・所感

(研究の動機等、主に「アドルノ『美の理論』読書会」MLのなかで、知人へ送付したメールに加筆)                    

----------------------1999年2月 →BACK(Lecture目次) 

 私が取り組んでいるのは、メキシコの彫刻家フランシスコ・スニガの研究です。彼は母国コスタリカを捨てメキシコに渡り、革命後のメキシコ・アイデンティティーを模索、そして断念します。その後リアリティーとは何かを孤独に模索する中で、「人間」という抽象概念となった革命後のメキシコ人、歴史の断絶、ナショナリティー、同一化を目指す過程が統合不可能な多重性を強化する図式.....と制作と思索を深めていきます。彼の必然的な変化の軌跡は、そのまま後進国として世界に放り出された国々に通じる現実そのものです。メキシコは出来事が極端なので、その構造が理解しやすく題材にしてますが、制作と並行してるので.........そのすすみはノロノロです。

 実のところ私が最も疑問を感じるのは、日本の明治とは、戦後の近代システム(消費資本主義や文化のあり方)とは何かということです。そこに繋げていって、日本のことをいつかパスせず考えていきたいです。村岡三郎や香月泰男が気になるのも、こういった理由なのです。

(私事ですが)私の家系は山伏だったのですが、そのシステムが崩壊する過程には明治というものの断片がみえます。消滅し崩壊するもの側から、自分がいるシステムが見えるような気がするのです。日本があやふやにしているところを見つめるために、ポストコロニアル(植民地以後の世界・アジアや中南米、アフリカなど)の勉強は、制作者としても必要だったのです。

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 自分が重要と思ったことにピントを合わせたとき、あまりに複雑で私の言語能力では手におえません。そこで制作することになってしまうのです。私の場合、制作に非常に絶望してるのは事実です。例えばインスタレーションは展示のジャンルの最終形態であり、美術館の入れ物的形式を強化するもので、ずいぶん前から懐疑的になっていました。本当は芸術がPC(政治的に正しいということ。フェミニズムなど)に終始した作品をつくり、そうやってれば安心みたいな風潮にものれないところがある。ほんとに自分ながら、あまのじゃくで、こまったものだと思います。(作品も満足いった試しがないのに)私が作品をつくろうと思うときは、現実からの要請、つまり「必然性」を感じるときで(もちろん量産はできません)前の思想を否定していく思想の展開のみによってつくることはできません。

 アイヌの企画の件も、マイノリティー側から明治をみる、その照り返しに期待する面や、展示形式への疑問、いろんなズレをごちゃごちゃにしているのかもしれません。それでも、実践することにしか活路を見いだせません。いろんなことを感じた最後に「人間(身体という自然のシステムも含めて)」や「抵抗から生じる存在感」「ものをつくり、表現するリスクへの意識」から離れたくないという思いが残りました。

 きっと認識(その人の現在の言動の規準になるまで深まっているもの)こそが人々が変えられないと思っているシステムを実際に支え動かす基盤だと思います。それがリアルタイムになればなるほど集合体として認識できないうちに明らかになっていき、システムそのものも混沌としてくる。私と何かに横たわる「ズレ」や「距離」を反芻する間もありません。

 私は作品を作りたいと思い、作る中で現実そのものに関わりました。自分の全部でぶつかってはじめて、自分に御しがたい「他」を感じ、その部分との微妙な関係を意識するようになりました。それは他に言葉がみあたらないのですが、しいていえば愛情に近いものです。こういえばバカみたいに聞こますが、なにかこう、行き着くにはなかなか至難の「関わり」です。自他に対してものを作るリスクが骨身にしみた先に、やっと触れられるようなものです。私がその重要性を実感しているもの、芸術を作ることに付随する力を学生にわかってほしいと、ずっと思ってきました。ものをよく観察すること、深い思索、既存のものへの疑い、主体の分裂、即答しないこと、愛情をもつこと、現実をよくみて改善すること....。すべての学問に通じることかもしれないですけど。それらを自由に模索し実践できる芸術が力を失ったら、人間自体が崩壊するような気がします。そこから生じる認識には、期待させるものが私の中ではあるのですが。

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........考えたことをお伝えします。以前話題になったデュシャン、PC、タブー、アウラ(聖なるものの持つ光)についてです。私がデュシャンに一目置いてしまうのは、多分にその表現能力よりも、負荷を引き受ける強さに対してなんでしょう。(『マルセル・デュシャン全著作』未知谷出版に、「自分の趣味に従うのを避けるために自分に逆らうようにした。」というデュシャンの思索と沈黙の意味が記されている)例えば、それを今の日本に置き換えるとすると.......とある作家が、個展で「人間としての皇太后」と題して、あるインスタレーションを展示する。その物体には芸術的表現はないのですが、既存システムのタブー視の度合い、つまり既存システムへの依存によって成立する作品です。その作家がたとえ「これはタブー視することで疎外された{人間性}を、天皇制システムからの解放する芸術作品である!」と叫んだところで.....その後その作家が引き受けるダメージに対して、相当の覚悟が必要です。

 その後のオブジェに「泉」のようなインパクトがなかったのは「破壊」を形式として取り入れたからではないでしょうか。破壊するものの内容への思索、破壊によって生成し、失うものへの洞察、なにより強烈な「必然性」が、「泉」に対して足らなかったからでしょう。でもふと考えたんですけど、大震災のあとに、私が被災者を慰めるより、アウラを背負った人々が慰めた方が救われる人がいるとしたら.........一方的な考え方で、その人のホーリーなゾーンを破壊してよいものか考えさせられます。(アイヌのことを含めて考えると、より問題は複雑です)

 ホーリーな「禁止」を人々は精神的避難所にするのでしょうか。なぜか人間は大きな聖なるゾーンが崩れたら、あちこちで小さなゾーンが捏造し続けるような気がします。これがいい、悪いの話ではないのですが。

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 余談ですが、昨日の勉強会の中で工芸の話がでた時、私は魯山人のことを思い出していました。彼らは(唐九郎なども)世の一流品の陶器を完璧に模倣し続けたんですよね。その後、あのような自由な作風(行き着く一歩前で引いてる、あるいは一線の向こうで破綻した感じ)のものを創る。 この話をしたのは、自由になる前には模倣が必要.........的なことを言うためではありません。私は、あの模倣の徹底ぶりに脱帽したのです。「徹底」というキーワードが、今、重要ではないでしょうか。自分には把握できない「他」が存在するということは、徹底して関わった上ではじめて、滲み出るように実感できる感覚です。その感覚を無視するとものごとは透明化します。また「分かったつもり」になる事はもっと危険です。

 徹底することから生じる主体の分裂や破綻、断念をモダニズムに感じるとしたら、ポストモダニズムは....徹底すべき焦点をうしなったというような、何かを放棄した感じを受けます。パロディとかアイロニー(皮肉)とか。焦点を失っても徹底して思索・実行し「他」を実感するなんて、考えてみると大変な負荷ですが、あえてそちらの道に進むことが今求められているように思います。
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協力隊出国・帰国前症候群といわれるものがあります。出国・帰国前に不安定になり、その国の人(地元)または同じ海外経験者の人とくっついてしまうのです。それは海外生活の思い出を、誰とも共有できないという恐怖ゆえです。(一人だけお化けみた時のように)海外での経験を自他に確認するために、しがみついてしまうのです。

 これは海外生活経験者だけにいえることではありません。記憶の共有が、人の孤独を救うという(幻想の)道理なのです。だから多くの(できれば楽しい)記憶を共有しているものの間には愛情がある。

中学生の漢和辞典の授業での友人(先生)の笑い話なんだけど、「夢は、はかないものらしい。恋は心が乱れることで、愛は心が変わらないという意味らしい!」と辞書によって発見したらしい、その中学生。 そこから考えたんだけど...記憶に依拠していると、不変な安定を得られるというのが、民族アイデンティティー(ご先祖様のイメージ)で、記憶を離れリアルタイムの「いま、ここ」にこだわれば、傷つき混乱することも多いのかなと。(中学生の言葉をかりれば「恋」状態)どちらも本当は、今おこっていることですが。

 リアルタイムの対応のすさまじさをパス(無視)しなければ、記憶もリアルタイムに近い形で想起できるだろうけど........そのためにはよほどの精神的パワーがないといけないです。

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 「〜イズム」という事に対して、私は正直いって抵抗あります。少し不自然な感じがするのです。意識することで反対側を強化するような気がします。もちろん社会的不利益が存在してる間は、歴史的な告発や異議申し立ては必要です。加害者側の認知が必要ですから。「責める方が間違ってる」と思いこんでる立場に限って、自分の加害性を無視しがちなので。

.......私はなんにつけ「自然さ」が美しいといおもいます。ほんとうは「〜イズム」が必要とならないくらい不平等がなく、自然な感じが持てればいいですね。(理想論ですが)人間としての普通な対応と振る舞いに至るまで、人々の意識に浸透すればイズムも幸福な消滅をむかえるでしょう。

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 往々にして作り手にとって作品が変化する時は、人から何かいわれたときではありません。関わる現実の歪みに耐えきらない時や、衝撃的な感動を感じたときです。つまり内的な原因があるときです。そうでなく単なる否定の繰り返しによる思想の展開によって「変化」そのものを狙うなら、実感が乖離した冷たい芸術へと陥らざるをえないでしょう。私が考える批評のあり方は、批評家自身の現実(作品という現実を含めて)との関わり方における自己表現であって、作家を作りかえることではないと思います。作り手の近くにいる学問分野が、芸術の自由な発露を監視し専制的にふるまうようなことはあってほしくないです。

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 芸術的感受性が強いということは、つまり自己否定に端を発した「不安」の裏返しであることが多いのです。芸術家が人と会わないようにしようとしたり、自立しようと躍起になるのは、いい意味でも悪い意味でも、「影響を受けやすい」と資質ゆえなのです。(もちろんいろんな芸術家がいるので一概にいえません)孤独がすきなのではなく、静かな時間の中で自分を整える事が必要なくらい、揺れやすいわけです。なにかに熱中して自分をなくすことによって、安定を渇望する類の人間が多いように思います。美というものは、自分をなくしてしまう力のあるものや、完璧に完成する状態への憧れを具現したいという幻想であり.........つまりなんというか「死」に近いものなのかもしれません。


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