・所感

(研究の動機等、主に「アドルノ『美の理論』読書会」MLのなかで、知人へ送付したメールに加筆)                    

-------------------1999年3月 モBACK(Lecture目次) 

言葉は、曖昧なものです。その人がその言葉をどう定義づけているか、最後まで確信できません。(頭のパルスをのぞけない)学問は曖昧な定義を大前提にして、再構築され続けなければならないのです。ひっついてしまった鳥もちをとろうとして、次の鳥もちにひっつき続けるというかんじです。

私にとっての言葉(名前)や数字の面白さは、ある「概念の束を連れてくる作用」です。概念(記憶)の束のそれぞれがどういう構造で、どういう階層で、どう関係づけられているのか、非常に興味深いのです。これら全体が「意識」とよばれる実体です。このことはもしかしたら、科学的な側面(プログラムを組むといった作業工程において)や、芸術的側面(制作における認知の作用)において明らかにされていくのかもしれません。すべての学問の根底には、把握できないものへの恐怖と憧れがあります。本当は把握できていないもの.....それは自分の身体であり、心とよばれる意識作用です。把握できないことに気づくために大半の人は学問をやっていると私は思います。これはエゴイスティックな意味ではないのです。..........関係ないですが、なんだか今、いい映像がみたいです。いいストーリーでなく。(昔、エンゼンシュテインやゴダール、タルコフスキーに感動したときのように)

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物理学者のイリヤ.プリゴジン(非平衡熱力学)のものの見方が、私が制作中に得たもののみかたと似てる部分があるという事がわかり、すこしおどろいた。

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 私は協力隊や教員経験によって、実に様々な現実問題(植民地・部落・在日問題など)に直面しました。そのなかの様々な記憶が、ものごとをスッキリ言い切ることをねぜか邪魔します。なにか言おうとして、つい言いよどんでしまうわけです。理論に重きをおくと、もの(芸術作品)がつくれなくなるといいますが、逆に現実的な経験が理論化する力を抑制することもあると思います。

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ある強制が私たちに行われた時、それに対して逆の力で抗していくのがよいのか、意味を透明化させることがよいのか、ちがった切り口の認識を提示するのがよいのか、私自身よく考えてみます。/ 自分の意見が絶対正しいと信じている人は恐ろしい。つい警戒してしまう。/ 中庸という古い言葉を使ってしまったけど、それは曖昧な態度をとるということでなく、自分が正しいと思うことの外にでることだと思います。全肯定と、全否定を避け批判的であり続けるというのはむずかしい。自分がただ中にいるところからでること、たとえば消費資本主義(ものを買い、持つことに意味がある)に対して、日常生活そのものでに批判する(ものを否定も執着もしない)という態度をとることは、むずかしいことだ。経済学者アマーティアス・センは、多様な前提条件で豊かさをはかることを提案していて、興味深い。

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批判的態度とは、固定されたものを疑うということであり、新しいものや理解の及ばないものを、とりあえず嘲笑する態度とは違う。/ 思索を深め批判の目をとぎすましながら、子供のように感動したりそれを表現する力を失わないこと。後者の方が難しいことはいうまでもない。

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国境とは、あるシステムが拘束力をもつ範囲である。拘束の程度を考えなければ、県境とそうかわりないはずだ。(Lecture3後半部)だが人は様々な認識や感情を、国という言葉に投影する。/税金のことを考えてみる。振り返ってみれば教育機関や奨学金、協力隊など、税金の庇護の元に自分が成長したことを認めざるをえない。しかし国というシステムに不信感があるのは、税金の使い方が、無性に気になるからだ。使い方にこそ智慧が必要であるはずなのに。予算を消化しようと躍起な公務員。先を見通す目はない。(みているのは年度末決算日)一度決めたことを変えにくいシステム。6億円もする無用のダムを平気で建てる。干潟と海の生態系を壊して、漁業に携わる人々の生活を永久に困窮させる。

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仕事でなければ、実は私は展覧会自体を、積極的に観る方ではありません。「流し観」というかんじです。どうしても気になるものはじっくり観ますが、名前とか題名とかあまり気にしてないし。それはなぜかというと、出会ったものを必要以上に自分の中で明確に位置づけたくないからなんです。ぼんやりさせておくというか。自分がいざものを作ろうとするとき、今までの蓄積が意識せず集まってつながってほしい.......という感じで心のどっかに留めておきます。(不思議とほとんど映像として記憶に焼き付いている)ですから制作することを念頭に置いてるときは、芸術的情報をキャッチする早さ、知識の量をふやすことに対して、あまり関心がありません。(それを誇る美術関係者は多いようですが)むしろ一度手にしてどんどん捨てて、残像を残しとくといった感じです。芸術作品以外の方が養分になることが多いし。私から情報や知識を伝えようと思うときは、相手にとって益になりそうな場合や、そのキーワードからかいま見える人々の意見を私が知りたいときです。/ぐっとドーパミンがでるような作品にであったのは、いままでの人生でも数少ないのですが(自分が芸術を好きではないのかと思うことがあるくらい、まれです)そういうものは、なんど出会っても何か与えてくれます。いい作品をみると、ふつふつとやる気を感じる。すなおに嬉しくなり、胸がすっとして、いい時間をすごせたことに感謝します。(研究対象や、知人の作品、多文化の理解などの場合は、違うモードでみていますけど)/そうでない作品を観すぎると、逆にエネルギーが減退してしまいます。そういう仕事は評論家や学芸員、もしくは新人発掘したい業界の方におまかせしたい。私の場合感じやすいので(すぐ頭がおもくなる)自分の観るものが過剰にならないよう、調整してコントロールしているのです。そういう人だと思っていてくれれば、嬉しい。

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山伏的(父)には「(子供であれ、誰であれ)目の前の相手と同じ目線で居ようとせず、人の上に立とうと躍起になるやつは、まだ修行がたらん」っていいますが。