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作品「ばんば‘00」−彫刻理論によるCGのリアリティへの考察−

A sculpture Banba‘00 -The Study of the reality of CG in a theory of the Sculpture-

知足院 美加子 TOMOTARI Mikako

九州芸術工科大学紀要・芸術工学研究 No.3 2001年 p.69〜75 

(図1)知足院 美加子 「輓馬(ばんば)‘00」 2000年 鉄 275×185×63 cm
TOMOTARI Mikako 「Banba ‘00」2000 Iron

1 はじめに

 本論では、彫刻理論とCGの形体認識におけるリアリティの概念について考察する。認識に作用する形としての彫刻概念を明らかにすることによって、CGの今後の展開について提案するものである。そのためにCGの手法と同様、フレームを組んで形を構成した鉄の彫刻「輓馬(ばんば)‘00」(図1)を実例にとり、検証する。

 彫刻とは立体感動に立脚した芸術である。空間を造形し、存在の美を追求する。彫刻は、「形」という外的要素によって人間の内面に影響を与えてきた。彫刻の理論は外在化した形を分析した結果ではなく、形をどう感じるかという人間の感性や認識に基づいている。
(図2)「Poulnabrone」B.C.7000~6500 アイルランド

   

 (図3)「デルフォイの馭者」B.C.474 ギリシャ        

 ケルト民族のドルメン(図2)など祭祀用と思われる造形にはじまり、エジプト、ギリシャ(図3)、オルメカなど古代から造形物は祭祀や死者儀礼において深く関わってきた。1)死者と共に地中に埋葬される場合もあれば、人身供儀の代用、神をシンボライズしたものなど様々である。形を通じて想起される認識は各文化独特であり、それらの形体の特徴は各文化が世界をどう集約し認識しているかを我々に示してくれる。つまり彫刻の歴史とは、形ある外界と人間の内面との関係の変遷を表したものである。
 宗教から芸術が独立して以降、形は「彫刻」という分野にカテゴライズされるようになった。19世紀後半、彫刻家ヒルデブラント
Adolh von Hildebrand, 1847~1921 ドイツ)は能動的に構築される再現イメージ、つまり「作用する形」として彫刻を理論化した。この作用する形について、「量感、均衡、動勢、構成」などの要素を切り口に彫刻論を展開したのがハーバート・リード(Herbert Read,1893~1968 イギリス)である。2)また彫刻は触感に強く働きかける芸術である。空間を屈折しながら仕切っていく面にそって視点を動かすことで、人はそれを触覚に換算しようとする。このことを視触覚とよぶ。見るという行為は人間内部に蓄積された触覚的記憶を再構成し、立体感覚を形成するのである。2)
 

 近年空間を使った表現は多様になり、インスタレーション(一回性の空間表現)やパフォーマンス(身体を通じた表現)なども空間造形に含まれるようになった。さらに、現代のコンピュータの開発によってコンピュータグラフィックス(以下CGと略す)による新たな空間認識が出現した。
 コンピュータ画面内の仮想的3次元において、コンピュータ言語を使って実在しない形もリアルに表現できるようになった。CGの空間認識は、従来の物質を素材にものとは異なる面が多い。しかしCGの形体を認識する受け取り手があくまでも人間である以上、人間が形をどのように感じ認識するかという観点を避けるわけにはいかない。本文では作品「ばんば‘00」を中心に、彫刻理論とCGの形体認識におけるリアリティの概念について考察するものである。

2 形のリアリティ

 バーチャルリアリティ(仮想上の現実)とはCGのの世界で頻繁に使用される言葉あるが、本来彫刻はその潜在的な現実を疑似体験させるものであった。彫刻は潜在的なリアリティを現実的な物質で作り、対してCGはそれを仮想的な空間に帰結させる点は異なっている。しかし何をリアルと感じるかを観る人間が決定するという点は共通している。伝統的に彫刻はリアリティを表現する手だてとして、対象の特徴的な要素を抽出し省略・強調するという手法を使ってきた。認識は記憶に依拠する部分が大きいが、人間は対象についての莫大な情報全てを記憶できるわけではない。特徴的な部分に優先順位をつけて記憶しているのである。よって形を作る際、抽出した特徴的な部分が普遍的であれば観る側のリアリティに訴える可能性も高くなる。
 彫刻表現においては中心となる要素やコンセプトがまず存在し、各部分は重要度によって強調・省略される。より強いリアリティのために取捨選択された各構成要素を、お互いが必然的に響きあうようバランスよく構成していく。

 彫刻においてリアルに表現するということは、ただ単に対象を模倣することとは違う。正確な情報量を増やせばよいというものではないのである。やみくもに要素を増やしてしまうと、観る側の視点や認識も分散して、結局強い印象を与えることはできなくなる。逆をいえば「情報を効果的に集約すれば現実味が増す」ということになる。

 

(図4)P.Fazzini作「猫」1947年 ブロンズ37×80×25cm 


(図5)C.Brancusi作「空間の鳥」1940年ブロンズ

 ファッティーニ(Pericle Fazzin,1913~1987イタリア)の「猫」(図4)という作品も猫の形をそのまま再現したものではないが、猫が走り去る時の体をピンとのばした動線を内包し、観る人それぞれが持つ「いかにも猫らしい」という感覚をよび覚ましてくれる。ブランクーシ (Constantin Brancusi,1867~1956ルーマニア)の「空間の鳥」(図5)という作品は、余計な説明を一切削ぎ落とし鳥という形の普遍的なものを厳選して作品にしている。羽もなければ足もないにも関わらず、観る多くの人々が感覚的に記憶の中から「鳥らしさ」を想起し共有できるのである。
 つまりあらゆる彫刻は本来抽象的なものであり、それを各作家のコンセプトに従って形の世界で具体化するものだといえる。さらにいえば、芸術作品によって人は内面世界における「リアルだと感じるその人自身の記憶」に出会っているのである。人が芸術を求める根底には、よく知っているにもかかわらず具体的に認識できなかったもの、把握することが不可能な現実・その限界を再確認したい、という欲求があるのである。ゆえに彫刻のリアリティを創造する際(それが無形な作品であっても)人間が何をもって対象を対象として感じるのか、普遍的な真実だと感じられるポイントは何か、などに対する鋭敏な感覚が必要となってくる。

3 存在感の背後にあるもの

 人間が日々強く感じていながらそれがあまりに恒常的なために忘却しているリアルな体験と、それに伴う記憶が存在している。それは自然の諸要素ム重力、空気、水、光ムなどに関する記憶である。
中でも重力は形の成立に圧倒的な影響を与えている。立つ(存在する)ことで生じる重力の影響は、骨格のつなぎ目である関節を軋ませ、筋肉を膨らませるなど形そのものに「歪み」を与える。その歪みは、重力の存在そのものを暗示しているのである。

 彫刻の存在の力は、形を通じてその背後にある自然の諸力を観るものに感じさせることによって生じているのである。自然の力を想起させるための工夫は様々であり、単に形の歪みによって重力を感じさせるのみならず、重量物を一見不安定な状態にすることで観るものに重力の存在を感じさせるとという手段をとることもある。


(図6)B.Hepworth「Single form」1964年 H328cm

 他にも空間を強く表現するために、強調したい部分をわざと引っ込めたり穴をあけたりすることもある。(虚空間)(図6)このように彫刻とは現実的な物質世界の法則に従いながら、認識上の擬似的な法則を凝縮した小宇宙(仮想上の現実世界)を創造するのである。

4 彫刻表現とCG

 著者作の作品「輓馬‘00」の素材は鉄である。その制作プロセスの大枠は、CG制作過程と似ている。点から、線、面とすすみ、面の構成によって立体となるのである。
CGによる試作
(図7.8)は、「フレームワーク」と「平面の張り込み」という共通手段をもつ彫刻とCGを、リアリティという観点から比較をするためにつくったものである。鉄板を溶接するという鉄の彫刻の手法は、フレームに平面を貼り込むというCGの作業と行程としては似ているが、存在感は明らかに違ってくる。上記のCGによる試作(図7.8)は、「フレームワーク」と「平面の張り込み」という作業工程をもつ二つの表現(鉄の彫刻とCG)を、リアリティという観点から比較をするためにつくったものである。CGの作品は詳細を説明するためには有用だが、どこか堅さや現実離れした感じを与える。もちろんCGは存在の美を追究するためのものではない場合が多い。しかし双方の表現を同一のモチーフ通して再考することで、CGを「リアルからリアリティへ」近づける糸口がみつからないだろうか。

  

(図7.8)知足院美加子「馬の首の試作」CG 2000年

 「輓馬(ばんば)‘00」は、北海道内の林業用に使われていた馬(図9)がモチーフになっている。サラブレットの1.5倍の体躯を持ち、筋骨たくましい馬である。1トン近い荷を引く際の斜め上に力強くのびる動勢(図10)と、ずっしりとした重量感がばんばの魅力である。

(図9)「旭川ばんえい競馬」1999年

 制作にあたって、なにもない空間に面を構成するためには、構造上の支えが必要となる。彫刻の場合、それは「心棒」と呼ばれる。心棒は内なる動勢を表現したものであり、生物学的な骨組みに拘束されるものではない。彫刻は心棒という内なる動勢と、それを規制する外の面との緊張関係に造形を生むものである。

(図10)「輓馬(ばんば)‘00」の動勢

 心棒を通じて、強くシンプルな動勢を定めたら、次に鉄棒を使って心棒を活かしながらフレームを組んでいく。その線を全体の動勢に対して必然的なものにしていく。これは単に形の稜線をなぞるものではない。彫刻家石井鶴三(1887〜1973)はこのことを、「空間素描:面を空間に見る作業」とよんだ。訂正がきかないものとして決めていく際の緊張感によって最終的な彫刻全体の力を高めるのである。3)

 この段階は決してリアルな形ではないが、見る人のリアリティに訴える力は強い。過度な説明を行わないことは、見る人の想像力をかき立てその人自身の記憶にある馬と出会う契機を作る。
 CGにおいて正確な模写であればあるほどリアリティが遠のき虚構感が増すのは、見る人自身の想像力や記憶が介入する隙がなくなるからである。

 次にフレームに切断した鉄板を溶接によって張り込んでいく。3次元的に配置された面が空間を構成し、存在の境界を形成していく。(CGにおいてはこの面をポリゴンと呼ぶ)形の内と外にある空間はもちろん物質的には変わらないが、質的な違いを感じさせる。つまり人間は対象の物質性そのものではなく、形によって生じる自らの認識をによって内と外にある空間の違いを感じるのである。認識によって現実世界にはない質的な違いまで、イメージとして対象に付与する。この認識上の可動的な部分が彫刻における潜在的(仮想的)現実であり、リアリティを考察する上で重要な部分である。

 

 面が構成されていくにつれ、閉じた形がもつ力が生じてくる。その内から外に向かう力によって彫刻の周りの空間性に影響を与えるようになる。 この作品においては、説明的にならないよう面を整理し、彫刻内外の質感の違いを残すために虚空間を配置している。この作品は馬の形をリアルに再現することによってリアリティを得ようとするものではない。目に見えない全体の動勢や力の均衡を表現し「確かにある」という存在のリアリティを高めるようとしたものである。

4 おわりに

 彫刻が存在するときに生じる力の根本は、自然の諸作用などに対する人間の認識や記憶にある。ではCGではどうか。彫刻は現実に存在する物質世界の制約を受けながら制作し存在するのに対して、CGの場合はその制約をCG空間の中に内包しなければならない。光は比較的取り入れやすい要素であるが、形そのものに与えている影響(重力や空気の抵抗)に関しては、状況によって変化するため表現することは難しい。
 形にとって最も重要な影響を与えている「重力」の要素が欠如した場合、その表現には独特の浮遊感が生じる。浮遊感そのものをCGの特徴とする場合は別として、より人間本来の知覚に接近するためには表現された形によって重力を感じさせることが必要である。
 またCGの生物の表現内でみられる人形のような堅い質感は、情報の全てが精密さを保ったまま歪まないことによる。生物特有の柔軟な質感を出すという点においても、CG画面の中に自然の諸作用や重力による歪み、湿度や風による空気の量感(空気遠近法)など、物理的な影響を「痕跡」として形に残すべきであろう。形に刻まれたその見えない存在に人は自分の記憶や想像を重ね、リアリティを感じるのである。 
 最後に彫刻は「時間」を象徴的に表現しようとする側面があることを付け加える。マチエールに行為の重みや痕跡を残し、力が拮抗させることで作品に象徴的な時間を凝縮しようとする。時間は人間の共通体験でありながら把握しきれないという自然の諸要素のひとつである。時間自体を人は量としてとらえ、そこに力を感じるという傾向をもつ。古いものほど価値を感じるという感覚はそこから生じている。しかし現実世界における時間の足跡は時計の目盛りにではなく、唯一「形の変化」の中に残される。彫刻において形に変化を与えるということは、時間の力との接点を作り操作することに繋がるのである。CGの場合、同じ記録内容が再現されるかぎり形は時間の拘束を受けないことになる。CGが時間の存在とどう関わるかも、今後検討の余地がある。

 CG表現は物理的な自然の諸要素や時間を考慮に入れることはもちろん、より一層人間の認識上で行われていることに注目する必要がある。人間が形をどう認識するのかということに立ち戻る視点である。彫刻など他分野の思考を取り入れることで、CG表現の可能性は広がっていくだろう。

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The base of the power of a sculpture is in the cognition of a form. What CG and sculpture have in common, is that a person's cognition is decided by what is reality. One method of sculpture for the reality choice is to emphasize the characteristic elements form the object and to abridge this. We are reminded of the memory of our own feelings with the art object. Our reality of a form is dependent on the order of priority of these memories. It is better for CG to summarize the elements effectively than only to imitate an object. And the power of a sculpture is in our memory of the power of nature, for example the law of gravity and air. It is necessary that we leave, in the form of CG, the traces of the effects of the power of nature. For example distortions of form due to gravity, a film of mist caused by humidity, the feeling of resistance from the volume of air. People can feel the reality of these traces with her or his own unconscious memories of the existence of nature's power.


註および参考文献
1)Kenneth McNally STANDING STONES
Appletree Press 1981
2)Adolf von Hildebrand,Das Problem der Forn der bildendenkunst. Suddentsche Moatshefte,
1904,1906,1910
Herbert Read The Art of Sculpture,
Bollingen Series XXXV.3,Pantheo n Books,1956
3)協力:情報伝達専攻。伊藤謙太郎氏(CG)
4)「石井鶴三作品集」碌山美術館 p110~p111 1992