ポストコロニアル状況下における芸術的意識構造  >Back(Lecture)

ーメキシコの彫刻家スニガを中心としてー

九州芸術工科大学 知足 美加子

デアルテ 第16号(平成12年5月)p.79〜92

はじめに
1コスタリカとメキシコ
2メキシコ古代芸術(二元性宇宙論)
3リアリティの探求
4境界の拡大と縮小
おわりに

はじめに
 中米コスタリカ国出身の彫刻家フランシスコ・スニガ(Francisco Zu亦ga 1912〜)は植民地化や革命を経て多文化が混在するメキシコで活躍した作家である。スニガの作品は植民地帝国主義によって文化の核を奪われた被支配側諸国の現実を伝える側面を持つ。西欧中心の一元的美術史観によって黙殺されてきた「被支配の経験をもつ諸国側からみた多元性」への再解釈を促すものとして、スニガの作品を捉え直す必要があるだろう。本研究はポストコロニアル的視点1 によって、社会的・文化的差異の構造を芸術作品という文化表象側から解体する。そして特殊な歴史的産物である個人の活動を通じて、文化的記憶のイメージが再構築され続ける植民地以後の意識形態について論じるものである。
 植民地経験のある国々は、被支配にあった時代を境として歴史的帰属意識に断絶が見られる。メキシコでは「プレ・イスパニック時代」「植民地時代」「革命後の資本主義社会確立への混乱期」からなる歴史的復層状態への内面的葛藤が、彼らをして現代メキシコ美術独自のスタイルを渇望させる動機を形成した。 メキシコは人口の約7割が、スペイン人との混血(メスティーソ)であり、古代メキシコにも、スペインにも完全には帰属できないという二重の否定を抱えている。そこで近代メキシコでは、歴史という過去の再構成(ドラマナイズ)が積極的に行われた。2
 コスタリカ人の彫刻家フランシスコ・スニガはその渦中にメキシコに移住した。1)スニガは母国に対する否定の感情から、2)民族としてのルーツを探求し、3)次第に経験的現実を見つめるようになる。4)本研究ではその帰属意識の境界に視点を置き、スニガの作品に内在する言語化されえなかった近代メキシコのリアリティを考察する。
 
1 コスタリカとメキシコ
 
スニガの父(Manuel Maria Zu亦ga)は教会の彫像などを作る宗教彫刻家であった。スニガは父の元早くから彫刻的技能を自然に身につけ、世界の美術状況や知識は図書から独学で学ぶというスタンスを持っていた。17歳の頃「ドイツ表現主義展」の中で観たバルラッハ(Ernst Barlach,1870〜1938)や、雑誌でみたブランクーシ(Constain Brancusi,1876〜1957)の作品に影響され、当時のコスタリカでは新しい試みの作風で国立造形美術展に毎回入賞していた。1936年、スニガの作品は聖母子像のモニュメントのコンクールで優勝する。スニガの聖母子像が新聞で報道されると、従来の伝統的な聖母子像と全く違うことから国民を巻き込んだ大きな論争になった。その騒動の末、スニガの賞は取り上げになってしまう。 
 絶望したスニガは近隣国のメキシコへと旅発ち、20年近く帰国することはなかった。母国から否定されたというスニガの精神的外傷は、その後の彼の自己アイデンティティー模索に関する強い動機付けになっている。メキシコで、スニガが自分のルーツをインディオ文化に求めた根底には、母国の喪失感が深く関係している。

 スニガがコスタリカを離れるためメキシコにその活動拠点を移した1936年、メキシコは未だ革命後の活気に満ちていた。スニガはここで、祖国ではない「メキシコ」のナショナリズムや文化・歴史について考察し、自分の作風を展開するというユニークな立場をとることになる。
 1812年に植民地宗主国スペインから独立したメキシコは、植民地時代以上にクリオーリョ(白人系メキシコ人)を中心とした特権階級による社会的不平等に苦しめられた。その不平等を是正するために民衆が蜂起した。これをメキシコ革命 3(1910年)とよぶ。当時のメキシコでは、政治的プロパガンダとしての壁画運動4 など、芸術がナショナリズム高揚のため中心的な役割を担っていた。メキシコにおけるナショナル・アイデンティティーを模索する時代の雰囲気は、異国で自己アイデンティティーを確立しようとするスニガに大きな刺激を与えた。
 メキシコ人は、自己イメージをより大きな領域「メキシコ」に帰属させ、その領域のルーツを探索することでアイデンティティーを創造しようとしていた。つまりこれは歴史という過去を自分と関わりあるものとして再構成(イメージの塗り替え)をしていく作業であった。このようにより大きなものへの帰属意識が必要になってくる状況とは、圧迫を与える外部が想定される時である。植民地状態から独立した当時、メキシコ人にとって外部(他者)としてのイメージは宗主国スペインであった。圧迫を与える宗主国の存在により、逆にメキシコというナショナリティの概念が生まれたのである。さらにその後の革命時においては、既存のメキシコ社会を乗り越えるような新しい近代メキシコ像が必要となった。つまり乗り越えるべき他者は宗主国といった敵ではなく、「メキシコ」という過去のイメージだった。メキシコのアイデンティティーはもともと古代メキシコにあるという視点と、ヨーロッパを中心とした国際的な文化状況を積極的に取り入れようとする視点の両極に近代メキシコ像は揺れる。

 スニガはメキシコにおいてインディオ文化の遺産と西洋の近代彫刻の概念の両方を、共に新しい認識として受け入れていく。
 移住間もないスニガの日課は、国立人類学博物館に通い古代美術品のデッサンを重ねることであった。ここには現地遺跡ではみることができない優れた古代美術品が陳列されており、スニガは、古代中米彫刻の中に西洋近代彫刻のコンセプトが存在するという造形的解釈のもと、古代文化の概念を普遍化し自らの作品に活かす道を探っていた。

「過去に戻ったり古代の象徴や装飾を繰り返す事が問題ではない。伝統の源泉と、劇的な造形的解釈に触れることが大切なのである。...私にとって伝統から出発するのは、自然なことに感じられた。文化的にでないとしても、アメリカを構成している環境に私は属しているのだから。」 5

 彼はここで、アメリカという環境に自分は属している、と意識しはじめている。メスティーソであるスニガにとって、プレイスパニックという植民地以前の中米文化はスペイン文化同様、自分のルーツである。古代文化との繋がりを深めることよって、メキシコをスニガが帰属する中米文化圏の中心として位置づけ直すことができたのである。

2 メキシコ古代芸術
(二元性宇宙論)

 
スニガの彫刻表現の特徴的なコンセプト、フォルムと古代メキシコ芸術との結びつきをみてみよう。まず、メキシコ古代芸術の精神的基盤の中で、スニガがもっとも注目したコンセプトは「二元性宇宙論」であった。
 国立人類学博物館に一つの顔の半分が骸骨を表した作品がある。中央高原のトラティルコ(a.c.2000年〜100年)の墳墓群から出土したもので、他にも3つ目の頭像や、一つの胴体に二つの頭がついている双頭一身像などがある。(図1)これらは「生と死、光と闇、男と女、成長と老いといった二つの対立した要素によって宇宙は生成されている」という二元性宇宙論に基づく造形である。相反するものを尊重する思想は、その後の古代メキシコ文化に大きな影響を与えた。一つの例として夜明けと日の入りに登場する金星の二元性はケッツァルコアトル神への信仰を生んだ。この神は天の象徴である翼(天上界への上昇)と、地上界を象徴する蛇(死者の世界への下降)が合体したものである。このようにメキシコ文化は、生と同様に、死や老い、恐ろしく奇怪なものなどを尊重した。背中に瘤のある人物など肉体的な障害を強調してつくらせた彫刻も多い。(図2)当時の人々は神の意志が人体の奇形の部分に表出すると考え、障害を持つ人間に神と人間の仲介者としての役割を担わせたのである。二元性宇宙論に基づいた文化は、後のコロンブス時代スペインのキリスト教信者から悪魔的とされ、多くの文化財を破壊される原因となった。

(図1)  (図2)

「二元性の土偶」オルメカ  「コリマのせむし男」

a.c.1100~b.c.200      400〜600年

 

 スニガはこの二元性宇宙論に刺激され、自らの彫刻表現の中において「対立するものを、彫刻の中で組み合わせ凝縮する」ことを目標とした。相反したものが反発し引きつけ合い、お互いに作用し合うことで確かな価値を取り戻すというのである。形の生命はこのような運動の表象を呼び起こす点にある。スニガはこういった運動から生じる両極への振幅を、静止状態にいたるまで凝縮させようとする。まさにその凝縮の圧力の中に強い存在感を見いだそうとしたのである。
 スニガは積極的に「老いゆくもの、朽ちゆくもの」を表現する。彼は老女の石膏作品は意図的に雨ざらしにし、朽ちゆくもののマチエールを作っている。(図3)さらにこの像は下部の構造的強調によって大地に立脚する力強さを表現している。こうしてスニガは、崩れ落ちようとする力と上昇する生命力といった相反するものを一つの彫刻内に表現しようとした。

(図3) スニガ作「立つ女」1968年

「成長は早くすぐに年を取る過程が始まる。充分成長した形態は同時に二つの側面を持つ」6 (筆者訳)

 

(量感、構造の強調)
 スニガが古代彫刻からフォルムとしてヒントを得たものに「腰部の量感の表現」「形の省略による構造体の強調」という要素がある。スニガの彫刻作品の特徴はこの豊かな量感と、垂直性という構造を強調する点にある。
 a.c.1800~1500頃までにメキシコで作られた土偶は腰部を強調した女性像が多い。スニガはこの土偶の形態を、マッス(量感)を強調するフォルムとして参考にしている。スニガは、身体の各部分を「腰部」を中心とした一つの塊としてとらえることで、より効果的に安定した豊かさを表現しようとしている。そのために、作品内でインディオの女性が日常的に身につけるショール(布)を構成要素として利用し、腰部の塊感を強調している。

       

(図4)           (図5)

「青年像」ワステカ      スニガ作「ソレダ立像」

 900〜1521年          ブロンズ 1971年

 古代メキシコの石彫作品の多くは最小限の凹凸で人体を表現しており、そのことで垂直方向の動線を強調している。スニガ作の「ソレダ立像」(図5)などにこのフォルムの特徴は応用されている。スニガの場合は布によって身体細部の凹凸を平面に集約させ、特徴的ないくつかの凸部をつないで垂直構造を強く押し出している。

 (死と時間)
 メキシコ古代芸術の中で繰り返しテーマとなるものであり、後にスニガが相関関係による表現にたどり着く契機となったのが、「死と時間」という主題である。
死と時間は、古代メキシコ人にとって不可解、かつ最大の関心事であった。a.c.1000年頃栄えたオルメカ文化ではすでに0の概念を使った時間の計算を行なわれ、神聖文字によって石碑に時間が記録されていた。彼らが時間に固執する根底には、自然界の営みが停止することへの恐れがあった。「宇宙を存続させるには、人間自らが犠牲を払い責任を果たさなければならない」という宗教観から、死と時間(自然界の運行)に関わる古代芸術作品は多い。太陽の運行のために生け贄の心臓をのせたといわれる石彫「チャックモル」(900〜1200年,図6)はその例である。また時間を主題としたものには「死・老・若を表す顔」(トトナカ文化,図7)などがある。中央に青年の顔があり、その脇に老人の顔、さらに死者の顔が覆い被さっているテラコッタである。死に至る時間の流れを、形として表現している点で興味深い。

 

(図6)                  (図7)

 スニガはこのような時間の流れを、群像によって形にしようと試みた。「3人の歩く女性」(図8)がそうである。少女、中年の女性、老女が歩行している様子は3人の個別の女性というより、一人の人間の人生を連想させる。この群像は構成要素である各彫刻の関係性と、歩くという行為の中に「時間の運行」を暗示させている。各彫刻が具体的であるがゆえに、目に見えない時間や関係性をより強い実在として感じさせるのである。
 この群像による表現は、スニガが晩年実際のモデル(インディオの女性)を中心に仕事をしながら、頻繁に取り組んだテーマである。これらの表現は古代への安易な接近ではなく、近代メキシコにおけるリアリティを追求したスニガの意識が古代彫刻の中に「時間」「関係性」という普遍的な主題を見いだしたといった方がよいであろう。

(図8)スニガ作「3人の歩く女」ブロンズ 1981年

  

3 リアリティの探求

 20世紀初頭メキシコの民衆の間では独裁者ディアスやクリオーリョ出身の上流階級への反感が満ちていた。ディアスが目指した近代化は「西欧化」であり、外国資本を優先した。そのためメスティーソやインディオたちは独立以前にもまして困窮した。ディアスに対する反発はそのまま西欧に向けられた。知識人たちはナショナリズムを追求し、国民を巻き込んで民族意識を高揚する手段を考えた。それがメキシコ革命とよばれる運動である。スニガも移住直後は、革命モニュメント制作の助手となり、エスメラルダ美術学校に勤め始めてからも1956年頃までモニュメント中心の制作活動を行う。メキシコのモニュメントは、壁画主義と同様「国家のための芸術」という意味合いが強かった。芸術とメキシコ社会との繋がりを深めようとしたスニガであったが、国家芸術創造への夢が革命というカテゴリーの中で認められるようになると次第に違和感を感じるようになる。これはスニガの師であり、人間存在そのものの悲哀を表現しようとした画家のロドリゲス・ロサノ(Manuel Rodriguez Lozano)7 の影響でもある。

「私は政治的主題のある芸術の作用に関して心配していた。中米の工芸のようにメキシコのイメージは完結してしまったのだ。私の彫刻の根本的イメージの行く末はこれと同じではない。座像や立像にあらわれるものは意図ではなく、豊沃さのイメージであり、苦しみや憂い、孤独や抵抗である。」 8

 スニガは「幾何学的フォルムの強調」「強い垂直志向」など古代彫刻の伝統を尊重しつつも、より現実に強く関わるための道筋を模索するようになる。そして表現手段においては直彫りという方法をとるようになる。スニガはこの手法を契機として、日常にある実感や抵抗感に目を向けることとなる。
 直彫りがモデリング(付け足しながら成形する方法)とちがう点は、素材からの強い抵抗感であり、素材の質や形によって作者側の意図が制限されることである。9この制限によってスニガは避けがたい自然の拘束と人間活動との対立を実感する。実材の抵抗感とそこから生じる葛藤は、意図した形態へと安易に追随した作品にはない魅力がある。この魅力をスニガは、内部から外へと生じる彫刻の力であると言う。直彫りで制作したスニガ作の「座った女」(図9)はスカートの部分に鑿ではつった跡があり、表面的な美しさよりも素材の質感を引き出そうとしている。

(図9)スニガ作「座った女」1955年

  際限なき気まぐれや、技能をひけらかすような表現にこの種の力が伴わないのは「試行錯誤のプロセス」が欠如するためである。素材との相互関与から生まれる手の痕跡は、観るものに時間と思索の量を追体験させその重みを想起させる。彼は直彫りを通じて素材という可触の現実と強く関わるという姿勢を培った。素材との過酷な攻防の中で、現実世界の諸原理や質感を見抜こうとするスニガの眼差しがある。
 またスニガは作品の主題としてインディオ、特にメキシコシティの道端で物乞いをする人々をとりあげるようになる。スニガが普段目にしているリアルなイメージに接近するためである。作品の中にインディオの女性たちと日除けに使うショールが登場するのは、モニュメント制作から離れた1960年頃である。 
 さらにモニュメントを制作していた頃と変わって、作品の題目が言語的なイメージを想起させないようになった。例えば「座った女」「ソレダ立像」などの題目である。言語による意図に気をとられると趣向がドラマティックになっていき、それに反して形は生物学的な必然性に戻ってしまうと、スニガは考えていた。
 このような試みのひとつひとつは、感動させうるリアリティーとの関係を形にするというスニガの挑戦であった。しかしその関係における全体性は強調する本質の何かを抜きさったところにあり、決めたり明らかに出来ないものを得ようとするこの試みは際限なき努力を強いる、スニガは言う。
 1970年代にはいるとスニガは実在感の暗示を素材との関わりの中ではなく、自立した作品間の関係性の中に見いだすようになる。群像という複数化された彫刻の「間」に、相反する要素や時間を凝縮するという可能性を見いだしたのである。つまり本来具体化して伝達することが不可能なもの、限定もできない流動的なものを伝達する試みである。「間」を強調するためには個々の彫刻がより具体的であること、そして各要素が必然的に結びつき全体性を感じさせることが必要であった。スニガ制作の「4人の女と1人の子供」(図10)は各世代のインディオたちがモチーフとなっている。

   

(図10)スニガ作「4人の女と1人の子供」ブロンズ 1974年

 作品の女性たちは誰1人として互いを見つめずに佇む。各彫刻の方向性を外に向けることは、作品の心理的な占有空間を広げる効果を与えている。またスニガは作品の左上から右下の子供に向かって鑑賞者の視線が流れ、全体が一つの形として感じられるよう配慮している。緊張感のある空間内でどの部分も全体に関して必然的に関わり、多様な要素の調和的な配置が実現している。
 
 しかし1980年代になると、関係の意味性を構成する傾向が強くなる。箱根彫刻の森に設置されている「海辺の人々」(図11)は群像の構成要素にはっきりと意味性が読みとれる。中央に立つ女性と左の老女の間には「成長と老い」「生と死」の関係が、右の後ろ向きの男性との間には「男と女」「表と裏」という対立関係がある。対立した関係はお互いを損なうことなく補填しあっている。ある側面のみが優越しているのではなく、あらゆる側面が生命の持つ顔である。3つの像の目に見えない関係の中に、スニガは生命の全体像を見出し表現している。

(図11) スニガ作「海辺の人々」ブロンズ 1984年

 スニガにとって対立は別の効果、つまり関係性を積極的に表現するための要素となった。群像における対立関係は言葉のように固定的でなく、複数の意味性が交差する曖昧さを含有するがゆえにより豊かなイメージを生む。関係性を強調するためには、部分同士の距離を意味をなさなければならない。一つだけが強調され過ぎることも避ける必要がある。そしてそれぞれの像が具体的な姿を失わないことが重要であった。こうしてスニガは複数の要素を一つに抽象化する形から、群像によって複層的な関係性を表現する方向へとシフトしていった。

4 境界の拡大と縮小
 スニガの作品において、メキシコ時代からスニガの帰属意識の境界は拡大し、彼が日常的なリアリティを重視し始めた頃からその帰属意識の範囲は徐々に縮小していく。そして次第にその境界が関係性の問題に置き換えられていくのがわかる。コスタリカ人であるスニガにとってメキシコは違う文化圏であった。その違和感を乗り越えるために、彼はコスタリカとメキシコに共通する「インディオ文化の根源」に自分を帰属させようとする。そして彼はその古代彫刻の中に、西欧近代彫刻のコンセプトー幾何学的フォルムの強調などーがあることを見出す。スニガの目にはメキシコ古代芸術の中には、西洋文化に通じる普遍的概念が既に存在していた。つまりメスティーソ(西洋と古代メキシコのハイブリット)のアイデンティティーの拠り所をそこに発見したのである。
 メキシコ革命期は作家自身が社会体制を築き上げるために動いた時代であったが、1950年代になると新生メキシコを足場に、作家が国際的な舞台に飛び出す時代が始まった。彼らが世界に切り込む手がかりのひとつは世界の現代美術の概念を取り入れ追いつこうとする「国際主義」、そしてラテンアメリカの文化伝統を個性として表現した「土着主義」である。しかし本論における問題は作品をカテゴライズすることではなく、この二つに共通するポストコロニアル的視点に注目することである。ここには植民地化を経験した国がその現状と先進諸国への格差をあらかじめ認めており、世界を意識する程に自国を相対化する、という共通の視点があるのだ。

 ファノンによれば植民地主義は他者の系統だった否定であり、他者に対していかなる属性も拒絶しようとする凶暴な決意であるという。10 古来の宗教観を強制的に否定されたラテンアメリカ文化は、300年の植民地時代に終止符を打った頃、以前の宗教的思想体系が復活する基盤を失っていた。それにも関わらず、国家のアイデンティティーを求める文化人の多くは、メキシコの独自性は植民地時代以前(プレイスパニック)にあると信じた。そして寸断された古代文化を自らの歴史につなげることによって、自分たちの文化基盤が征服国スペインのものではなく、独自性を持つものであることを立証しようとした。 
 しかし無政府状態と内乱のおもむくままであった独立後のメキシコの中では、植民地時代を境とした文化的差異をじっくりと統合していく努力を継続することは不可能だった。文化の再構成は内省を伴わないまま、イメージのみで早急に構築されナショナリティの高揚に利用された。それは単なるシンボリックなメキシコというイメージであり、現実感に乏しい理想に終始するものであった。実際には、独立後の近代メキシコとは何であるか誰も把握できない状況だったのである。
彼らの中に次第に、メキシコ人は結局スペイン人にもインディオにもなれないという虚無感が広がる。メキシコの文明批評家オクタビオ・パスによれば、当時、独立記念祭(9月15日)に叫ばれていた「メキシコ万歳、チンガーダの子」という言葉にこの認識が表現されているとする。チンガーダとは犯された「母」という意味である。ここでいう「チンガーダの子」とは、新生メキシコ人にとっての不特定な他者(仮想敵)である。それは植民地状況下のメキシコ人自身でもあった。 11
 メキシコ人はメキシコの母を嫌悪し、起源と雑種性を拒否し「人間」という抽象として活気づく。彼らは自らを閉ざしたまま、ただ歴史的な生の中に入り込む。コルテス(スペイン人の征服者)マリンチェ(コルテスに協力したインディオの女性)がメキシコ人の想像力と感性の中に残存しており、そのイメージは彼らが未だ解決できない葛藤の象徴なのだと、パスはいう。

「孤独感、つまり我々が引き裂かれた肉体への郷愁は、空間への郷愁である。きわめて古い、しかも殆ど全ての民族にみられるこの概念によれば、その空間は、世界の中心に他ならない。」 12

 中心の喪失。征服者によって犯された母への嫌悪と郷愁。スニガの豊満な女性の彫刻もまた、単なる生命や大地のメタファーとしての「母性」だけを表現しているのではない。スニガにおける母性の表現には、メスティーソに共通する中心の不在感とその郷愁、そしてコスタリカという母国への葛藤が内在している。
 メキシコ芸術における国際主義と土着主義は、ともに文化の不在というメキシコ人の劣等感をいやしてくれる刺激剤である。西欧または古代文化への模倣という見せかけの効果は、他者を欺くための虚栄心に由来するものではない。それは、メキシコ文化の不在をメキシコ人自らに対して隠すという、植民地以後の独特な意識構造によるものである。メキシコ人自身がメキシコを卑下する傾向が原因となり、西欧文化に対する敵意と同時に外国文化の模倣の行き過ぎが生まれる。彼らが母国の現実を無視して精神的に逃避する先に、革命後のメキシコ文化の創造があった。
 
 スニガもまた、あくまでも他者の立場からインディオ文化を解体し、要素として取り入れようとしている。古代彫刻を作品に取り入れるといっても、スニガもふくめたメスティーソの宗教的基盤はキリスト教カトリックであり、古代インディオたちのような宗教的基盤に基づいて形を生み出しているのではない。スニガは純粋に造形的な解釈として、古代精神文化を作品にとりいれているのだ。ましてや、インディオ文化の遺跡などが殆ど存在しないコスタリカで育ち、メキシコ革命自体を経験していないスニガが、革命後のモニュメント彫刻で多用されたメキシコの象徴(とうもろこしや古代の神々、革命の英雄など)に違和感を持つのは当然のことである。西欧と異なるメキシコをアピールするために用いられたアレゴリーは、スニガ自身の経験的現実から生じたものではない。
 近代メキシコはアイデンティティーを歴史という記憶の中で模索するあまり、自らの現実を把握しようとする視点がかけていた。スニガがやがて革命芸術に決別したのは、象徴的なものに流され現実感を失うことに危険を感じたからであった。インディオ文化に自分のルーツを見出そうとする視点が、次第に身近な対象や日常という具体性に根付こうとするものに変わっていったのはそのためである。

「私のスタイルはリアルな私自身だ。毎日の仕事の触覚的・視覚的愛撫や、喜びや苦悩、孤独感や優しさである。」13

というスニガの言葉は、以上のような時代背景から見たとき理解できる。この時期から彼の古代文化への帰属意識は薄れ、個人へと帰結するようになる。現代芸術家の作風への試みの多くは、変化を強要するテクノロジーの発展に近いと考えたスニガは、モダンアートの流れにも迎合しなかった。スニガはエスメラルダ美術学校を退官した後、ますます個人的な世界に閉じこもるかに見えるが、実は彼が見つめた身近な現実の中こそ、メキシコ全体が抱えていた社会的現実が内在していた。スニガが一つの彫刻内で統合しようと葛藤し最終的に群像でしか表現しえなかった「複層的な関係性の存在」である。
 
 関係とは、各要素がもつ境界を前提とするが、境界そのものでない。むしろそれは要素間の複雑な相互連関の中で、柔軟に再構築され続ける「動的な認識」である。
 革命後のメキシコに生きたスニガは異国における自己存在の不安定さから、民族のルーツと繋がろうとし、静的な安定感を形に求めた。しかしやがて複雑で動的な関係性を再構築することで、帰属意識の境界を乗り越えようとする。こういった模索こそ近代メキシコの姿であり、オクタビオ・パスはそれを大いなる決別の痛みと孤独に例えた。

「メキシコ人とメキシコ性は、決別と否定として定義される。同様に探求として、流刑の状態を超越する意志として、歴史的で個人的な孤独の生きた自覚として、定義される。」 14

 独立によってスペインとの政治的絆を断ち、革命という歴史的試みによって植民地的伝統の継続を否定し、自分自身から始まることを強いる植民地以後のメキシコの現実。歴史に対する否定と郷愁の中で、彼らは自らを確立する中心と、その境界を喪失してしまったことを自覚する。
 スニガは制作を通して獲得した歴史的記憶の共有限界は、関係性のなかで消滅、または定着するのでなく、揺らぎながら再構築され続けた。スニガの制作活動において、問題は境界の是非を問うことではなく「中心の不在によって境界が意識化される」点にある。まさにそこに植民地時代以後のリアリティがあるのだ。スニガの作品の存在感とは、意識境界の複雑さに自らがさらされているという負荷の自覚、その揺らぐ境界上に立脚しているという葛藤の重さなのである。

おわりに
 
ポストコロニアル状況下における揺らぎなきリアリティ(中心)への渇望は満たされることなく、その希求は境界の存在をスニガに繰り返し自覚させた。作品の中で統合に向かう和解は断念され、異質なものの対立が顕わになる。そしてその葛藤の量が作品の存在感となっていった。歴史的・構造的に異質なるものに向き合わざるを得ない被支配的状況を経験したメキシコの現実。これは画一化への抵抗という意図のもと異質なるものに公平であろうとするポストモダン的現状把握とは逆の方向性である。
 つまりスニガの作品は、統合を切望しながらも断念せざるをえないポストコロニアル的現実の発露というべき表現形態なのである。この意味においてスニガの作品は「多元性」への再解釈を促し、一元的美術史観に抵抗するのである。
      

九州芸術学会(アジア美術館)にて発表 1999年7月3日


(参考文献)

・「Zuniga 」Carlos Francisco Echeverria ,Misrachi ,1980

・「Zuniga」Ali Chumacero, Misrachi,1980

・「Coceptos sobre la escultula 」Francisco Zuniga,INBA,1994 

・「孤独の迷宮-メキシコの文化と歴史」オクタビオ・パス著,法政大学出版局,1982年


 (註)

1「ポストコロニアリズム=植民地時代とその現代にいたる余波」15世紀の啓蒙主義時代以後の西欧近代史を、植民地帝国主義ととらえ直す思想。近代の思想・学問体系に埋め込まれた西欧中心主義・植民地帝国主義正当化機能を暴き、脱構築しつつ、啓蒙主義時代以後の歴史を、西洋とその他者との支配と抵抗の歴史として再認する。(「哲学・思想辞典」岩波書店 1998年)

2, メキシコ革命に夢を抱いて多くの思想家、芸術家が東西から訪れた。アメリカの彫刻家イサムノグチは壁画制作に携わった。(「フリーダ・カーロ」ヘイデン・エレーラ,1988年、昌文社)他にシュールレアリズム宣言をおこなったフランスのブルトン、ロシアから訪れた共産主義者トロツキーなど。(特集「メキシコの現代美術」アトリエ693、1984年11月号, p27)

3, 壁画運動:1920年代メキシコで起こった壁画を表現手段とした美術運動。シケイロスが中心となり、ディエゴ・リベラ、ホセ・クレメンテ・オロスコらが活躍した。この運動は社会と芸術の関わりを重視し、西洋文明批評や政治プロパガンダ的内容を含んでいた。文盲が多かったメキシコの大衆に、歴史的事件を壁面に視覚化し、メキシコ革命の意味を日常的に再認識させること意図していた。(「メキシコ壁画運動」加藤薫 1988年平凡社)

4,1512年にスペイン人が到来するまでを「先スペイン時代(プレイスパニック)」とよぶ。その後1812年に独立するまでを「植民地時代」それ以後を「近代メキシコ」とよぶ。「ラテンアメリカ美術史」加藤薫・著 現代企画室 1987年

5,「Zuniga」Ali Chumacero, Misrachi,1980, p41

6,「Zuniga 」Carlos Francisco Echeverria ,Misrachi ,1980, p.19

7, ロドリゲス・ロサノはスニガをキュービズムや、アーキペンコ(Alexander Porfirowiz Archipenko,1890~1964)リプシッツ(Jacpues Lipchiz,1891~1973)ザッキン(Ossip Zadkin,1890~1967)などの彫刻家の作品に親しませた。「Zu亦ga」Ali Chumacero, Misrachi,1980, p41

8,「Coceptos sobre la escultula 」Francisco Zu亦ga ,INBA,1994,p.38

9,「Zuniga 」Carlos Francisco Echeverria ,Misrachi ,1980, p.23

10,「地に呪われたる者」フランツ・ファノン,1996年,みすず書房,p.244

11,「孤独の迷宮-メキシコの文化と歴史」オクタビオ・パス著,法政大学出版局、1982年、p.74

12,同上 p.222

13,「Zu亦ga」Ali Chumacero, Misrachi,1980, p47

14,「孤独の迷宮-メキシコの文化と歴史」オクタビオ・パス著,法政大学出版局、1982年、p.89