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(計良光範氏)智子の亭主です。私の祖父は佐渡島出身です。北海道に移り住んでから、たかだか100年。純粋な北海道人でないのはもちろんですが、どうも韓国からきた帰化人が祖先だったのではないかと思っています。アイヌの事に関わるようになったきっかけは、私の仕事の中で彼女(智子さん)と知り合ったことです。

 私ははっきりと和人でしょ?智子はアイヌだから、子供はアイヌです。私はアイヌの子の父親ですから、私もアイヌだということです。というよりそこに立たなければいけない、というか。
 私には二人の子供がいるわけですが、彼らにはこれから「アイヌになるのか」「和人になるのか」 を選ぶ時がきます。そんな大袈裟なことでなくとも、どこかで踏ん切る必要がある。その時に、彼等が自分で判断できるだけの材料を過不足なく渡しておくことは、親としてしなければならない。そういうことから、関わっていったのです。
 私の子供達がもしアイヌとして生きると決めた時、では「何をもってアイヌとして生きるのか」を決めることは、今とても難しい状況になっています。ですから一層判断するための基礎体力をつけさせる事が必要ですし、そのためにはまず親が知らなくてはなりません。アイヌの場合男女差別はないのですが、仕事において役割分担がありました。男女とも、一人前になるための技術取得はかなり難しいものです。私達夫婦がその技術や心を学ぶ過程が、ヤイーユーカラだったといえます。
 ヤイユーカラは、アイヌ語で「自ら行動する」という意味です。約30年程前に発足した「ヤイユーカラ.アイヌ民族学会」が母体となっています。アイヌの研究や運動は、アイヌがアイヌの立場として声をあげ行わなければならない、ということから始まったものです。しかし講習会などを定期的に行うのは困難でした。10年程前から、先住民族に関連する国際的な催しが活発に行われました。私と智子さんは1990年ニュージーランドで行われたマウリ族を中心とした会議に出席しました。そこで見たのは、マウリの運動と生活がかけ離れている現実でした。彼等の食料はほぼスーパーでまかなわれています。そこで彼女が「アイヌも生活をちゃんとしなければ、解放もなにもない」と言ったのです。そこで私達は、たとえ小さな団体でも継続して活動し、生活から始めることにしました。それが「ヤイユーカラ」だったのです。
「なんでも体でおぼえていこう。ぶつかっていこう。」という活動です。1991年に智子さんが静内のフチ(おばあさん)のところに住み込みながらアイヌの生活文化を学びました。1993年が世界先住民年ということで何かやらなければという気運が高まっていました。アイヌ文化に関する講習会や野外活動をやっておりますがその95%は和人、5%がアイヌです。アイヌ文化はいっしょくたではなく、とても地域差があるものなのです。ですからアイヌ自身が他地域の技術を習得し、地域差を補いあう場でもありました。 

*アイヌという呼び方
 先程上映された「アイヌの結婚式」という映画のなかで、面白い表現がでてましたね。本州の人を「日本内地人」と呼んだり、「日本ナイズされていない」「アイヌという言葉はもともとアイヌ語で“人間”をあらわす言葉である」など。アイヌ自身や教育関係者を含め、アイヌを何と呼んでいいのかわからないというのが現況です。この映画ができた30年前は「アイヌ」と言い切れるひとは殆どいませんでした。「アイヌ系日本人」「アイヌの方々」など様々な呼称があります。一方日本人の呼称は和人がよく使われますが、日本内地人というならアイヌは日本外地人となってしまい、北海道は植民地だということになってしまいます。「非アイヌ」というのもいかにもネガティブな響きです。「ではノンアイヌと呼ぼう」というのも単にカタカナで通りのよければいいという感じがします。しかしアイヌ民族も国籍は日本ですから、国際会議になると「アイヌの立場で出席してはいるが日本人である」ということになります。そこには複雑なものがあり、アイヌはそれに耐えなくてはいけないと思うんですね。

(参加者)和人の呼称の件ですが、沖縄では「うちなんちゅう」と呼んでいるようですが。

(光範)大和からアイヌに対して直接何かを行動があったわけではありません。むしろ明治政府以降の日本政府、つまり近代国家とアイヌという関係がそれに近いのかもしれません。支配、被支配という関係において。沖縄も直接大和朝廷から支配されてないといえばそうなのですが、対立の概念としては考えやすいのでしょう。だからといって、アイヌが日本のことを「日本国家がね...」とよぶのも角がたちますけど。(笑)

(智子)沖縄には琉球という王国があり、ひとかたまりの概念があったのですが、アイヌにはそれがなかったために、何々対何々という対立概念は馴染まないようです。

(光範)1970年代から世界各地の先住民族の解放運動がさかんになり、アイヌもそれに刺激されました。しかし解放運動というような明確な動きではなかったのです。運動は続いてこそ運動ですので。
 実際に動き始めたのが80年代からで、それを担ったのが今50才代の私達の世代だったのです。しかしそこに集まったアイヌは、アイヌ文化というものを知らない世代でした。自分の体を通じて体現していないという意味で。なぜかというとその親の世代でプッツリ伝承がきれているからなんです。かろうじて知っていたのが、観光地や二風谷などの限られた地域にいたアイヌ達でした。 オーストラリアのアボリジニーが「盗まれた時代」といいますが、アイヌの場合も全く同じことがいえるのです。通説によるとアイヌは強制的に同化させられた、といいますけど、自ら望んで同化していったアイヌもいるのです。つらいからです。これからは日本人として生きるのだと決めたのが、智子の親の世代です。
 いざ解放といっても、民族文化の拠り所がわからない。ヤイユーカラが始まったのもまさにその理由なのです。とにかく拠り所をたくさん集め、そこから引いていくんだと。生活から始めるんだということです。
 10年前、私が良く知っているアイヌの青年が取材の中で、自分のことをこう言ったのです。「アイヌ暦はまだ浅いです。」私は感動しました。大袈裟でなくても、どっかでアイヌになるという踏ん切りが必要なのです。アイヌとしての自分自身の生き方をやっている、それを自分のアイヌ暦として考えられる。それを自分と人に宣言するということは、かなりの勇気がいることです。
 先ほどの「アイヌの結婚式」という映画は、花嫁さんがアイヌプリ(アイヌ風)でやると決めたところからはじまります。これも一種の宣言ですよね。冠婚葬祭の中で、葬式に関してはアイヌプリを望むエカシたちがいたために途絶えていないのですが、結婚式に関しては早いうちにアイヌプリは途絶えてしまったのです。

(参加者)和人の呼称の件ですが、沖縄では「うちなんちゅう」と呼んでいるようですが。

(光範)大和からアイヌに対して直接何かを行動があったわけではありません。むしろ明治政府以降の日本政府、つまり近代国家とアイヌという関係がそれに近いのかもしれません。支配、被支配という関係において。沖縄も直接大和朝廷から支配されてないといえばそうなのですが、対立の概念としては考えやすいのでしょう。だからといって、アイヌが日本のことを「日本国家がね...」とよぶのも角がたちますけど。(笑)

(智子)沖縄には琉球という王国があり、ひとかたまりの概念があったのですが、アイヌにはそれがなかったために、何々対何々という対立概念は馴染まないようです。

(光範)1970年代から世界各地の先住民族の解放運動がさかんになり、アイヌもそれに刺激されました。しかし解放運動というような明確な動きではなかったのです。運動は続いてこそ運動ですので。
 実際に動き始めたのが80年代からで、それを担ったのが今50才代の私達の世代だったのです。しかしそこに集まったアイヌは、アイヌ文化というものを知らない世代でした。自分の体を通じて体現していないという意味で。なぜかというとその親の世代でプッツリ伝承がきれているからなんです。かろうじて知っていたのが、観光地や二風谷などの限られた地域にいたアイヌ達でした。 オーストラリアのアボリジニーが「盗まれた時代」といいますが、アイヌの場合も全く同じことがいえるのです。通説によるとアイヌは強制的に同化させられた、といいますけど、自ら望んで同化していったアイヌもいるのです。つらいからです。これからは日本人として生きるのだと決めたのが、智子の親の世代です。
 いざ解放といっても、民族文化の拠り所がわからない。ヤイユーカラが始まったのもまさにその理由なのです。とにかく拠り所をたくさん集め、そこから引いていくんだと。生活から始めるんだということです。
 10年前、私が良く知っているアイヌの青年が取材の中で、自分のことをこう言ったのです。「アイヌ暦はまだ浅いです。」私は感動しました。大袈裟でなくても、どっかでアイヌになるという踏ん切りが必要なのです。アイヌとしての自分自身の生き方をやっている、それを自分のアイヌ暦として考えられる。それを自分と人に宣言するということは、かなりの勇気がいることです。
 先ほどの「アイヌの結婚式」という映画は、花嫁さんがアイヌプリ(アイヌ風)でやると決めたところからはじまります。これも一種の宣言ですよね。冠婚葬祭の中で、葬式に関してはアイヌプリを望むエカシたちがいたために途絶えていないのですが、結婚式に関しては早いうちにアイヌプリは途絶えてしまったのです。