(協力隊員が陥りやすい認識)モ BACK(lecture1)   モ BACK(lecture目次)

 自分のいる(先進国とよばれる)システムを懐疑的に考察する事がなく、「進んでいる」と安易に考える。すべて自分のやり方が正しく変わらなければならないのは周りの方だ、と思いこみがちなのは「技術移転をしてあげている。」という意識から生まれるものであろう。他者を侮蔑的にみていると自覚した場合は、慎重にその人の立場や感情を、「シュミレーション」(その人の経験や歴史の追体験を)してみる努力が必要である。

 私の経験では、「日本のやり方が一番」という意識が如実な協力隊員は、コスタリカ人の悪口や侮蔑を並べる人が多かったように思う。自分にはない彼らのすごいところを尊重しよう、日本にはないおもしろいことを見つけようとか、コスタリカ人のルールを理解し彼らとくつろいだ愛ある関係を築こうとしない場合、いつも自分に似た価値観の日本人とばかりいることになる。(自分のルールで生きていけるのは心地いいため)

 しかし、自分のルールを最後まで押し通すことが、「征服」そのものではないだろうか。歩み寄ろうとする意識がなくては、対話さえ成立しない。歩み寄る目的のためでない差異の確認の応酬は、たとえ対話の形式をとっても裁判や戦争である。正しい正しくないという論議は一つの見方からしか生まれない、という認識を反芻しつつ、他者に関わることが必要であろう。

 余談ではあるが、私は「知ってる」という語句より、その人の無意識に近い仕草や態度、会話(反応)に、どのくらいその人が「知っているか=実感しているか」つまり言動の規準になるまで染み込んでいるのか、が現れているように思う。心の底から感じ考えたことは価値規準をつくり、その人のふとした言動を左右する。以上のような認識を「知っている」ということはたやすいが、自分のふとした反応や言動に至るまで自然化するのは、至難のわざであることを付け加えておく。(私自身の反省をまじえて書いている)