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*「アイヌである」「アイヌになる」
(参加者)
私達の親自身が学べなかったこと、いままでちゃんと知ることがなかったことを、今日初めて知ることができたことが私の中では大きなことでした。
 さきほどのお話をくり返すようですが「アイヌになる」という場合、全くゼロの地点からアイヌになるということができるのでしょうか?

(参加者)僕は、アイヌです。僕の父親がアイヌなんですけど、父の時代はアイヌであることを隠し、日本人になりたいと思っていた時代です。ですから家庭の中でもアイヌであるということは一切教えられなかったのです。でも自分は顔が違うしアイヌなのではないか、と思っていました。アイヌであるということで、随分と親は苦しんできました。ある時、自分がアイヌだということを教えられました。
 日本人が「日本人だ」と言っても、何もデメリットがないのです。ところがアイヌが「アイヌだ」というと非常に不利益が生じる。就職差別、結婚差別はアイヌでなくても受けることもあるのですが。アイヌがアイヌであると口に出しても、得することは何もないのです。
 ただ僕は、差別する側にはなりたくない。僕がアイヌであるということを隠すということは、和人の立場にたってアイヌを差別することだと思います。ということで僕は「僕はアイヌです」と言おうとしているのです。
 先程、文化のお話が出ていましたが、こうやって計良さん達のように伝統的な文化を継承することで喜びを感じる人々もいます。でも僕はそういった文化を何も知らないのです。伝承することで喜びを感じる人々は、アイヌの中の一部だと思います。そうできない場合が多いし、やっても不利益が生じるからです。アイヌであると言い、文化を継承することで何か得るものがあるのかと。アイヌであること、アイヌであり続けることは、今とても難しいと思います。

(参加者)自分自身について何かカミングアウトした時、周りからの反応は予測がつかないし、そこから生じる不利益とはつかみどころがない恐怖です。そのことについてはいかがですか?

(参加者)さきほど私はジェンダーをテーマにした集まりにでていました。ジェンダーの問題においてはカミングアウトというのはとても重要なのです。自分が“性倒錯者”である、つまりゲイやレズビアンであるという宣言です。それをなぜ表に出すかというと、自分が差別する側にはまわりたくないということなんです。取り巻く状況はちがうのですが、その点においてなにか先ほどのお話に共通するのかと思いました。“性倒錯者”の場合は、カミングアウトすれば「人間ではない」というプレッシャーを周りから与えられるわけですが。

(智子)私が思うのは「アイヌであることの何が悪いんだ」ということです。最大限アイヌであることを表にだしていく、職業にだって活かしていく。やっぱりそれは外国にいってから感じ始めたました。ただ先祖が持っていたものを、絶やしたくないのです。
 刺繍講習会に参加する人々と刺繍を行うことで、そのすばらしさをこの北海道の中で共に感じたいし、絶やしてしまいたくない。

(光範)2年前にヤイユーカラの会で、カナダの先住民の村にホームステイしたことがあります。その村でスウエットロッジ(蒸し風呂)をやりました。これはもともとカナダにはなかったアメリカのインディアンの文化です。カナダの先住民は、その土地固有の文化をほとんど失ってしまっています。それでもやっぱりどこかに帰りたい、インディアンでありたい、ネイティブでいたいと願う時に、半インディアン文化というのがでてきた。つまりインディアンらしい文化ならなんでも取り入れていこうという動きがアメリカやカナダで一様に広がっている。そこからインディアンに帰るのだと。
 ウエットロッジではテントの中で焼けた石に水をかけ、蒸気によってテント内の温度を上げていく。汗をかいて気が遠くなってく、そういったテンションの高さを共有しながら皆が「自分」のことを語っていくのです。ところがそれに参加した一人がその中で自分たちの歌を歌えといわれ、何も思い付かなかった。「これなんだ、というのが何もない自分って何なのか」と思ったというのです。それでも私達は生きてきたんだし、生きていくんだね、というのが参加した60才の女性の感想でした。自分って何なのか。帰るべき場所がなくても平気で生きてきた自分がいるんだなと。

 アイヌにしてもインディアンにしても、自分が帰る場所がなければ生きられなくなるような気持ちになった時、アイヌになる、インディアンになるという話がでてくるわけです。その時何をもっているかどうかという話ではなく「なる」という決意。帰るところがひとつでもいいからほしい、そういったものだと思います。何を手にしているというより、そのスピリッツがあるかどうか。いわゆる日本人、非アイヌ、和人であるということと、アイヌであるという違いはそこだと思います。
 在日韓国人の人々がもともと自分達の文化を獲得しアイデンティティーを取り戻すという作業も同じことです。彼等の名前にしてもそうですよね。
 何もなくても存在できる人と、「何かなくては存在できない、確認できない」そういう人が確かにいるんだということ。アイヌになる、ならないということを考える場合はそこが重要で、どういうことがアイヌであるかということが問題ではないと思います。

 白老で先住民族のシンポジウムをやったことがあります。それぞれの民族が歌や踊りをプレゼンテーションしました。白老という観光地でやったということ、また集まった先住民の多くがなんらかの形で観光に携わっていたこともあり観光に関する話題が多く出ました。彼等に共通していたのは、歌や踊りをおぼえることが文化ではない、という考え方でした。サーミにしても台湾のアミ族にしても、観光地を中心として経済的に自立し自分達の文化をとりもどしているんだけど、それだけではだめなんだと言ってます。観光は、観る者と観られる者がいて成り立っているものです。「観る者がいなくても成り立つにはどうしたらいいか」ということを、観光で生計をたてながら考えていく必要があるのです。
 白老で働く野本さんという方が話されていたことですが、白老に来る40万人の人々が100年前の認識と全く変わっていないというのです。何も知ろうとしない、もしくは誤解を持っている。観光客は珍しい民族をみるためにやってくる。「これが終わったら、山に帰るの?普段は何を食べているの?」と聞いてくる。そういったステレオタイプのアイヌ像に、おおかたの和人は縛られていて、そこからしかみない。それをみて満足して帰っていくのです。
 それでは困るのです。北海道にきて、未開の珍しいアイヌをみて帰られては困るのです。だからガンジガラメになった中で、教育や博物館を通じてそれを変えていかなくてはいけない。実はアイヌ自身もそのステレオタイプに安住してはいないか。そのイメージさえ守っていれば、観光地も博物館も成り立っていくわけですから。

 ですから観光地で働くアイヌや博物館にとっての最大のテーマは、その観光客のステレオタイプをどう壊すかということなんです。ステレオタイプを否定するのではなく、どう変えていくか、創っていくかということです。
 野本さんは、自分がそれを克服するには、イオマンテ(熊送り)が一番いいというのです。その精神とやりようを本当に自分達が獲得して、次の世代伝えていくことができれば、そういった観光地のイメージも変わっていくのではないかと言っています。課題はアイヌだけでなく、先住民サーミも同じことを言っています。そこをクリアできなければ、このままでいったら(ステレオタイプの)アイヌっぽいものはこれからも増え、それをとりまくアイヌおたくのようなものが増え....気がついたらアイヌは滅んでいたということになりかねないのです。

(参加者)表象論の中でも問題になる「ステレオタイプ」ですが、それを見ないというのではなく、また全否定、全肯定するのでもなく、むしろよく見てそこから変えていこうということでしょうか。