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*何も持てなかった自分
(計良智子氏)
私の祖父はアイヌです。私が生まれた時すでに亡くなっておりましたので、私の生活はすべて日本人と変わらないものでした。日常の生活の中で、アイヌの匂いのするものに触れた経験はほとんどありません。だからといってアイヌを知らなかったわけではありません。白老はアイヌの観光地として有名なところだからです。血を引いていることは分かっていても私の中では「アイヌとは、あの人たちのことなんだ」という意識でした。
 そんな思いがドッと表に吹き出したのは、私が東京で就職した頃からでした。その時「北海道=アイヌ」という図式を当てはめられたのです。でも私は日本人だ、....私は一体どっちなんだ、という思いで揺れに揺れ動いたのです。もう人間ギライになるくらい孤立してしまったんですね。そんな時、ペウレウタリの会というアイヌの集まりがあるよと、ある人が知らせてくれたので入会しました。それまで私はあういうグループが嫌だったんです。入る勇気もないし、あの人たちと一緒にされるのも嫌だ、という感情がありました。 
 3年間の東京暮らしの後地元にもどったのですが、このままでは悔しいと思いました。「アイヌのことをもっと知らせればいいのでのではないか」と思った私は、和人も一緒の親睦会の中で帯広、釧路、阿寒とまわったのです。はじめて生活をしている場にふれました。自分だけではないとわかっていても、なかなか自分のカラを破れなかった私ですが、阿寒に滞在する間「やっぱりこのままではダメだ」という思いにかられたのです。私の弟妹に同じ思いをさせてはいけないと。
 アイヌであることに誇りを持ちなさいと言われても、「何」が誇りなのか「なんにも持ってない自分の悔しさ」ばかりです。どうしていいかわからないのだけど、アイヌのことを知らせるためにはまず自分が知らなくては、自分達の手で取り戻そうと決心したのです。そして阿寒や静内でアイヌ関係のバイトをし、実家(静内)に帰って祖母の着物をお手本にしながら刺繍をしたりしました。アイヌ関連の本を買い集めました。でも最終的にはやはり「教育の場」で伝え、訴えることだな、と思いました。若いアイヌ達が教育の場に飛び込んでいったのはこの頃です。

*外から見た日本とアイヌ
 結婚をしたあと、私はウタリ事務局の生活相談員となりました。事務局で中国への研修旅行があり、私は初めて外国からみた日本というものに出会ったのです。そして自分という存在と位置を考えたのです。ちょうど和人対アイヌという、二極対立に行き詰まりを感じていた頃でした。
 中国には少数民族がたくさんいます。民族議席というものがあり、民族として選挙をすることができるのです。強く影響され、アイヌ民族も議席を獲得するために日本に帰ってから選挙運動をしたりしたのです。 そしてヤイユーカラとしての活動がはじまりました。主にキャンプを通じて古老たちの知恵を体でおぼえていきました。そのころは入れ墨をしたフチ(おばあさん)もまだいらっしゃいました。
 アイヌと呼ばれて「はずかしい」「嫌だ、逃げたい」と思うこと、何も持っていない悔しさを、母として次の世代には味あわせたくなかった。女として身につけておかなければならない仕事を学ぶために、一年間フチのもとに住み込みました。学んだ刺繍や料理については、北海道新聞に「アイヌの四季」として連載させていただきました。ヤイユーカラの活動は最初は子供達のためにと考えていたのですが、やっぱりみんなでやろうということで、年令に関係なく広げていったのです。