木村浩子「コスタリカ訪問記」
沖縄にある「NPO共に生きるネットワークまなびやー」の木村浩子理事長(障碍をもつ画家)がコスタリカを訪問した際の手記です。コスタリカは永世中立国で、軍事費を持たない分、教育や社会保障が充実している国です。(2014年3月)
*ページ制作担当:NPO理事の知足←青年海外協力隊・美術隊員としてコスタリカに赴任していた経験があり。訪問記を拝読し、コスタリカの人々の愛情深さを懐かしく思い出しました。

 私は障害級5級の重度障害当事者で、沖縄県の離島に住んでいる。軍備を持たない国と聞かされていたコスタリカを感じ、この目で確かめたかった。しかしそのためにはかなりのハードな条件と協力者が必要とされ、約3年間の計画が必要だった。この旅は年齢的にいってかなりハードを要することを覚悟してのことだった。

 しかし憲法が変えられようとしている今、私はこの旅を通して何かを考え伝えなければと思う。終戦直前、母と12才の私は山口県に住んでいた。ある日、母の元に日本兵がきて「まもなく敵が来る。片輪の子は足手まといになるから親の手で殺せ。」と青酸カリを持って来たという。母は私を背負い、近くの山奥に逃げ3ヶ月ほど身を隠していたという。そのことは、母の死後に彼女が残してくれた日記で知ったのだ。戦争とは私にとって、絶対にあるべきものではないと思う。福祉や教育などすべてが成り立たなくなり、すべてが破壊でしかない。戦後数十年間はとりあえず平和な日本であったと思う。それは明らかに日本国憲法9条が存在していたからだと思う。平和があってこそ福祉や教育などすべてが成り立ち考えられることである。

 今回訪れたコスタリカにあるUniversity for Peace(スペイン語でUniversidad para la Paz )の大学を訪問し感じたことは、わたしたちにとって何が大切かを問われている気がした。この大学は豊かな自然の中に存在する。マハトマ・ガンディーのモニュメントをはじめキャンパスの中央の小高い所には、その時期時期在のコスタリカ大統領の功績と言葉とがモニュメントとして建てられていた。この中の、言葉と写真は別紙に記すことにする。また短歌もその時々で詠んだものを添えている。また広いキャンパスにはこの大学の方針に同意する各国の国旗が力強くはためいていた。残念なことにアメリカと日本の国旗はそこには見られなかった。

 この大学の職員の方や在学中の日本人学生たちに会い、大学の説明を聞きながら今行われている日本の状況や沖縄のことを思っていた。そして私はいつの日かこのキャンパスにも日本の国旗が掲げられることを強く望む。日本の憲法に掲げられていることとこの大学の基本的理念が同じであることに理解できた。誇るべき憲法がなぜ変えられなければならないか?私の友人が言っていることだが、銃を持てば打ちたくなり、原発を作れば使いたくなる。まったくそのとおりだと思う。

 今回コスタリカ先民族の子供たちが通っている小学校も訪問した。何キロもある山道を毎日歩いて通うと言う、その子達の美しい瞳と逞しく小さな足に感動を覚えた。その子達が歓迎のために演奏してくれた楽器は、皮や木で作った楽器であった。またある木の実を水でぬらし、手でこすれば泡がでて石鹸の代わりをすると子どもたちはにこにこしながら見せてくれた。彼らが作った竹かごも見事な作品だった。

 その学校に行く途中の山々には、電力のための風車が数え切れなく並んで回っていた。その風景をみて、到着した空港で感じた人々のおおらかさと優しさが重なった。

 自然と人間は一体であるべきだと思う。

 この国で、部落で行われていることは平和への道そのものだと思う。小さな学校だったけれど、わたしには大きな存在だと感じている。大きな野心を保持するために人間の命まで危ぶますことに協力する日本であってはならない。私は国連の意志の元で作られた平和のための大学を訪問したなかで、

 自分の国のことについて話す時、米軍基地も原発もあると言っているとき、思わず涙がでてうつむいてしまった。今正さなければ大変な事態になるような気がする。

原住の民の子たちの通学道その険しさよ、逞しさよ

子ら皆の瞳輝き逞しく学びていたり貧しさの中

水をつけ 木の実こすりて差し出せり子らは石鹸の代わりにと

皮や木の自然素材の楽器もて子らは奏でる歓迎の曲

サンホセを見下ろす峰に限り無く風車立ちおり原発は非とし

原発など無用の国の存在を白い風車は峰々に見す

原発も米軍基地も保有すと、うつむき語る日本人我