気づきセミナー「女性研究者セミナーI」(「親と子」をテーマに)

感性と知性でみつめる 「彫刻との対話」

知足美加子 彫刻家、九州大学大学院芸術工学研究院 芸術情報部門芸術文化論講座助教

日時:平成18年12月2日(土)15:30〜17:30

会場:九州大学及びユーザーサイエンス機構大橋サテライトLUNETTE2階

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 私と彫刻との関わりについて、「馬」「土」「先住民・環境問題」「出産・育児」という4つの切り口からお話します。

<馬>

「ばんば」(1)は学部時代の卒業研究作品です。モチーフは筋骨逞しい北海道の輓馬(ばんば)です。大学3年生の時にデッサンのために10万円だけ持ってフェリーに乗りました。スケッチブックを持っていたのが珍しかったのかトラックの人に見込まれ、その方がばんえい競馬の練習場まで送ってくださいました。練習場で描いているうちに「そんなところで描かないで、うちの牧場で描け」と牧場主が声をかけてくれました。お世話になった人々の顔の絵をお礼に代えました。こうしてお金がなくなるまで牧場でデッサンを続けました。

今「ばんば」は、芸術と農業の協働プロジェクトの一環で、九州大学実験農場に設置されています。皆さんこれを見て「元気が出る」とか、「力強い」という印象を持ってくださいます。しかし、私はこの作品を制作した後スランプに陥っていました。幼少時代の私は小児ぜんそく持ちでした。病床でよく馬の絵を描いていたことから、いつしか馬というモチーフは私自身のようになっていました。そのイメージが作品で完結してしまうと、この様式で次の作品を作るのが怖くなりました。前よりも悪くなることが分かっていたからです。次は、作れなくなってからの話をしたいと思います。

<土> 

「土」という概念が大きく変わった時期があるのです。現在、私は“知足(ともたり)”という戸籍上の名前を使っていますけど、明治以前は“知足院(ちそくいん)”という名字だったのです。先祖は、英彦山山伏でした。口伝で受け継がれてきた伝統が明治の廃仏棄釈で途絶え、名字も変えられました。卒業後の無職かつスランプの時期に、半年ほど山で祖母と一緒に暮らしました。私の先祖が経文と共に土葬された場を訪れた際、見慣れたお墓と横にある赤松を眺めてハッとしました。先祖が土に還り、その赤松が吸い、それを空気として今の私が吸っているという生々しい感覚を得たのです。先祖という概念は、血の繋がりではなく、人々の苦難の痕跡であり、その地を愛した心の繋がりであると感じました。私が持ってきた種が、祖母の畑でほんとうにニンジンになったときの感動。自分も命の循環の中に組み込まれていたということ頭でなく身体で感じました。

英彦山の生活を通して、「土」というものは人間の「生と死」が凝縮されたパワーの源なのだと実感したのです。しかし物言わぬ土・山から感じ取った何かを、形として作ろうというところまでは至りませんでした。

 

<先住民・環境問題>

その後非常勤講師を経て、青年海外協力隊として中米のコスタリカへ美術教師として派遣されました。永世中立国のコスタリカは、軍備を持たず教育や医療保障が充実していました。私が教えていた美術学校は年齢制限なしで授業料も必要ありません。コスタリカは大学まで授業料は無料なのです。夜間のクラスには社会人が多く通っていました。私は小学校でも廃物利用のおもちゃづくりを教えました。子どもたちは、とても素直にこちらの投げかけにのってくれます。彼らは、自分が何をしたいか・他人に今何ができるかをよくわかっていて、そのシンプルさが他者との関係を楽にしていました。精神的には非常に豊かな国です。日本でも教師経験はありましたが、日本の子どもたちは他者からみられる自己像に対して過敏になる傾向があります。本心に反して、冷めたふりをするのです。自己像を守ろうという傾向が進むと、馬鹿にされないために先に相手を攻撃しておこうといういじめに発展してしまうようです。

 

 話は戻りますが、中米ではたくさんの先住民の人々に触れることで、私の中で何かが大きく動きました。特に先住民女性たちの逞しく豊かな風貌に圧倒されました。そのことは私の作る女性像にも反映されているように思います。

赴任当時は、東洋人で女性の私が「彫刻」を作りますと言っても、全く認めてもらえませんでした。藁にすがる気持ちで、コーヒーの木の根で民芸品を作るロゴリゴ・ロドリゲスさんのアトリエを訪問しました。「是非作らせてくれ、場所代は必ず払うから」とお願いしたら、非常に敬虔なクリスチャンの方で、「あなたはこの国のために一生懸命働いているのに、お金なんかもらえません。あなたが何か作り出そうとしているのならば、あなたには神のキャパシティーがある」とおっしゃってくださいました。それでこの作品(2)を作ったわけです。モチーフはカラブランカというサルです。その作品を校長にみせると「あぁ、これが彫刻ですか。どうぞ、授業を持ってください」ということになり、美術学校の中でやっと授業を持つことができました。研究者同志でないかぎり、日本での学歴等を話しても海外ではあまり通じません。彼らの目の前で、私の手によって何ができるか、私が今どんな表情をしているかが私自身なのです。コスタリカでの日々は「私が本当につかんでいるものは何なのか」と問い続けました。

帰国してから大学院に進学しましたが、中米での先住民問題は私の心の中に残りました。就職してアイヌ民族の青年に会うことがありました。彼から北海道の二風谷ダムが施工されてしまったことを聞き、驚きました。1997年の二風谷ダム裁判では、「アイヌ民族の先住性」が認められ「ダムは違憲である」との判決を得ていたはずでした。施工されてしまったダムを観にいった私は呆然とし、ふと彫刻を作ろうと決心しました。完了したものに対して為す術がないという虚無感。それは私が先祖を思う時に似た感情でした。彫刻は、とても静かに「記憶の忘却」に対して抗することができると考えました。

 そうして制作をしたこの作品(3)は黒大理石でできています。地の底を流れる水面から上を見上げているようなイメージです。1999年にダム裁判の原告の貝澤耕一氏の土地に設置することになりました。様々な人々にその設置作業を手伝ってもらい、そのプロセス自体を「二風谷プロジェクト」と名付けました。この時インターネットはそれほど普及していませんでしたが、来られない人のために毎日作業内容をHPで発信しました。参加者は納屋に宿泊して作業しました。実際に関わってみてわかることがたくさんありました。二風谷住民約500人の中で、ダムに反対できたのは2人。あとの住民たちは賛成せざるをえない状況でした。それは歴史的・構造的な貧困が原因でした。そこで日本人の私が正義感をふりかざせばその土地の人たちは複雑な思いがするでしょう。しかし原告のお二人は村八分にされながら、それでもアイヌ民族の先住性を認めてもらうために闘ったのです。双方の痛みを、関わって行く内にやっと感じるようになりました。北海道で出会った悲しみや苦しみを私の中で充分に消化できない頃、ふと馬というモチーフが浮かびました。それでも生きていこうとする人々への思いを彫刻に込めなくてはならない、と。こうしてずっと向き合えなかった「馬」を新たに作ることができたのです。

 

<出産・育児>

結婚して出産と育児を経験したことが、私の制作に関する4番目の転機となりました。一人目の子どもを出産した春日助産院に寄贈している作品「子守り唄」(5)です。芸工大が九大になる時期だったため、育児休暇を1年から半年に縮められました。母乳育児をしていたこともあり、半年にしかならない小さな子どもを他人に預けるのは、ほんとうに苦しいことでした。育児休暇が終わる頃、急に夫が「仕事を辞めて、母乳育児の間子供を連れて大学に通う」と申し出たのです。これは大学で授乳していた時期に作った作品なのです。私自身が妊娠中、木に触れ、香りを嗅ぐと安定しました。そこで緊張の強い妊婦さんたちに触れてもらえる彫刻を作ろうと考えました。子供を抱く母親であり、母胎に包まれる胎児自身であるというイメージです。初めて人のために作りたいと素直に思い、形になりました。

今日は「親と子」というテーマなので、夫と私が役割を交代したことで見えたジェンダーに関することを、少し脱線しますけれども話したいと思います。今の育児状況の厳しさ、総批評家と化した日本人についてです。まず、夫がびっくりしたのが、慣れない男性が子どもを抱えていると周囲の人がデパートのドアを開けてくれたのに、後ろから来た子どもを抱える女性に対してはドアを開けなかったというのです。夫より筋力の弱い女性が子供を抱えていたにもかかわらず。「女性への負担があまりにも自然化している現実」に気づいたそうです。

また夫は、いい親であろうとしすぎて育児ノイローゼになってしまいました。「自分は今まで福祉作業所で障害者の人と関わっていたので優しいと思っていた。でも、僕は優しくないということが分かった。優しさというのは、いい自分を押しつけることではなく、相手のペースに合わせるということだ」ということを言ったことがあります。何で主人が無理をしてまでいい親であろうとしたのか。それは目に見えない周囲からの重圧があったからだと思います。「今のお母さんはね」とよく言われます。「今の」という言葉、私はすごく気になります。それは、それぞれの状況に想像力を馳せることなく勝手に見下している感じがするからなのです。昔と違って今は一人で子供を簡単に外に出せません。お母さんだけが毎日つきっきりで子どもの相手をするという、その苦しみがほんとうには想像できていないような気がします。批判的な周囲の目にさらされて、子どものためにいい親になろうというより、批判されないためにいい親であろうとする。その重圧があったのです。

もう一つは、ジェンダー的な決め付けです。夫が育児ノイローゼで不安定な中、私は仕事をし、合間に授乳し、帰ったら泣き付いてくる子どもを抱えて料理を作っているのに、世間は「あなたの旦那さん、すごいですね」と言います。家庭の仕事を「男性は手伝ってくれている」のであり、「女性は感謝するべきだ」という内容の言葉をたくさん投げかけられました。「彫刻家(男性的な仕事をしている女性)」「夫に育児をさせている女性」という先入観もあり、私自身の毎日の苦闘を想像してくれる方はほとんどいませんでした。夜間の授乳で睡眠不足でしたし、家計の主というプレッシャーから仕事を休むこともできません。産後の体調不良と重なり疲労困憊していました。サラリーマンの男性が仕事の合間に子供をあやし食事の支度や夜泣きにつきあっていると想像すれば、その大変さは理解してもらえるはずです。今の男性はあまり家庭教育をされていないので、ほんの少しするだけで賞賛されます。でも、それ以上に女性が苦労していることには、誰も意識がおよばないのです。「いいですね」と言われたら「あぁ、ありがとうございます」と言うしかない。自分の苦しみを苦しいと伝えられないというのは、ほんとにつらいことなのだなと思いました。女性が社会進出する社会制度は整いつつあり、これは素晴らしいことですが、全く抜け落ちているのは男性の家庭能力開発という面ではないでしょうか。

 

 また、この時期気づいたことは、「他者からの関心」の大切さです。夫が子供をみている期間、私は帰宅すると「今日、どこに遊びに行ったの?」とか、「どうだった?」と気になってよく尋ねました。その関心は、夫にとっても自分を語るきっかけになったと思います。ハンナ・アーレントというユダヤ人女性の哲学者が、人間にとって最も苦しいことは、その存在を無化されることだと。無視され、いないかのように扱われることだといいました。まず興味がなければ相手との絆を作るというのは非常に難しいのです。それは、私の制作について同様です。彫刻を作るにあたってまず興味や関心をもち、自分の主体を対象に移す作業がなければ作品との絆は絶対に生まれません。人間関係においても絆を作ろうと思ったら、その相手の変化にまず興味を持つ必要があります。しかし、相手の変化が恐ろしくて目をそむけたら、絆など絶対に作れないのです。だから、他者(特に父親)からの関心がない状況でずっと育児をしていけば、自分(特に母親)の存在が薄れていき、病的な状況になるのではないか思います。

 

さらに彫刻も育児も「コントロール不可能な自然と向き合うこと」なのだと気づきました。彫刻というのは、存在する現実です。重かったら工夫して運ばなければいけないし、形を変えようと思ったら、それだけの労力を払わなければいけない。とにかく、自然物と向き合うということは非常に時間も労力も掛かる。育児も同様です。コントロール不可能な自然に向き合うというのは大きなストレスですが、ここに生きる実感があります。

 

ありがたいことは出産育児後、身構えずに制作できるようになったことです。それまでは観念的なテーマからの発想が多かったのですが、日常の中での感動や気づきから創造するようになっていきました。これは(5)、初めて実家に子供を預けたとき、子をあやしてくれた猫です。たったそれだけの契機ですが、愛や感謝、そのようなあたたかな気持ちから創れることがただ嬉しかったのです。

これは「寒立馬」(6)という作品です。青森の下北半島で生きる大きな野生馬です。雌馬は妊娠した状態で越冬し、子供を寒さから守ります。吹雪の中を立ちつくす姿を、「寒立」と下北のマタギの人たちが呼んだのです。彫刻というのは存在を作る芸術です。地面に「立つ」ということ自体、とても意味があることなのです。私は、たくさんの育児中の女性に出会う機会を得て、厳しい状況の中で苦しみながらもその命を守り、地に立ち続ける姿を感じました。その共感と自分自身の気持ちを込めてこれを作りました。

 

<物質と静寂と時間>

彫刻というのは、物質と静寂と時間という要素に分けられるのではないかと思います。

物質であるということのリアリティーといえば当たり前のようですが、IT化の進む現代では希薄化しつつあるものです。重さとか空間への影響を実感できるということは、いまここにある自分を確かなものにしてくれます。幸せなことだと思います。

彫刻はシーンとしたものです。コンセプトを伝えることも大事なことですね。でも、私が考える彫刻というのは、言うに言えなかった「沈黙」の沈殿物なのです。それは記憶の熟成したもの、または言葉にできない本質に触れるものです。その静寂、明確な答えではないというところに、私はこだわっていきたいと思っています。

完成した彫刻も、1年後と2年後では感じが違います。傷ついたり、手で触られたりして少しずつ変化します。その痕跡そのものが時間なのです。仕上がった作品にわざわざ古色をつけることもあります。なぜなら人間は時間の蓄積に対してパワーを感じるからです。時間を量的に感じる力が人間にはあって、古いものほどありがたいと感じます。時間の長さを重さとして感じさせてくれるのが彫刻です。のみ跡の1個1個というのは、私が振りおろした労力と意志と時間が詰まっています。それが100個あれば、100個分の時間を鑑賞者は追体験してくれます。人間が人間であったことの痕跡を残すもの、それが彫刻なのではないでしょうか。現代のアートシーンからこぼれてしまうものを、私は立ち止まって見ていきたいのです。

 

最後に私の彫刻観を、「親と子」というセミナーのテーマに沿ってまとめてみたいと思います。彫刻というのは不確かで煩わしいものですが、それが大事なのだと私は考えています。そのコントロール予測不可能な力は、命の現場にも共通してあるのではないでしょうか。自然はコントロール予測不可能な世界です。しかしあえてその世界に踏み込むとき、人間は疎外感から救われるのです。人間も自然物なのです。コントロールや予測不可能な世界というものから逃げれば、その自然全体の中から自分は阻害されている、そこから切り離されていると感じるのです。子育てと芸術世界は似通ったところがあると私は思っています。

 

メディアアーティストの岩井俊雄さんが「創造というのは、遠いどこかから拾ってくるものではなくて、今まで自分が蓄積してきたすべての経験を新しく組み合わせることで生まれる」と、言っています。私もそうだと思います。まるっきりゼロからの創造というのはあり得ない。今まで過ごしてきた何かと何かを組み合わせていくということが創造なのです。だからこそ日常生活にもっと注意を払ってなければいけない。

私は妊娠中、春日助産院の方針で3時間歩いていました。そこで気づいたのは「歩くこと」で発想がまとまるということです。歩く速度でないと人間の思考回路というのはうまく働かないではないかと思います。

 

また「困難の楽しみ」を彫刻は教えてくれます。人間は何のために生まれてきたのか。私は「人間として不十分な部分に気づく機会が必要だから」だと考えています。それが真実かどうかは問題でなく、そう考えることで困難を受け入れる精神空間が生まれることが大切なのです。困難や葛藤は人生の栄養になります。困難が降りかかってくると自分の不十分さに気づかせてくれているのかな、と思うようにしています。

彫刻制作の「遅さ」も、大切なことだと思っています。彫刻は一朝一夕にはできません。もともと生きるということは遅いことなのです。介護一つにしても子どもを育てるにしても、結果は絶対すぐにでません。コンピュータ社会の中で、遅いということは何か悪いことのようになってしまいました。命はそもそも遅いのだということを、彫刻を通して思い出したいと思っています。

 

人間は「人間という自然」からは絶対逃れられません。自然というコントロール不可能なものにこそ感動や生きがいが隠されていて、ここから逃走した人間は、現実感を失っているようにみえます。どこかにユートピアを求め、現実離れしたことで自分を忙しくし、逃走していることを自分自身に対して偽っている、と感じます。

人間は、それに向き合えます。コントロール不可能なものは人間を脅かすだけのものではありません。私がなぜ苦しみを味わいながら、ずっと彫刻に関わっているかというと、そこには自分が自然の一部として阻害されないという感動があるからなのです。関わりの中に自分がいるということを感じさせてくれる。だから、彫刻を作るのです。

コントロール不可能な世界に向き合うか、向き合わないかを選択するかはその人次第です。何となく空虚でも楽がいいという人もいていいと思います。しかし、そのどちらを選択するかというのは、人類が立たされている岐路かもしれません。どちらが持続可能かなというのをもう一度考えなければいけないような気がします。

これからも時間をかけて何かを創造するということを若い人たちと共有していきたいと思います。ありがとうございました。

 

  

(質問1)

お一人で考えるときとお子さまも生まれてからと創作的な感覚に違いがありますか。

知足:それは、ありますよね。二人目の子供は自宅出産で、自宅の風呂の中で自分が取り上げたのです。その瞬間はほんとうに静かでした。人間は生と死というものは同じところから来るのだということを感じました。身近なところに真実はあるのだと。

 人間に寄りそうことから芸術は離れてはいけないような気がします。心を失って技術のみで創作を続けても、人には響かないでしょう。命によりそう、そういう割り切りができた事はよかったのではないでしょうか。

 

夫も子育てをしたことが、人生の転機になりました。彼は男性だから、知り合いになったお母さんのお家に行くわけにもいかない。夫にとってその日行く場所がないということが一番の悩みでした。この経験から「いつでも出かけて行ける場所が欲しい」と気づいたようです。そこで、障害者の人も、高齢者の人も、子どもも一緒に居て、違う立場の人を生活の中で感じ会う場をつくることが彼の夢になりました。そして2年前にNPOエスカスカーサを弥永で立ち上げました。私も少し協力しています。

自分の時間を持てず、お手洗いにも行けない状態での子育てがどれだけしんどいかということは、男性としてやはり経験しないと分からなかった、と夫は話していました。仕事しているほうが楽なのだそうです。私は夫に「あなたが経験したことを男性に言って欲しい。私たち女性ではなく男性が男性に伝えて欲しい」と言いました。

 

なんでもただ楽しければいいという風潮は、何か空虚なものを感じて少し気になります。人間は悲しみや苦しみ抱えて生きるものです。アイヌ問題、同和問題のことなど真っ正直に言えばみんな引いてしまうような問題ですね。他者の痛みに寄り添うのはやはり勇気がいることですけど、そこに向き合う力を与えてくれるのがアートなのだと思います。

痛みに向き合わなければ、競争社会はたった少数の勝者が大多数の敗者を必要とするような社会へと加速していきます。競争原理の中で人間の価値が決まる時代は、もうしばらくは続くかもしれませんが、いつか大どんでん返しがあるような気がします。

 

(質問2)発想はどこから?

 

知足:作家は、全員が白紙から創造を始めます。作品完成時には、燃えかすみたいになって、次の作品ができるのだろうかという不安の中にいます。作るということはそうですよね。私はいつも、その恐怖と一緒にいたような気がします。今は作れたけど、来年作れるかどうか。追いつめられてできるときもありましたが、このごろは「一瞬が永遠だと感じた時を作品化すればいいのではないか」と思っています。今は第二子が誕生した瞬間の彫刻を作っています(2007年5月にエスタスカーサに寄贈)。

その一瞬とは、愛情から通じ合えたときもあるし、驚きや発見から通じ合えたときもある。その一瞬に全力をかける、それが私の彫刻です。それはいつ訪れてくれるか分からないのですけれども、今のところ、もう駄目だと思ったときに、不思議とそういう瞬間が来てくれるのです。神様が、生かしてくれているような感じです。

 

また、人間は自分のことばかり考えている時は、追いつめられてうつ状態になってしまいます。選択肢のない精神空間に追い込まれると狂うのです。芸術という場が、その日常生活を異化し、安心して避難できるところになってほしいです。人間の精神的必然性が芸術を生かし続けると思っています。

 

(質問3)

 今日のお話しで印象に残ったのが、コントロール不能なものというかです。どうしても分かりやすさを求めて世の中動いているのですけども、やはり分からないもの、見えないものというか、そういったものに対して自分自身としてどう引き受けるかというか受け止めるかということですね。そういったものに能力というか、いかんともし難いものに対して芸術なりがあるのだろうと。先生がされている彫刻であったりするのだろうなあというふうな感じがしたのですね。

 実際には、人間の持つ弱さであるとか、例えば、老人問題、老いの話であるとか、障害の話であるとか、そういったことに対してアートとしてできるとすれば、純粋にアートの中に入り込んでしまっては駄目なんじゃないかなという気がするのです。

 先生の今日のお話を聞いていると、彫刻という芸術活動をされていても、何か違う外側の目から、アートというものをとらえているような感じを受けました。意識的にそういうことをされているのか、その中にどっぷりつかってしまうと外は見えないのではないかなと感じがするんです。

 

知足:ほんとにおっしゃるとおりだと思います。二風谷プロジェクトの時に自分で書いた文章を読み返し気づきました。「私はアートを利用しようとしているのだな」と。ものつくりとして育んだ感覚を持って、アートをアイヌ問題に目を向けてもらう扉の代わりとして利用していました。アートには悪いのですが、私としてはそれくらいの距離感があっていいと思います。

 距離をどのくらいとるにしても、プロジェクトや作品に対する批判の刃を自分が受けるということは変わりません。芸術は、自分の行いの責任を負うのです。自尊心を高くしすぎなければ、それも甘んじて受けられます。世の中は、あとからきて評価し分析する人々のほうがとかく有利で、苦しみながら創り出す現場側は弱い立場にいるようにみえます。彫刻だけでなく農業や子育て、介護など自然や命と向き合う現場も同様です。でも今日お話したかったのは、自然や命と向き合う現場こそが私たちに生きる実感を与えるということなのです。

 

(質問4) 作品がなぜ、知足先生は絵画でもないし、音楽ではなく……彫刻だったのですか。

 

知足:大学時代、写真でも何でもさせられました。塑像の授業のときに先生が、前の面を作る時は後ろの面を感じながら作れ、とおっしゃったのです。「はあ?」と思いました。人体というのは重力に抗するためにリズミカルに対応する面があるのです。それを発見させてくれました。立体に関して「奥行き」は想像力の世界なのです。人間は目分量で横向きに30cmを想像することは簡単ですが、奥行き30cmを想像するのは難しいのです。左右の目の差で奥行きを感じているからです。想像の空間で後ろの面が決定できてないと、前の面がここにあることも決定できないのだという話をされました。聞いたときはとても難解だったのですけど、その授業の途中に「あ、これだ!」という瞬間がありました。こういうことをおっしゃっていたのかなと感じることができたのです。彫刻の仕事は汚くみえて絶対いやだと思っていたのに、どんどん3次元の魅力に引きつけられてしまいました。また木彫の授業でチェーンソーを使って木取りを行っていると、夢中になってやめられなくなるような感覚を感じたのです。

 星の王子様という童話の中で、「あなたが暇をつぶせるもの、それはあなたが愛するものだ」というフレーズがあります。私にとっては、彫刻が時間を忘れることができる瞬間を与えてくれました。そのことは自分にとって大きな発見であり感動でした。その感動があるから、このような割の合わないことをいまだにやっているのです。それでご飯を食べていけているのですから、ありがたいことですよね。自分の時間を費やしても、費やしても惜しくないと感じる瞬間があったとしたら、そこにその人の人生の重要なヒントが隠されているのではないかと思います。どんなにおろかなことであっても、そこに本当の自分が息づいているのです。私にとってはそれが彫刻でした。自分の手を介したものが、自分以外のものに与えられる何かを宿してくれればと願っています。

 

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