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*ヤイユーカラについて
(計良光範氏)
智子の亭主です。私の祖父は佐渡島出身です。北海道に移り住んでから、たかだか100年。純粋な北海道人でないのはもちろんですが、どうも韓国からきた帰化人が祖先だったのではないかと思っています。アイヌの事に関わるようになったきっかけは、私の仕事の中で彼女(智子さん)と知り合ったことです。

 私ははっきりと和人でしょ?智子はアイヌだから、子供はアイヌです。私はアイヌの子の父親ですから、私もアイヌだということです。というよりそこに立たなければいけない、というか。
 私には二人の子供がいるわけですが、彼らにはこれから「アイヌになるのか」「和人になるのか」 を選ぶ時がきます。そんな大袈裟なことでなくとも、どこかで踏ん切る必要がある。その時に、彼等が自分で判断できるだけの材料を過不足なく渡しておくことは、親としてしなければならない。そういうことから、関わっていったのです。
 私の子供達がもしアイヌとして生きると決めた時、では「何をもってアイヌとして生きるのか」を決めることは、今とても難しい状況になっています。ですから一層判断するための基礎体力をつけさせる事が必要ですし、そのためにはまず親が知らなくてはなりません。アイヌの場合男女差別はないのですが、仕事において役割分担がありました。男女とも、一人前になるための技術取得はかなり難しいものです。私達夫婦がその技術や心を学ぶ過程が、ヤイーユーカラだったといえます。
 ヤイユーカラは、アイヌ語で「自ら行動する」という意味です。約30年程前に発足した「ヤイユーカラ.アイヌ民族学会」が母体となっています。アイヌの研究や運動は、アイヌがアイヌの立場として声をあげ行わなければならない、ということから始まったものです。しかし講習会などを定期的に行うのは困難でした。10年程前から、先住民族に関連する国際的な催しが活発に行われました。私と智子さんは1990年ニュージーランドで行われたマウリ族を中心とした会議に出席しました。そこで見たのは、マウリの運動と生活がかけ離れている現実でした。彼等の食料はほぼスーパーでまかなわれています。そこで彼女が「アイヌも生活をちゃんとしなければ、解放もなにもない」と言ったのです。そこで私達は、たとえ小さな団体でも継続して活動し、生活から始めることにしました。それが「ヤイユーカラ」だったのです。
「なんでも体でおぼえていこう。ぶつかっていこう。」という活動です。1991年に智子さんが静内のフチ(おばあさん)のところに住み込みながらアイヌの生活文化を学びました。1993年が世界先住民年ということで何かやらなければという気運が高まっていました。アイヌ文化に関する講習会や野外活動をやっておりますがその95%は和人、5%がアイヌです。アイヌ文化はいっしょくたではなく、とても地域差があるものなのです。ですからアイヌ自身が他地域の技術を習得し、地域差を補いあう場でもありました。 

*アイヌという呼び方
 先程上映された「アイヌの結婚式」という映画のなかで、面白い表現がでてましたね。本州の人を「日本内地人」と呼んだり、「日本ナイズされていない」「アイヌという言葉はもともとアイヌ語で“人間”をあらわす言葉である」など。アイヌ自身や教育関係者を含め、アイヌを何と呼んでいいのかわからないというのが現況です。この映画ができた30年前は「アイヌ」と言い切れるひとは殆どいませんでした。「アイヌ系日本人」「アイヌの方々」など様々な呼称があります。一方日本人の呼称は和人がよく使われますが、日本内地人というならアイヌは日本外地人となってしまい、北海道は植民地だということになってしまいます。「非アイヌ」というのもいかにもネガティブな響きです。「ではノンアイヌと呼ぼう」というのも単にカタカナで通りのよければいいという感じがします。しかしアイヌ民族も国籍は日本ですから、国際会議になると「アイヌの立場で出席してはいるが日本人である」ということになります。そこには複雑なものがあり、アイヌはそれに耐えなくてはいけないと思うんですね。


*何も持てなかった自分
(計良智子氏)
私の祖父はアイヌです。私が生まれた時すでに亡くなっておりましたので、私の生活はすべて日本人と変わらないものでした。日常の生活の中で、アイヌの匂いのするものに触れた経験はほとんどありません。だからといってアイヌを知らなかったわけではありません。白老はアイヌの観光地として有名なところだからです。血を引いていることは分かっていても私の中では「アイヌとは、あの人たちのことなんだ」という意識でした。
 そんな思いがドッと表に吹き出したのは、私が東京で就職した頃からでした。その時「北海道=アイヌ」という図式を当てはめられたのです。でも私は日本人だ、....私は一体どっちなんだ、という思いで揺れに揺れ動いたのです。もう人間ギライになるくらい孤立してしまったんですね。そんな時、ペウレウタリの会というアイヌの集まりがあるよと、ある人が知らせてくれたので入会しました。それまで私はあういうグループが嫌だったんです。入る勇気もないし、あの人たちと一緒にされるのも嫌だ、という感情がありました。 
 3年間の東京暮らしの後地元にもどったのですが、このままでは悔しいと思いました。「アイヌのことをもっと知らせればいいのでのではないか」と思った私は、和人も一緒の親睦会の中で帯広、釧路、阿寒とまわったのです。はじめて生活をしている場にふれました。自分だけではないとわかっていても、なかなか自分のカラを破れなかった私ですが、阿寒に滞在する間「やっぱりこのままではダメだ」という思いにかられたのです。私の弟妹に同じ思いをさせてはいけないと。
 アイヌであることに誇りを持ちなさいと言われても、「何」が誇りなのか「なんにも持ってない自分の悔しさ」ばかりです。どうしていいかわからないのだけど、アイヌのことを知らせるためにはまず自分が知らなくては、自分達の手で取り戻そうと決心したのです。そして阿寒や静内でアイヌ関係のバイトをし、実家(静内)に帰って祖母の着物をお手本にしながら刺繍をしたりしました。アイヌ関連の本を買い集めました。でも最終的にはやはり「教育の場」で伝え、訴えることだな、と思いました。若いアイヌ達が教育の場に飛び込んでいったのはこの頃です。

*外から見た日本とアイヌ
 結婚をしたあと、私はウタリ事務局の生活相談員となりました。事務局で中国への研修旅行があり、私は初めて外国からみた日本というものに出会ったのです。そして自分という存在と位置を考えたのです。ちょうど和人対アイヌという、二極対立に行き詰まりを感じていた頃でした。
 中国には少数民族がたくさんいます。民族議席というものがあり、民族として選挙をすることができるのです。強く影響され、アイヌ民族も議席を獲得するために日本に帰ってから選挙運動をしたりしたのです。 そしてヤイユーカラとしての活動がはじまりました。主にキャンプを通じて古老たちの知恵を体でおぼえていきました。そのころは入れ墨をしたフチ(おばあさん)もまだいらっしゃいました。
 アイヌと呼ばれて「はずかしい」「嫌だ、逃げたい」と思うこと、何も持っていない悔しさを、母として次の世代には味あわせたくなかった。女として身につけておかなければならない仕事を学ぶために、一年間フチのもとに住み込みました。学んだ刺繍や料理については、北海道新聞に「アイヌの四季」として連載させていただきました。ヤイユーカラの活動は最初は子供達のためにと考えていたのですが、やっぱりみんなでやろうということで、年令に関係なく広げていったのです。

(参加者)和人の呼称の件ですが、沖縄では「うちなんちゅう」と呼んでいるようですが。

(光範)大和からアイヌに対して直接何かを行動があったわけではありません。むしろ明治政府以降の日本政府、つまり近代国家とアイヌという関係がそれに近いのかもしれません。支配、被支配という関係において。沖縄も直接大和朝廷から支配されてないといえばそうなのですが、対立の概念としては考えやすいのでしょう。だからといって、アイヌが日本のことを「日本国家がね...」とよぶのも角がたちますけど。(笑)

(智子)沖縄には琉球という王国があり、ひとかたまりの概念があったのですが、アイヌにはそれがなかったために、何々対何々という対立概念は馴染まないようです。

(光範)1970年代から世界各地の先住民族の解放運動がさかんになり、アイヌもそれに刺激されました。しかし解放運動というような明確な動きではなかったのです。運動は続いてこそ運動ですので。
 実際に動き始めたのが80年代からで、それを担ったのが今50才代の私達の世代だったのです。しかしそこに集まったアイヌは、アイヌ文化というものを知らない世代でした。自分の体を通じて体現していないという意味で。なぜかというとその親の世代でプッツリ伝承がきれているからなんです。かろうじて知っていたのが、観光地や二風谷などの限られた地域にいたアイヌ達でした。 オーストラリアのアボリジニーが「盗まれた時代」といいますが、アイヌの場合も全く同じことがいえるのです。通説によるとアイヌは強制的に同化させられた、といいますけど、自ら望んで同化していったアイヌもいるのです。つらいからです。これからは日本人として生きるのだと決めたのが、智子の親の世代です。
 いざ解放といっても、民族文化の拠り所がわからない。ヤイユーカラが始まったのもまさにその理由なのです。とにかく拠り所をたくさん集め、そこから引いていくんだと。生活から始めるんだということです。
 10年前、私が良く知っているアイヌの青年が取材の中で、自分のことをこう言ったのです。「アイヌ暦はまだ浅いです。」私は感動しました。大袈裟でなくても、どっかでアイヌになるという踏ん切りが必要なのです。アイヌとしての自分自身の生き方をやっている、それを自分のアイヌ暦として考えられる。それを自分と人に宣言するということは、かなりの勇気がいることです。
 先ほどの「アイヌの結婚式」という映画は、花嫁さんがアイヌプリ(アイヌ風)でやると決めたところからはじまります。これも一種の宣言ですよね。冠婚葬祭の中で、葬式に関してはアイヌプリを望むエカシたちがいたために途絶えていないのですが、結婚式に関しては早いうちにアイヌプリは途絶えてしまったのです。

*観光の問題
(参加者)
既存の文化と近代システムがぶつかり合い、格闘している姿が近代です。特にアイヌの人々は自らの位置を確かめようとした場合、時代の空白(盗まれた時代)によって、自分なりの生き方を選択することが難しい状況になっています。
 しかし配付資料(シンポジウム抄録「伝承保存と普及の実践」)によると「観光」がその空白を繋いできたとありますがそのへんはどうなのでしょうか?アイヌ文化の持ち上げ論などのイメージをつくり出すのも観光ですが。計良さん御夫妻が関わられた著書「近代におけるアイヌ差別の構造」(明石出版)にも取り上げられていることです。

(参加者)私は北海道出身で、村おこしや都市計画のことを勉強してきました。地域や街づくりを行う手段のひとつとして、まず土地の記憶という歴史的ソースを取り出してくることがあります。恐竜の骨が出てきたことがあるといえば、道路わきに恐竜のキャラクターがウヨウヨ並ぶというように。例えば北海道ならば、日本人が北海道にやってきてからの歴史は浅く、歴史的な土地の手がかりというとアイヌの文化を通じて探ることことが多い。そうするとアイヌ文化を別の形で消費してしまう危険性があるというか...それに対する矛盾を感じています。

(参加者)歴史は多くの人の共有意識です。場所の記憶を考える時、侵略者としての日本人の立場から北海道の街づくりをどう考えればよいのか、その揺れている感じには共感します。

(参加者)例えば私が北海道の街づくりをする時、アイヌ紋様をどこかに使ってしまうかもしれません。そうするとアイヌ文化を認め大切にするように見えて、実はそれを消費してしまう、つまり根こそぎ持っていってしまうような、そんな気がしてしまうのです。

(智子)ひと昔前だと、北海道といえばアイヌ。北海道=アイヌというイメージが流通していました。どこか対等でないというか..... 対等でやるという構図は、今でもないのです。

(光範)さきほど紹介があった「近代〜」という本の巻末に「観光地年表」というものが載っています。これは貴重なものです。登別は1958年に作られた「クマ牧場」から始まっている。観光地としてわりと古い旭川は1920年頃から。本格的には1951年に川村カネトが記念館をつくったことから始まっている。このようにアイヌ観光は50〜60年代頃、つまり戦後から始まった動きなのです。平取が観光地かどうかは一概にはいえないのですが、施設もありますし、観光地化の動きもあります。(1893年に、アイヌ木彫の民芸品を札幌に行って販売したとある)上川も1957年に祭りを始めている。阿寒は最初はマリモだった。私は戦後に阿寒にいったことがありますがその時の木彫りは松島を彫ったようなもので、アイヌ木彫りは珍しかったです。
 アイヌ観光の中心地は白老(しらおい)です。1881年に明治天皇が白老までアイヌを観にきたことから始まっているのです。今、祝日で「海の日」というでしょう?あの祝日は、アイヌ観光のために、明治天皇が横浜から船にのって北海道に到着した記念日なのですよ。天皇のためにアイヌを集め、踊らせ、熊送り(イオマンテ)を行ったのです。この時は天皇だけが観るという形だったそうです。その後皇族が続々と白老にやってきました。これに刺激されアイヌ観光が広がっていったのです。
 アイヌ観光の中心だった白老はことごとく槍玉にあげられてきました。一番はアイヌ自身によって。「アイヌがああやってアイヌを売り物にするから、アイヌはみんなそうだと思われるんだ。アイヌを食い物にしている」と、ずっとそういう批判にさらされてきました。それでもアイヌ観光は続いてきた。
 美幌峠で歳とったアイヌが正装し、観光客と写真をとるという観光がありました。峠は朝夕冷えるので、たくさんのアイヌが酒を飲み過ぎて命を落とすということがありました。それをふくめて観光はアイヌ虐待というイメージが広がったのもあり、観光をするアイヌはずっと「売り物としてのアイヌ」として批判されてきたのです。

 しかし1970年代になって、世界各地で先住民族の動きが活発になってきました。アイヌ自身も借金をしてでも外国にでて、外からアイヌのことを考えるようになったのです。そしてアイヌ自身にも、自分達に関わることをどうにかしなければという気概がおこったとき、歌と踊りという入りやすいものから取り戻そうとした。しかし、それを復元するための情報ソースは、観光地にしか残っていなかったのです。二風谷でも途切れなく伝わってきたというのではなく、映像などをみて古老たちが思い出す、ということから始まりました。そうやって記憶を頼りに復元した踊りが多いのです。観光地に残っていた歌や踊りを各地からきたアイヌ達がおぼえました。もともと地域差があったアイヌ文化が、いまその差がほとんどないのは、以上のような経緯からなのです。そうするしか術がなかったのです。
 踊りを覚えたら、アイヌの着物を着て踊りたいでしょう?そうして着物を復元しようとすると、そのお手本となる着物を持っていたのが観光地や資料館でした。充分とはいえませんが、ここ20年くらいのアイヌ文化復興に貢献していたのは、やはり観光地だと私は思うのです。

(参加者)こういう風に考えればいいのでしょうか?もともと観光は批判の対象だった。どうしてそうだったかというと、天皇のお話を先程されていらっしゃいましたが、つまり観光は征服者側が被征服者を見せ物にする、つまり被支配側の文化を非常に珍しいものとしてみるという要素があるからでしょう。つまり「表現をみる」のではなく「その存在そのものを見る」という要素がこうした見せ物としての観光には強い。そういう“視線”に対応するアイヌ像しか許されないような状況を生み出すと。おそらくお話によると、そこまで状況まで進んでしまったと思います。

(智子)表向きのアイヌ像ね。そこだけ表現するという。
その像に合致しない場合、お前はアイヌでないと言われる。でも地元ではそういうわけにはいかないんですよね。結婚差別、民族差別はあるし...。

(参加者)その像しか許さない、それ以外をすべて否定するとなった時、すごい差別がおこるんだと思います。にもかかわらず自分自身のアイヌとしてのあり方を取り戻そうとした時に、観光の視線の中に残されたアイヌ像から出発して、その像を手がかりにしていろんなあり方を獲得していくしかない。出発点はそこにしか残されていないのですから。その取り戻しの運動を通して、そこで自分達の見方とかアイデンティティーをいろんなやり方で探っていく。そうした運動をになったのが観光地だった、とおっしゃるわけですね。
 
(光範)そうですね。
(智子)観光というは最初は個人でやってたわけです。白老は最初に観光を町役場が支援したのです。アイヌを観光のメインにしようとすると町民から猛反対がおこった。白老出身というだけで、外に出た時「あなたアイヌでしょ?」と言われるかもしれない、それは嫌だというのです。それくらい地元の人から嫌がられていたんですよ。それで最初は、他の観光地で働いている人を呼んで観光地を作ったくらいだったのです。観光の問題は複雑です。

(参加者)アイヌの人々は日本人になることを押し進められ、いざ同化すると民族らしさを求められる。そのどちらもが、周りから「こうあるべき」と決められる状況です。もう一度自分達の文化を取り戻して行く過程で、ああだこうだ言われずに自分の意志でそれを決めていくことはできないのでしょうか。

*都市生活と伝統的生活
(参加者)
アイヌの方々の中で、実際に森の中で狩猟生活をされている人は殆どいらっしゃらないわけですよね。札幌など都市生活をしてれば、昔ながらの生活を行うということは不可能です。都市生活をしてれば一年の大半は、ビデオを借りてコンビニで御飯を買っているかも知れない。そのような和人の都市生活というのがあり、それはアイヌの伝統的な文化とは歯車が合わなかったりするわけですね。今のアイヌの方々が伝統的生活をするわけにはいかないという時、では都市生活とどう歯車をあわせていくか?という問題がでてくると思うのですが。

(智子)都市生活の中で、今の生活の中で、少しでも今まで持っていなかったものを取り入れていきたい。私の家の例ですが、年明けにカムイノミ(アイヌ式の祈り)をやっています。それは、どこかに行ってやって人に見せているというものではありません。自分達の一年間への感謝や様々な思いを、カムイノミを通して「生活」の中に取り入れていくということなんです。

(光範)それは霊験がどうのということではなくて、やると私達が安心するというものなのです。今はどんな田舎に行っても都市化してますからね。
 それでもアイヌらしさを自分の中で“実感”できるものを、自分の力で獲得できるかということです。全部知っていなければ、全部獲得していなければアイヌらしくないと、そんなことは絶対ないと思います。

*文化の取り戻し
(参加者)
文化は繋がっていくつなぎ目で創造されていくものだと思います。過去からの思いを途切れさせないで、繋がっていくことを意識するための自分への儀式というか。思い出すために何かを行いたいという思いを感じているのは、実はアイヌの人々だけではないと思います。

(参加者)さきほどの映画の中で、お嫁さんが自分の足で嫁入りする村へと歩いていくシーンがありました。ところが、全て歩いて行くのではなく、大部分は自動車に乗る。私はあのシーンがとても印象的でした。結婚式自体も、一度失われたものをもう一度取り戻すという形でした。けれどもその取り戻しという作業は、前あったものをそっくり復元することではなく、取り戻しながら何か新しいものを創っていくというものでした。

(光則)つまり自分の足の裏で、アイヌとして嫁に行くということを実感できる「時間」があればいいと。それを獲得するためにやっていっているんだと思うんです。

(参加者)さきほど町づくりに関してのお話が出ていましたが、では札幌の町をどうするか、という問題があると思います。取り戻そうとする時に、都市化が進んだ町ではそれが難しい状況です。ですから残ったものを手がかりにして、自分達の文化を再び創るしかないかと思うのです。その中で違ったものがたくさんでてくる。それをもって自分自身を安定させていく。自分なりのアイヌとしての生き方はこういうものだと、納得して生きていくというか。

(智子)そういう時にやはり「体」で、体で動いていかなければ。本だけ読んでいてわかるものではありません。刺繍をやっていても、ひとつひとつ仕上がる度に実感できるし、「私はできるんだ」という誇りになるし。本だけ、話だけでは絶対だめ。料理だってまず味を知らなければ。実感として感じてやっていく中で、また新しいやり方も生まれていくのです。自分の部屋の中で行いながら、新たな縫い目をみつける、新たな技術を発見する、それがこれからの新しい方法ではないかなと私は思います。

(参加者)質問なんですが、アイヌの人々が伝統的生活と近代生活とのギャップを埋めていくという時、見つけられるものがあると思います。ただ札幌の内地人(和人)は一体何をやっているのかな、というのがよく分からないのですが。

(参加者)アイヌの人々にとっては再発見ですが...。本州あたりからやってきた開拓者というのは、僕達九州の者とは違う、開拓者としての文化を持っていると思うんですね。僕はブラジルの島にいっていたことがあるんですが、そこはポルトガルからの移民が多く、その文化と先住民文化が融合していたところでした。北海道に住んでないから呑気に言えるのかもしれませんが、融合という形ではいけないのですか?

(光範)文化というのは、遺伝子よりも確実に伝播するといいますが、その島の場合はもともとの文化がベースになっていたからできたことだと思います。
 和人の小学生に弓矢の作り方を教えたことがありました。その時の彼等の感想は「アイヌっていいな。こんなことやっていたなんて。」だった。ちょっと待ってくれ、と言いたい。弓矢を使ってたのは何もアイヌだけじゃないんだよと。アイヌだ、和人だ、というのではなくて「生活の中の何を文化だと感じるのか、そして何を伝播していくのか」そこがズボッと抜け落ちてしまっているという点では、和人もアイヌも一緒なのではないかと思うのです。

**************《休憩》***

*「アイヌである」「アイヌになる」
(参加者)
私達の親自身が学べなかったこと、いままでちゃんと知ることがなかったことを、今日初めて知ることができたことが私の中では大きなことでした。
 さきほどのお話をくり返すようですが「アイヌになる」という場合、全くゼロの地点からアイヌになるということができるのでしょうか?

(参加者)僕は、アイヌです。僕の父親がアイヌなんですけど、父の時代はアイヌであることを隠し、日本人になりたいと思っていた時代です。ですから家庭の中でもアイヌであるということは一切教えられなかったのです。でも自分は顔が違うしアイヌなのではないか、と思っていました。アイヌであるということで、随分と親は苦しんできました。ある時、自分がアイヌだということを教えられました。
 日本人が「日本人だ」と言っても、何もデメリットがないのです。ところがアイヌが「アイヌだ」というと非常に不利益が生じる。就職差別、結婚差別はアイヌでなくても受けることもあるのですが。アイヌがアイヌであると口に出しても、得することは何もないのです。
 ただ僕は、差別する側にはなりたくない。僕がアイヌであるということを隠すということは、和人の立場にたってアイヌを差別することだと思います。ということで僕は「僕はアイヌです」と言おうとしているのです。
 先程、文化のお話が出ていましたが、こうやって計良さん達のように伝統的な文化を継承することで喜びを感じる人々もいます。でも僕はそういった文化を何も知らないのです。伝承することで喜びを感じる人々は、アイヌの中の一部だと思います。そうできない場合が多いし、やっても不利益が生じるからです。アイヌであると言い、文化を継承することで何か得るものがあるのかと。アイヌであること、アイヌであり続けることは、今とても難しいと思います。

(参加者)自分自身について何かカミングアウトした時、周りからの反応は予測がつかないし、そこから生じる不利益とはつかみどころがない恐怖です。そのことについてはいかがですか?

(参加者)さきほど私はジェンダーをテーマにした集まりにでていました。ジェンダーの問題においてはカミングアウトというのはとても重要なのです。自分が“性倒錯者”である、つまりゲイやレズビアンであるという宣言です。それをなぜ表に出すかというと、自分が差別する側にはまわりたくないということなんです。取り巻く状況はちがうのですが、その点においてなにか先ほどのお話に共通するのかと思いました。“性倒錯者”の場合は、カミングアウトすれば「人間ではない」というプレッシャーを周りから与えられるわけですが。

(智子)私が思うのは「アイヌであることの何が悪いんだ」ということです。最大限アイヌであることを表にだしていく、職業にだって活かしていく。やっぱりそれは外国にいってから感じ始めたました。ただ先祖が持っていたものを、絶やしたくないのです。
 刺繍講習会に参加する人々と刺繍を行うことで、そのすばらしさをこの北海道の中で共に感じたいし、絶やしてしまいたくない。

(光範)2年前にヤイユーカラの会で、カナダの先住民の村にホームステイしたことがあります。その村でスウエットロッジ(蒸し風呂)をやりました。これはもともとカナダにはなかったアメリカのインディアンの文化です。カナダの先住民は、その土地固有の文化をほとんど失ってしまっています。それでもやっぱりどこかに帰りたい、インディアンでありたい、ネイティブでいたいと願う時に、半インディアン文化というのがでてきた。つまりインディアンらしい文化ならなんでも取り入れていこうという動きがアメリカやカナダで一様に広がっている。そこからインディアンに帰るのだと。
 ウエットロッジではテントの中で焼けた石に水をかけ、蒸気によってテント内の温度を上げていく。汗をかいて気が遠くなってく、そういったテンションの高さを共有しながら皆が「自分」のことを語っていくのです。ところがそれに参加した一人がその中で自分たちの歌を歌えといわれ、何も思い付かなかった。「これなんだ、というのが何もない自分って何なのか」と思ったというのです。それでも私達は生きてきたんだし、生きていくんだね、というのが参加した60才の女性の感想でした。自分って何なのか。帰るべき場所がなくても平気で生きてきた自分がいるんだなと。

 アイヌにしてもインディアンにしても、自分が帰る場所がなければ生きられなくなるような気持ちになった時、アイヌになる、インディアンになるという話がでてくるわけです。その時何をもっているかどうかという話ではなく「なる」という決意。帰るところがひとつでもいいからほしい、そういったものだと思います。何を手にしているというより、そのスピリッツがあるかどうか。いわゆる日本人、非アイヌ、和人であるということと、アイヌであるという違いはそこだと思います。
 在日韓国人の人々がもともと自分達の文化を獲得しアイデンティティーを取り戻すという作業も同じことです。彼等の名前にしてもそうですよね。
 何もなくても存在できる人と、「何かなくては存在できない、確認できない」そういう人が確かにいるんだということ。アイヌになる、ならないということを考える場合はそこが重要で、どういうことがアイヌであるかということが問題ではないと思います。

 白老で先住民族のシンポジウムをやったことがあります。それぞれの民族が歌や踊りをプレゼンテーションしました。白老という観光地でやったということ、また集まった先住民の多くがなんらかの形で観光に携わっていたこともあり観光に関する話題が多く出ました。彼等に共通していたのは、歌や踊りをおぼえることが文化ではない、という考え方でした。サーミにしても台湾のアミ族にしても、観光地を中心として経済的に自立し自分達の文化をとりもどしているんだけど、それだけではだめなんだと言ってます。観光は、観る者と観られる者がいて成り立っているものです。「観る者がいなくても成り立つにはどうしたらいいか」ということを、観光で生計をたてながら考えていく必要があるのです。
 白老で働く野本さんという方が話されていたことですが、白老に来る40万人の人々が100年前の認識と全く変わっていないというのです。何も知ろうとしない、もしくは誤解を持っている。観光客は珍しい民族をみるためにやってくる。「これが終わったら、山に帰るの?普段は何を食べているの?」と聞いてくる。そういったステレオタイプのアイヌ像に、おおかたの和人は縛られていて、そこからしかみない。それをみて満足して帰っていくのです。
 それでは困るのです。北海道にきて、未開の珍しいアイヌをみて帰られては困るのです。だからガンジガラメになった中で、教育や博物館を通じてそれを変えていかなくてはいけない。実はアイヌ自身もそのステレオタイプに安住してはいないか。そのイメージさえ守っていれば、観光地も博物館も成り立っていくわけですから。

 ですから観光地で働くアイヌや博物館にとっての最大のテーマは、その観光客のステレオタイプをどう壊すかということなんです。ステレオタイプを否定するのではなく、どう変えていくか、創っていくかということです。
 野本さんは、自分がそれを克服するには、イオマンテ(熊送り)が一番いいというのです。その精神とやりようを本当に自分達が獲得して、次の世代伝えていくことができれば、そういった観光地のイメージも変わっていくのではないかと言っています。課題はアイヌだけでなく、先住民サーミも同じことを言っています。そこをクリアできなければ、このままでいったら(ステレオタイプの)アイヌっぽいものはこれからも増え、それをとりまくアイヌおたくのようなものが増え....気がついたらアイヌは滅んでいたということになりかねないのです。

(参加者)表象論の中でも問題になる「ステレオタイプ」ですが、それを見ないというのではなく、また全否定、全肯定するのでもなく、むしろよく見てそこから変えていこうということでしょうか。

*選べるのか
(参加者)
さきほどの智子さんのお話が印象的だったのですが、実際に自分で手を動かして感じるというということの大切さを自分も経験したことがあります。その場に行って触って自分の五感で感じるということは、本で読むのと全然ちがうんだな、ということです。
 それから帰るところがあるとか、ないとか、そういうことに気付いたり感じたりするというのは、ふつうに生活していたらないのではないかなと思いました。私も日本を出たことがあって、その時外国人から「日本人ってこうだよね」っていわれた時、実際は自分はそうでなくて悔しい思いをしたことがります。その時はじめて日本人って何なのだろうと考えました。帰る場所があるのかと。

(参加者)帰るべき場所というのが大切に思える人と、大切に思えない人がいると思います。それはアイヌの人々に限ったことではなく、ひとりひとりがそれを大切か大切でないかを、決めていっていいのではないかと。ある人はそれを掴みたいと思い、ある人にとっては取るに足らないものだから掴まなくていい、それを決める自由がほしいと思います。自分の属性や他の人にこうすべきだ、と決められるのではなく。

(参加者)これは憶測ですが、アイヌの血をひいていても和人として生きようと決意されている方もいらっしゃると思います。アイヌの伝統文化が自分には馴染まないという方も、馴染むという方もいらっしゃる。それは自分の心の中から生まれてくる何かによるものなのでしょうか。

(参加者)それは心の中で生まれてくるものではないと思います。やっぱり学校でもアイヌのことに関して、きちんと教えないからアイヌに対してマイナスイメージしか持てないようになる。さきほど計良さんがおっしゃったように、日本人であることさえ考えなくていい状況、アイヌのことを知らなすぎるという状況に対してバランスをとる、つまり日本人とアイヌを同じくらいまで教えて選ばせることが必要なのではないかと。
 親の代は進んで同化しようとしていた。同化すれば、血が薄まれば、いつか差別されなくなるだろうと思っていたのです。僕の子供も孫も、アイヌと呼ばれるのでしょうし。「自分はアイヌでない、アイヌでない生き方をしたい」と言っても、どこかでお前はアイヌの血を引いているのだいう枷をはめられる。選ぶ選ばないというよりも、アイヌを選べない人がほとんどだから。状況の方が変わらない限り、アイヌを選べない状況もまた続いていくのかと思います。

(智子)自分は両方持っているということを、堂々といえる状況がなぜできないのでしょうか。そう言える状況ができたらすごいな。

(参加者)自分にとってわからない文化にパッと出会った時、とりあえず自分の中にプールできる人と、わからないからといって排除してしまう人がいます。とにかく居場所が確保できてそれを判断できるまで、ずっと持っておくことができるようになったなら、本当に生きやすくなると思うのですが。なるべくニュートラルな状況になるように、教育や表現を通じてやっておくほかはなく、それが和人として私ができる精一杯のことです。

(智子)違いを認め合い、大切にするというか。

*マジョリティー/創られる文化

(参加者)和人として、日本人として生きていった時、何も考えなくていいという状況があるというお話が出ました。自分は何の属性もない、意識しなくても生きていける。僕はそれがまさにマジョリティーとしてのマジョリティ側の生き方だと思います。そうであっても生きていける。
 一方で、自分が何者であるか考えないと生きていけない所に位置する人たちがいる。それはなぜかというと、先ほどのお話からいえばたとえば身体的特徴であったりとか、血筋とか、文化の違いとか直接自分が選んだわけではない何らかの理由によって、周囲との違和感を感じざるをえないからです。
 何も考えないで生きていける方がいいのかというと、それはマジョリティの立場に安住しているわけだから、よくないと思います。ところがマジョリティだった日本人も、ひとたび外国にでるとそうも言っていられなくなる。「自分って何者なんだろう」という考えがでてきて、それがそのまま「日本人って何なんだろう」に置き換わる。そうすると、日本人を取り戻すのだというナショナリスティックな運動になっていきかねない。
 アイヌだって地域差があって多様な文化があったんですよね。だから自分なりのアイヌという場所、自分の固有の場所を一生懸命つくっていこうとするわけでしょう。つまりアイヌや日本人といった概念とは無縁というわけではないにせよ、自分はこう生きていきたいというところで自分を創っていく、それがいわゆる「文化の根っこ」なのではないでしょうか。
 踊りのステップを覚えることは大事なんだけれど、踊りのステップを通して自分のアイヌの文化というものを個人の生き方として創っていく。そういうところから文化は創られていくんだと思います。

(光範)アイヌの踊りって一人で踊れる踊りってないんですよ。人数が結構いないと踊りも歌もできない。小人数で何かやってくださいという依頼が、一番困るのです。ところが、男一人で踊れる踊りが一つだけある。「クーリムセ」という弓を使った踊りです。それは所作も踊りの振りも非常にトラディッショナルなものを感じさせる踊りです。この踊りの名人だったのがひかわ善次郎さんという人で、有名なエカシ(長老)でした。「これエカシが皆に教えた踊りなんだよね」とエカシに聞いたことがあるのですが、するとエカシは「うん。俺が創ったんだ」と答えたわけです(笑)。一人で踊れる踊りがないから困るから創ったんだ、と。今この踊り全土で踊られているんですよ。保存会のみんなでおぼえて古式ゆかしい踊りだとして紹介し、踊ります。

 善次郎さんが創った50年前の踊りだから、じゃあそれが嘘かというと、実はそうではないのです。その踊りが広まったのは、それが創られたとはいえ優れているからなのです。刀を持って二人組みで踊る伝統的な踊りがありますが、これはかなり古いものです。「クーリムセ」も基本的にはこのステップに準じています。「クーリムセ」は観光地が生み出した、いわば古典なんです。
 さきほどカナダのインディアンの話をしましたが、彼等はいろんな地域のインディアン文化をとにかく今は取り入れている。アイヌもそうです。文化というのはこのように日々新しく創られていくし、生まれかわっていくし、そして優れたものが継承されていくのです。「クーリムセ」が一番わかりやすい例だと思うのです。もちろんアイヌの内部から、創った踊りであることを批判されたこともあります。その時善次郎さんは言いました。「俺のように生きてきたら、こうする他なかったんだ」と。

(参加者) カタルーニアの人々が伝統舞踊を福岡で紹介してくれたことがあります。その中には遠くキューバの踊りや、自分たちで創作した部分も含まれていました。そのことを思い出しました。

(参加者)アイヌの結婚式という映画に関連したお話なのですが、私は以前ブライダル雑誌の記事を書く仕事をしました。結婚式の和式衣装のことを調べていて驚いたことは、花嫁が胸にさす房のついた 「懐剣