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*観光の問題
(参加者)
既存の文化と近代システムがぶつかり合い、格闘している姿が近代です。特にアイヌの人々は自らの位置を確かめようとした場合、時代の空白(盗まれた時代)によって、自分なりの生き方を選択することが難しい状況になっています。
 しかし配付資料(シンポジウム抄録「伝承保存と普及の実践」)によると「観光」がその空白を繋いできたとありますがそのへんはどうなのでしょうか?アイヌ文化の持ち上げ論などのイメージをつくり出すのも観光ですが。計良さん御夫妻が関わられた著書「近代におけるアイヌ差別の構造」(明石出版)にも取り上げられていることです。

(参加者)私は北海道出身で、村おこしや都市計画のことを勉強してきました。地域や街づくりを行う手段のひとつとして、まず土地の記憶という歴史的ソースを取り出してくることがあります。恐竜の骨が出てきたことがあるといえば、道路わきに恐竜のキャラクターがウヨウヨ並ぶというように。例えば北海道ならば、日本人が北海道にやってきてからの歴史は浅く、歴史的な土地の手がかりというとアイヌの文化を通じて探ることことが多い。そうするとアイヌ文化を別の形で消費してしまう危険性があるというか...それに対する矛盾を感じています。

(参加者)歴史は多くの人の共有意識です。場所の記憶を考える時、侵略者としての日本人の立場から北海道の街づくりをどう考えればよいのか、その揺れている感じには共感します。

(参加者)例えば私が北海道の街づくりをする時、アイヌ紋様をどこかに使ってしまうかもしれません。そうするとアイヌ文化を認め大切にするように見えて、実はそれを消費してしまう、つまり根こそぎ持っていってしまうような、そんな気がしてしまうのです。

(智子)ひと昔前だと、北海道といえばアイヌ。北海道=アイヌというイメージが流通していました。どこか対等でないというか..... 対等でやるという構図は、今でもないのです。

(光範)さきほど紹介があった「近代〜」という本の巻末に「観光地年表」というものが載っています。これは貴重なものです。登別は1958年に作られた「クマ牧場」から始まっている。観光地としてわりと古い旭川は1920年頃から。本格的には1951年に川村カネトが記念館をつくったことから始まっている。このようにアイヌ観光は50〜60年代頃、つまり戦後から始まった動きなのです。平取が観光地かどうかは一概にはいえないのですが、施設もありますし、観光地化の動きもあります。(1893年に、アイヌ木彫の民芸品を札幌に行って販売したとある)上川も1957年に祭りを始めている。阿寒は最初はマリモだった。私は戦後に阿寒にいったことがありますがその時の木彫りは松島を彫ったようなもので、アイヌ木彫りは珍しかったです。
 アイヌ観光の中心地は白老(しらおい)です。1881年に明治天皇が白老までアイヌを観にきたことから始まっているのです。今、祝日で「海の日」というでしょう?あの祝日は、アイヌ観光のために、明治天皇が横浜から船にのって北海道に到着した記念日なのですよ。天皇のためにアイヌを集め、踊らせ、熊送り(イオマンテ)を行ったのです。この時は天皇だけが観るという形だったそうです。その後皇族が続々と白老にやってきました。これに刺激されアイヌ観光が広がっていったのです。
 アイヌ観光の中心だった白老はことごとく槍玉にあげられてきました。一番はアイヌ自身によって。「アイヌがああやってアイヌを売り物にするから、アイヌはみんなそうだと思われるんだ。アイヌを食い物にしている」と、ずっとそういう批判にさらされてきました。それでもアイヌ観光は続いてきた。
 美幌峠で歳とったアイヌが正装し、観光客と写真をとるという観光がありました。峠は朝夕冷えるので、たくさんのアイヌが酒を飲み過ぎて命を落とすということがありました。それをふくめて観光はアイヌ虐待というイメージが広がったのもあり、観光をするアイヌはずっと「売り物としてのアイヌ」として批判されてきたのです。

 しかし1970年代になって、世界各地で先住民族の動きが活発になってきました。アイヌ自身も借金をしてでも外国にでて、外からアイヌのことを考えるようになったのです。そしてアイヌ自身にも、自分達に関わることをどうにかしなければという気概がおこったとき、歌と踊りという入りやすいものから取り戻そうとした。しかし、それを復元するための情報ソースは、観光地にしか残っていなかったのです。二風谷でも途切れなく伝わってきたというのではなく、映像などをみて古老たちが思い出す、ということから始まりました。そうやって記憶を頼りに復元した踊りが多いのです。観光地に残っていた歌や踊りを各地からきたアイヌ達がおぼえました。もともと地域差があったアイヌ文化が、いまその差がほとんどないのは、以上のような経緯からなのです。そうするしか術がなかったのです。
 踊りを覚えたら、アイヌの着物を着て踊りたいでしょう?そうして着物を復元しようとすると、そのお手本となる着物を持っていたのが観光地や資料館でした。充分とはいえませんが、ここ20年くらいのアイヌ文化復興に貢献していたのは、やはり観光地だと私は思うのです。

(参加者)こういう風に考えればいいのでしょうか?もともと観光は批判の対象だった。どうしてそうだったかというと、天皇のお話を先程されていらっしゃいましたが、つまり観光は征服者側が被征服者を見せ物にする、つまり被支配側の文化を非常に珍しいものとしてみるという要素があるからでしょう。つまり「表現をみる」のではなく「その存在そのものを見る」という要素がこうした見せ物としての観光には強い。そういう“視線”に対応するアイヌ像しか許されないような状況を生み出すと。おそらくお話によると、そこまで状況まで進んでしまったと思います。

(智子)表向きのアイヌ像ね。そこだけ表現するという。
その像に合致しない場合、お前はアイヌでないと言われる。でも地元ではそういうわけにはいかないんですよね。結婚差別、民族差別はあるし...。

(参加者)その像しか許さない、それ以外をすべて否定するとなった時、すごい差別がおこるんだと思います。にもかかわらず自分自身のアイヌとしてのあり方を取り戻そうとした時に、観光の視線の中に残されたアイヌ像から出発して、その像を手がかりにしていろんなあり方を獲得していくしかない。出発点はそこにしか残されていないのですから。その取り戻しの運動を通して、そこで自分達の見方とかアイデンティティーをいろんなやり方で探っていく。そうした運動をになったのが観光地だった、とおっしゃるわけですね。
 
(光範)そうですね。
(智子)観光というは最初は個人でやってたわけです。白老は最初に観光を町役場が支援したのです。アイヌを観光のメインにしようとすると町民から猛反対がおこった。白老出身というだけで、外に出た時「あなたアイヌでしょ?」と言われるかもしれない、それは嫌だというのです。それくらい地元の人から嫌がられていたんですよ。それで最初は、他の観光地で働いている人を呼んで観光地を作ったくらいだったのです。観光の問題は複雑です。

(参加者)アイヌの人々は日本人になることを押し進められ、いざ同化すると民族らしさを求められる。そのどちらもが、周りから「こうあるべき」と決められる状況です。もう一度自分達の文化を取り戻して行く過程で、ああだこうだ言われずに自分の意志でそれを決めていくことはできないのでしょうか。