて、心の戦争は続いている。
幸せにならなくては意味がない。カーネマンが行動経済学で伝えたかったことは、「お金の中に心を入れよう」ということだった。人を楽しませるのが好きで、穏やかな時間が好きな、そんな人間の心を、経済の中空に入れたかったんだと思う。
1970年代の日本、中内㓛が率いたダイエーは「価格決定権をメーカーから消費者に」の信念の下躍進し、圧倒的な物量で人の幸福を実現しようとする流通革命を起こしていた。それは従来のメーカーや小売業界と多くの争いを生んだ。
1975年、京都の真々庵で経営の神様の松下幸之助(今のPANASONICにつながる松下電器の創始者)は、中内と一席設け「覇道はやめて、王道を歩むことを考えたらどうか」と諭した。
松下はより多くの存在が共にあるためには、定価販売でメーカーと小売りが適正利潤をあげ続けることが、日本の繁栄のためになると諭した。四角四面の資本主義は、人間を「エゴの充足を欲し、競い合うだけの存在」のようにみなしてきた。その人間観を超えた「新しい人間観」に基づいて、経済を行わねば人を救えない。松下は28歳下の中内にそう教え、育てようとした。その気持ちは、カーネマンがプロスペクト理論で社会に問いたかったことと同じだったと、私は思う。 しかし中内は、これに応じなかった。彼には彼で「モノの充足があってこそ人は救われる。心はそのあとだ。」という信念(経営哲学)があったからだと言われている。
その後、短期的にダイエーは勝った。心の通った商店街を駆逐して街の中心に大きなスーパーがある風景を日本の当たり前にした。長者番付一位になった中内は時代の寵児としてもてはやされたが、本当に神として拝まれていたのは金だった。財に心を奪われれば、そのわずらいのために、生存の苦しみから免れる機会を失ってしまう。バブルの崩壊によって充足されないまま膨れ上がった欲望は、快楽の幻覚を失い、社会には不安が残った。ダイエーは破産し、そこから消えた。
戦前の中内は、ゲーテを愛読する文学青年だった。右に心臓があり負傷してもどうせ治せないからと、危険な前線に配置されてしまう。フィリピン・リンガエン湾で敵の手榴弾を受けた時、神戸の実家で、家族が裸電球の下すき焼きを食べている光景が眼に浮かんだという。
皆が温かい家で穏やかに笑いながらお腹いっぱい美味しいものを食べる。そういう日本にしたかった。
幼少期、私は大叔父にあたる彼の豪邸の離れに住み、子供にはとても咀嚼できない膨大なモノを見てきた。かなしい眼を思い出す。後年、その眼がPTSD(心的外傷後ストレス)の患者の中によく見つかることを知った。
人が怖かった。どんなにそうしたくても、人を信じることができなかった。それを隠すため、恐怖を信念に置き換え、実体のない社会と闘っていた。ボタンを掛け違えただけだった。
これはただの感想だ。
1990年代、受験戦争の現代文には「ポストモダン」という言葉が何度も何度も現れた。資本主義やマルクス主義は、行き着くところまで行ってしまい、大きな物語は終わったのだと教わった。
東京大学の社会学者
見田宗介
は『現代社会の理論』(1996)の中で、この世界では競争による「消費」の拡大を持続させねばならず、需要と供給の乖離を調整するために、世界恐慌と戦争が繰り返されると解説している。世界は有限なモノだから、自然からの簒奪は最終的に地球に住めなくなる未来を人にもたらす。それを回避するため、人間の無限の欲望を情報次元にそらす必要があり、そのための電子情報化はますます進展するだろう。彼はそう予言し、現実はその通りに動いた。
驕れる人も久しからず
ただはるの夜の夢のごとし
たけき者もついには滅びぬ
ひとへに風の前の塵に同じ
8.2. 「私」の境界線
現代美術家の森村泰昌は、森村自身が早逝の画家青木繁の自画像になる体験を通し、輪郭線が中途半端に途切れていることに心がひかれた。森村は、青木繁が自分という存在をモノとしての「私」の内側に確定させることに抵抗感を覚えていたのかもしれない、と感じたという。

森村泰昌『自画像/青春(Aoki)』(2016/2021) 青木繁『自画像』(1903)
人間が引いたモノの「境界」は人間が思うほど「明確」ではない。それどころか本当は実在しないのだと思う。そのことをCGシミュレーションで示した視覚科学の研究がある。
2025年6月、学術誌カレントバイオロジーに “非剛体運動: 風に吹かれて”(Non-rigid motion: Blowing in the wind)という論文がマーカス・ラッペ教授(オプティカルフローの脳内処理について総説本を出しており、自己移動に関する世界的権威)によって発表された。(同時期にNTTコミュニケーション科学基礎研究所の河邉隆寛や、理化学研究所の竹市博臣らによっても、同様の結果が報告されている)。
パソコン画面上にたくさんのドットを流すとき、そのドットの動き方を調整して、サラサラと流れる川や、ピューッと吹く風のように見せることができる。さらに、ドロドロと粘性の高い何かの流れに見せることもできるし、もはや流れではなく個体(剛体)が動いていると感じさせることも可能だ。ラッペらの論文では、それらの変化がごく簡単な画像プログラミング内のパラメタ操作によって実現できることが示されている。
現実世界では、温度という一つのパラメタが下がれば、水は氷になるし、上がれば水蒸気になり雲になる。それと同じようにCGシミュレーションの世界においても、モノの状態(剛体性, 粘性)を変化させることが単純な刺激パラメタの操作で実現できたのだ。
CGで作った風は水にも泥にも簡単に変化させることができた。大言すれば、土、山、風は全く異なる物質に視えていても、簡単なパラメタ操作によって途切れなく変化させることができた。モノは視覚シミュレーションの世界では、水と氷の如くなめらかにつながっていて、「境界」を超えていける。それが可能な理由は「事実、この世界が本当はなめらかにつながった一つ」だからだ。
1973年にスウェーデンの心理学者ヨハンソンは、十数個の光点の動きだけで、人間の動きが知覚されうるというバイオロジカルモーションの報告をしている。関節部分に配置された光点の運動のみからでも性別や行動の意図、自分か他人か、騙そうとしているか?などが十分知覚され、知人であれば誰か特定できるという。これらをCGシミュレーションで0から映像化すれば、人の内側についても外に現れる物理運動要素のパラメタ操作によって造って見せられる。

バイオロジカルモーションの静止画 『ザ・バイオロジカル』
プラトンの「イデア」つまり11次元の「ロゴス」を、xyzの3次元空間と時間からなるモノの世界に降ろせばその再現性は36%程度になってしまう。例えば、直線はこの世界には存在せずあるのはせいぜい歪んだ線分だ。
人は自身の認知能力の範囲で「分かりたい」。だからなめらかにつながっているこの世界に「境界線」を引く。だが昨今では 「カレーは飲み物」 「猫は液体」「鈴木福は芦田愛菜」という人もいる。波は波であると同時に水であり、金で出来た獅子像は獅子像であると同時に金である。そして、水も金もその内部に素粒子や中間子を含んでいる。
密教では、光も音も仏も時空間内を須く行き渡って満たしていて、その遍満したものが「私」や「金剛杵」や「あなた」に見えているに過ぎないと説いている。

左: 両界曼荼羅(西院曼荼羅〈伝真言院曼荼羅〉)胎蔵界
右: Seno, Ito, Sunaga, 2009, Vision Research, Figure 1より「ルビンの盃」
脳、腎臓、肝臓、心臓はそれぞれが個別に境界線を持っていて、その集合体として人体がある。盲腸に至っては切除して捨ててしまっても良いが、それらのどこまでが「私」なのだろう?
細胞一つ一つにも細胞膜という境界線があるし、細胞の中にある ミトコンドリアは、元々別の生命体だったものが、細胞核達との共生を選択したモノだった。
免疫系は自己と非自己を区別し、非自己だけを破壊することで「私」の生存を守る。しかし、白血病など自己の判別が「私」にとって不利益な時もあるし、免疫系は「私」が自分の一部のように愛するモノまでは守らない。
食べたもので「私」は出来る。だから細胞は、四ヶ月程で全て入れ替わってしまう。体の内側に自己同一性を長期間保つモノは一つも無い。モノとしての身体は古くならず、「老い」は「私」を持続させるための「時間錯覚現象」に過ぎない。
「私」はどこにいるのだろう。「心」はどこにあるのだろう?
哲学者デカルトは、脳の松果体を「私」の座だと考えたが、東洋の鍼灸医学の書を見ると「心」という字は、心臓以外にも色々な部位に与えられていて、これは体のあちこちに心が表れているという思想を表している。(神の文字を心と同義だと解釈すれば、さらに沢山の部位があることになる。)
2009年に理化学研究所が報告した研究論文では、2週間の道具使用の訓練によって、サルの身体制御に関する大脳皮質の部位に膨張が起こることが報告されている。人間でもお手玉を繰り返すだけで、対応する脳の部位に膨張が起こるし、指を巧みに動かすピアニスト特有の脳の発達があることも知られている。これらの場合、脳を変えた道具は自分だったのか、それとも外部の環境なのか。それとも途中から道具も「自分」になったのか。
特別な道具でなくても、衣服( ファッション )は「私」の一部か。少なくとも「私らしさ」の一部だと思っている人は多いはずだ。裸の身についた泥や垢は?伸びていく髪や爪は?
J.J.ギブソンは環境と行為は不可分で、相互作用を繰り返しながら「私」は生きていると主張する。福岡大学の哲学者鈴木隆美教授は、ギブソンの思想を和辻哲郎の「風土」になぞらえている。和辻の「風土」とは、土地の気候、地理的特徴、それに適応した人間、文化、慣習、制度、そして祭りの全体を指す言葉である。人間と土地が互いに影響し合い「風土」と「私」は分離不可能な状態で、そこに見出される。
YAWARAちゃんはもう柔道を辞めていて、猪熊柔でも、田村でも谷でもない。いや谷ではある。だけれども私たちが谷亮子さんを「YAWARA」ちゃん と呼び、そう認識する以上、本人がそれを辞めたいと思っていたとしても、環境が全体でYAWARAちゃんを強制的に持続させる。それが日本という風土だ。
写真家の森山大道は、写真とは一枚の美しい芸術作品を作るためのものではなく、生とのかかわりのなかに、真のリアリティを見つけるための手段としてあると主張し、写真機を通すことは主観性と客観性の双方を、そこに内包させることだと言っている。

Untitled 『新宿』 森山大道
森山がうつした光の流動を感受すると、相対的移動錯覚が鑑賞者の中に引き起こされる。知覚と行為そして環境は相互作用しながらたえず変化し、どこかに「私」という境界を与える何かがあることに気づかせる。その境界をすり抜ける「眼(カメラ)」は鏡で、鏡が反転させるのは、左右ではなく「私」と「世界」なのだ。(『鏡の中のミステリー』, Q.E.D. )
エントロピーが増え続ける外の「世界」と、より多くの情報をまとめるために進化し続ける「私」。一方を陰とすれば他方は陽となり、相対的に他方が生まれるが、分けなければ、元の一つになって腑に落ちる。このことを京都大学の哲学者 西田幾多郎は
「絶対矛盾的自己同一」という言葉にしている。

Hand with Reflecting Sphere, M.C. Escher (1935)
8.3. 外れないVRゴーグル
私たちはあるべき実在感を探して生きている。それは臨場感や感動だったり、ドラマという言葉で表現される。誰も「今ここ」に満足しておらず、監獄からの解脱を目指そうとしてもがいている。解脱することで、リアルに達するという感覚がどこかにある。
そんな人たちが仮想現実について調べて行った。最も古典的な仮想空間の研究は、心理学では 逆さメガネ という上下や左右に180度視野を反転させるグッズを用いて行われてきた。
逆さメガネを着用したまま何日も過ごすと、初めは手が左右逆に出ていたのにやがて左右反転した世界に慣れて、間違わずに動けるようになる。
面白いのはこのメガネを外した直後には、残効が生じメガネも何もつけていないのに“現実空間”が左右逆転しているように感じられる点だ。メガネを外した時に、メガネをはじめてつけた時と似たような、世界の反転を知覚するのだ。つまりメガネそのものが逆転知覚を作っているわけではなく、脳そのものが逆転を感じさせているということで、順応後の残効は脳の中にもう一つ逆転メガネがあったことを暗示している。
8.4. カラッとして空っぽ
2000年の暮れ、指導教官の佐藤隆夫教授は「部屋あげるからずっと実験していていいよ。」と言って居場所をくれた。

当時、実験プログラムを描いていた“UNIX”というパソコンでは、今のWindowsやMacのようなヒューマンインターフェースが発達しておらず、マウスカーソルを動かすような直感的でわかりやすい操作が少なかった。

上記は、昔よくあった”UNIX”のディレクトリ階層構造の説明図だ。(ディレクトリとは、今でいうフォルダだと思ってもらって構わない。)階層は入れ子構造になっているだけで、どこでも同じで、あくまでただの「場所」に過ぎない。パソコンの中身は、自然界に多くみられる同じ形(元型)が自己再起する 「フラクタル構造」 を取っている。
今のパソコンでは、ルートディレクトリ「/」から末端ディレクトリ「psycho」へ移動する場合、フォルダクリックを繰り返すことになるが、UNIXではキーボードによるコマンド入力 “cd +ディレクトリ名” によって階層を移動していた。例えば “cd red” と打てばどこに居てもredというディレクトリへ移動できた。
これと同じように、現実世界において私たちは、「赤」ということばによって「赤」の階層(ディレクトリ/フォルダ)に集合することが出来る。だがそのフォルダの中に「赤」を解説できるファイルは存在せず、中身は空っぽなのだ。「赤」のフォルダに限らない。「私」も「あなた」も「愛」も「真」も、一切の中身は、カラッとして空っぽなのだ。
中国南北朝時代(520年頃)インドから来た達磨大師は、仏教保護に熱心だった梁の武帝に謁見し、仏法の最も大切な真理を「廓然無聖(カラッとして空っぽ)」だと言っている。
クオリアは幻想かもしれないというデネットの意見、「言語ゲーム」や「圏論によるクオリア理解」はある種正しく、私たちにできるのはフォルダの流転、相対的位置変化(専門用語ではベクション)だけだ。
一切空。どこに行っても空っぽ。だから誰とも「赤の赤さ」をシェアできなくて、さびしい。だから薬を飲んで過去の記憶を眠らせ、必死に守ってもらって生きた。
8.5.ドグラ・マグラ

2008年、聖橋から100万画素のデジカメでお茶の水の神田川を撮影していた私は、脳で行う心理学に限界を感じていた。「画像」は2次元のxy空間上にある画素の明るさによって定義されている。私たちが住む11次元世界にも、画素のような統一規格があるとして、それもまた光で定義されている。私たちの片目あたりの視神経の数は、およそ100万本。1000 x 1000の解像度で“眼に視える世界”は、どう考えても、私たちが能動的に与したイマジネーションである。
当時、VR心理学研究委員会という学会の代表で、九州大学の芸術工学研究院の画像設計学科の伊藤裕之准教授から学ぼうと決めた私は、その年の冬に九州大学へ異動した。VR心理学研究委員会は、伊藤教授の上司であった竹田仰教授が立ち上げた学会であったが、彼は今、夢野久作と杉山三代研究会の代表を務めている。九州は夢野久作によって1935年に発表された怪奇小説 『ドグラ・マグラ』 の舞台だった。
「脳髄は一種の電話交換局に過ぎない。」
この一節に強い既視感(déjà vu)があった。
刹那。黒猫が横切り、世界は暗転。
胎児よ 胎児よ 何故躍る
母親の心がわかっておそろしいのか
「……ここは……九州大学……」
「……さよう……ここは九州大学、大橋キャンパス精神病科の8号館で御座います。どうも寝やすみのところをお妨げ致しまして恐縮に堪えませぬが、かように突然にお伺い致しました理由と申しますのは他事でも御座いませぬ。如何で御座いましょうか……もはや御自分のお名前を思い出されましたでしょうか……御自分の過去に関する御記憶を、残らず御回復になりましたでしょうか……」
「……ボ……僕が……ほかの患者と違う……」
「……さようで……あなたは只今申しました伊藤先生が、この精神病科教室で創設されました『狂人の解放治療』と名付くる劃時代的な精神病治療に関する実験の中でも、最貴重な研究材料として、御一身を提供された御方で御座いますから……」
科学知識の万能時代じゃ。そうしたサナカに精神病だけ。昔のまんまの暗黒時代で。診察治療が出来ないなんぞと。理智と常識、科学の知識を。
世界各地の博士や学士が。寄ってたかって研究し出した。科学知識の光りに照され。底を見透す診察治療や。道理つくした介抱手当ての。数をつくしてもらっているかと。有難がるのは素人ばかりじゃ……
チャカポコチャカポコ……
古今東西あらゆる学者が。人の脳髄調べた書物を。読んで御覧になったらわかるよ。これは物事聞いたり見たり。判断して行くところで御座るの。知識、経験、昔の記憶を。保存しておく倉庫で御座るの。何が何して何じゃら彼かじゃら。浪花節なら前置きばっかり。エライ議論が出ておりますけれど。確かな事実は一つもわからん……
チャカポコチャカポコチャカポコチャカポコ……
「……どうだい。この疑問が君自身で解決出来そうかい。出来なければ仕方がない。君はいつまでも、どこの誰やらわからない、風来坊でいる迄の事さ」
「どうぞ……誰ですか……僕は……」
「まあ待て……それを解らせる前に一ツ約束しておかなくちゃならん事がある」
「……ど……どんな約束でも守ります」
「……キット守るか……」
「キット守ります……どんな約束です……」
「ドンドコドンのドン詰まで突込んだ、ステキな話を進めるつもりだが、その話の内容が、どんなに怖ろしい……又は……あり得べからざる事であろうとも我慢してしまいまで聞くか?」
ジリン ジリン
けたたましい電話の音で
私は、ふと我に返った。
ちょっとぼんやりしていたようだった。
ウーロンゴンの海が聴こえる。
「XXXX、ぼんやりしてるみたいね。あなたは今週頑張りすぎたのよ、ベッドで休んできてもいいのよ」誰かがそう語りかけていた。
ジリン ジリン
頭蓋の内の、脳がシビれる
「私は誰?」
「私」は、 11次元の世を、4次元の心理世界に圧縮するという 「不良設定問題」 を解くために用いられる 「制約条件」 だ。
同一な「私」が、過去を参照し、それを因とし、未来を果として理解する。それは「今」というスライドを一枚ずつ閲覧(量子力学的には「観察」)するしかないという「束縛」。
仏教では、それぞれのスライドは静止網膜像と同じで、毎秒消えていて繋がってなどいないと説いている。だが人間の“業”(シェイクスピアなら狂言回し)が、網膜像のスライドで仮現運動をつくり、「私」の人生という“アニメ”を持続させてしまう。

漫画家たつひこによる作品が公開中。 ( Emotional Link にて。) にて.
博士課程の時、東京大学Intelligent Modelling Laboratoryでは数億円かけて2.5m四方の5面スクリーンに映像を展示することでVR世界に没入させていた。今、ヘッドマウントディスプレイ(HMD)の高精細化によって、外にそんなに大きなものを作らない方がリアルな映像を提示できる世界になった。さらに軽量化されたHMDは、つけていることを忘れさせもする。どんどん軽くなって、果てには攻殻機動隊が描くように体や脳の中にそれを埋め込むようになるかもしれない。何れにせよ最終的に残るのは自分の身体という「モノ」だ。
その身体からも解脱する方法がある。坐禅だ。他にも、側頭-頭頂接合部を電気刺激することで、健康な被験者に一時的な体外離脱感覚を引き起こすこともできる。
アーネスト・シャクルトンは南極探検中、 常にもう一人誰かいると感じていたというし、芥川龍之介は最期の作品 『歯車』 で、自身のドッペルゲンガー体験を語っている。太古からシャーマンは神懸かるために鏡を使うが、2010年のカプートによる論文では鏡を長時間凝視するだけで、意識状態が変性することが報告されている(カプート効果と呼ばれている)。

ルイス・キャロル『鏡の中のアリス』挿絵より
「君の名は。」
「私はインド人の下では仏陀であったし、ギリシアではディオニュソスでした、――アレクサンダーとシーザーは私の化身であり、同じものではシェイクスピアの作者ベーコン卿に。しまいには私はさらにヴォルテールとナポレオンでしたし、もしかしたらワーグナーでも。ヤマトにおいては相応和尚と申しました。」
これは、精神崩壊に向かっていた1889年の、哲学者ニーチェの手紙からの引用だ。彼は、この感覚に「永劫回帰」という名を与えている。
「私」から解脱してしまえば、過去世のことや他者の分まで自分の中に流しこむことができるが、その状態を社会は統合失調症とかカミダーリとか「月の子」という名前で呼ぶ。そしてその状態の者が、今どこで、自分が誰かを特定のモノや場所(いわゆる自分)に帰属できず、それを俯瞰で見る意識(二次見当識)もない場合、社会はそのままのあり方で、その人物との共生を認めにくい。
“このケースは大学人で、 非常に偏った知性の持ち主です。 彼の無意識は混乱し、賦活されており、自分に都合の悪い人にその無意識を投影し、すべての人間が自分に反対していると思い込み、恐ろしいほどの孤独に悩んでいました。 酒を飲んでその苦しみを忘れようとしましたが、 神経がますます過敏になり、そんな気分のうちに他人と喧嘩を始めました。”
上記は、ユングの著書『タヴィストック・レクチャーズ』、『心理学と宗教』、『心理学と錬金術』に登場する、量子物理学者ヴォルフガング・パウリ(1900-1958)とおぼしき患者についての記述である。
パウリはアインシュタインが自分の後継者に指名したという逸話が残るほど、有能な科学者だった。しかし、ひどくメンタルを病んでいて、ユングのカウンセリング治療を1934年まで数年にわたって受けていた。
1951年、ユングとパウリは、「私」が「私」の境界線から解脱し、周囲の人間や環境(モノ)と時空間的に同化していく心的現象に“シンクロニシティ”という名を付け、学会で発表した。

パウリは夢で見たことをユングに手紙で報告している。フロイトの無意識から着想を得て、中性子のベータ崩壊時にニュートリノと未来で名付けられる未知の粒子が放出されているイメージを夢で見たのだと。それはまるで予言のような見通しで、直後の1935年に湯川秀樹は未知の量子として「中間子」を導き出している。
パウリ、湯川らは易経に造詣が深く、天の動き方について学びを得ていた。だからそれを、ミクロの世界(量子)に探し、見つけた。その天の動き方を、ユングはマクロの世界、人間の人生というスケールへ展開した。
1987年、岐阜の地下一千メートルにおいて、カミオカンデ が超新星ニュートリノの検出に成功した。それはパウリの預言の物理的証明であった。そして、その双子、 “ユングの預言” の心理的証明「心のニュートリノの検出」は、いまここで、あなたの中に起こっている。
8.6. 果てしない物語
”これはある男が死ぬ前の最後の2秒間を描いた物語だ。一秒目は追憶に、二秒目はある存在の状態から別の状態へと移るときに必要な心の操作にあてられる。”
ノーテボーム 『これから話す物語』

マリオは大体、画面中央の「今ここ」に居て、最初から用意された道が流され続ける。マリオが穴に落ちて死んで、別の新しいマリオに入れ替わっても、8-3のハンマーブロスに苦戦した記憶は、プレイヤーの手が覚える。そうやって、次のマリオはより長く生きられるように進化する。同じように、ロンダルキアの洞窟の道順を覚えるのはプレーヤーの方であり、何度も全滅するアバターは真ん中で足踏みしながら、流れる背景によって自己移動感覚を知覚しているだけだ。
Die Chronik der Erkorenen von Vection.
天動説と地動説。自由意志と決定論。
「ベクションとは何だ!?」
ナポレオンやワグナーは全然ちがう外見だが、どれもマリオであり、ロトの子孫たちであり、UNIXの階層構造で言えばフォルダに過ぎない。ただの閲覧用の窓だから、中身はカラッとして空っぽだ。
だがここにゲシュタルト心理学の「心を全体でとらえる」を当てはめてみるとどうか?「赤」のクオリアは「赤」に閉じず、「私」のクオリアも「私」に閉じない。あなたと共にありたいという想い、クオリアやイデアに実存があるという信念。それらは全体で一つになる。それがこの世界のたった一つの「実体」。
イスラム教の聖典『コーラン』の末世説には、人間はアッラーの姿を見ることはできないが、その存在を感じることはできると記されている。「赤」の実体は「全」であり、「妹尾武治」の実体もまた「全」である。あなたは神(生命の樹)そのもので、私もまた愛そのものなのだ。
だからどんな人間であっても、自分を愛するために自分自身で、自分の物語を語れば、それは自ずから皆の物語に昇華する。
ギルガメシュ叙事詩、オイディプス王の悲劇の時代から、絶えず悩み苦しんできた人間の物語、一度しかない人生で、心の井戸(イド)を降りて行った先に見つかる物語、離れた場所、異なる時間の人間が、イドの中の同じ場所で受け取る「再現されるべき1つのバトン」、自由を勝ち取ろうとする人間の物語。
心理学者がずっとやりたかったのは「私たちは一人ではない、世界は牢獄ではない」という直感の物語を人に伝え、人を励ますことだった。
それはずっと昔から『法華経』『般若心経』『入菩提行論』『古事記』『正法眼蔵』『バガボンド』『聖書』『コーラン』『死海文書』『火の鳥』『ナウシカ』『EVANGELION』『エイリアンインタビュー』『雑誌ムー』などに書いてあった。
The answer is blowing’ in the wind
Bob Dylan
東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ
菅原道真
My Name is Tong Poo.
I’m blowing so far away…
Let's dance.
Let's dance with me...
Yellow Magic Orchestra
「私は、ベクション 。」